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小説「フルムーンハウスの今夜のごはん」【第8章】本日開店、満月亭

第8章 本日開店、満月亭



1
 
 夢を見ていたような気がする。素晴らしい夢だった。
 【~天空のゆりかごに抱かれて~ 魅惑のペルー八日間の旅】。
 五月の末に念願のペルー旅行を無事に終え、潤子は先週帰国した。
 「どうだった」と耕平に訊かれても、簡単に答えられるものではなかった。「すごく良かったわよ」などと、軽々しく口にしたくないのだ。感動は、潤子の頭の中にではなく、腹の底に溜っている。
 セスナに乗ってナスカの地上絵を見下ろした。もし今機体が落下したとしても、自分は後悔しないだろうと思った。
 マチュピチュに二泊した。異国の地のホテルの部屋で一人眠るのは不安だろうかと心配もしたが、まったくそんなことはなかった。
 インカ古道を歩き、ワイナピチュ山に登った。雲の切れ間、抜けるような青空が広がっていく中で、マチュピチュの遺跡を両の眼に焼きつけた。
 世界遺産の中でも、とりわけ潤子にとって長年憧憬の地であったマチュピチュを目の当たりにしたら、感動のあまり泣いたりするんだろうかと想像していたが、泪はまったく出なかった。
 岩の隙間から滲み出てきた湧き水が皮膚に吸い込まれていくような、溢れるのではなく際限なく沁み込んでいくような、喩えて言えばそんなふうだった。感動のベクトルが違う。そう感じた。
 旅行会社のパックツアーとはいえ、初めて一人であんなに遠い場所まで行けたのだ。自分が畏れるほどに世界は広すぎず、想うよりも寛容なのではないか。まだまだこの年齢からでも、かつて知らなかった種類の感動を手に入れることができるのではないか。その気になれば今の自分は、どんな場所にでも辿り着けるのではないか。
 潤子の腹には今、勇気とエネルギーが漲っている。半年近く鍛えた足腰がしっかりと期待に応えてくれたことも、潤子の大きな励みになった。筋肉は裏切らない。

 「お母さん、マチュピチュどうだった。楽しかった?」
 真由子が陽介を連れて遊びにやって来た。
「よかった。最高だった」
 潤子はゆっくりと瞬きをしながら、噛みしめるように言った。
「そうっか、よかったね~。で、お土産は?」
「あるある。可愛いお土産たくさん売ってたの。真由子にも見せてあげたかったなぁ」
 潤子はペルー土産の数々を拡げて見せた。
 「ほら、陽ちゃん、可愛いでしょう? アルパカさんよ」
 潤子は陽介の首元に、アルパカのぬいぐるみを近づけてくすぐった。ぬいぐるみには興味がないらしく、陽介はアルパカを掴んで床に投げつけた。
「あ、こら陽介、ダメだよ! お母さん、ゴメン。わぁ、このアルパカ超可愛い」
 ぬいぐるみを拾って胸に抱く真由子の頭には、ちんちくりんのチューヨが載っている。アルパカの毛でつくられた派手な色合いの耳当てニット帽だ。
「真由子ったら、何被ってるのよ」
 潤子が笑うと、
「お母さん、コレちょっとキツイよ。え、何で笑うの」
「どう見てもソレ、子供用でしょう? 陽ちゃん用に買ったのよ。冬になったら被ってね」
「え~っ、可愛いのはみんな陽介のじゃない。私のお土産は?」
「真由子と優也君にはコーヒー豆と、マラス塩田の塩と、ほら、このポーチ、可愛いでしょ」
「う~ん、まあいいっか。このアルパカ、私がもらおうっと」
 真由子が両手でぬいぐるみを持つと、
「コレ、陽ちゃんのっ!」
 陽介が怒って、真由子の手からアルパカを取り上げようとする。このところ陽介は、急に言葉が増えておしゃべりになった。
「陽介はいらないんでしょ? さっきポイしたじゃない。だからコレはママのだよ」
 大人げのない真由子がムキになって言い返す。
「ダメ~! 陽ちゃんのっ!」
 陽介は真っ赤な顔をして泣き始める。
「はいはいはい、陽ちゃんのだよねぇ」
 と言いながら、潤子は笑って陽介を抱きしめる。こんなに小さな子供に癇癪を起されたところで、何ということもないではないか。今の潤子であれば余裕でそう思える。
 それでも昔の自分は違ったな。真由子が泣き喚き、道端にひっくり返って駄々をこね、周囲の視線に晒されて、幾度となく居たたまれない気持ちを味わった。
 ああ、時は流れたな。娘と孫を見ながら潤子は改めて思う。取返しがつかないほどではないが小さな後悔ならば、この掌に掬いきれないほどたくさんある。私もたいした親ではなかった。今でもそうだ。真由子は真由子のスピードで、ゆっくり親になっていけばいい。



2

 
 潤子はその日、ペルー土産を持参して、久しぶりに典子の暮らすホームへと足を運んだ。
 来館受付を済ませ、食堂フロアやソファスペースに典子の姿がないのを確認してから居室へと向かった。
 居室の引き戸を小さくノックし、そっとスライドさせると、典子がリクライニングベッドを軽く背上げした状態で眠っているのが見えた。一口サイズのまんじゅうくらいならスルリと滑り込める程度に口を開き、微かな寝息を立てていた。化粧をすることをやめた典子の肌はくすんだ象牙色に乾いている。この一年の間の変わりよう、老化の速度に、潤子は改めて愕然とする思いだ。
 「あ、お母さん、起きた? よく寝てたね」
 うっすらと眼を開けた典子に向かって声を掛ける。典子は無言だ。
 「お母さん、私この間、旅行に行ってきたの。どこだと思う? ペルーよ。南米のペルー」
 典子は何も応えない。潤子がサイドテーブルに置かれたストローカップを手に取り、「お茶、飲む?」と口元に近づけると、典子は黙って冷めたお茶を啜った。
 「見て、これペルーのお土産。ベビーアルパカのストール。アルパカの赤ちゃんの、すごく柔らかい毛で織られてるんだって。夏でも冷房で結構冷えるから、膝掛けにしてもいいかなと思って」
 典子の好きな、薄紫とピンクの淡い色合いのストールだ。潤子はそれをふわりと典子の肩に掛けた。
「よかった。やっぱりこの色、お母さんに似合う」
 潤子の言葉を遮るように、典子は眉間に皺を寄せてストールを振り払った。
「暑い……」
 小石を投げつけられたような、小さな衝撃を受けた。潤子は一瞬言葉に詰まり、それでもなんとか笑顔をつくって、ストールを掬い上げた。
「ごめんなさい。この時季にまだストールは暑いわよね。秋になったら使って。こっちにしまっておくね」
 潤子はチェストの抽斗の中にストールを片付けた。
 娘が旅行に出かけたという事実に、母は腹を立てたのだろうか。弱っていく自分を施設に置き去ったまま自由に動く娘が、母は憎かったのだろうか。潤子は暗く考える。いや、そうではない。たまたま寝起きで機嫌が悪いだけに違いない。本気で娘を拒絶したわけではきっとない。
 心を閉ざしたように見える典子に取り付く島もなく、今日はもう帰ろうと潤子が部屋を出ると、廊下でスタッフに出くわした。何度も会話したことのある、介護福祉士の女性だ。40代半ばくらいだろうか、テキパキとしながらも温かい雰囲気の人で、典子のこともよく理解してくれていた。
 「あの……、母は最近、部屋で寝ていることが多いんでしょうか」
「そんなこともないですよ。時々フロアでテレビもご覧になってますし。前みたいにアクティビティに参加されることはなくなりましたけれどね。お食事は普通に召し上がっていらっしゃいますよ」
「そうですか。それなら良かったです。この頃いつ来ても暗くて不機嫌なものですから……」
「うちには色々なタイプの認知症の方がいらっしゃいますけれど、一日のうちでも変動のある方が多いです。お母様もご機嫌斜めの時もありますけど、お笑いになることもありますよ」
「あ、笑うこともあるんですね。良かった……」
「こちらからも、できるだけお声掛けを増やすようにしていますので、ご安心くださいね」
「ありがとうございます。お世話になります、よろしくお願いします」
 潤子は深く頭を下げた。泪がこぼれそうだった。

 ひょっとしたら母は今日、私のことを認知していなかったのではないか。私が一人娘の潤子であると、判っていなかった可能性もある。というより、自分に娘がいるという事実を、自分の人生の筋書きの一部を、もしかしたら母は忘れてしまっているのかもしれない。ホームからの帰り道、潤子は唐突にそんな思いに捉われ、一気に胸がざわついた。
 雨が降っていた。関東地方もおそらく今夜あたり、梅雨入りが発表されるだろう。潤子はホームの最寄り駅から小田急線に乗って新宿で降り、都営大江戸線の乗り場に向かって歩いた。途中エスカレータのない場所の階段を、物思いにふけりながら下っていった。
 乗降客の傘から滴った雨水で、ステップが濡れていたのだと思う。ほんの一瞬だった。足を滑らせた潤子の身体がふわりと宙を舞った。
 落ちる! と思った次の瞬間に、床にしたたか身体を打ち付けていた。潤子の手から離れた長傘がわずかな秒差で、派手な音を立てながら階段を転げ落ちていった。
 段数で言えば、ほんの五~六段だったかもしれない。床に向かってダイブするような姿勢だっただろうか。潤子は咄嗟に頭を守ろうとした。しかしそのぶん可笑しな恰好に身体を捻り、利き腕である右腕に体重がかかってしまった。全身を覆いつくすような重たい痛みで、すぐには身体を動かすことができない。
 「大丈夫ですかっ」
 通行人の男性が近づいて声を掛ける。その脇から中年女性が潤子の顔を覗き込み、起き上がらせようと手を差し伸べる。
「動かしちゃダメだ! 頭を打ってるかもしれない、動かしたら危ない。救急車だ!」
「とりあえず、駅員さん呼んできます」
 潤子の周りにはすでに数名の人だかりができ、それぞれに言葉を発していた。
「もしもーし、意識はありますか」
「ひょっとして、誰かに背中を押されたりしましたか」
「私、看護師です。ちょっと失礼します」
 若い女性が潤子の傍に来て手首の脈を探る。あっという間に周囲は大騒ぎだ。
「……すみません、大丈夫です。自分で足滑らせただけです。頭は打ってないと思います」
 潤子が小声でそう言って頭を持ち上げかけると、「動かないで!」と、看護師だという女性に制止された。
 今日、出かける直前に気が変わり、スカートを脱いでパンツに履き替えたのは正解だった。動くに動けないまま潤子は、地下鉄構内の冷たいタイルの床に身体を横たえていた。



3

 人生二度目の救急車に乗せられて、潤子は近くの総合病院に搬送された。過大評価だと思う。公共の場であったことから、思いがけず大ごとになってしまった。痛みと羞恥心、どうにでもなれという開き直りが綯い交ぜになりながら、とりあえず今日の夕飯はつくらなくて済みそうだと、潤子はストレッチャーに揺られながら考えた。
 頭部外傷や骨折の有無などを、全身隈なく調べられた。一通りの検査が終わった頃、病院から携帯に連絡を受けた耕平が駆けつけた。潤子は処置室で打撲の手当をしてもらったところだ。
 「潤子、大丈夫なのか」
 一日の疲れと皮脂の浮き上がった顔で耕平が訊く。
「ごめんごめん、大丈夫。たいしたことないみたい。痛いけど……」
 「あ、ご家族の方いらっしゃいましたか。じゃ、こちらへどうぞ」
 若い看護師の女性がそう言って、潤子が横になっている診察台の前に車椅子を固定する。潤子は看護師の手を借りて、右半身を庇いながらおっかなびっくり車椅子に移動した。
 診察室では30代くらいの男性医師が、コンピュータに保存されたいくつもの画像に見入っている。
 「望月さんですね。え~と……、駅の階段から落ちたと。まあ拝見したところ、頭部にも脳にも、内臓にも異状はないようです。骨折もありません。大事に至らなくてよかったですね」
「あの、脳内でじわじわ出血が起きて、後からマズイことになるとか、そういう心配はありませんか」
 耕平が医師に喰い下がる。
「ああ、慢性硬膜下血腫ですね。まずそういった心配はないでしょう。頭は打っていないってことですから」
「そうなのか?」
 耕平があまりに真剣な表情で潤子を見つめるので、「うん」と思わず強く頷いた。
 「打ち身の箇所はこの後腫れてくるかもしれません。右肘は軽い捻挫でしょう。心配であれば、お近くの整形外科を受診してみても結構ですよ。一応湿布と鎮痛消炎剤を出しておきます。お大事にどうぞ」
 実にあっさりとしたものだった。いったん重症でないと判ると医師は驚くほど冷淡になる、というのが、ここ数年で潤子が得た知見である。重症患者の命を救うために、医師のエネルギーは保存しておく必要があるのだから、当然といえば当然のことだろう。
 病室を出て会計に向かう。耕平が慣れない手つきで、潤子を乗せた車椅子のハンドルを握る。まさかこんなに早く、夫に車椅子を押してもらう機会がやって来るなんて思ってもみなかった。なんとなく、悪くはない気分だった。

 タクシーで自宅に戻ると、耕平から連絡を受けていたらしい真由子がリビングで待ち構えていた。陽介も一緒だ。
「お母さん! 大丈夫なのっ? 駅の階段から真っ逆さまに落ちて意識失ったって聞いたから、もう駄目かと思った。よかったぁ……」
 今にも泣きだしそうな勢いだ。
「やだ、誰? そんなこと言ったの。ごめんね心配かけて。ちょっと滑って階段踏み外しただけなのよ」
 「おばあちゃ~ん!」
 陽介が満面の笑みで潤子の下半身に体当たりしてきた。
「イタタタタタタッ……」
「あ、陽介ダメ! おばあちゃん、イタイイタイだよ!」
 「真由子は夕飯なんか食ったのか?」
 すっかり安堵した耕平が暢気な声色で訊く。
「食べるわけないじゃん。マジで心配して連絡待ってたんだよ? 陽介はバナナとクッキー食べたけど」
「腹減ったなあ。ピザでもとるか」
「わ~い! でもせっかくだからお鮨のほうがいいかな。あ、私がウーバーで何か選んでもいいよ」
「潤子は何がいい?」
 この二人は紛れもなく親子だなと痛感した。「何でもいい」と答えながら、それどころじゃないのよと潤子は思った。右半身がジンジンと重たく痛み出している。できることなら早く横になりたかった。
 鮨をつまもうにも、潤子は利き手の右手がほとんど使えない。湯呑みを持つのも、そういえば顔を洗うのも、歯を磨くのだって、しばらくは左手だけしか使えないのだ。なんと不便なことだろう。
 「あっ、陽介ダメ! あ~あ、ほら、こぼしちゃったぁ」
 陽介が腕を伸ばしたはずみでコップを倒した。真由子がいちいち大声で騒ぐので、その度陽介が泣き出すというパターンだ。
「お母さん、台布巾取って! ……あ、ごめん、無理か」
 真由子は包帯の巻かれた潤子の右腕に気づく。潤子は思わず苦笑いをした。我が娘は2歳3か月の子供の世話で精一杯なのだ。
 「あ、お兄ちゃんから返信きた。お兄ちゃんにさっき、お母さんのこと伝えたの」
 食後にソファで横たわっている潤子の傍で、真由子が忙しなくスマホを操作している。
 「お兄ちゃんは仕事で動けないけど、代わりに玲奈さんが手伝いに来るってよ」
「え、こっちに? 日本に来るってこと? 私の世話しに?」
「うん、そうみたい。陽介がいるから私じゃ面倒みれないだろうから、って」
 涼太の読みは正しい。しかしだからといって義母を世話しに、わざわざシンガポールから玲奈がやってくるのか。潤子は落ち着かない気持ちになった。有難いような申し訳ないような、かえって気疲れしそうな気もする。潤子は昔から、人に甘えるのが得意ではない。

 雨はすっかり止んでいた。陽介が眠くなってぐずり始める前に、帰宅するよう潤子は真由子を促した。
「タクシー呼ぼうか」
「まさか、もったいない。チャリで来てるし、チャリで帰るよ。また明日寄るね」
 真由子はそう言って帰っていった。
 「どうなんだ、打ち身のところは。ちょっと見せてみな。……うわっ、ひどいな」
 潤子の太ももと膝下の前面に大きく広がっている痣を見て、耕平は思わず眉をひそめた。鮮やかな赤紫と青紫に内出血した脚は、潤子の眼にもひどくグロテスクに映った。
 「どうしようかな、今夜……」
「え、何を?」
 潤子は小さく溜息をついてから、今の自分の身体の状態では階段の昇り降りが辛いので、二階の自室で寝起きするのが難しいことを説明した。自分の夫は言葉が足りない以前にまず、想像力が足りないのだなと、最近潤子は大きく確信している。
 とりあえず今夜はリビングに布団を敷いてほしい、それから潤子の寝室のチェストから下着や部屋着などを少しまとめて持ってきてほしいと、耕平に頼んだ。明確な指示を出せば、それ通りにきちんと実行してくれる男ではある。
 「俺も隣に寝たほうがいいんじゃないか? トイレとか付き添いがいるだろ」
「いや、大丈夫。そこは一人で頑張れるから」
 夫婦の協力関係における要不要の判断はできているつもりだ。夫の鼾で余計に眠りが妨げられてはたまらない。



4
 
 昨晩はリビングの床に、客用の薄いマットレスと布団を敷いてもらって寝た。身体が痛くて思うように寝返りができなかったせいか、目覚めた時には全身の筋肉が軋んで呻きたくなるほどだった。
 昼間に真由子が陽介を連れて顔を見せ、食糧を差し入れてくれた。陽介が走り回ったり真由子が喚き出したりするとかえってしんどいので、買い物代金を精算してすぐに帰ってもらった。
 耕平にはしばらくの間、大宮の実家に寝泊まりしてもらうことにした。耕平が家に居たら、玲奈も余計に気を遣うだろう。カフェの工事も始まっているので、開業に向けて現地に居るほうが耕平にとっても好都合である。
 それにしても、普段何気なくこなしている一連の日常行為が、半身の自由が利かないだけでここまで大変なものになるとは想像もできなかった。利き手ではない方の手でトイレットペーパーを操ることの、なんという難しさよ。ショーツを引き上げ、着衣を整えることの、なんという難儀さよ。排泄行為ひとつとっても大イベントである。
 
 その晩、早くも玲奈が練馬に到着した。
 「玲奈さん、遠くからありがとう。悪かったわねぇ、疲れたでしょう」
「大丈夫ですよ、全然疲れてないです。私、体力ありますから」
 知らぬ間に、玲奈の長かった髪はショートカットに変わっていた。以前よりもあどけなく、なおかつ捌けた雰囲気だ。
 「お義母さん、それ、しばらく痛みそうですねぇ。ベッドは今夜には間に合わないけど、明日の午前中に届きます」
 玲奈は昨晩のうちにネットで検索し、レンタルの介護ベッドを手配したという。
「え、介護ベッド? 打ち身と捻挫くらいで大袈裟じゃないかしら」
「そんなことないです。暫くの間リビングで寝起きするには、絶対にベッドがあった方がいいし、どうせだったらリクライニングとかできたほうが楽だと思いますよ」
 介護ベッドのレンタルは最短でひと月単位だというが、不要になったら返却すればいいし、マットレスも含めたレンタル料は、ひと月一万円程度なのだと玲奈は説明する。
「一万円の価値は充分にあると思います」
 なるほど、確かにそうかもしれない。どこの世界でも、できる人間はまず想像力、そして決断力と行動力。これが肝要なのだ。
 「何かあったら、遠慮しないで声掛けてくださいね」 
 玲奈はそう言って、リビングの隣の八畳間に、もう一組ある客用布団を敷いて寝た。
 翌日の午前中に予定通り業者が到着し、ベッドを搬入し組み立てていった。
 早速介護ベッドに横たわって背の角度や高さを調整してみると、なるほど起き上がるのも立ち上がるのも格段に楽だった。
 玲奈は素早く食事の支度もしてくれた。得意な料理の腕を見せつけるのではなく、さり気なくサンドイッチやカレーライスなどを作った。潤子が左手でも食べられるようにという配慮に違いなかった。
 「お義母さん、洗濯していいですか。せっかく今日晴れてるし……」
 玲奈は控え目に訊ねる。潤子の下着を自分が扱うことに抵抗を見せるかどうか、探っているのかもしれない。息子の妻がデリカシーのある人間であることにホッとする。
 潤子は脱衣かごに突っ込んだままの、自分のショーツやブラジャーを思い浮かべる。ここ数年はもう、機能性と履き心地の楽さだけを重視して選んだ、ベージュや薄いピンクの深履きのおばさんショーツばかりだ。玲奈の母親などはきっと今でも、高級レースをあしらった、パンティと呼ばれるような物を身に着けているのではないか。
 潤子は思わずそんなふうに想いを巡らし、そしてそんな自分を嫌悪した。もういいではないか、他人と比べなくても。玲奈にはすでに、シミの浮き出たこんなスッピンを晒してしまっているのだ。いつまでもつまらない見栄を張ったところで何が生まれるわけでもない。無駄な自意識は不健全でしかない。
 「ありがとう。助かるわ」
 これからはもう、素直に甘えるべきだと潤子は思った。いや、素直に甘えよう、素直に甘える自分でありたい。

 昼前に、真由子から連絡があった。玲奈に食事の支度ばかりさせては申し訳ないから、テイクアウトのピザでも買っていくよとのことだった。
 真由子はLサイズのピザケースが二個入った大きな袋を抱えて登場した。
「うわっ、こんなにたくさん、誰が食べるの」
 潤子が呆れてそう言うと、
「足りないよりいいじゃん。余ったら冷凍しておいてもいいし、私が持ち帰ってもいいよ」
 すっかり倹約家の真由子は、抜け目なくレシートを潤子に差し出す。
 陽介は見憶えのない玲奈を前に、もじもじと身体を捩っている。
「陽介くん、こんにちは。おねえさんのこと憶えてる?」
 玲奈はしゃがみこんで陽介の顔を覗き込む。
「前に会った時は陽介くん、まだ赤ちゃんだったもんね。憶えてるわけないか」
 陽介は潤子の前では見せたことのない、はにかんだ表情をつくって笑う。男はどんなに幼くても、美しい女の前ではデレデレするものらしい。
 巨大なピザはやはり、丸々一枚残ってしまった。
「真由子、ピザ持って帰る?」
「え、いいのっ? 全部もらっていいの?」
「欲しけりゃいいわよ」
「わ~い、やった~!」
 真由子は無邪気に喜んでいる。
 「あ、そうだお義母さん、お風呂。真由ちゃんに身体洗うの手伝ってもらったらどうですか。私、そのあいだ陽介くんと遊んでますから」
 玲奈から初めて「真由ちゃん」と呼ばれた真由子は、少しはにかんだ笑顔を見せた。
「ああ、そうねぇ。私、夕べ一人でシャワー浴びてみたのよ。でも左手だけだと、思った以上に上手く洗えなくって」
「私がお手伝いしてもよかったんですけど、お義母さん恥ずかしいのかな、って……」
 玲奈の推察通り、もし声を掛けてくれたとしても自分は遠慮しただろうと潤子は思う。
「ああ、そうっか。片手じゃ難しいもんね。じゃ、とりあえず今日は私がやってみるか」
 真由子は洗面所で、潤子が服を脱ぐのを手伝う。
「うわぁ、内出血かなりエグイね。痛そう……。私、服着たままで大丈夫かな」
「濡れちゃうわよ、きっと」
「そうかな。じゃ、服だけ脱ごうっと」
 真由子はそう言ってブラジャーとショーツ一枚の姿になり、浴室に入った。シャワーの水栓を勢いよく捻った途端全身に水を浴び、真由子は悲鳴を上げながら慌てて下着を脱いで洗面所に放り投げた。
「面白いわねぇ、真由子は。なんだか漫画見てるみたい」
 潤子は笑いながら、久しぶりに全裸の娘を見た。記憶の中の姿とは異なりそれは、まだ若いながらも子供を産み授乳を終えた女の身体だった。
 「お母さんの背中洗うのなんて、久しぶりだね」
 真由子は潤子の後ろに回り、うなじの辺りから丁寧に擦り始める。
「昔はよく一緒にお風呂に入ったわよね」
「そうだね」
「小さい頃、真由子はお風呂の中でもよく泣いたっけなぁ」
「え、そうだった? 陽介も毎日よく泣くよ、家でも外でも。泣かれるとイライラして、どうしたらいいか分かんなくなって、私も時々一緒に泣く」
 真由子が陽介と一緒に泣いている姿を想像して、胸が軽く締めつけられた。
 「真由子は今、幸せ?」
「え、何それ? ……うん、けっこう幸せじゃないかな。自分じゃダメな親だなって思うのに、でも小泉君がいつも褒めてくれるんだよね」
「そうっか。真由子は良い人見つけたね。でもお母さんは、今まで真由子のこと、あんまり褒めてあげてこなかったよね」
「そうだなぁ……。褒めてもらった記憶はあんまりないけど、でも意地悪は言われなかったし、お母さんはいつも優しかったよ」
「そうっか……」
 潤子の眼に滲んだ泪は、シャワーの湯に溶けて流れた。

 「真由ちゃんって、可愛いですよね。私とひとつしか違わないのに、こんなこと言うのはアレなんですけど。素直だし、天真爛漫っていうか……」
 真由子と陽介が帰った後、洗濯物を畳みながら玲奈が言った。
「そう、子供っぽいでしょう。あれでもここ何年かで、ずいぶん落ち着いて大人になったのよ。昔はもっと大変だった」
「涼太さんから少しだけ聞いてます。『お母さんはお兄ちゃんのことばっかり、って妹がやきもち焼くんだ』って。『たぶん僕がいない方が上手く回るから、サッサと家を出ることにしたんだよ』って、確かそんなようなこと……」
「ああ、そうなの」 
 潤子は笑いながら相槌を返したが、玲奈の口から聞いた涼太の言葉が胸に刺さった。そうだったのか。当時息子は息子なりに、色々考えていたのだ。
 「今日真由ちゃんのこと見てて、私、すごく羨ましかったです」
 玲奈は自分の長袖のカットソーを器用にブティック畳みしながら、視線を落としたまま言った。
「ああ、お母さんって普通はこんな感じなのかなって。普通はこんなふうに、自然に自分の母親に甘えられるもんなんだな、って思って……」
「そう……。人それぞれ、家庭によっても違うんでしょうね。玲奈さんは、お母さんに甘えられなかった?」
「はい。甘えた記憶がないっていうか。うちの母って昔から完璧主義で、見栄っ張りだから、いつも人からどう見られるかばっかり気にしてました。周りには余裕のあるセレブマダム風に見られてて、それを売りにして必死に仕事頑張ってきたのは知ってます。父は普段からほとんど家に居なかったし、母は淋しかったんでしょうね。ほんとうは余裕がなかったんだと思います、いろんな意味で」
 潤子は玲奈の自宅に招かれた時の、皿の上の水色の薔薇を想い出していた。
 「お義母さん、憶えてますか。実家にご招待した日の、うちのテーブル。普通、あそこまでやらないですよね。あの日母が、布ナプキンを薔薇の形に折り込んでる姿見て、私一瞬ゾッとして、それからなんだかすごく哀しくなりました」
 玲奈はおそらく無意識に、何度も自分の服を畳み直している。
 「小さい頃から私、母の期待に応えようと思って頑張ってきたんですけど、なんだか最近、もういいやって……」
「そうっか。きっとみんな、それぞれに大変だったのね。お母さんも淋しかったんでしょうけど、玲奈さんもずっと淋しかったわね」
 玲奈は膝の上に洗濯物を載せたまま、俯いて泪を拭う。
 「両親の関係はずっと前から破綻してて、二人とも再婚ありきで離婚して……。二人が幸せになるんだったら良かったなって頭では思うんですけど、正直なんとなく、面白くない気持ちはあります。だって、途中で私だけ舟から降ろされちゃって、父も母も、勝手に新しい別の舟に乗り換えてるんですよ。父なんて若い奥さんとの間に、もうすぐ子供が生まれるんですって。仕事上手くいってないみたいなのに、どうするんだろ」
 玲奈は、喉につかえていた小さな欠片を吐き出すように呟いた。
 「でも、私も涼太さんと新しい舟に乗ったんだから、もういろんなこと気にしなくていいやって。みんなそれぞれ別の舟に乗ってたって、それはそれで面白いですよね、きっと」
「うん、そうね。新しい舟はきっと、乗り心地がいいわよ、みんな」
 玲奈は小さく微笑んだ。
「でもね、玲ちゃん。もしこの先涼太と喧嘩するようなことがあったら、玲ちゃんだけ一人でこの家に帰ってきてもいいからね」
 玲奈は潤子の初めての「玲ちゃん」に頬を少し赤らめながらコクリと頷いた。



5

 潤子が階段から落ちたあの日から、一週間が経った。
 脚の内出血は外側から徐々に黄緑色に変色し、やがてうっすらと黄色く目立たなくなった。右腕の痛みもかなり和らぎ、潤子はようやく身体の自由を取り戻しつつあった。自分の手足をほぼ意のままに動かせるというのは、なんと有難いことだろう。
 玲奈が帰国する前日に、耕平が自宅に戻って来た。
 「お義父さんのお店、インスタのアカウントとかもう作ってるんですか」
 玲奈が耕平に訊ねる。
「おっ、そうそう。最近作ってもう更新し始めてるって、健斗が言ってた。え~と……、あ、コレコレ」
 耕平は照れながら、満月亭のアカウント画面を開いたスマホを玲奈にかざす。
「わぁ、ほんとだ。お店が出来る過程が見られるのって、楽しいですよね。ワクワクします」
 アップされている画像には、大宮の望月家の家屋の一部が解体され、基礎から造り直していく経過が記録されていた。
「わぁ、すごい、かなり本格的ね。こんなに壊しちゃって大丈夫なもんなのね」
 潤子は耕平のスマホを覗き込む。
「ちょっとギョッとするだろ。でも梁とか柱とかを残して、ついでに耐震補強もしてさ。プロっていうのはスゴイもんだよ」
 「あら、これは誰?」
 潤子の眼に留まったのは、耕平と肩を並べて立っている洒落た中年男性だ。
「この人は設計事務所の社長の井上さん。何から何までお世話になってるんだよ。アイツらいつの間にこんな写真撮ってるんだ。こんなの投稿したって仕方ないだろうに」
 耕平はいかにも楽しそうに、目尻に皺を寄せてニヤニヤしている。
 リノベーション途中の室内で、耕平は井上と立ち話をしているようだった。タブレットを片手に、天井方面を指して何やら説明しているらしい井上の隣で、耕平が嬉しそうに同じ方向を見上げている、そんな二人の写真だ。
 潤子は思わず近くに置いてある老眼鏡をかけ、スマホの画面をピンチアウトした。大きく拡大された耕平は、満面の笑みを浮かべていた。外から入る陽射しを浴びて、黒眼にキラリと光が映り込んでいたせいもあるだろうか、希望に満ち溢れた最高の笑顔に見えた。
 この人って、こんな顔するんだ……。
 それは潤子の知らない男の顔だった。三十何年とひとつ屋根の下に暮らしていてもなお、知らないことはある。もしかしたら自分が見逃していただけなのかなと、潤子は少しだけつまらないような淋しいような気持ちになって、スマホを耕平に返した。
 玲奈が思いついたように言う。
 「お義父さん、『あんどうパンのあんどうなつ』みたいに、満月亭のオリジナルパンは作らないんですか」
 玲奈のお菓子作りの腕前はほぼプロ並みだ。興味深いポイントだろう。
「あ~、今のところそこまで考える余裕はなかったなあ」
「『満月亭の満月パン』つくりましょうよ。小さめでコロンとした丸いパン生地の中に、黄色い餡、サツマイモ餡とか入れて……」
「おっ、いいね、それ」
「ああ、美味しそうねぇ。私、芋栗南瓜、全部好き」
「私も好きです。大抵の女性は好きですよね」
「芋だの南瓜だのって、甘いのは飯のおかずにならないんだよな。酒のつまみにもならないし」
 どうでもいいような会話をして笑いあい、夜は更けた。

 翌朝、玲奈は耕平に、タッパーに入ったサツマイモ餡を見せた。
 「夕べ、あの後私、つくってみたんです。パン生地がなくって中身だけですけど。毎日つくるのは面倒でも、これならまとめて作って冷凍しておけるし」
 耕平はタッパーから一匙、サツマイモ餡をすくって口に入れた。
「ん、美味い!」
 「どれどれ?」と潤子も一匙味見する。
「あ、これすっごく美味しい! スイートポテト風ね。生クリームが入ってるの?」
「そうです、そうです。パンに合いますよね、きっと。一応レシピ残しておきました。もしお時間あったら……」
「うん、ありがとう。弘幸と弓子に持ちかけて、近いうち試作してもらうよ」 
「健斗君たちがまた上手いこと売り込んでくれたら、満月亭のヒット商品になるかもね」
 
 玲奈には、どれほどの感謝を伝えても伝え切れないほどだ。
「玲ちゃん、ありがとう。何から何まで、ほんとにありがとう」
 いくぶん不自由の残る腕で、潤子は玲奈の背中をそっと抱きしめた。
「また来てね。いつでも寄ってね」
 潤子の胸の中で、玲奈はふわりと甘く匂った。
 玲奈は希望の種を置いて、シンガポールに帰っていった。



6

 
 耕平は先日還暦を迎えた。
 そして同月八月末日の今日、めでたく定年退職となった。
 還暦祝いと退職祝いを兼ねて、望月家は今夜、ささやかな宴を予定している。こんな時、孫の存在は有難い。帰宅した夫を迎える妻の役を必死に演じたところで、潤子一人きりでは盛り上がりそうにない。ここは意味も理解していない幼子に、たどたどしい口調で感謝の言葉などを言わせるのがいいだろう。
 優也はこの日のために休みを調整してくれたという。久しぶりに逢った優也は、以前よりも身体が一回り大きくなったように見える。仕事が筋肉をつくったのだ。
 涼太と玲奈からは、お祝いのフラワーアレンジメントが届いた。抜かりがない。
 潤子はいつものデリバリーチェーン店ではなく、評判の良い近所の鮨屋の特上鮨を注文しておいた。昼間には池袋のデパ地下で少し奮発したお惣菜をいくつか選び、豪華に見える皿に並べた。すっかり手抜きが板についた。
 耕平は、花束の入った大きな紙袋を提げて帰宅した。三十七年半、数えるほどの欠勤もなく勤め上げたのだ。何をどれだけやり遂げたのかそうでないかは知らないが、これだけの年月、兎にも角にもひとつの会社に通い続けたという事実は重く、貴いものだと潤子は思う。
 耕平はいつもと変わらぬ表情だった。センチメンタルな感慨に浸っているように見えないのは、次の行く手がはっきりと見えているからだろう。
 「おじいちゃん、おめでとう!」
 陽介の声は小鳥の囀りのようによく響き渡る。
「陽介もう一回、『おじいちゃん、おつかれさま』って」
 真由子が陽介に耳打ちする。
「おじいちゃん、おちゅかれたま~!」
 陽介は真面目くさった顔で、言われたとおりに声を張り上げる。弾けるように皆が笑う。
 こんな瞬間が訪れるなんて……。
 望月家の居間にこんな景色が繰り広げられるだなんて、たとえば十年前の真由子、五年前の潤子には、想像すらできなかった。
 「カンパ~イ、カンパ~イ」と大人の真似をして、陽介はオレンジジュースの入ったグラスを何度も持ち上げる。真由子が陽介の手を押さえようとした瞬間、鮨桶の中にオレンジジュースが弾け飛んだ。
「あ~もうっ! ごめん、コレ私が食べるから」
 オレンジジュースのこぼれた鮨をつまんで、真由子が一口に頬張る。
「おっ真由子、それ大トロだぞっ」
「うわっ、オレンジジュースの味! ……あ、でも意外とイケる」
 潤子と優也は声をあげて笑った。


 潤子が眼を覚ました時、外は厚い雲に覆われていた。薄暗い朝だ。
 今日は「満月亭」の開店日である。晴れれば今夜はハーベストムーン、九月の満月が望める日だ。開店日を満月の日に設定したのは、耕平の小さなこだわりだったらしい。
 耕平はここ二~三日実家に泊まり込み、開店に向けて最後の詰めに余念がなかった。きっと今朝も早くから起き、今頃は鼻の穴を硬く膨らませて開店準備に追われているのだろう。
 潤子は真由子と陽介の三人で、午後に満月亭に向かうつもりだ。ランチが一段落しそうな午後二時前後がいいかなと思っている。陽介がじっとしていられないので、もちろん長居はできないだろう。
 池袋で真由子と待ち合わせ、湘南新宿ラインで大宮まで向かうことにした。潤子が家を出る頃には雲の切れ間から太陽が顔を出し、夏の名残を想わせる強い陽射しが照りつけた。それでも吹き渡る風はもう、とっくに秋の匂いがする。
 「帰りに寝られちゃったら困るもん」と、真由子は陽介をベビーカーに乗せて来た。陽介は今月で二歳半になった。当たり前のように駅のエレベーターを使い、そのまま電車内に乗り込める今は、潤子の子育て時代と比べたら夢のようだと思う。
 駅からの道を陽介が歩きたがるので、潤子は二人の後ろから、空のベビーカーに自分のトートバッグを載せて押していく。
 「大宮のおばあちゃんちに行くの、久しぶりだな。あっ、お母さん見て! 人が並んでるよ」
 耕平の実家に近づくと、入店待ちらしき客が四人ほど並んでいるのが見えた。古い門柱の前に祝い花のスタンドが立っている。秋らしいシックな色合いでセンス良くまとまったスタンドだ。「祝 御開店」の下に望月涼太と玲奈の名前が並んだプレートが添えられている。
「さすがお兄ちゃん達、気が利くね。花はきっと玲奈さんのセレクトだよね」
 おそらく真由子の言うとおりだろう。
 店舗の左手には、シンボルツリーと呼ぶには地味なケヤキの大樹が、昔と変わらない姿で枝葉を拡げている。右手には百日紅のピンク色の花が満開だ。
 見憶えのあるようなないような、今風でありながら懐かしさのある洒落た店の入り口脇には、木板に「満月亭」と焼印加工された小さめの看板が飾られている。
「ねえ、なんかいい感じだね。思ってたよりずっとオシャレだよ」
 真由子はワクワクしているように見える。はしゃいだ雰囲気が伝わるのか、ベビーカーに乗せられた陽介も足を上下にバタつかせている。
 潤子は妙にそわそわと落ち着かない気分だった。合格発表を待っている学生のようだと思う。飲食を終えて店から出てきた客数人が皆笑顔であるのを見届けて、潤子はひとまずホッとした。
 「お待たせいたしました~。ご案内いたします」
 席に案内するのは直樹だ。インスタグラムの画像で見るとおり、小顔で今風のイケメン青年である。白いTシャツに黒のエプロン。これが満月亭のユニフォームだ。
 潤子は直樹に名乗って挨拶し、頭を下げた。
「本日はおめでとうございます。素敵なお店ですね」
「ありがとうございま~す。ちょうど今耕平さん、カウンターに出てますよ。今日はあんどうパン臨休にして、弓子さんが厨房手伝ってくれてるので。あ、ベビーカーはそのままどうぞ~」
 店内は思ったよりも広々としている。案内された窓際の広い四人席に向かう途中、潤子はカウンターで接客をする耕平を素早く眼で追った。
 耕平はトレイにパンの載った皿を置き、ややぎこちなさの残る手つきでコーヒーの入ったマグカップをセットした。客観的に見るTシャツ姿の夫は、前よりも筋肉がついて身体が締まったように感じる。開店日に向けて、髪もカットしたばかりのようだ。
 耕平は以前洗面所で練習していた、とっておきの笑顔を見せて客にトレイを手渡している。潤子はふいに目頭が熱くなった。
 店内の離れた席には、和江を含む高齢者の男女四人が、大変な盛り上がりを見せている。地元の友達か町内会の仲間といったところだろう。幼稚園帰りの子供とママ友の四人組、散歩のついでに立ち寄ったふうの熟年夫婦、しきりにスマホのカメラをかざす「ナオケン」ファンらしき女の子達……、老若男女、ヴァラエティに富んでいる。
 土間風の仕上がりの床に、淡いベージュの漆喰の壁。カウンター脇のショーケースには、アンパン、カレーパン、クリームパン、チョココロネ。サンドイッチにあんどうなつ。そして満月亭特製「満月パン」も無事商品化され、一番目立つ最上段に陳列されていた。
 ランチメニューはコッペパンサンドとミニサラダ、ドリンクというシンプルなセットだ。
何だか良い店になりそうではないか。誰でも気楽に立ち寄れて、気軽に飲み食いできる。一人で来ても、誰かと居ても。
 「あ、お父さん髭生やしてる。いつの間に?」
 遅れて耕平に気づいた真由子が興奮した面持ちで言う。
「お母さん知ってたの? お父さん、なんだかカッコよくなったね」
「そりゃ知ってるわよ。さ、注文しにいくわよ」
 潤子は笑いながらバッグから財布を取り出した。
 「ほら陽介、あそこにおじいちゃんがいるよ!」
 真由子が陽介を抱き上げながらカウンターの方を指さして言う。
「あっ、おじいちゃんだ! おじいちゃ~~ん!」
 陽介が甲高い声でそう叫び、耕平に向かって懸命に小さな手をひらひらさせる。
 店中のほとんどの客がその大きな声に思わず振り返り、次の瞬間一斉に、陽介が見つめる先にいる耕平に視線を走らせた。
 耕平は一瞬硬直してから、右手を小さく振ってみせた。
 「おじいちゃん、カッコイイね」
 真由子は笑いを堪えながら耳元で囁いて、さらに陽介を調子づかせる。
「おじいちゃ~ん、カッコイイ~~!」
 陽介が続けてそう叫ぶと、客席から笑いと拍手が沸き起こった。店内に、一斉に花が咲いたようだった。
 顔を真っ赤にしながら耕平は、高く突き上げた両腕を大きく左右に振り返した。


                                 完


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