「多様性」で人を救えると思うなよ――朝井リョウ『正欲』を読む
ここだけの話、食事の時にテレビがついているとかなり辛いんですよね。
テレビの音声が響いていると、自分が今何を食べているのかわからなくなるし。ニュースの報道とか聞きたくないし。それよりはくだらないおしゃべりをしていたいし。
家族はテレビドラマやニュースを見ながらご飯を食べるのが大好きなので、多数決だと私に勝ち目はありません。一度伝えたことはありますが、すぐに忘れ去られました。
私とて円満な生活を送りたいので、基本的には何も言わず我慢しています。
こういう苦しみって、誰しもが共感できるものじゃないと思うんですよ。
私の「食事の時のテレビが辛い」という感覚は、おそらく過半数の人には理解されない。一方の私も、たとえば風鈴の音を騒音に感じる人には共感できない。
ほぼ全ての人間が、何かしらの「周りに理解されない苦しみ」を抱えて生きているのではないかと思うのです。
多数派・少数派の罠
多数の人に当てはまることは「マジョリティー」とされます。しかし、あらゆる分野においてマジョリティーに該当する人は、むしろ少ないでしょう。
これは婚活で「普通の人」を探すのが難しいのに似ています。
勉強、運動、顔、体型、学歴、職業、趣味、ジェンダー、性格、性的嗜好……それら全てが「普通」の人なんて、存在すると思いますか?
逆に、少数の人にしか当てはまらないことは「マイノリティー」と言われます。とはいえこちらにも問題あり。多くの人が思うほど、マイノリティーはマイノリティーじゃないのです。
LGBTQ+の割合は、電通の調査だと9.7%ですからね。30人クラスに1人か2人はいるんですよ? そう考えると、もはやマイノリティーだなんだと騒ぐこと自体間違っている気もします。
実は、私も人に恋愛感情を抱いたことがないので、アロマンティックなのかと言われたら否定できないんですけど(笑)。かといって、何か証明できるものがあるわけでもないんですよね。今後、もしかすると好きな人が出てくるかもしれない。
そういう、自分自身のことすら明確に把握できていない人もたくさんいると思うんです。
要するに、我々はある視点から見ればマジョリティーであり、別の視点から見ればマイノリティーでもある、ひどく不安定な存在なのです。
そこに例外は一人もいない。私はそう思っています。
朝井リョウという作家
小説を読むのが好きな現代人であれば、朝井リョウさんを知らない人はほぼいないでしょう。彼が語る物語の魅力とは、一体なんなのか?
『何者』で朝井リョウさんの文章を初めて読んだ時、私は「水みたいな文章だな」と思いました。透明な水のように、するすると文章が体の中に入っていく感覚があるんですよ。「読みやすい」の極地とでも言いますか。
それでいて、他者の内面をこれでもかとえぐり出す能力にも優れているので、読んでいて不意にナイフで刺される感覚がある。
これが朝井リョウさんのもう一つの魅力「他者に対する深い洞察」です。『何者』で現代を生きる若者の心を描き出したのは有名ですが、この方は若い世代に限らず人が持つ価値観・苦しみ・傲慢さを顕にするのが上手い。
ただ、なんでもかんでもさらけ出すだけでなく、それらを丸ごと包み込むような優しさも、朝井リョウさんの魅力だと思います。彼の文章を読んでいて感じるのは、決して痛みだけではない。傷口を覆ってくれる優しさも、そこにはあるのです。
もう一つ、朝井リョウさんの魅力として「卓越したバランス感覚」がありますが、それは後ほど語ります。
正欲について
さて、今回私が読んだのは、朝井リョウさんの『正欲』です。
これがあまりにも面白い! というか惹き込まれまして、2日間で一気に読んじゃいました。まあ、だいぶ重たい内容なので、読み終わったあと気持ち悪くなってしまいましたが(笑)
タイトルにもなっている「正欲」とは、そもそもなんなのか?
正欲は社会が定めた「正しい性のあり方」みたいなもの。個人が自由に持つ「性欲」とは、対を成す存在と捉えるのが分かりやすいでしょう。
社会の秩序を保つためのロールモデルは必要です。個々人が自分の中の正しさを基準にすると、戦争も殺人も合法になってしまいますからね。
ただ、正欲は人知れず個々に浸透し、自分は正しいか、相手は正しいかを無意識に判別するようになります。それは社会が勝手に規定したものにもかかわらずです。
今作は群像劇の体裁を取っており、主に5人の人物が登場します。
その内の3人が持つ特殊な性的嗜好を通して、社会の「正欲」が個人の「性欲」を切り裂いてしまう様をありありと映し出します。
彼らの性的嗜好は、マイノリティーにすらなれない、本当の意味でのマイノリティー。もはや存在することすら認識されていないような概念です。彼らが持つ苦しみを、社会は救済することができない。それどころか、異常者扱いして、生きるための繋がりすら断絶してしまう。そんな現実をナイフでえぐるように描き出しています。
上手いなと思ったのが、彼らの性的嗜好として「水」をチョイスしていることです。水だと透明感があって、それが性の話だとしてもあまり不快感がないじゃないじゃないですか。かつ「濡れ場」などの暗喩にも一応なっている。
これがもし「窒息」とか「嘔吐」とかだったら、おそらく多くの人は嫌悪感が先に来て共感できなかったと思うんですよね。
それでいて、「AVに出てくる例のプール」のように、実際に存在するネタを織り交ぜる時もある。
『正欲』は、優れたバランス感覚を持つ朝井リョウさんだからこそ書け、多くの人に支持される作品になったのだと思います。
目の前の「あなた」と向き合う
この本の前に『サピエンス全史』を読んでいたのですが、そこでは「国家と市場が人々を個人にした」と書かれています。個々人が自由に生きることを保障すると同時に、私たちは孤独な存在になってしまったわけです。
今、この世界に根ざしている分断は、単純化すれば「個々の違い」に起因しています。ある事柄を見て、それぞれどう思うか、どう感じるかが全く違う。相手の思考を理解できない、気持ち悪い、視界にすら入れたくないと思う。
過去10年に広がった多様化と分断を通して、人々は「多様性とは本来不愉快なものなのだ」と嫌でも学びつつあります。
では、我々はどうすればいいのか?
自分と似たような価値観を持つ人とのコミュニティーに閉じこもり、生涯その中でだけ生きていればいいのか? そんな悲観的な結論にしかならないのか?
このような疑問に対するヒントも、本書は提示してくれます。
「男」か「女」か、「日本人」か「アメリカ人」か、「ノンケ」か「ゲイ」か――そんな大枠のグルーピングには意味がない。
私たちが向き合うべきなのは、マジョリティーでもマイノリティーでもなく、「目の前にいるたった一人の人間」なのです。
映画について
さて、最後に昨年公開された映画の感想を軽く語って終わります。
尺の都合もあり、要所要所の設定は原作と異なります。一人一人の性格とか、細かな行動とか、時系列とか。啓喜は原作と比べてより難儀な性格になっていたのが面白かったですね。また、原作では大也との会話が印象深い八重子は、映画だとかなり出番が控えめで、仕方ないとはいえ残念でした。もしかすると、映画しか観ていない人は、八重子の存在意義がよく分からなかったのではないかと。
とはいえ、映画は映画でかなり魅力的な作品になっています。何より、取捨選択が上手いんですよね。『正欲』の映画として、描くべきところはきちんと描き、カットしても問題ない要素はカットする。多様性の難しさを描くための取捨選択がしっかりしていて、原作からむしろ洗練された側面すらあると思いました。
特に、水が形を変えて様々な姿を見せるシーンや、多様性を表現した「スペード」のダンスシーンあたりは、映像化してなんぼですよね。いずれも印象的なシーンに仕上がっています。
出演する演者さんたちの演技も良質で、台詞が一つもないシーンでも、今その人が何を考えているのか、ちゃんと伝わってきます。
特に、ガッキーこと新垣結衣さんが夏月を演じているのがすごい。誰からも愛されている彼女が、誰にも理解されない苦しみを抱えて生きる女性の役を演じてるんですよ。そんなの無理だろって思うじゃないですか。
でも実際に観ると、冒頭に映る表情ですぐに分かるんですよ。「明日死んでもおかしくない人の顔してる!」って(笑)。
いや、本当にすごいです。おみそれしました。
Netflixなどで配信されているので、原作を読んだ方も読んでいない方もぜひ。
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