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同じ大学の入試に3度落ちたけれど

ずっと、話せなかった話をしようと思う。

最近、自分の挫折したエピソードを嬉々として語る人に出会った。すこしおかしな人だなあと思ったけれど、同時になんて強かな人なんだろうとも思った。

僕は結構「このラーメン屋さんに行こう!」と決めた後で食べログを開くことが多い。
食べログでとにかく「この醬油ラーメンがうまい!」とか「ここの焼き豚は絶品です!」とか肯定的な意見を見つけようとする。
できるだけ、最高の気持ちで食べたいじゃない。
いかに一部の評価が低くても、そういうのは無視して。だってもう、そのラーメンを食べることは決定しているし。


僕は、同じ大学の入学試験に3度落ちた。


そういう話を、今日はしたい。

今から10年前くらいに時を遡る。
2012年冬。あまりにも田舎すぎる村で育った僕は狂気的に過酷─と当時は思いもしなかったしむしろ楽しい思い出の方が多いが─な中学受験戦争をくぐりぬけ、晴れて第一志望・都会(と当時の僕は信じてやまなかった)の中高一貫の男子校に入学した。田舎ということもあっただろうが、その頃地元から「都会の学校に行く」なんてことは非常に珍しいことで「めっちゃ賢いやん!」「頭ええなあ」と言われ続けた。シンプルにうれしかったけれど、上には上がいることを塾では叩き込まれていたから「まあな~」と鼻と鼻の下を伸ばすのは小学校の中だけに限定していた。

ひと学年220名。はじめての大勢いるクラスメイトに大興奮し、念願のサッカー部ではなく、ついうっかり柔道部にも入部し、乗せられやすい性格のせいで生徒会長選挙にも出馬した。

生徒会選挙の話はこちら↓

生徒会は楽しかった。

文化祭や体育祭、不要な参考書や教科書を集めて再配布するイベントなど学校内の行事を大きくしたり、増やしたりして友達が「おもろいなあ」と言ってくれるのがうれしかった。
最初は苦手だったスピーチも回を重ねるごとに手応えじみたものを感じるようになった。

スピーチの話↓


奈良県の高校すべての生徒会長の代表、関西地区の高校生徒会役員・有志の集まりの副代表、その全国版でも副代表、ラジオ番組のMCなど、あらゆる組織の幹部を任せられた。任せられた、などと記述はしたが、たぶん僕自身が「やりたいやりたい」みたいな雰囲気を出しまくっていたから周りが譲ってくれたんだと思う。

柔道部でも主将を務めさせてもらい、お世辞にも強豪とは言えなかった西大和学園柔道部をもっと強くしたいと本気で思っていた。自分自身も強いわけではなかった。幼稚園から始めていたというだけで、当時は女子にも負けてしまうような有様だった。投げられることには慣れていた。
だから、負けることに強い抵抗があるわけではなく、「柔道の試合で負けること」その程度のことが挫折には成り得なかった。

高校の修学旅行っぽいイベントではインドに行かせてもらい、そこでは日本学生代表のスピーチも任された。ほぼ徹夜で頑張って言いたいことを英訳した。実際に頑張ってくれたのはあまりにも優秀な友達だったけれど。書道パフォーマンスも行わせてもらい、ローラ似のインドの女の子たちにめっちゃモテた。ような気がする。ただ目立つ人が好きなだけな気もした。

一言でいうと、絶好調だった。

たぶん、そんな僕の姿を見て「こいつはこのままだとどこかで頭を打つ」と思って近しい先生方は叱りまくってくれたんだと思う。実際、高校の時はかなりそういうみなさんが苦手だった。噛みついてばかりですんませんでした。

高校の先生の話↓

さて、前置きがとにかく長くなってしまうのが僕の悪癖である。ようやく本題である。
そんな絶好調な僕だが、言ってきたのは課外活動ばかりである。しかし学生の本分とは一体何か。

むろん、勉強だ。


一に勉強二に勉強三四がなくて五に勉強、というのは母が口酸っぱく中高時代言ってくることだった。

僕の母校は、巷でいう進学校というか学歴至上主義というか、まあそういうわけではないんだろうが、うん、まあそういう感じの学校だった。
もともと「賢い奴ら」をどっさり集めて勉強をさせるのだ。付いていけずに途中で退学する同級生も山ほどいた。

歴代の生徒会長の進学先は、東大か京大か医学部かUCバークレーみたいな海外のエリート校か、みたいな。
基本そういうところしか認めない、と僕自身思っていた。高校生なんて大学がどういうところかなど、何にもわかっちゃいないのに。どこの大学なら何ができるかなんて、なんにも調べていなかったのに。

課外活動まみれの僕だが、腐ってもそこは進学校の生徒。高2までも(世間一般よりは、たぶん)そこそこ勉強してきた。高校三年になると強制的に課外活動がすべて引退となる。我が母校に夏のインターハイなどなかった。むろん受験勉強に専念するためだ。こう書くと時代錯誤的な、と思われるかもしれない。でも非効率的な勉強をしているわけでは決してなかった。あとから予備校に通って分かったことだが、その水準はあり得ないくらい高かったと思う。本来「浪人生が受けるはずのエリート講師」の授業よりも数段わかりやすい授業展開の先生は何人もいた。

そうして現役・高三の冬の受験で、浪人は絶対に嫌だった僕は志望校を偏差値的に2ランク落とし、安全校だと思いながら受験した。さほど行きたい気持があるわけではなかったけれど、学歴的にここかなというところだった。

結果はリビングで、スマホの画面で見ることができた。やけにあっさりしていた。

前期・不合格。


視界が歪んだ。泣いた。でも後期があるし、前を向くしかないと勉強を始めた。

後期受験は前期よりもなんだか、全体的に空気が重いような気がした。
余裕で高得点だろうな、という気持ちと、また落ちたらどうしようという気持ちが半々だった。
結果を待つ時間が何よりも怖かったから、気を紛らわせるために自動車の免許を取りに行った。教習の合間に見た合格者一覧に、また僕の番号はなかった。
しかたないか、浪人しようと今度はなんとなく前向きに思えた。

それが強がりに過ぎないことなど、自分が一番わかっていた。


でも、そうしていないと自分の心を保てる気がしなかった。

両親に頼み込み、予備校に入学。浪人生活が始まった。
勉強しかしない一年が始まる。
6月頃の模試では全国10番台、みたいな、バカみたいな成績が出たりもした。これなら合格できる、と確信した。
それがよくなかったんだと思う。

成績がいくら伸びようが、それが実力だろうが運だろうが、落ちるときは落ちるのだ。
また僕は妄信的に「絶対に受かる」「だって俺は賢いんだ、頑張ったんだ」と思い込もうとしていた。

努力が報われないかもしれないなら、今僕はなんのために努力しているのか。


それがわからなくなりそうだったから、そうするしかなかったんだと思う。
「過程が大事」「努力したことに意味がある」など勝負をしない者だから言えること。高みの見物をしているから勝負の結果に左右されずに物事に口出しできる。勝負している当人にとって、努力とは結果のためにするもの。結果のため以外に努力できるほど、僕は強くなかった。

そうして晩夏。変則的ではあったが、僕はまた同じ大学の入試を受験する。
自信はあった。見栄を張っているのはなく、心から「僕よりも賢い奴など一人もこの会場にいない」と思っていた。

そうして、秋に合格発表の結果が出た。
予備校の授業中に発表された。確か8階あたりの教室の中で確認した。
何度もイメージし、幾度となく自分の中で反芻した番号は、やはり画面上には存在しなかった。

虚無感がじわりと自分の体を包むような感覚が、また訪れる。

意味もなく、8階から1階までの階段を往復した。その日のことは、あまり覚えていないし思い出したくもない。
母に電話し、とりあえず予備校から家に帰った。

初めて味わう絶望だった。
何度も乗った南海電車のホームで「電車 飛び込み どうなる」とか、そういう単語の羅列を調べている自分に気付いて嫌気がさした。
今なら「なんだよ、ちょっと運が悪かったくらいで」とか、そういう声かけもできる気がするが。

今までの自分を全否定された気がした。もう、何もかもやる気が起きなかった。


その後一週間かけて、突きつけられた事実を飲み込んでいった。救いだったのは予備校の最寄り駅に大きな本屋があったことだ。毎日一巻だけ本を買って、それを電車の中で読んだ。作品に没頭することで現実から逃避していた。ブルーピリオドという漫画だった。この作品のおかげで今僕はわりと美術展に行くのが好きだ。

予備校には行っていたものの、あまりにも放心状態の僕を見かねて母が「畑仕事するか?」と誘ってくれた。ありがたかった。畑にいる間は受験のことを忘れられた。小さいころはよく畑で遊んでたっけ。思っていた5倍くらい畑の作業はきついもので、思っていた2倍くらい、畑仕事が終了した後の空を見るのは心が晴れやかになった。

そうこうしているうちに秋は深まっていった。ある日、そういえば本命以外にも夏になんとなく受験していた大学があったことを思い出し、思い付きで調べてみることにした。はじめて大学のことを自分から調べた瞬間だった。

驚いた。

中三の頃、アメリカにすこし留学した時。ある大学に連れて行ってもらった。滞在時間は凡そ3時間やそこらだった。僕は急いで何か残るものを、と学内売店で黒いパーカーと赤いコップを買った。あまりにも素敵な場所だなと、何も知らずに思った。ここの何かを学べたらいいなと。

浪人時、僕がなんとなくおもしろそうだな、と思って購入した「デザイン思考の授業」という概念の紹介本。その出版元は「あの時のステキなアメリカの大学」だった。「デザイン思考」について調べまくった。すると「その授業の客員教授を務めていた教授が、日本にいる」との情報をつかんだ。
必死になってどこの大学だ、と調べた。

それこそ、僕が「なんとなく受験した」大学だった。

それが、僕が今いる大学になる。


笑ってしまうことに、なんとなく受験した「学部」にその先生は所属していた。

この人の話を聞きたい。この人の下で学びたい。

合格通知を貰ってから、さらにこの大学で何ができるか調べた。

いいところを探した。企業案件日本一位とか、そういう。
中でも、起業ができると知った。
将来、自分の家業である農業に何かをかけ合わせたいと思っていた僕にはぴったりだと思った。ピースがハマったような気がした。

いや、多分違う。自分で何とかピースがハマったと、思い込んだのだ。
「○○だからこの選択をしたんだ」「○○ができるから、こうしたんだ」など。全部後付け。
でも、後付けでいい。
自分のした選択を、正解にする努力を最大限できるなら、それで。


その後、実はまだ悩んだり、それに打ち勝とうとして生き急いだりするのだけれど、それもまたいつか話せるといいな。

更新(2023.6.18)しました!
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