僕は、ずっと後輩に恵まれ続けている。
中村佑介展が阿倍野で開催中との知らせを聞いた。聞いたというがインスタのストーリーで友達が行っているのを「見て」気付いたのだから「知らせを聞く」という言葉は現代社会にはあまりそぐわないのでないか、むしろ昨今「知らせ」とは見るものでないのか!
しかし古来から手紙はあったしなあ・・やっぱり聞く、がいいのか、みたいなことをフワフワと想起しては風に流している。
そんなことはいいとして、中村佑介さんといえばアジアンカンフージェネレーション、そして森見登美彦に思いを馳せるところ。彼の描くイラストに心奪われて本を手に取った読者諸賢も多いはずである。
アジカンと森見作品とは僕が大をみっつほど語頭につけるほど好きなものであるが、やはり特に有名なものは「夜は短し歩けよ乙女」「四畳半神話大系」であろう。
この二つは映画化とアニメ化しており、その主題歌を基本的にアジカンが担当している。京の街・特に高瀬川沿いを「君の街まで」を掛けながら歩くのはそれはそれは、もうタマランのである。イヤホンをつけ、腕組をしながらふんふん言っている蟹股歩きのニヤついた腐れ大学生がいれば、それすなわち私のことである。異論は認めない!
またいつもの通り前置きが長くなってしまったが「四畳半神話大系」にはヒロイン「明石さん」という主人公・私の後輩がいる。「夜は短し歩けよ乙女」にもヒロインに「黒髪の乙女」がいるが、これも主人公にとっての「後輩」である。まあつまり、なんだ。森見作品の「腐れ大学生シリーズ」において「後輩」とは実に重要な要素の一つであるのだ。たぶん。
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さて。
初めて僕に後輩と呼ぶに足る存在ができたのは中学二年の柔道部。
柔道は小学校の頃から習っていた。けれど、小学生に「先輩」「後輩」みたいな概念は理解しがたい。聡明な小学生の僕は、理解はしていたのかもしれないが、同時にクソガキだった僕は「年上?そんなん知らんし、二個上とかでも俺よりもあほなヤツばっかりや」と思っていたような気がする。実際は小学生柔道小僧においての「二つ上」などあまり大きすぎる差であったし、ボコボコに負けていたのだけれど。柔道の試合で勝てないなら勉強で勝ちたい、みたいな「逃げの戦術」もこのころに編み出されたのだと思う。中学生になって、それも「二年生になって」はじめて僕はこの「後輩」というものに衝撃を受ける。
「あ!栗林先輩!一緒に学校いきましょう!」「栗林先輩!練習お願いします!」「今日もお疲れ様でした!栗林先輩!」
なんて従順なんだ・・なんて気持ちいいんだ・・
若干14歳にして「先輩」と呼ばれることの気持ちよさを知った僕は後輩を溺愛した。大学二年生になって「先輩呼びキモチエー!」と言っていた友を笑ってはいたが、何も僕だって同類なのだ。彼を笑う輪に入る権利など持ち合わせていないのだ。
たぶん当時もカッコつけていた(もちろん今も)僕は、割とドライに彼らに接していたような気がするのだが、その実後輩たちがかわいくて仕方なかった。ほんとだ。ほかの部活の友達は「後輩たちが生意気だ」とか「後輩が言うことを聞かない」だとかなんとか言っていたが正直意味が分からなかった。え?!あんなにかわいい物体のどこに不満が?!みたいな感想を頭で抱きながら「へー」と心底興味なさそうに言っていた。
その後、その柔道部の後輩たちとは5年を共に過ごし、今に至る。最初から最後まで彼らが僕たちに態度や姿勢を変えることはなかったし、今だってその関係は続いている。
中二の夏、僕は書道部に入部した。
たった一人で、今まで名前も知らなかった高校の担当をしておられた顧問の先生のところへ行って「書道を教えてください」と頼んだ。部員は存在しているとのことだったが、書道に関しては幽霊部員ということだった。意味の分からないことだろうが、書道部の現状は「マジックを練習している先輩が数人在籍している部」だった。あんまりラノベでもなさそうな設定だし、何より登場人物が全員男だからそもそもラノベではない。
中学二年生の一年間、入部者は当たり前のようにいるはずもなく、ただ一人で先生に教えてもらった書(九成宮醴泉銘と孔子廟堂碑という中国の碑文の写し)を黙々と練習していた。中三の春になって、一応新入部員の募集をかけてみたら、驚くほど入部希望者が多かった。なんでやねん・・と思ったが、一応部長という体はとっていたので、一応みんなに筆の使い方ぐらいは教えてみた。教えられるほど僕もうまいわけがなかったのだけれど。最初は墨が手についただけでワーキャー言っていた彼女たちも、最終的には顔いっぱいに墨をまき散らしながら書道パフォーマンスするまでに成長してくれた。
ちなみに僕が引退する年の文化祭のパフォーマンスは、後から撮ってもらっていた動画を見て、
誰もいない部屋で泣いた。
号泣した。
こんなに自分の涙が簡単に止まらなくなることも彼ら彼女たちに教えてもらったことだった。
そんな彼女たちも引退し、高校を卒業した。花くらい届けたかったけれど、コロナウイルスの猛威には勝負する気もなく、それも自粛した。そんな情けない先輩の僕だが、先日久しぶりに母校へ行ってみた。自分から行こう、と思ったわけではなく彼女たち数名に誘われたからだった。ありがたい。心からそう思った。やっぱり、普通、母校訪問なんてものは「卒業して二年まで」と相場が決まっている。大学が忙しいとか、大会があるとか、就活とか留学とか、行けない言い訳はいくらでもあった。だから今まで、ずっとしっかりとは行かなかった。別に「いかなければならない」わけではないし、行かない人を咎めているわけではない。でも、行った方がいいに決まっているのだ。母校に対して何の後ろめたさもなく、なんの「負の感情」も持ち合わせていないような人は簡単に、それが出来る。「むしろ懐かしいじゃん!部活見に行くの楽しいじゃん!先生と会って話したいじゃん!」うん、頷ける意見だ。
確かに、その通りなのだ。
心から、純にそう思える人たちを本当に僕は羨ましく思う。もはや妬みにさえ近いかもしれない。
でも、そう簡単に割り切れないことを抱えている人だっているんだ。もしかしたら少数派かもしれない。でも、確実に、いると思う。みんな、そうは見えないかもしれないけれど。そりゃ、見えないだろ。そんなもん、わざわざ周りに見せて、言って、何になるんだ。そんなもん聞くもんじゃない。
でも、よかったんだ。ほんとに
少し距離を置いて、久々に見る母校はやっぱり無茶苦茶で、荒々しくて、とても生き生きしているところだった。
あと、全然知らない中学生とかにめっちゃ挨拶返された。僕が中学生だったころ、あんなに気持ちの良い挨拶を、全く知らない「なんかよくわかんないけど大学生っぽい人」みたいな人に出来ただろうか。いい子たちだな~とか、一瞬、学校評論家になっておいた。
そう思えたのも、間違いなく後輩たちのおかげだ。
彼ら彼女らがいなかったら、行こうとも思わなかったんだから。
大学でも、いくつかのコミュニティに所属させていただいている。うれしいことに先輩も後輩も増えた。僕は変わらず、ずっとおちゃらけていて、ヘラヘラしている。それでも、外風呂で笑ってしまうくらい真面目な話をしたり、狭い下宿でお腹がよじれるくらいバカな話を一緒にしたりしてくれるやつら(粗雑な言葉だが、それが僕にあっている気もする)でいてくれることには感謝しかない。ありがとう。
ああ、またお前らと集まれんの楽しみだよ!
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