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奇異なお母さん 1

私のお気に入りだったピンクのボールに、ゴキブリホイホイのベタベタがまとわり付いていた。そのボールが、朝起きると、私がいつも使っていたベビーチェアの座面に張り付けられていた。

多分これが、私の最も古い記憶だ。



確か、3歳頃だったと思う。5人兄弟の末っ子として育った私の目にうつる母は、いつも疲れていて不機嫌そうな顔をしていた。怒ったような恐ろしい顔で、音を発さずに何かをブツブツと呟くような仕草をすることもあった。とにかく機嫌が良い時と悪い時の差が激しく、幼い私は朝起きると、今日は母の機嫌が良い日なのか悪い日なのかをまず気にしていた。

ある日、家で兄とお気に入りのピンクのボールで遊んでいた時のことだ。私の投げたボールが、誤って近くに置いてあったゴキブリホイホイの中に入ってしまった。(今思うと、直径20cm程のボールがどうやってその中に入ってしまったのか不思議である。)私と兄は「しまった!」と思った。母に怒られると思ったのだ。兄は、「お前が入れたんだから、俺は知らないよ!」とどこかへ逃げた。私は母の機嫌が良いことを祈りながら、母のところへ行った。ボールがゴキブリホイホイの中に入ってしまったことを伝え、震える声で「ごめんなさい...」と伝えた。すると、怯える私とは裏腹に、母は「いいよ」と言い、気にする素振りは何もなかった。良かった、お母さん、怒らなかった!私は安心しきり、その日を普通に過ごし、夜になると眠った。



問題は朝起きてからだった。母に起こされ、着替えを終え、「朝ご飯食べちゃいなさい」と言われリビングへ行った私は、その光景を見て凍りついた。昨日ゴキブリホイホイの中へ入ったボールが、ゴキブリホイホイから剥がされ、おそらくその状態のまま、私が座るべき椅子にべったりと張り付けられていたのだ。母がやったに違いないと確信した。その椅子の目の前には、朝ご飯として用意されたおにぎりが、何事もないように静かに並べられていたからだ。「おにぎり、食べたら幼稚園行くよ」母は異常とも思えるほど普通に振る舞っていた。私は座るところがなかったので、立ったまま震える手でおにぎりをつかんだ。しかし、あまりのショックで一口も食べられなかった。恐怖で溢れ出そうな涙をこらえ、おにぎりを握ったまま、しばらくじっと椅子の上のボールを見つめていた。この時、母の視線を感じたが、私は母の方を見ることはできなかった。



その日の幼稚園で過ごしている最中、とにかく家に帰ることが怖かった。母がなぜあんなことをしたのか分からなかったし、態度には出さずとも怒っているのか不安で仕方がなかった。家に帰る時間が刻々と迫り、私は家に帰りたくなかった。
幼稚園が家から遠かったため、私は母に車で送迎してもらっていた。お迎えの車の中、私も母も何も話さなかったと思う。ただ、膝の上に置かれた私の拳は固く握られ、じっとりとした汗をかいていた。

家に着いて恐る恐るリビングへ行くと、今朝椅子の上にあったボールは無くなっていた。座面は綺麗に拭かれ、粘着物はどこにもなかった。朝起こった出来事はまるで嘘のようだった。恐怖で母には何も聞けなかったし、母も何も言わなかった。

その後、ピンクのボールを見かけることはなかった。当時の母の行動について、今でも理由は分からない。聞いたところで覚えていないか、奇異な母からまともな回答がくるとも思えないので、今更聞く気もない。ただ、忘れたくても忘れられないほど、この記憶は私の頭にこびりついてしまっている。

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