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面白国境越え 中国→キルギス イルケシュタム峠越え20時間の旅路

趣味がら何十回も国境を越えてるんだけど、いろんな意味でいろいろ面白かったところが中国からキルギスのイルケシュタム峠国境越えだと思います。今のうちにまとめておきます。

中国のカシュガルからキルギスのオシュまで、総計20時間、500km、パスポートチェック8回、荷物検査20分、尋問20分、乗り物5回乗り継ぎ、待ち時間5~6時間、265元と3000ソム(合計8000~9000円くらい)の旅となりました。

↓こんな感じの行程。これから細かく解説します。

あ無題

はじめに注意!

①情勢

この旅は2019年のGW、4月29日(月)です。

コロナはともかく新疆ウイグル自治区をめぐる国際情勢は2021年現在も日々変動しているので注意が必要だと思います。

初めに書いておきますが、越えるのが大変な国境はつまりはそれだけ通過するものを管理しなくてはいけないということ、つまり情勢が安定していないということ。あえては書きませんが、最低限の自衛や問題解決能力を持ち自己責任で行ってください。

②お金

治安はいいですが、公共交通機関がないルートなので白タク頼みです。舐められない程度に交渉して、最終的に日本円で数千円惜しまず払う覚悟を持ってください。個人の車で山間部を5時間走り1人4000~5000円は安いと思える感覚が必要だと思います(同行者がいないと1人頭は高くなりますが・・・)。

移動手段がなければ野宿や待ちぼうけです。3000m級の山間部での野宿も辞さない時間も気力も無限にある貧乏旅行者だったら止めませんが・・・。つまり最低限の装備はあったほうがいいかと。あとはトラックドライバー捕まえてる話もネット上にはちらほらありましたね。

③写真

中国側ではスマホやカメラの写真すべて見られる上に、なんかバックドアソフトとか入れられてると思われます。

何気ないと思っても中国的にダメと言えばダメなので、途中の国境の写真とかすべて消されます。確実に残したい方は道中にウェブ上にアップロードしたり、できることならメモリーカードなど別を用意して隠しておいたほうがいいです。あとは思想的にも善良な観光客を演じてください(善良な観光客はこんな変な国境越えはしないけど)。私はスマホ2台持ちで、1つは隠しておきました(香港デモの写真とか入ってたしやばかった)。

④言葉

ここまで来て言葉で躓くことで怯む人はいないと思いますが、言葉に関しては国境職員も英語はほぼ通じません(通じないほうが白を切れていいかもだけど)。中国語、ロシア語(キルギスの公用語)が話せないとコミュニケーションが取れない。私は中国語がそれなりに話せるので、中国側では同じ旅程の日本人や欧米人相手に通訳やらされてました・・・。

イルケシュタム峠とは

中国の一般旅行者に解放されている国境で最西端となるのが、キルギスとの国境に広がるパミール高原のイルケシュタム峠(伊爾克什坦)。シルクロード交易が盛んだった唐の時代くらいまでは最も交通量が多かった峠です。
↓ここです。

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現在でもトラック輸送が行われていて、キルギスとの国境では標高も低く大きな都市同士が近いルートなので重宝されているよう。ただし公共交通機関は一切存在しません(国際バスがあるって情報見るけどカシュガルのバスターミナルでは発見できなかった)

ちなみにこのルート上で外国人旅行者がまともに宿泊できるのは中国側はカシュガル(カシュガル以西に一般開放されてる都市がない)、キルギス側はサリタシュという村です。キルギス側はおそらく国境越えてすぐの集落の小屋(とは名ばかりのコンテナ)にHOTELと書いてあって泊まれそうな雰囲気でしたが環境は悪いと思います。

基本的に国境が解放されているのは平日のみ、両国の休日は国境が閉鎖される。あとで書くけどとにかく警察・税関は朝遅く、昼休みは長くて、夕方も店じまいが早いのでタイミング(気分もあると思うし)を逃したら通過できない。死にはしませんが1日がかりの行程と考えたほうがいいかと。あとは3000m級の山間部を超えるので冬季は絶望的。夏場のみと考えたほうがいいです。

ちなみに私はやってませんが、現代では中国と中央アジアの国境を通過したいなら鉄道や直通バスもあるカザフスタンとの国境の阿拉山口やコルガス(霍爾果斯)ルートのほうが楽だと思います。

前編 中国出国まで 地獄の2時間荷物検査と出国手続き2時間待ち

やっと本題です!

7:00
カシュガル市中心部の北西にあるカシュガル中央バスターミナルからスタート。乗り合いバスで国境手前の町、ウルグチャト(鳥恰)を目指す。7時オープンで始発乗れたかわからないけどなんだかんだチケット購入まで結構かかった。ウルグチャトまで35元。

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8:00 
バスは満員になってから出発。しっかり整備された道路でひたすら荒野を進む。同行者はドイツ人2人、フランス人2人、日本人は私入れて6人、あと地元民が1人。この外国人集団はキルギス入国まで一緒でした。

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9:30
検問所で荷物検査がスタート。
ほぼ検問の公安の暇つぶしだと思う、10人バラバラに15分ずつくらいかけてやるので、とにかく2時間かかった。バックパックや手荷物も細かいポーチとかもすべて開けてる。

スマホやカメラは写真すべてチェックされる。私は仕事用のスマホを生贄にしたので、仕事で撮ってた中国出張中の写真とかについて何時?何用で?といちいち聞かれる。ハンディターミナルみたいな機械とコードで繋がれて、何かスキャンしてるのかバックドアソフトを入られたかした。

一応公安と世間話したりしてみたけど、基本不機嫌、これは最近の主要都市の空港や駅に慣れてると化石レベルの冷たさに感じると思うw。中国の末端公務員には袖の下が効かないのがつらいよね。

トイレに行きたいと申し出て外出て隠し撮りしてみたりして待った。

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その間、ドライバーも地元民も待たされるのほんと気の毒。

11:45
ようやく検問所を出発。ウルグチャトの街中へ。
ウルグチャトの市内は、普通にビルや集合住宅もある中国の田舎の計画都市って感じ。国境の拠点なので大きいホテルとかも建ててたけど、どうせゴーストタウン化しそう。

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12:00過ぎ
国境ゲート前まで行くも、14時まで昼休みで締め出される。近くの食堂で昼飯でも食って待ってろとのことで、外国人そろって食堂で待つ。その間周辺散歩したり、商店見たりした。クオリティの割に物価は高めかなと。飯はウイグル料理、中国料理もあったけどプロフとナンを食べた。

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14:00
国境ゲートオープン。パスポートチェック後、バンで5分くらい移動して、国境事務所の本体へ。この辺も隠し撮り。

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トラックは結構すんなり通過してる。こういうルートでやばいものがパキスタンやアフガニスタンやイランにわたるんだろうなとw

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真新しいビルで、いっちょ前にDutyFreeなんかもあるけど通過する客は我々グループだけ。

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よくある空港みたいない簡単なX線荷物検査と個室に通され20分くらいの問答。漢民族ではない職員もいて、英語が片言話せるようだった。私は中国語でいろいろ話して、大学はどこだだの仕事は何してるとか中国はどこに行ったことあるのかとか、パスポート見ながらいろいろ聞かれた。完全に暇つぶしだと思う。

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晴れて出国印が押された。この一押しがここまで大変だった出国はそうそうないです。

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後編 キルギス入国~オシュまで 神対応(当社比)の国境、決死の雪中ドライブ

16:30
建物を出るとすでに白タクが用意されてた。キルギス入国ゲートまで200元、2時間。すでに出国しているけど実際にはまだ全然中国。地図的には距離は長いけどこの行程最速の表定速度だった。

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道中はひたすら山っぽい荒野を駆け抜けていく。途中トラックとは何回もすれ違った。ところどころに集落があって、学校とかも見えた。途中2回ほど検問があったけど、ちょっと降りてパスポートチェック受けるのみでOK。ちょろい。このエリアの住民はやっぱり通行証を持ってるんだろうか。

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18:30
ようやくゴールっぽい建物が見えてくる。戦車でも格納してるんだろうかドーム状の建物が本当の国境。中国側最後のパスポートチェック。

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検問後、国境警備所があり柵に囲まれた細い道を進む。そして車を下ろされる。

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18:40
そしてこれが本当の国境。この柵でキルギス警察?軍?に出迎えられる。ここからは徒歩で進む。写真撮っていいか聞いたら(カメラもって、フォトグラフィ?って言っただけだけど)、笑顔でOKとのこと。

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祖国在我心中。プロパガンダにしては雑な文章。キルギス側にもある、ロシア語?かキリル文字だったし角度的に読めない。

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徒歩で10分ほど進むと警察も姿を消してしまう。いったいどこまで進めばいいのか道なりに歩くと、詰所みたいなことろでおもむろに道の先を指さされる。

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そうすると前方から車が、どうも送迎してくれるそう。ここは数分、一人30元だった。あとで調べてみると国境の事務所まで2.5kmほどだったよう。だいぶ足元見られてるけど、疲れてるので。

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キルギス時間18:00(中国時間20:00)
国境の入国審査は比較的緩かった。写真は禁止されていて、狭いので隠し撮りするスキはなかった。

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国境事務所を出るとあるあるの白タクドライバーの攻勢。外国人10人組は途中のサリタシュまでいく組8人と、私含めオシュまで行きたい2人に分かれ交渉する。結果としてオシュまでは5時間ほどで、1人3000ソムということ。ほぼほぼ相場っぽい。

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ドライバーは一日仕事、途中自宅によって車中泊用の装備を持ってきてた。帰りに客が取れれば往復で2万円くらいの仕事ということになる。

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途中の山の中に検問所。警察がめちゃくちゃいたけど、特に何もなくパスポート見せて終了。

日が落ちてからの道中は地獄。みぞれが降る雪道、街灯なんてあるわけもなく、柵もない山道。普通の前照灯のみで時速80km/hくらいで山道を爆走してく。カーブでスリップでもして落ちたら本当に命がないと思って、生きた心地がしなかった。ドライバーは音楽かけてノリノリで慣れてるんだろうとはいえ怖いものは怖い。

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20:00(中国時間22:00)
その後サリタシュでサリタシュまでの同乗者を下ろして分かれる。この辺も正直景色とかもいいらしいので、昼間に移動しても良かったかも。翌日以降の予定がパンパンで余裕なかったんだけどね。

サリタシュを出るとまた峠越え。今度は九十九折の道を登っていく。地面は凸凹で、過積載の暴走トラックとすれすれですれ違ったり、途中岩が転がってたり正直降ってきたらひとたまりもない。

ちなみに車は日本のイプサムの中古車、ハンドルも右のままだった。途中2回ほど給油した。

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23:00(中国時間25:00)
少しずつ建物や車通りも増えて明かりも増えてくるとオシュの町。オシュはキルギス第2の都市で、南部の中心都市。お疲れさまでした。
予約していたホテルまで送迎してもらいようやく一息というところで、停電になり強制就寝。おそらく夜間の電力が強制遮断されるんだと思う。お湯は少し出たのでシャワー浴びてすぐ寝ました。

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おまけ
晩御飯を食べ損ねてるので腹減ってたのね。翌朝の朝ごはんはありがたかった。チャイ(中央アジアや中東で無限に飲む紅茶)、ヨーグルトはちみつ掛け、ナンにサラミ・チーズ・きゅうり・ゆで卵、この辺は本当にこの地域の定番中の定番(中国におけるお粥と豆乳と油条みたいなもん)。宿代確か1500円もしなかったと思う。

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イルケシュタム峠の意義「東西トルキスタン」の境目

なぜこんな大変とわかっていたのに行ったのか。もちろんキルギス、この後行くカザフスタンを観光するためんですけどね。話すと長いんですが、このルートを行くという歴史的意義を理解しないのはもったいないので大枠のストーリーは解説します。

この峠があるパミール高原、ここはトルコ系民族の居住エリア「トルキスタン」と呼ばれる地理的概念の中央部で、ここを境に東トルキスタンと西トルキスタンを分ける地理的にも歴史的にも決定的な場所。地形が関係するのは当然として、東は現代ではほぼ中国の新疆ウイグル自治区、西はキルギスやウズベキスタン一帯です。ここを境にトルコ系民族は異なる歴史をたどっています。実はトルキスタンや東西の概念ができたのはごく最近のことなんです。

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この地域は紀元前よりトルコ系民族が暮らしていて、騎馬民族とともに東西交易を担っていました。7世紀頃まではパミール高原以東も中国の影響が強かったところ、イスラム教が東に広がるにつれて中国は東へ押し出されていきます。転換点ともいえるイベントが751年タラス河畔の戦い。これを最後に中華勢力はパミール高原の東に追いやられ徐々にパミール以東もイスラム化していきます。その後西へ東へモンゴル勢が右往左往、ちょっとチベット系が山を下りてきたり、ティムールがペルシャ・西トルキスタンを統一したりする時代が1000年続く。18世紀に清王朝がパミール東側の最後の遊牧民族国家ジュンガルを制圧、19世にロシアがパミール以西の諸勢力を制圧。それを分けたのがパミール高原で、現代の国境線まで引き継がれているというわけです。その後の歴史は周知のとおりソ連崩壊でキルギスをはじめ独立国が誕生したのに対して、東は中国が影響を持ち続けている。

そうした異民族による支配下で生まれた概念こそが「トルキスタン」であり、ウイグル人を最大勢力とするトルコ系民族でイスラム教が多数の地域を中国とは違うということを主張するために生み出された概念こそ「東トルキスタン」というわけ。そんな天下分け目の最前線を象徴する場所の一つがイルケシュタム峠なのです。

シルクロードにおけるイルケシュタム峠 パミール越えメインルート

シルクロード全盛期は7世紀頃まで、中央アジアはソグディアナ(ウズベキスタン)やペルシャが中心、中国側主要都市の長安(現西安)や敦煌からはこのルート(下図の赤)が最短、かつパミール高原までは比較的山越えが少なく、峠とはいえ峡谷なので水場沿いだったからです。カザフスタン方面(青)は遠回りの上に山岳地帯が続き、特に天山山脈の北麓は高緯度で環境が厳しく遊牧民の世界だったので(モンゴル帝国の時代を除き)交易路としては安定しない。実際モンゴルの時代以降は、海路が整備されてしまい東西交易におけるシルクロード自体の地位が相対的に落ちる。

天山山脈南麓のタリム盆地は地図でも砂漠っぽいイメージかと思いますが、万年雪抱く7000m級の天山山脈からの地下水が豊富で都市国家が点在し、農業もできていたのです。ここを通って中国のシルクがローマへ、ペルシャのガラスが奈良まで渡りました。多くの人がこの先に何があるんだろうと思いを馳せた道なのかと思うとロマンを感じずにはいられないです。

余談ですが、21世紀の今、シルクロードの物流の主役はラクダから鉄道に、中国からヨーロッパまで貨物列車が荷物を運ぶ時代ですよ(まだイルケシュタム峠は通るルートはないけど、鉄道も建設してるらしい)。皮肉にもシルクロードが良く機能する時代は中国が安定して経済力を持っている時代というわけですね。






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