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アート表現で過去が今に生きるということ 〜武蔵野美術大学卒制展で見た、戦争による少年の虚無感〜

こんにちは、くりのさやかです。前までは自分のHPでブログを書いてたんですけど、今年からnoteに切り替えました。よろよろ〜

さて、1月といえば、初詣、初日の出、初夢などなどいろんな「初めて」が溢れる月ですが。ラスト授業、期末試験、卒論など学校単位で見ると「締め」の月でもあったり。

そんな「締め」の季節に、ずっと行ってみたい!と思っていた美大生の卒制展に行ってきました!訪れたのは武蔵野美術大学の卒制展。


今回武蔵野美術大学を選んだ理由。単純明快、知り合いの作品を見るため。こちらのほほんとしている雰囲気の彼女が私の愛する仲間であるみっちゃん。

のほほんとしているのに「室長」(展示室を取り仕切る役)をやっているらしい。そんな彼女が他の学生を差し置いて室長特権で部屋のど真ん中に展示した作品がコチラ。

これは彼女の祖父が記した18歳〜29歳までの日記の一部を、一本の道として表現をした作品である。

美しい展示はさることながら、そこに書かれている文章は終戦によって、自分が信じてきたものが覆り、苦悩している青年の言葉が綴られていた。

他の人の「(この戦争に)勝てないかもしれない」との言葉に心が苦しくなったこと。

戦争に勝つことだけを信じていること。

ラジオから聞こえてきた終戦と敗戦のこと。

彼女の祖父はとても優秀で、天皇のことを神様として強く信じてきた人だった。

だからこそ、戦争で自分が信じてきたものが全て覆っていくことは、彼にとって耐え難いものだったのではないかと思う。

すべての青年の支柱は、この時、くずれ去った。今までのすべてが誤りであった、と 大人たちは教えた。そして 世界に向かって 日本は雄々しくも 『永久に武器を放棄する』と宣言した。そして 又訂正された。もう 何も信じるものか。 ー何を信じて 生きたら いいのか。


戦争放棄、武器放棄、平和。                    それらの言葉は教科書で知っていた。当時の人々が天皇を神として信じ、そして人間宣言で絶望をしたこともすべて習ってきた。

すべて教科書で習って知っていたこと。知っていたはずなのに、日記を見るだけでこんなにも当時の人々の思いに触れ、感じることに驚いた。

そして、何十年も前の出来事が身近に感じられ、その当時に生きていた人も自分たちと変わらない感覚を持っているのだとも思った。その文字はリアルに見えた。

信念なんて何だろう。運命みたいに思うことを勝手に規定付けていることもあるだろう。

作品の最後のページまで哀しさが漂い、ハッピーエンドが好きな私は「おじいちゃんはいつ結婚したの?」と耐えきれず聞いた。

「この後におじいちゃんはおばあちゃんと出会うんですよ。70年間も日記を書いたのに、おばあちゃんとのことを書いた日記だけは見せてくれなかったんですよねえ。」とみっちゃんは言った。なんとなく、ほっとした。

作品になることで、見られることで、言葉や想いが違う形で人々に届いていく。会ったこともない人、交わったこともない時代に、揺さぶられる。

今回はそんな面白い体験をした。表現する、ということは出会いを生みだすということもあるのかもしれないと、ふと思った。



#コンテンツ会議 #アート #表現 #戦争 #武蔵野美術大学 #大学生





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