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ヨブ記注解 まえがき

わたしは、自らが障害者当事者で、同時にキリスト教徒でもあるので、聖書全体のなかで「ヨブ記」へ示す興味の度合いが、ごくごく一般的な、クリスチャンではない、そして何ら障害を持たない人と比較しますと、グッと、一段と高いところにあるような…そんな気がしています。

「ヨブ記」に関連する本は多く出版されており、わたしの知る中では、以下のような書籍が、割合に有名です。

まだまだ、本はあるのですが、きりがありませんので、このくらいにしておきます...。上記、わたしが、紹介させて頂きました…わたしの読みました本のなかに「注解書」が、トマス・アクィナスのものしかなかったのを、お気づきになった方がおられましたら、そのとおりでございまして、ヨブ記を今まで読んで参りましたが、誰かの「読み方」に縛られたくなかったので、「わたしは、このように読む」という、その権化のような「注解書」なるものには、ずっと一線を画してきたのです。なぜなら、自分の自由な解釈が奪われるような危惧が、そこにはあったからです。

しかしながら、今回は、いろんな偶然が重なりまして、『ヨブ記注解』という1冊を…わたしは、この本で、はじめて並木浩一という学者先生を存じ上げたのですが…こちらも、Wikipedia日本語版にて、リンクを貼っておきます。

どうやら偉い先生のようで、知らない私のほうが、いかにキリスト教の学会なるものに疎いのか…が透けて見える感じですが、まぁ、何はさてより、この並木氏の注解による「ヨブ記」を読んでみようと、そう思い立って、大枚を叩いて、こちらの1冊を入手したのです。
※「メルカリ」で「中古」でしたが…

ここで、もう「耳にタコができる」というくらいに、その話は読みましたよ…という方々には、勘弁して頂いて、お付き合い願いまして、わたしの本の「読み方」、その話を致しますと、まず、新しい本を手に取ります。
手にしっくりと馴染む…触り心地を確かめながら、まずは目次に目を通します。つぎに巻頭にある「序文」「まえがき」などの文章へ、つづいて「あとがき」「訳者解説文」などの巻末の文章へ、ここで参考文献リストがあれば、それも目を通します。
その作業が一巡したら、やっと、その本を、本文を読み始める…という具合です。もう既に、その本が、どのような1冊なのか…概略的なものは把握していますので、まずは読むのか、読まないのか。読むのであれば、通読するのか、それとも目次で確認した、自分の必要としている情報が書かれていそうな箇所だけを拾い読みするのか、スピード重視で「斜め読み」するのか、一言一句を大切にして「精読」するのか、だた「読む」にしても、いろんなアプローチがあるので、それも決めなければなりません。
今回、この『ヨブ記注解』(並木浩一著、日本キリスト教団出版局)は、精読されるべく、づっと本棚の肥やしになって「積読」されていた1冊でした。

そこで、やっと本題に入ります。
今回は、この本の「まえがき」を取り上げて、そちらを紹介したく存じます。6ページもあるので、すべてを「ご紹介」するのは難しいのですが、私の恣意的な選択にはなりますが、文章を選びまして、以下、引用させて頂きます。

ヨブ記は思想的にも文学的にも独特な魅力に満ちている。思想と文学の絡まり合いに特別な魅力が存すると言ってもよい。半世紀以上前、キリスト者として文学界を牽引した戦後派の作家、椎名麟三(1911-1973)は1962年に聖書の文学性について発表したエッセーにおいて次のように記した。
「だが、文学的な意味においてすぐれているのは、新約ではなく、旧約であり、そのなかのヨブ記だと私には思われる。」
「私が、ヨブ記がすぐれて文学的だという印象を受けるのは、人間の自由(それは神からの自由であるが)が強く感じられるからである。」
(椎名81‐82頁)

『ヨブ記注解』まえがき より引用

このあと、著者の並木氏はロシアの文豪、ドストエフスキーを例に挙げて、ヨブ記の影響如何を問うている。そして、話題は、ヨブ記の翻訳と、その注釈についてに移ってゆく。

ヨブ記は読者を挑発する。この挑発に応えた人々により、ヨブの言語と構造、思想について錯綜した議論が展開されてきた。西欧においてはこれまで注釈書、ヨブ記の本質に関する研究など、読解を試みた数々の書物が刊行されており、論文の数も極めて多い。ことに過去の議論の検討、新たな読み方の提案、釈義には多大なエネルギーが注がれてきた。日本においてもヨブ記を理解するための努力がなされてきた。この半世紀以内に、学術的な注解、講解、翻訳に尽くした先達の中には、浅野順一、関根正雄、中澤洽樹の名を逸することはできない。

『ヨブ記注解』まえがき より引用

上記、3名の旧約学者が出て参りましたので、Wikipedia日本語版にて、リンクを貼っておきます。

引き続き、引用を致します。

 ヨブ記は旧約聖書の中で、最も翻訳が難しい。5,6行に、1行の割合で難読箇所が出現する。できる限り納得できる翻訳を読者にお届けするのが本書の第一の目的であるから、筆者の翻訳が他訳とかなり違う場合には、その根拠を説明し、専門的なことは注に譲った。ヨブ記理解を分けるようないくつかの箇所については、いまだに研究者の解釈と訳法がかなり異なっている。もっとも、そういった箇所を除けば、文意について研究者の間においておおまかな共通理解がある。
 従って、読者は原文に比較的忠実な訳文によってヨブ記を通読すれば、ヨブが発信するメッセージを自分なりに受け止められる。議論の成り行きもだいたい分かる。ただし自分の思想に合わせて作品を読まないように気をつけたい。読者は個々の言葉について作者の執筆意図を憶測したくなる。ところが実際にはその推測はかなり難しい。特に知識人はまともなヨブ記研究を読まずに、自分の思想をこの書物に読み込む傾向が著しい。

『ヨブ記注解』まえがきより

上記、「特に知識人はまともなヨブ記研究を読まずに、自分の思想をこの書物に読み込む傾向が著しい。」は、大いに納得です。徒手空拳にて「ヨブ記」に向かうことを、わたしは長年にわたって恐れてきました。独自の「読み」などは、たんなる自分の理念を移す鏡を「ヨブ記」にしているに過ぎなくなってしまう...と。かといって、何かの研究書を読んでしまうと、その専門家による「読み」を相対化するために、他の「専門家」の研究成果にもあたらなければならず…そこまでの労力と時間はないな…と困っていたのです。その困り果てた末に、仕方なく、並木浩一という専門家の研究に裏打ちされた注解書を読むことに決めました。2021年、この本が、ちょうど出版さされた頃のことでした…。
わたくしの話は、これぐらいで止めておいて、引用を続けます。
2000文字を超えておりますが、もう少し、お付き合い願いましたらば幸いです。

ヨブ記作者はアイロニー精神に富む硬派の思想家である。同調圧力には断固として抵抗する強い知力、意志力、自負心、強烈な個性を持った冷静な人間であるが、素直に語り、怒り、悲しむ激情的な人でもあり、一筋縄では捉えられない。彼自身は神への信頼と神への正義への懐疑の両者に生き、神に固着して呻吟した。神の応答に出会ってからは、想像力を羽ばたかせる喜びを味わいつつ、神が示した、被造世界に生きる野生動物の躍動を描写した。作者は読者を思索の小路へと誘導する。目的地を明示することはまったくない。また、ヨブ記の叙述には仕掛けが多い。ヨブ記に不用意に取り組むと、読み方を間違える。読者は自らの読み解きを何度も吟味し、反省させられる。それにより、人々が信仰と思想をより深く考えることを作者は期待しているのだろう。ヨブ記は読者の信仰と精神を鍛えるために書かれたものだと受け止めて損はない。ヨブ記は読む時によって印象が異なる書物である。時間を置いて読み直せば、ヨブ像もヨブ記全体も違って見えるであろう。

『ヨブ記注解』まえがき より引用

わたしは、30代半ばに大病を患った後の療養中に1回、障がい者になった時に1回、ヨブ記を読んでいますが、確かに、同じ文章であるにも関わらず、読後の印象は、ずいぶんと違って受け取れました。今回は、近しい人物との死別を控えて、それを迎えての、ヨブ記の読解になります。また異なるヨブ像が、わたしの中に立ち現われてくるに違いありません。
引き続き、引用を続けます。

ヨブ記の基本的な姿勢についてあらかじめ一言だけ記しておく。人間は被造世界の一員として神の支配に服しているが、人には自律的な領域である「内部世界」があり、神はそれを尊重する。神はヨブの内部世界には干渉しない。この内部世界の確立がなければ、人間の「自由」は存在できない。人が自由を持つがゆえの苦悩を徹底した筆致で描いた書物、それがヨブ記である。

『ヨブ記注解』まえがき より引用

以上、今回は、3000文字を超えてしまいました。
※自分の目標は、いつも「読みやすさ」を重視して2000文字以内です

長文にお付き合い下さいまして、ご一読の労を賜りまして、感謝です。

次回は、本書の「あとがき」を取り上げたいと思っています。
※8ページの長さなので、また2,000文字を超えたらゴメンナサイm(__)m

サポートして頂いた金額は、その全額を「障がい者」支援の活動に充当させて頂きます。活動やってます。 https://circlecolumba.mystrikingly.com/