書き遺したい。命の時計が止まる前に。 ●障害者家庭 毒親育ちの半世紀●
レントゲン画像を見ている医師の表情がみるみるこわばっていった。
「ウチの診察が済んだらすぐ この病院に行って!すぐだよ?」
いつも冷静なかかりつけ医が一心不乱にキーボードを叩き始める。彼が打っているのは紹介状。宛先は国立の総合病院だ。
「貸し出し用のコルセットある?背中の高さまである大きいヤツ。え?高いのはない?じゃあ腰痛用のでいい!しないよりマシ。すぐ持ってきて!」
キーボードを打つ手を止めることなく、看護師にビシビシと指示を出し続ける。私が質問する隙もない緊張感が診察室を支配していた。
先生、私の背中で何が起こってるんですか。
「コルセットあった?すぐ巻いてあげて!」
あの・・・私に何が?
詳しい話はこちらに書いた。
私の背中が整形外科医を大慌てさせた原因。それは、私の血筋の人間がみんな持っていた遺伝病だ。
私が生まれた家では、同じ病気の人間が3人もいた。家族は4人。高確率で遺伝する病と共に、私たちは生きてきた。
病はじわじわと体を蝕んでいく。そして最後には身体障害者となり、短い命を散らしていった。もう1人は別の病気が元で重度の身体障害を負った。つまり、私と血がつながっている家族は全員障害者。そのうち、何とか自立生活が送れているのは、もう私ひとりだ。
ところが、整形外科でとんでもないものが見つかった。その原因は、親から引き継いだこの病。家族がどんな最期を迎えたかを見知っている私は、そろそろ人生の幕引きを考えるフェーズにいると自覚した。自分の意志で動ける時間は、もうあまり残ってなさそうだ。
整形外科を出て次の病院に行くまでの間。真夏の熱風に溶けていく頭の中で、50年前の私が泣いていた。
助けて。
苦しい。
おなかが空いた。
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大病や障害というのは、その人の人生を狂わせるのみならず、周囲もろとも漆黒の闇に突き落としかねない破壊力がある。
障害者と未来の障害者で構成されていた我が家も例外ではなかった。
不自由になった身体といら立つ心は、より弱い者を踏みつけることで、かろうじて生きるエネルギーを得る。そのターゲットになったのは、まだ元気で、ムダに我慢強い少女だった私。
そんな家庭で育った私には、モノトーンの写真をぐっしゃぐしゃに踏みつけてアルバムに貼ったような、歪んで破れた思い出しか残っていない。
50年前の自分が哀れでならない。よく命を絶たずに生きながらえてくれたと心から誉めてやりたいほどに。
そして思う。
あの時 言いたくても言えなかった反論。ぶつけられなかった恨み。逃げられなかった苦悩。みんなみんな、心の中から追い出してやりたい。そうすることで、少女時代の自分を救ってやりたい。
過去を解放するためには、出来事の一切合切を洗いざらい吐き出さねばならない。
書かねばならない。書いて追い出さねばならない。
命の時計が止まる前に。
弱小ブログで細々と書いていた私の半世紀を これから少しずつnoteに転載していこうと思う。
過去は変えられない。
それでも、「こんな子がいたんだな」と誰かが心に留めてくれたなら、割れるほど歯を食いしばって生きてた少女くりからんは、ちょびっと幸せになれるんじゃないかと思ってる。
あの頃の私を楽にしてやりたい。
50年前の9月。私は一人で湯を沸かし、チキンラーメンを作って食べていた。この家に住んでいるのは小学1年生の私だけ。
テレビが大人向けのニュースに変わる21時。
華やかで面白い世界から現実に引き戻される21時。
それは心底 残酷な時間だった。
もしご支援いただけたら、同じ病で逝った家族のために線香を買います。この記事を書くきっかけとなった闘病ブログに登場する身内です。出演料という言い回しはヘンですが、彼らに還元したいと思ってます。