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暮瀬堂日記〜自由律俳句と雷鳴

 この頃、自由律俳句にふれる機会があり、ゆうべ色々考えた。それらは、人口に膾炙している俳人の句ではなく、趣味でやっている、と言う人々の句のことである。

 自由律俳句は碧梧桐が提唱し、井泉水、山頭火、放哉などが名を残した。彼らの句には強く惹かれるものもある。
 しかし、初心の人が初めから自由律俳句を作ろうとすると、なかなか無理があるように思う。

 俳諧の発句、つまり、俳句には有季定型の壁が立ちはだかる。足を踏み入れた途端、壁のまわりはぬかるみとなり、壁を乗り越えるどころの話では無くなる。

 歳時記、季寄せに向き合い、幾度も幾度も口ずさみ推敲する。推敲するたびに無駄が剥がれ、句景が切り取られてゆく。それは、一瞬を切り取る写真のようなものだろう。

 季語の力は計り知れない。なぜなら、この一語でほぼ情景がイメージされるからである。それを十七音の定型詩で削ぎ落として、ようやくシャッターをが切れるのである。壁を乗り越えたとき、句景は鑑賞者の前に浮かび上がることだろう。この過程を経験せぬまま自由律俳句を為しても、句が発句のように独立して鑑賞されることはない。

 碧梧桐、井泉水、山頭火、放哉などの句が成り立つのは、彼らの生き方が踏まえられているからだろう。読み手が句に触れたとき、彼らの姿がイメージされるから惹かれるのだと思う。謂わば、彼らが季語の代わりになっているのである。

 世人に知られぬ者が為す際は、前書や詞書をつけなければ俳味を見出すのは困難なように思われる。
 自由律俳句には、そんな難しさを感じている。そんなことを思っていると、いつか雨が降り出していた。

   無季俳句為さんとするも雷起こる

 お前は作るな、とでも言うように、ちょうど雷鳴が轟いた。やはり、私には有季定型の方が合っているようである。

(二〇二〇年 六月七日 日曜 陰暦 閏四月十六日 芒種の節気 蟷螂生 【かまきりしょうず】候)

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