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「母とはピンクである」という、その違和感を探ってみた。

今日の「時々、コラム」は先日の夏季休業中に起こった実体験から考えた、デザインのあり方について。

くらしアトリエの夏休み中のことなのですが、朝、目が覚めたら強烈なめまいに襲われ、起きられなくなったことがありました。

めまい自体は過去にも何度か経験があり、そういう時にはたいてい理由がある(私の場合カフェインの摂り過ぎ)のである意味安心なのですが、今回は思い当たる節がなく、しかも過去にないくらいのしんどさで、大変でした。

無理に起き上がると貧血状態になり、同時に大量の汗が…。
結局夕方には回復したのですが、「あれは何だったんだ…」という感じです。

そのとき頭に浮かんだのが「もしかしてこれはいわゆる更年期障害というやつでは」ということでした。

そんなことを話していたら、オットがドラッグストアで「命の母」を買ってきてくれました。おお、更年期障害と言えば「命の母」!CMの力ってすごい。

ということでさっそく箱を開けたら、出てきたのはピンクの瓶。

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ピンクの蓋を開けると見えたのはピンクの錠剤。

…そうか、ここまでピンクなのか、と、違う意味でしんどくなったのです。


以前こちらのコラムで、「母親=ピンク」というイメージの固定化について書いたことがあるのですが、その時はいわゆる自治体の子育てポータルサイトについて自分の思うところを綴ったものでした。

が、今回「命の母」で再び強烈なピンクの洗礼を浴びることになり、「…更年期障害を考える年齢になっても、ピンクの呪いは続いていたということか…!」と、うぬぬ、という気持ちになったのです。

「女性とはピンクである」「母親とはピンクである」という神話はもはや呪いと言ってもいいのではないかと個人的には思っていて、そりゃあピンクが好きな人もいるし、確かにやわらかで女性的なイメージはあるのだろうけど、女だからピンクでしょ、というのはやっぱり変だし、常に抗って…と言うと大げさだけど、疑問を持ちながら生きてきました。

例えば子育て系のポータルサイトであれば、私は水色とかブルーグレーとか、そういう落ち着いた色合いのほうが、子育てをしている方にやさしい色だと思うし、言い過ぎかもしれないけど「母親とはこうあるべき」というイメージを押し付けられている気にさえなってしまうのです。

もちろん、こんなことに引っ掛かって悶々と考える人はごく一部で、大部分の人は「母=ピンク」を好意的に受け入れているんだろうし、だからこそ「命の母」がピンク色、というのは間違いない選択だと思う。

誤解を生みたくないので強調しますが、「命の母」はピンクで大正解なのです(フォローするわけではないですが、別のスタッフは、婦人科で「命の母はいい薬だよ」と言われたそうです)。

でも、「更年期までピンクかよ…」という脱力感は、私にけっこうなダメージを与えたのでした。


思えば子どもを出産した頃も、「〇〇だからこうあるべき」みたいな固定観念の押し付けに対して、言語化できないけど違和感を感じていました。私は双子を出産したのですが、「双子なら韻を踏んだ名前にするんでしょ」(マナカナみたいに)と言われたり(私はまったくその気がなく、ちっとも韻を踏んでいない名前をつけましたが)、「双子ちゃんだとおそろいコーデができて楽しそうだね」と言われたり。

ニコイチじゃなくて、それぞれ1人の子どもなんだけどな~、という違和感は、育児に没頭していた自分に、ちくちくと刺さっていたように思います。


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また数年前、デザイン関係の職種の男性に「女性だけで活動しているのだから、ママさんたちを相手にする仕事をとってきたらいいんじゃないか、そこが強みなんだから」的なことを言われたことがありました。

その「ママさん」という言葉の陰にひそむ「イメージの固定化」に、後から何だかふつふつと苛立ちが募ったのを覚えています。
「ママさんたち」ってなんだよ…。おそらくその人には「母親」がのぺーっとした画一的なイメージでしかとらえられていなかったのだと思うのですが、「母親」という言葉で括られた人間には無数のグラデーションがあるはずです。

私たちは「ピンクに抗いたい」「でも声は上げない」という人たち側なんだけどな…(これは理解してもらえるだけの説明をすることができなかったことが原因で、ちゃんと論理的に説明すべきだったと反省しています)。


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決して自分の考えが正しいというのではなく、それぞれに思うことがあり、違って当たり前。だからこそ、「こういう風に思う人間もいるんだよ」という、少数派の声もあるということを前提に、物事を語るべきだと思ったのでした。

デザインのことを考えるとき、いつもそうやって、大部分の人たちがスルーする部分に引っ掛かっては「何じゃこれは」「もうちょっとこうしたらいいのに」と考えているので、はたから見たら「面倒な人」なのですが、先日そんな私にはちょっと嬉しい取り組みが行われていました。

大王製紙さんが、大人用紙パンツ「アテント」のパッケージについて議論しましょう、そして新しいデザインを一緒に考えてみませんか、というプロジェクトを立ち上げられていました。

このことはSNSで見かけて知っていたのですが、あらためてその経緯や過程を読んでみて、すごく腑に落ちる部分がありました。

大人用の紙パンツには「高齢者介護」というイメージの固定化がまずあります。そして、「介護=大変、かわいそう」というイメージの固定化も、現実としてある。

だから、お店で赤ちゃんの紙おむつを買っている人を見ても何とも思わないけれど、大人用の紙パンツを買っている人には、どうしても「大変そうだな」という悲壮感が漂ってしまう。

本当はその社会の目が間違っていて、そこを正していくことが必要なんだと思いますが、それはまた違う役割があると思うのでいったん置いておいて、ここでは「紙パンツを買うことをあまり人に見られたくない。あるいは、ちょっと引け目がある。堂々と買えるように、パッケージを改善してほしい」という声があったというのが、まず私が嬉しかったこと。

また、おそらく長丁場になるであろう紙パンツ生活だから、「前向きになれるデザインであってほしい」という声、逆に「高齢者でも活動的であれ!という強迫観念を感じる」という声、あるいは「パッケージのまま置いておいても家のインテリアの邪魔をしないようなデザインがいい」といったさまざまな声が上がり、それを議論の場にあげてくれたことも、すごく誠実でいいな、と思いました。

「紙パンツはこうあるべき」という固定イメージを一度取っ払い、自由に、でもちゃんと機能性やオリジナリティはしっかりと伝わるように、という「デザインの基本」を、開かれた場所で議論する、というのが、企業の姿勢としてすごくいいな、と思ったのです。

上記のリンクには、既存紙パンツのパッケージについてどういう声が上がったのか、それを踏まえてどんなパッケージを考えたのか、さらにそれに対する意見と、プロジェクトの内容が綴られていてとても興味深いです。

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他にもいろいろな商品で、今までちょっと引っかかってたんだけど…というデザインを、いまあらためて議論のテーブルに乗せて考えよう、という動きが起こっているように思います。

既存のデザインのままでいい人、少し金額が高くなっても○○なパッケージのものを買いたい、という人、いろいろだと思いますが、今まで見えていなかった声が少しずつ表面化している、というのは私たちにとってすごく嬉しいこと。

そして、消費者は多様な選択肢の中から「機能性」や「値段」だけじゃなく、「デザイン」でも選ぶことができる、というのがいいと思うんですよね。

今までの当たり前を一度疑って、身の回りにある「風景の一部になっている」デザインについて、立ち止まって考えてみる。


そして、違和感を探ってみる。

その繰り返しによって、少しずつ生きやすい(引っかかることが少ない)世界になっているんじゃないか、と、とてもわくわくしています。


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