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「私的なわたし」からの訴え

「投稿するか、めんどくせぇ」

ひさしぶりにnoteの更新をしたいと最近ずっと思っていた。そんな私が重い腰を上げてnoteを開き「投稿」のボタンを押したときの独り言である。

意味がわからない。めんどうならやらなければいいじゃんと言われそうだが、しょうがない。たとえ面倒だとしても、自発的にやりたいことだってあるのだ。

そもそもなぜnoteの更新をしたいのかというと、日々いろいろと思うことや考えていることがあって、それをある程度まとまった文章にして残しておきたいと思ったからだ。手帳に書いておくことも考えたけど、手帳は自分の体調や勉強の記録、プライベートで具体的な出来事の感想を書いているので、もう少し普遍的な、というか、公に出しておいてもいいような文章はnoteに書こうかな、と思った。

小さな手帳にペンでたくさん文字を書くのって面倒だし、言葉にしていくうちに、なんだか違うなあと思ったとしても、書き直すのも面倒になって、結局うまく文章にできないなら、それはわたしのやりたいことではなくなってしまう気もするし。

だから、面倒だけどやりたいことをやるために、こうして文章を書き始めたわけである。ああ、面倒くさい。

 最近考えていることは、生活する中でいろんな「わたし」がいるなあということ。大きく分けて3つの「わたし」がいる。「仕事のわたし」「市民としてのわたし」「私的なわたし」だ。

「仕事のわたし」は、仕事をする私のことで、週5日勤務しているので時間的な割合としては多くを占めている。
「市民としてのわたし」は、今住んでいるまちの市民として、いくつかの活動に参加しているときの私で、主に休日の私がこれにあたる。
「私的なわたし」というのは変な表現に聞こえるかもしれないけれど、私が私として、自発的にやりたいと思っていることをやる私、と言えば伝わるだろうか。「私的なわたし」は、仕事中や休日に手放しているというわけではないけれど「仕事の」でも「市民としての」でもない「わたし」のことで、いまこの文章を書いている「わたし」こそ、「私的なわたし」なんだと思う。

その「わたし」が、最近ちょっと窮屈な思いをしているのかもしれない。「仕事」と「市民」をやって「わたし」をやれてねぇぞ、みたいな。

年末が近づいてきている。来年の身の振り方を考えないとな、とか、どういうふうにやりたいことをやるかを具体的にちゃんと決めたいな、と思うのは、窮屈な思いをしている「私的なわたし」の、解放してくれ!という訴えなのかもしれない。

とはいえ来月も、「仕事」と「市民」の予定がたくさんある。
こうして文章を書くことが「私的なわたし」の声に耳を傾けることにつながるなら、面倒でも時間を取って、じっくり向き合いたい。「わたし」からの訴えを私が無視してしまっては、誰も聞いてくれる人がいなくなってしまうから。


くらむぼん

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