【サクリファイス】4話

 幕が閉じきった時、ダミアンが僕だけにしか聞こえない様にポツリと洩らした。
 ……君が男である事が、恨めしいよ……
 何故か、脳裏にソバッカスが蘇った。籠の中、燃え盛る炎、途絶える事のない断末魔の悲鳴。母の狂った嗤い声に交えて、彼女は死ぬ間際、一言だけ叫んだ。
 ……貴方こそ悪魔なのに……
 あの時の、光景だった。
 僕は急に吐き気を催し、急いで外へと飛び出した。
 僕の身体は、僕自身にしかわからない“人の焼ける匂い”に包まれていた。耳の奥で流れ始めたのは、聖女の祈りの言葉。忘れはしない。言葉が消えた時、焼けただれた彼女の身体から頭がガクンと項垂れた。
 そこまでの記憶が一瞬にして頭の中を駆け巡り、僕は意識を失った。
 その後の事は、殆ど覚えていない。ただ、気がついたとき、僕はいつもの黴臭いベッドの上に寝かされていた。
 月の影法師は、約一ヶ月程度公演された。正しくは、一ヶ月程度しか公演出来なかったのだが、この話はまた後ほど詳しく話すとしよう。
 初公演以降、何の変哲もない普段と変わらぬ毎日を過ごしていたのだが、初公演日から半月程して、隣町がペストで全滅したとの噂を聞いた。大盛況だった劇場も日に日にお客が減り始め、終いにはペスト恐ろしさに外出する者さえ減り始めた。
 当時のペスト大流行では最高潮の時で、パリでは毎日八百人もの人々が命を落としていった。ペストにかかるとリンパ節腫脹、体重減少、意識混濁、皮下出血、喀血、下痢、眼の炎症、脱水症状、皮膚潰瘍といった症状が現れる。目立つ皮膚潰瘍と皮下出血から別名“黒死病”とも呼ばれた。
 当時の医者は、浣腸や嘔吐剤によって腐敗したガスや食べ物を体内から取り除く治療や、消毒の意味を持つ薔薇の香水でこまめに口を濯がせるなどした。そして、症状が酷くなると、身体をメスで切り裂き、血液を減らす瀉血治療まで行なわれた。
 だが、多くは助からず、無駄な治療に終わっていった。皆我先にと逃げた。ペストに倒れた者達は、パンとワインを枕元に誰からも見捨てられた。
 悪魔そのものであるペストが、隣町まで来ている。早くも金のある者は、町から離れ始めていた。
 更にその半月程して、突然一人の男の子が新しく入団した。ロラン・エイメ。見るからに僕より十歳近くも若いであろう少年であった。強い癖の金髪が特徴で、髪とよく似た金色の眼をした、女の子のような可愛らしい容姿の持ち主であった。彼に家はなく、両親もおらず、道端で眠っていたところを団長に拾われたらしい。口は利けるが、あまり話をしようとはしなかった。常に何かに怯えているようだった。だが、構わず団長はこの少年、ロランを僕に代わるトップスターにすると張り切っていた。
「何か、泣ける話がいい。そうだ、シャルルがロランを虐める話がいい。そして、ダミアンがロランを救い出し、シャルルは処刑されるんだ」
 そんな、筋書きまで創り出す始末。ロランに金貨の臭いを感じた団長の暴走は止まらず、サガスピエールですら団長の無理で定まりの無い脚本作りに頭を悩ます程だった。
 一度だけ、僕はロランと話をしたことがある。ある日、僕の部屋にロランの方から訪ねてきたのだ。
「シャルルさん。とても綺麗ですね。いつも、思っていました」
 ロランは訪ねてくるや否や、突然こんなことを言い出すから驚いた。
「ありがとう。どうしたの?」
 僕が問うと、ロランはぼろぼろと涙を溢し始めた。再び僕は驚き、取り敢えずロランを部屋に入れた。
「驚いた? こんなに、黴臭くて、汚くて」
 ロランを椅子に座らせ、僕はベッドに腰掛けた。ロランは止まらない涙を何度も何度も拭いながら、僕の部屋を見渡し、「いえ……」と小さく呟いた。
 僕はロランに、どうしたのかと再び問うた。
「……ボクは、お芝居なんて出来ない……。シャルルさんの代わりに、なんて無理だ」
 ロランは、泣きながら小さな声で答えた。
「僕だって、そうだよ」
 僕は、ロランに言った。
「僕だって、好きで芝居をしている訳じゃない。人形なんだよ、僕は。だから、団長が言うままに演じなきゃならない」
 ロランは、少しの間呆気に取られた様な顔で僕を見つめていたが、目を逸らすと少しずつ自分のことを話し始めた。
「ボクは、ここからずっと遠くの村に住んでいたのだけれど、ペストが流行って逃げました。でも、次の村でもペストが流行って……。ボクは、逃げて逃げて、逃げる中で大切な人を沢山見捨てて来ました。……ボクは……悪魔なんです」
 ……貴方こそ悪魔なのに……
 ソバッカスの言葉が、蘇る。
「何故、そう思う?」
 ロランは言った。
「沢山の死を見てきたから」
 と。
「ペストの人間を、見たことがありますか? ペストマスクを着けた医者、ボクには死神にしか見えなかった。だけど、ペストの蔓延した村を、街を見るうちに思ったんです。ここは地獄だ。地獄の中で走り回る自分は……僕が地獄の中を走り回れるのは悪魔だからかも知れないって」
 僕は、ロランの話を聞きながら思い出していた。母やソバッカスが連れて行かれる前でも、僕の周りでは魔女狩りが行われていた。炎の中に投げ込まれる者、水の中に沈められる者、皮を剥がれる者。
 子供の頃、僕を無理矢理広場に連れて行った母が見せたかったモノは、聖女の処刑ではなく地獄という現実世界だったのかも知れない。だとしたら、きっと僕の処刑はあの日から始まり、そして未だ終わってはいない。
「……僕だって、悪魔だ。沢山の死から目を背けて来たけど、地獄の中にいたのはロランだけじゃない」
 誰だって
「生き残った奴は悪魔だ」
 全てが、地獄なんだから。
 ロランが、再び涙を溢し始めた。
「だけど、ロランは悪魔じゃない。僕も、悪魔じゃない。ただ、弱くて、弱いくせに生きる事には運が良いだけだ」
 ロランが、問う。
「ボクは、生きていてもいいんですか?」
 僕は、答えた。
「それは、僕には解らないよ」
 きっと、ロランはずっと苦しかったのだ。沢山の人が死に、居場所を追われ、死の恐怖から逃げ回るうちに、生きることに執着しながらも、生きる事への自信を失い始めていたんだと思う。
「でも、生きたいと思ったら、生きるしかないんだよ」
 ロランは、何も言わずに頷いた。
「ボクは、まだ死にたくないんです。だって、死ぬのは怖いから」
 正直な、感情だ。
「僕だって、そうだよ」
 僕がそう言うと、ロランは初めて笑って見せた。
「シャルルさんの事を、聞いてもいいですか?」
 ロランは、少し戸惑ったような素振りを見せたが、何かを決意したような真剣な眼差しで、僕に質問をした。
「シャルルさんが人形って、何故ですか?」
 隠してもいずれ解る事だから。僕は、ロランに身の上話を始めた。
「ロラン。君から、僕はどう見える? 男に見える? 女に見える?」
「シャルルさんは、男の人ですよね? でも、最初はずっと女の人だと思っていました」
 ロランだけじゃない。初めて僕を見た人間が、僕を男だと思うことは先ず無い。そして、誰もが女のくせに男装なんかしやがって、聖女の真似かと罵るのだ。
「僕の母さんは、綺麗な人だったんだよ。僕は、母さんの容姿をそのまま受け継いだ。だけど僕は男だから、娼婦にもなれなかったし、男に媚びることも出来なかった。だから母さんは、僕を劇団に売ってお金に変えたんだよ」
 ロランの顔が、歪んだ。
「シャルルさんが、もし女の人だったとしても……」
「そう、僕は生まれた時から人形なんだ」
 ロランは、言葉に詰まったまま、暫く顔を伏せていた。そして、涙で濡れた顔を再び僕に向けた。
「シャルルさんは、人形なんかじゃない。人形なんかより、ずっと綺麗だ」
 と、言ってくれた。
 僕は、笑った。失礼だと知りながら、止められなかった。嬉しくて笑った。きょとんとするロランを涙でぼやける視界で捉えながら、お腹が痛くなるまで笑った。
「……ごめんね。嬉しくて」
 ロランも笑った。

 ……ボクは……悪魔なんです。

 ロランの言葉の本当の意味を知ったのは、この日から三日後の事であった。

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