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新潟を離れ、帰ってきて魅力を再発見。愛着が沸く、心地良い場所【燕市・塚田晶子さん】

シンチャオ。こんにちは。
私はベトナム出身のそろばんです。日本語を勉強して8年になります。日本語は非常に難しいので、記事を書くことは大きな挑戦でした。修士課程の勉強で2022年9月に新潟に参りました。新潟はいい場所ですが冬は寒いので、私にとってはもうひとつチャレンジだと思っています。
皆さんにとって新潟はどんな場所でしょうか?新潟の香りについて考えたことはありますか?今回は、一菱金属株式会社で働く塚田晶子さんの話を通じて、新潟での生活と仕事について一緒に考えてみましょう。

塚田晶子さんプロフィール
新潟市出身
18歳のとき、東京の美術大学に進学し、その後約10年間東京で暮らした後、新潟に帰郷。一菱金属の社員として働く。

【一菱金属株式会社】
一菱金属株式会社は、1977年に設立。ステンレス素材を中心とした金属加工メーカーです。創業当初は洋食器の磨き専門事業から器物の製造へと転身し、現在では業務用厨房用品、家庭用日用品を製造しています。
同社は、金属の切削、成形、加工、および溶接といったプロセスを用いて、顧客の仕様に合ったカスタムメイドの部品や製品を提供しています。品質管理や技術開発にも力を入れ、高品質な金属製品を製造するための努力を行っています。

塚田晶子さんのこと

ーー簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか。

出身は新潟市で、大学は東京での美大に進むために関東に10年ぐらい住みました。大学は美大ですので、卒業後は作家になる友人が多く、私も特に就職はしないまま、定まらない暮らしをしていましたね。30歳くらいまでずっとフリーターをしながら作家を目指していました。

30歳になり、その生活に疑問を感じ、作家になるのは無理なんじゃないかと思い、新潟に戻る事を考えました。就職はどうしようと考え、Uターンを支援する機関に登録し、物を作るのが好きだったら、ものづくりが盛んな、燕三条で働くのがいいと勧められたことがきっかけで今の会社を選びました。

ーー大学の時はどんな風に暮らしていましたか。

初めて新潟を出て東京に行った時はスピードも人の多さも違うし、息苦しいと感じました。都内で友達と待ち合わせした時は、自分の居場所が、わからないぐらいです。最初はすぐ新潟に帰ろうとずっと思っていました。
大学では学年によりますが、一日の半分午前か午後を制作に当て、その他は英語や生物学、美術史などの教養科目を勉強するという形になります。大学一年の時、友達を増やそうと思い、山登りサークルに参加しましたが、雰囲気が合わずに一年ほどで辞めてしまいました。
クラスメートには基礎が出来る人が多くて、個性が強くて、大人びて見えました。作品のコンセフトや、自分は何を伝えたいか、また、何を描くか、すでに決めていた人も多かったです。私は彫刻のことをあまり理解せずに彫刻科に入ってしまい、サークルも続かず、わざわざ東京に出てきたけれど、自分には何が出来るのか…と迷うことが多かったです。

塚田晶子さんにとって新潟はどんな場所?

ーー新潟のどんなところが好きですか。

春夏秋冬の変化がはっきりわかるところです。東京は、冬は天気もいいし暖かく、それはよかったですが、毎日同じような風景を見でいると感じます。冬でも晴れているのはいいですが、時節の感覚は無く、今は何月なのか分からなくなります。新潟は冬になると、雪が降ることで街に雰囲気が一変します。
または、季節によって、空気の匂いがしますので、新潟の空気の匂いが好きです。さらに、燕の人々は繋がりが強く、会社の中で人々はお互い助け合ったりして、協力的な人が多いと感じます。私は展示会を行うとき、会社や友達がたくさん来てくれ、人の温かさをとても感じました。

ーーどうして東京に行ったんですか。

18歳までは新潟がつまらないと思っていました。東京には面白いお店や、新潟では見れない映画、魅力的な本を扱う面白い本屋さんなどを、テレビや雑誌で見て、東京に行ってみたいと切実に思いました。東京に行ってみたら、あまりにも環境が違い、少し引きこもってしまいました。
だんだん慣れてくると、東京でしか見られない劇場や映画は素晴らしく、どこに行くにも便利でした。

ーー新潟に帰るきっかけを教えてください。

20代後半になり、自分は作家には向いていないと思いましたし、体はいつまでも元気ではないと気付きました。後、一番大きかったのは、それまで一緒に過ごした友達が地元に帰って、作家になったり、作家ではなくても、海外で自分の居場所を見つけたり、家族を築いたりする中、私だけが10年前と何も変わらずに無為に過ごしていると気づき始めました。私は環境の変化に適応することが苦手で自ら考えを変えない限り、何も変わらないのではないと思いました。
それに、東京はいつでもキラキラ輝いて、夜中でも人が多いですが、自分の居場所が見つからず、落ち着かない感じがしていました。

新潟に戻ると決心して、2年間ぐらい準備しましたが、自分は本当に不安でいっぱいでした。親も友達なども住む場所、仕事など色々心配してくれました。

働くことに関して

ーー働くことに関するお考えを教えてください。就職活動に取り組んでいる人に何かメッセージがありますか。

やりたいことがはっきりしている場合はいいと思いますが、私みたいに自分のやりたいことが見つからなかったら、周りの人や教師、先輩に相談するのは大事だと思います。色々な意見の中でピッタリの考えに行きつきます。また、就職応援団の存在も大切です。私の場合はUターンを考えた際に職業支援の担当の方が私に合いそうな業種や職場を調べてくれ、就活を色々手助けしてくれました。
さらに、新潟が好きなら、色々な仕事があると思います。
Uターンを決めても新潟でどんな仕事ができるか想像もできず、新潟での生活をなかなか思い描くことができなかったのですが、「新潟県UIターンコンシェルジュ」という職業紹介サービスを通じて色んな業種があることを知り、生き方の選択肢も広がり、前向きに帰る準備ができました。
東京での出張面接を受けた際に、直接相談にのってもらえたのはとても心強かったのを覚えています。資格も正社員経験もないわたしに何ができるかなど担当の方が親身に話を聞いてくださりました。そこで、物作りが好きなら、燕三条が合うのではないかと紹介していただき、一菱金属にたどり着きました。この街で働くようになり、今まで見えてなかった新潟の一面を知れて良かったです。

ーー今の会社のよかったところや、合わなかったことはなんですか。

最初はわからないことだらけでした。燕の街の言葉が聞き取れなかったり、道具の名前もわからなかったり、自社ブランドでもある「conte」の由来にもあるコンテナも馴染みがなく、工場の雰囲気に慣れるまでに時間がかかりました。しかし、みなさんがちょっとずつ休憩時間にわからない言葉や工場のことを聞くと優しく教えてくれました。

ーー10年前の自分にあったら、どんなことを言いたいですか。

10年前は学生時代〜社会人になりたての頃ですね。在学中に所属していた彫刻科も、卒業して勤めた造園業も、周りを見ながら協力し合ってみんなで一つの作業をするような環境でした。個人行動が好きなわたしにとって最初はなかなか慣れず苦労しました。今自然と休憩時間に皆と雑談できるのは、その時の経験があったからです。苦手なことでも経験した色々なことが今、すごく役に立っています。学生時代サークルをすぐに辞めたように雰囲気が合わなかったら辞めるのも大事ですし、逆に続けたらその分何か得るものはあると思います。その時その時にどの選択肢を選んでも、後悔しないよう工夫しながら生きて来た自分にありがとうと言いたいです。

ーー男性中心が多い職場では、どんなアドバイスがありますか。

分からないことがあったら、すぐ聞いて欲しいです。やっぱり男性の職場ですので、聞きづらいということがあるかもしれません。私の場合は、一人の女性の同僚がいますので、その人が色々手伝ってくれました。

ーー理想的な職場はどんなところですか?

小さな疑問を聞ける職場は理想だと思います。

筆者の思ったこと

去年の9月から新潟に住んでいます。新潟は住みやすく、地元の人々もとても温かいです。ただし、夏は非常に暑く、冬は寒いし、天気も不安定です。晶子さんの話を聞いて、新潟の季節の変化が魅力の一因であることを理解しました。毎日異なる新潟の顔が楽しいことの一つだと思います。そして、晶子さんの話の中で新潟の匂いが出てきましたが、皆さんは新潟はどんな匂いがすると思いますか。私は新潟といえば稲刈りの匂いを思い出します。
私の地元も稲作が盛んなので、収穫の時は稲刈りの匂いがします。新潟はなんだか故郷と近い感じがします。

一菱金属株式会社HP

塚田晶子さんの作品活動

書いた人:そろばん
ベトナム出身。大学院進学を契機に新潟に来た。現在大学院二年生で、2024年9月卒業予定。新潟人をはじめ、日本人が大好き。

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