短文の練習②~映画評『セッション』~
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※以下、中盤までの具体的なストーリーの記述や台詞の引用あり
「お前は存在価値のカケラもないオカマクビチルのクズ野郎だ」
映画『セッション』の主人公・アンドリュー・ニーマンは、ジャズドラマーになる夢を抱いてアメリカ屈指の音楽大学に入学した大学生だ。
物語は暗闇の中、一人でドラム叩く彼のもとを、指導者テレンス・フレッチャーが訪れるところから始まる。
口数少なく指示を出し、意図の見えない反応を示して去っていくフレッチャーの姿は、まだ無垢なニーマンと視聴者にほのかな期待を抱かせる。
「この人は”わかる人”だ」と。
その後、どこか腑抜けた空気漂う一般クラスの講義に参加するニーマンを、突如扉を蹴り開く勢いで入ってきたフレッチャーが連れ出すところで、我々とニーマンの「始まり」に向かう期待は花開いていく。
だが、フレッチャーの指導は苛烈を極めた、非人道的なものであった。
冒頭のセリフは、クラスで初めて演奏をするニーマンに対して、フレッチャーが投げた言葉のほんの一節である。
断言していい。
これは2時間弱のスクリーンで彼が放つ暴力の数々の、まさにジャブに過ぎない挨拶のような一撃なのだ。
息を吸う間もなくフレッチャーの罵詈雑言はニーマンに、我々に、直截的に降って来る。
この映画の最も観客を引き込む点と評価するところに、指導者フレッチャーのあまりに度を過ぎた指導態度がある。
彼の暴に纏わりつく執念めいた狂気、それを表現するフレッチャー役のJ・K・シモンズの演技に、我々は終始心を動かされるのだ。
それは、主人公であるニーマンが乗り越えるべき試練として見るばかりではない。
人は誰しも怖いもの見たさがある。
フレッチャーの持つ暴の力は、身も凍り付くようなスリラーや凄惨でサディズムに満ちたスプラッターシーンを眺めるに等しいほどに極まっている。
我々観客は、ニーマンがいったい次はどんな仕打ちを受けるのだろうかと、恐る恐る瞬きを繰り返していくのである。
そしてそれは異常なまでの生々しさを持って、時に我々のトラウマを刺激する形で絶妙に表現されてくるのだ。
ある生徒が楽譜を紛失してしまい、記憶の疾患を理由に自分は楽譜がないとステージに立てない、とフレッチャーに説くシーンがある。
「ご存じでしょう。記憶の問題があって、目で譜面を見ないと」
「目で見ないと?」
「ええ、疾患があって…」
「”疾患”だって?なんだお前は医者か?いいから黙って演奏しろ」
この切り返しのスピード感、専門的な言葉を使ったことを論う狡猾さ、大鉈を振り払うが如くそこまでの会話を亡きものとする命令。
体験のある身としては、これが”本物”だと言うに一切の不足がない。
フレッチャーを、それを演じるJ・K・シモンズという人物を、現実でもそういう人物なのだと誤って記憶するほどに、立体的な暴力がスクリーン越しの我々を打ちのめすのである。
だが、この映画の面白さはフレッチャーの異質性に傾いていない。
ターゲットという名の主人公であるニーマンもまた、実はフレッチャーと同じ側の人間なのだと匂わせて来るのである。
当初フレッチャーに罵声を投げつけられ、小鹿のように震えた青年は、やがて内なる狂気を呼び覚まされていく。
最も象徴的なのは、中盤の血の演奏会だ。
文字通りスティックを持つ手が血に滲むほどのしごきに耐えたニーマンは、ようやく憧れの主奏者のポジションを手に入れた。
だが、時計の針は既に午前2時を指し、解散際のフレッチャーの
「明日はダネレンの会場に午後5時集合。マンハッタンから最低でも2時間は見ておくように。」
という言葉が不吉な風を吹かせる。
翌日、事もあろうか、ニーマンの乗るバスは会場へ向かう最中に故障して立ち往生してしまった。
レンタカーを駆って会場へ向かうニーマンだが、遅れて着く彼を待っていたのは別の人間が奏者となった現実だった。
厳しい言葉を浴びせるフレッチャーに、スティックさえ車に置き忘れてきたニーマンが反論する術は本来ない。
だが、周囲を寄せ付けずに「そこは僕のポジションだ」と主張するニーマン(フレッチャー顔負けだ)は「fuckin'」の言葉と共に幕の上がる10分後までにはスティックを取って戻ると言い残し、その場を後にする。
時間は明らかに間に合わない。
それでもメンバーとの電話ですぐに着くと言い張り、焦るニーマンの車は呆気なくトラックに衝突し、反転してしまうのだ…
車から這いずり出たニーマンは、衝突したトラックの運転手の言葉に耳を傾けず、流血する身体を引きずって会場へ向かう。
既にスタンバイする代理の奏者を押しのけてステージに立つが、ニーマンの身体は、フレッチャーの突き付けた「1つでもミスを犯したら…」という要求に叶うことはできない。
血と涙にまみれたニーマンは怒号を上げてフレッチャーに飛び掛かるが、それはこの瞬間を共にする登場人物と我々、すべての意思が終焉を察知する瞬間である。
あの気弱な青年は既に失われ、狂った獣の慟哭だけが響く。
ニーマンはステージを下ろされ、フレッチャーも兼ねてからの悪評が祟って指揮を執る立場を追われた。
未来ある若者は、傷の癒えることなく街を歩く。
鈍色をした瞳に入り込んで来たのは、
LIVE JAZZ
SPECIAL GUEST
TERENCE FLETCHER
と記された酒場の看板だった。
誘われるのはオアシスか、それとも底の知れない沼か。
疲れ果てた身体と心にジャズの音色とグラスの酒が流れ込む時、あの熱戦は現実だったのか夢だったのかと問いかけてくる。
次なる問いは、我々がさらにその先を望むのか、というものだ。
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