Determination, Void, and Love(前)

 長い長い間、深くて暗い海の底に沈んでいたかのようだった。その水底から、あぶくを撒き散らしながら、私の意識はゆっくりと浮かび上がって、そして目が覚めた。
 びゅぅん。
 見開いた瞳のすぐ前を自動車が走り抜けている。たぶん、自動車だ。ほとんどタイヤの辺りしか見えなかった。排気ガスの臭い。ずっと向こうにまでアスファルトの地面が広がっている。目線がとても低い。ほとんど地面とともにある。
 それで、ああ、私はいま大地に横たわっているんだと気がついた。けれど立ち上がろうとすると体に力が入らない。助けを呼ぼうとしても声が出ない。口を開こうとしてもタールか何かで固められているみたいにダメだった。
 ざっざか、ざっざか。
 スニーカー、ハイヒール、ローファー、ブーツ。道行く人々は私に目もくれない。地面にぶっ倒れている誰かを気にもとめないなんて酷い人たちだ。
 誰か、助けてくれ!
 もういちど助けを呼ぼうとして、やっぱりダメだった。
 寝起きではっきりとしない頭の中が絶望と困惑に飲み込まれていく。ああ、くそ、なんだというんだ? いったい昨日は何があった?
 私は記憶を呼び起こそうとする。うまくいかない。意識の足跡をたどっていくとついさっき目覚めたところでぷつりと切れてしまう。VHSのテープが傷のある部分で再生を止めてしまうみたいに。
 酔っていたのか? 記憶を失うくらいに。
 思い当たる節、というか、考えられるものといえばそのくらいだ。しかし記憶をなくすというのは、あくまで酔っていた間のという話だ。今の私にはすっかり生まれてきてから今日までの記憶がなかった。今何歳くらいで、なんの仕事をしていて、いやそもそも学生なのか? 自分が男か女なのか? そんなことさえ忘れてしまうなんて、アルコールの力ではとても不可能だろう。もっと恐ろしい、フィクションの世界に登場するような記憶抹消薬でないと無理なはずだ。
 そもそもいま、自分が人間なのだろうかという問いにさえ自身を持って答えられそうにない。いやむしろ、私は人間ではないのじゃないか。
 そんな考えが脳裏をよぎる。
 実は私は猫か何かで、車に轢かれるなどして、いまこうして路上で死にかけているのではないのか。
 それならば納得がいく。道行く人々が私を気にもとめなくても不思議ではない。ただの猫の死体だ。かわいそうだけれど、かわいそうなだけだから。
 しかし自分が猫であるという確証もまた、ない。そもそもこうして思考している言語は人間のものだ。猫が人間の言葉で物事を考えたりするだろうか。
 手足の感覚はない。頭だけだ宙に浮かんでいるみたいだった。頼れそうなものは目と耳、そして思考だけ。だがその数少ない根拠、思考が私は人間であるということを裏付けているのだ。遠い幼い日の記憶はなくても、文字通り人並みの知識というやつがあった。煙草の銘柄、日本の観光名所、空模様につけられた無数の名前。もし私が猫だとしたら、相当に知的な猫だったことだろう。
 だが結局私はなにものなんだろう? その点についてはわからないままだ。少なくとも猫ではなさそうだけれど、それは推論が一つ潰えただけで、結論を導き出すには非力な情報だ。
 びゅおん、びゅおおん。ざっざかざっざか。
 行き交う自動車。止めどない。人々の歩みも尽きることがない。それらは重要な手がかりとなるのだろうか?
 そして、少なくとも人々は日本人のようだ。聞こえてくる話し声も日本語だ。そして私も日本語で思考している。どこか遠い国でドラッグを摂取して記憶のすべてを失った、そんなことではないのだろう。
 行き交う車の向こうには、ずっとアスファルトが続いている気がしたが、よく見ると海があった。時折にきらりと海面が反射するのが目に眩しい。空もよく晴れている。まだ昼間なのだろうか。明け方や、夜ではなさそうだ。ほとんど霞むような水平線。
 つまりここは、日本の海岸線のどこかなのだろう。絞り込むにはあまりにも莫大な候補がそこにはある。
 結局のところ、目や耳で捉えられる情報では、自分を絞り込むにはあまり役に立たないということかも知れなかった。
 私は誰?
 思考が区切れると心細さが湧き上がってくる。目が覚めてからずっと、なにもかもわからないなんて初めてだ。そもそも、なにもかもが初めてになってしまっていた。
 ならそのかわりにもっともっと深い部分、思考の深い部分に沈んでいこうと心に決める。私にできることはそれくらいしかなさそうだ。目で見えるものも、耳で聞こえるものも私が誰かなんてことは保証してくれないのなら、私は私を志向するしかないのだろう。
 昔の記憶。なにもない。語彙の量から考えても私は幼い子供じゃなさそうではある。芍薬、牡丹、菊の花。たぶん義務教育くらいは終えているはずだ。
 紫陽花、山茶花、無花果、蒲公英。思考の花畑に咲き誇る色とりどり。しかしその花畑に私はいない。花弁が散る。芳香がふぅっと消える。アスファルトの路面。再び思考の瀬に追いやられたのだと気が付き、私は息を止め、再びそこへと潜る。
 大切な人の顔。なにも思い出せない。
 配偶者はいたのだろうか?
 恋をしたことは?
 初めてキスをかわした日のことを忘れるものなのだろうか?
 初めてセックスをした相手は誰なんだ?
 そもそも私には自分の性別さえわからない。あるいは同性愛者だったのかも知れない。否定する材料はなにもない、肯定する材料と同じくらいに。
 せめて自分の左手を見ることができれば、その薬指に煌めくものがあれば、少しくらいはわかったのだけど。
 それでも、全くもって意味のない思考ではなかった。
 恋のことを考えると胸の底が妙に痛いのだ。その理由は少しもわからないけれど、そういう感覚が何を意味しているかの知識はある。今のこの状況に関係がある? いかにもそれはありえそうなことに思える。
 だけどやっぱり、私を見出す手がかりにはなってくれない。
 あるいは、趣味のこと。
 自分の興味はどこにある?
 記憶はないけれど、知識の偏りというものがあるはずだ。例えば、戦闘機のことをたくさん知っていれば、私は航空産業の関係者か戦闘機マニアだということになるはずだろう。そういうことがヒントになるかも知れない。
 それはとてもいい考えのように思えたけれど、実際のところ、深く深く思考の奥へと潜る必要に迫られた。
 なんの取っ掛かりもなしに知識を引っ張り出そうとしても、そもそもそんなことはできやしないのだから。広辞苑のてきとうなページを開いてその片っ端から単語を読み上げていくようなことはとても簡単そうに思えるけれど、人間の思考能力はそういう行為とはとても相性が悪いらしい。少なくとも意識的にはできそうもない。もっと無意識の流れを掴む必要がある。
 例えば、記憶を遡ろうとして手にとったもの。花の香り。一面の白詰草。
 思い出すことというと花の名ばかりだ。だとすれば、それに意味があるのだろう。
 たとえ広辞苑のてきとうなページを開くというやつができなくても、百科事典の目録から同じ分類のページを開いていくなんてのはよくできた。
 鈴蘭、水仙、女郎花、霞草、百日紅。再び花畑が蘇る。そして、一つだけ気がついたことがあった。そこには私がいないのではなくて、あたりまえのこと、私はそこに立っているのだった。今、こうして自分の姿が見えないように、花畑の中で私は自分自身を顧みない。
 私は蝶だったのだろうか。
 猫よりも、人よりも、私には私自身のまだ見ぬ姿が蝶であるのを想像することが容易かった。胡蝶之夢と呼ばれる故事があるが、その体験が突然にぞっとするような信憑性をもって私の中でたち現れてくる。ある人が蝶になった夢を見たが、目が覚めてからも果たして自分が人間であるのか、蝶が見ている夢であるのかを言い切る自信がなかったという話だ。
 私は夢を見ている蝶なのだろうか?
 私は、私は少なくとも今は人間だ。猫でないことを自明のものとできるくらいには、たとえその思念と取り巻く世界しかなかったとしても、私は人間だと言い切れる。
 けれど人間である前に何者であったのか、その記憶は欠落している。知識は記憶を裏付けてはくれない。ただ、知識がある以上は、それを身につけるために費やされた時間があったはずだろうという遠慮がちな進言をもたらすだけだ。
 もちろん、蝶が夢を見たところで人間のような知識が突然に備わるものだとは思えない。常識的な範疇で考えれば、そうだ。
 だが、私の知識が全て蝶の羽ばたきの奏でる音楽に過ぎないということを否定する材料は相変わらずなかった。これはひどく私の自信を喪失させる問題だ。
 日本の首都、東京。アメリカの首都、ニューヨーク……いや、ワシントンか。ただのよくある間違いだ。しかしこんなよくある間違いをするのは人間だけにきまっている。そう思いたい。
 けれど、そもそも日本やアメリカという奴らは本当に存在しているのかという証明までは、今の私にはできそうにない。それはなにも国家という抽象的な枠組みの実存を問おうというのでもない。山茶花も、白詰草も、戦闘機も、広辞苑もそうだ、私はそれを見たことがない。これまでの人生の中で一度も。ただそういう物があるはずだということを知っているに過ぎない。
 それが蝶の夢の中で生成された幻であると言う無責任な提案をはね除けることができない。
 ざっざか。ざっざか。ぶぉおん。
 例外は、ただこの目に映るものだけだ。歩く人々。アスファルトの路面。車。霞む水平線。それだけが、少なくとも記憶に埋没した幻の知識ではないと言い切ることができる。あまりにも頼りない戦力だった。
 そう、それらは戦力だ。これは胡蝶に対抗するためのか細い戦力である。つまるところ、私は、自分が胡蝶の夢であるというのは受け入れがたい事実だと考えているわけだ。
 なにも悪いことではなさそうにも思える。どうせ失うものはなにもない。失うような私を私は持っていない。
 ならばどうして私はその結末を拒むのだろう? もし私が胡蝶であるならば、私が何者であるかという問題には解決がつくというのに。やましい人間であるという事実を告げられるくらいなら美しい胡蝶であったというほうがよほど良さそうだというのに。
 なればこそ、記憶を持たない私が、どうしてか今に固執しようとするのだろうか。それは自分でも不思議なことだった。次の瞬間には不意に目が覚めて、白詰草の花畑をひらひらと舞う胡蝶が私を喰らっても構わないではないか。
 いいやそれでは駄目だという声。私が何者であったとしても、それは、今の私から演繹された私でなくてはならないのだろう。果実の皮を向いた先に仙人掌が聳えていたら不自然であるように、私の薄皮一枚向いた先は私でなくてはならないのだろう。きっと、そうなのだろう。
 気がつけばもう花畑は見えなくなっていた。胡蝶は飛び去り、私を見限ったのだろうということがはっきりとわかった。
 すると不思議なもので、今度は急にそれが恐ろしくなってきた。
 たしかに私は私を守りきったのだが、相変わらず私はあまりにも頼りないものでしかない。先程まではあれ程に強い決意に満ちていた私の思考は、また堂々巡りの袋小路に自分がいることを思い出そうとしていた。天から垂らされた蜘蛛の糸、いや、繭の生糸はなくなってしまったのだ。私が手折ったのだ。
 私はたしかに私だ。私はたしかに私であろうとしている。けれど私というものは薄暗がりに揺らめく行灯の灯よりも頼りなく、吹けば消えて無くなりそうなほどに儚い。
 せめて。私は思う。せめて両手足があれば。私の体が自由に動けば、私は私を深く固く強くすることができるのだけれど。
 ざっざか。ざっざか。道行く人々。
 なぜ彼らには手足があって、当たり前のように道を進めるというのに、私にはそれがないのだろう? それがあれば私は、さっきまでのように胡蝶に呑まれそうになることもなかったはずだ。せめて自分の体を一瞥でもできれば、それで私は自分を確かめられる。両の足で歩いていければ、私は家に帰りつける。
 けれど私にはなにもない。相変わらず。
 そのことはもはや、動かしようがないことのようだった。
 もう目覚めてから随分と時間が立ったのに感覚が回復するような気配はない。一時的な麻痺のようなものではないのだろう。そもそも、本当に四肢が麻痺して私がここに横たわっているのだとしたら、やはり人々が一顧だにしないというのは不自然なのだろう。
 私は今、ここにこうしてある。在るはずだ。本当に在るのだろうか?
 それは無の誘惑だ。けれど胡蝶のようなやり方とは違う。私が守り通そうとしている私は本当のところ、空虚なものでしかないのではないか? 銀のナイフのように冷ややかな問いかけを私に投げかけてくる。そしてその先にはなにもない。
 悪意だけだ。
 自らに取り込もうとした胡蝶と違って、虚無は悪意をもって私を誘惑する。胡蝶は存在だけを奪い去るが、虚無は私というものそのものを消し去ろうとしているのだ。
 そして最も厄介なのは、この虚無は、紛れもなく私の内側から顔を覗かせているということだろう。私が今の状況を脱しない限りこの虚無はついて回るということだ。打ち払うことはできない。
 手を握りしめ、足を前に出し、私は確かに私としてあったのだと証明して見せることでしか、この虚無は打ち払えないのだ。
 もちろんそうする術はない。今の私にできそうなことといえば、虚無に屈しないよう抗することだけ。つまり私が私であると証明はできなくとも、私は私でありたいという決意を抱くことだ。胡蝶を打破した時のように。
 そう考えてみれば、もし私が胡蝶からの誘惑にさらされていなかったら、瞬く間に虚無の抱擁を受けていたかもしれない。あるいは、あの蝶は、私がそうならないよう現れた恩寵だったのだろうか。例えその試練を乗り越えられなければ、私は私を失うことになっていたとしても、虚無に突き落とされるよりはマシだろうから。慈悲深き胡蝶。だがもういない。
 ざっざか。ざっざか。ざっざか。ぶぉん。
 それから私は長い時間を過ごした。
 私の知識や思念に潜っては、そこに偏在する埋没品の偏りを調べた。一つ一つ丁寧に分類していき、そこから私を少しずつ形作っていく地道な作業だ。
 これは酷く辛い時間だった。
 胡蝶はなく、人々は私のことなど目もくれない。
 そしてその間も虚無は囁き続ける。私の組み上げた私の喉元に手をかけて、その醜い様を罵るのだ。
 けして耳を傾けてはいけないとわかってはいるけれど、時に屈しそうになることもあった。そもそも私が屈しそうになる頃合いを見計らって奴は私に囁いてくるのだ。その時の虚無は諦めの姿をとって、これまでの態度が嘘だったみたいに私に優しく近づいてくる。本当にその姿は美しくて、優しくて、まだ見たこともない母親のイメージにさえ似通っていた。だから、最も強い決意を抱いていないと行けないのは、最も決意の弱まる時間帯なんだ。
 嬉しいこともあった。
 私にもついに手ができた。右手だけだが、しかし大きな進歩だった。
 その概ねは、膨大な書名の海からすくい上げたページたちでできている。私の知識には妙に本の名前が多かったし、その内容も覚えていた。聞きかじったような知識じゃない。きっと私が読んだんだ。
 そして、それは確かに私を形作る重要な部分であったようで、右手となったというわけだ。
 まだ虚無に抗するにはあまりにも弱々しいけれど、すっかり疲れ切って、ヤツの呼ぶ声が魅力的に聞こえてきた時に、この右手のことを思うと私は決意で満たされるのだった。(続)

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