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読書記録:高橋繁行『土葬の村』

古い記憶、おそらく10歳前後のことだっただろう。私の家族はその頃、祖母の家に間借りして暮らしていた。祖母の家といっても祖母自身もその家には引っ越したばかりで、誰も縁もゆかりも無い、知らない土地だった。祖母は家庭菜園に憧れて庭の広い平屋の一軒家を探しあてて、長年暮らした街のとなり町ではあるけれども、田んぼと畑に囲まれた静かな田舎に越してきたのだった。

その日は隣家のおばさんが訪ねてきていた。隣家との間には田んぼとビニールハウスと畑があり、ちょっと散歩するには程よい距離だったのか、それとも田舎特有のおせっかい、都会の人間からすれば監視ともとれるだろう、そのおばさんはしょっちゅう訪ねてきてはあれこれ近隣の噂話をしつつお茶をしていく。天気の良い日は縁側に腰掛けて、夏や冬は居間に上がりこむこともあった。子どもの私からすると、煩わしい時間であった。

あんたは知らないだろうけど、と枕詞をつけて、おばさんは祖母にこの土地のアレコレを伝授しようとする。そのほとんどを、私は記憶に留めていない。くだらないご近所のイザコザ、もしくはゴシップ。そばで聞いていても面白くはなかった。ただひとつ、その日の話題は覚えていた。

「あの牛小屋の向こう側は◯◯町になるでしょ、あそこは土葬なのよ」

まだ子どもだった私には、ドソウが何を指すのかわからなかった。しかしおばさんの言い方が、侮蔑を含んだ、何か見下すような抑揚であることを感じ取ったのは覚えている。

おばさんが帰ってから祖母にドソウとは何かを尋ねると、祖母は土葬の辞書的な説明をしてくれた。祖母からすると、土葬には何の印象も無かったのかもしれない。おばさんのその言い方に引っかかるところがあったからか、牛小屋から臭いが漂って来る日にはときどき土葬のことを思い出した。しかしそのイメージは棺桶を土に埋める、という程度のものでしかなく、ぼんやりとしていた。

本屋でこの本をみかけたときに、その日のことがフラッシュバックした。高橋繁行 著『土葬の村』(講談社現代新書)。記憶とは不思議なものだ。読むしかないだろう。

昨年読んだ五来重氏の『日本人の死生観』(講談社学術文庫)からひとつ踏み込んで、葬法の現在について学べる内容であった。現存する各地の土葬の方法に限らず、離島の風葬や近代的な火葬場が出来る以前の火葬についての記述もあり、なかなかのボリューム感だった。

思えば、文化の多様なこの島国において、葬法が「お葬式のマナーまとめサイト」で学べるほど画一的なものであるはずがない。その土地で良しとされていることが、隣の土地では縁起の悪いことであっても驚きはしないのに、そのことをこれまで意識したことがなかった。資本主義による均一化の波は、こういうところまで入り込んでいるということだろう。みんなが同じ方法のほうが「コスパ」が良いという類の。

しかし一方で、大変失礼ながら、土葬はかなり面倒くさそうに思う。この本を読むまで遺体を座らせて入れる座棺があるということすら知らなかったが、遺体を座らせることがいかに大変であるかは何度も記述があり、想像するだけで気が滅入る。その土地々々のこまごまとしたしきたりを読むにつけ、文化として衰退していくのも頷ける。

先祖と同じお墓に入りたいという気持ちは、私にはあまりない。もし今急に死んでしまったなら、夫の先祖代々の墓に入れてもらうのかもしれないが、すでに入られている方々の誰とも面識がないので不安である。コテコテの広島弁についていける気がしない。死後の世界がお墓の所在とは切り離されていることを願うばかりだ。だからといって、私の実家のほうのお墓に入りたいとも思わない。散骨はそれもそれで面倒らしいし、まぁ手配してくれるであろう夫にとって楽な方法でお願いしたい。

そんな心持ちであるので、先祖と同じように土葬してもらいたいと願う人々に共感することは難しい。ただもし自分の両親や祖父母がそのように願っているとすれば叶えたいと思うことは理解できるし、土葬が受け継がれてきた原動力もそういう感情なのだろうと思う。

土に還りたいという気持ちも私には皆無であるので(虫が苦手なので彼らに肉体の分解を委ねるのには抵抗感がある)、私は火葬一択だ。念入りに焼いてほしいものである。しかし信心深いキリスト教徒やイスラム教徒だったり、生まれた土地が土葬が当たり前だったなら、自ずと土葬を望んだのかもしれないと思う。先祖がそうしてきたのなら私もそうするべきという考えは、葬法に限らず思考の根本のほうにあるものだろう。

隣家のおばさんの土葬に対するあのトーンは、勝手な想像ではあるが、火葬のほうが近代的であるというあの土地の共通の価値観だったのだろうか。そういえば火葬場は車で15分程のところにあったので、この本に紹介されていた「火葬場が遠い為、土葬の文化が残った」という例には当てはまらない。いやむしろ、土葬があの時期まで続いていたのだとすればかなり珍しい土地だったのかもしれない。あれから20年経っているので、もう変わってしまったかもしれないが。

各地の土葬の手順を知るにつけ、それに必要なマンパワーの多さは村やご近所の繋がりを前提としていることがわかる。その人数を集める為の繋がりを持っているひとが今現在どれほどいるだろうとも思う。最近は家族葬など小規模なお葬式がよく宣伝されている。故人ひとりに対する葬式に参加する人数がそもそも少なくなってきているのだろう。こうして文化的な多様性は失われていき、やがて「マナーまとめサイト」の方法に収束していくのだろうか。

それが悪いこととも思わないし、逆らえるものでもないだろう。いや、種々のジャンルでは多様性の叫ばれる昨今、もしかすると葬法にもその流れがきて、今後は「死んだらどうしてほしいか?」のバリエーションも増えていくかもしれない。先祖がどうしてきたかではなく、私はこうしてほしいのだという価値観で土葬を選択した人もこの本で紹介されている。死生観の自由化、個人主義の時代。

もちろん火葬も普遍的ではないのだろうし、私が100歳まで生きるとしたら死ぬまでまだ60年以上あるので「土葬のほうがエコなのでは?」なんていう方針転換があり得ないとも言えない。そんな想像をして震える。隣家のおばさんのような人に「あのひと、今どき火葬にしてほしいって言ってるらしいのよ」なんて噂される未来もあるのかしらん。

土葬についての貴重な記録は読み応えがあり、記憶の片隅にあったモヤモヤを理解するのにも有意義な読書だった。民俗学系の読書はこれからも続けていきたい。

今回も読んでいただきありがとうございました!

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