思想がアップデートされる
Web2.0の勃興により、人間の思想は「情報に対する探求度」ではなく「情報の取捨選択」によりつくられるようになってきたと私は考える。
元来、人間は新聞・テレビなどの限られたメディアから情報を得て、それをそのまま思想として吸収することが多かった。
メディアから提供される情報——つまり思想を検証したり、あるいは否定したりするためには、「情報の根源をこの目で観察する」ことや「自ら調査を行う」など、非常に難しい挑戦を強いられることとなる。
つまり、大衆と異なる思想を持つためには情報に関する高い探求度が求められるのだ。
これが、従来型の「情報に対する探求度」でつくられる思想である。
しかしながら、World Wide Webの発明、特にWeb2.0の勃興はそれを大きく変貌させた。
インターネットの情報の海には、従来のメディアが報じるような情報だけでなく、なかなか大衆に向けては報じにくいデリケートな話題、はたまた目を疑いたくなるような陰謀論まで何でも揃っている。
そのような充実した情報群をすべて思想として吸収することは現実的ではない。
そこで、思想を形作るために「情報の取捨選択」を行う必要が発生したのである。
Web2.0では画一的でない様々な視点からの情報が比較的平等に与えられるから、人間が大衆と異なる思想を持つことは容易になった。
そして次第に大衆思想という存在自体が霧散していくことになる。
ただ、「情報の取捨選択」は決して容易なことではない。
人間が情報を必要とするのは、地球や社会を俯瞰的に観察してすべての出来事をこの目で確かめることができないことに由来する。
だから、提供者——それはジャーナリストでも友達でもなんでもいい——から得た情報を理性を持って処理することで、この世界を間接的に理解しようとするのだ。
しかし、間接的な情報の、その本当の真偽を確かめることは不可能である。
これは生物の物理的特性に由来する避けられない事実であり、悲しむべき「情報」の最大の特徴でもあると私は考える。⁽¹
今までは、このような事実に目を瞑り、マスメディアによる限られた情報——その真偽を確かめる事はもちろんできない——を「鵜呑みにする努力」をすることで、情報のその悲しむべき特徴を考慮すること無く人間は生きることができた。
だから現在のように、ただでさえ真偽を確かめられない情報が画一的でなく多種多様に与えられるようになると、当然人間は混乱し辟易する。
考えのない、ニュートラルな人間が増えるのも頷ける。
このような現状において、思想を持つということは相当の勇気がいることだろう。
なぜなら、思想を持つとは「ある情報を鵜呑みにすること」に他ならないのだから。
Web2.0により発生した「情報の取捨選択」によりつくられる思想——これをより詳しく説明するなら、「理性による、鵜呑みにする情報の選択」により作られる思想とでも言おうか。
今こそ、自らの理性を育むときだ。
⁽¹ なぜなら、情報とは「何かを観測する存在」があって初めて成立するものであるからだ。観測する存在とはつまり「生物」であり、生物はいつも主観的である。こういうことは、西垣 通 著「基礎情報学—生命から社会へ—」(NTT出版)に詳しく書いてあるので後々noteにまとめたい。
あとがき
深夜の閑にふと思ったこと、それを文章に起こしてみた。
僕はこだわりが強いのかわからないけれど、伝えたいことはもう頭の中にあるのに、いつまで経っても文章が定まらないことがある。
文章を彫琢することを煎じ詰めようとすればキリがないから、ある程度の自制が必要なのだなと感じる今日この頃だ。
ちなみに見出しの落書きは、情報過多で四面楚歌になっているくらげを書いたつもり。
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