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夜明け前という背徳感。

夜遊びしている人間は、人生を楽しんでいるというか、背徳感があるというか、何か後ろめたさを感じたくなることのイメージが常に付きまとう。一方、朝早く起き物事に着手している人はいかにも健全で真っ当な人生を送っているのだという偏見がある。

一つ言いたい。もっと早起きすることの背徳感を知ってほしい。皆が寝静まっている間、淡々とすべきことをするという狡猾さ。それはある種、許されざるフライングのようなものだろう。

なんなら、残業や徹夜よりもタチが悪い。夜遅くまでコミットメント高く打ち込んでいるひとは、文字通り心身共に削って結果を残そうとしている。一方、朝早く行動している人は、十分に取れた睡眠による明晰な頭でもってして、最小の努力でアウトプットをしている。自分でいうのもアレだがもっと見習ってほしい。

夜明けには心地いい孤独の時間が流れている

夜明け前の心地よさは半端ではない。店は静まり返っているし、閑散とした都市を眺めるとSF小説の世界を感じる。これほど心地いい時間はないだろう。正直、世の中には違和感を感じるつながりや人間関係が数多く存在する。

相互フォロー、友だち、彼氏・彼女、夫婦など。およそ、名前の付く関係だ。もちろんこれらの関係が不用だなどというほど厭世的に生きているわけではないが、ことさら強調するような関係でもないと思っている。

言葉によって縛り付けなければ続かない関係はどうかと思う。

フォローを外したからと言って嫌いなわけでも興味ないわけでもない。友だちでないからといって、一緒に遊ばないわけでもない。夫婦であることが唯一無二の関係であることの証明にはならない。無論法的、財産的には証明されるのだが。

SNSの発達によってことさら「つながり」だの「絆」だの「愛」だの物の時代から心の時代なんて叫ばれるようになったと思う。もちろん主観も入っている。だが、そのようなものを強調しなければ人間関係が維持できなくなるという奇妙な時代にもなっているのではないか。

婚姻届を提出し、結婚式を挙げ、もろもろの書類を提出し、儀礼的な手続きを済ませ、晴れてその関係が認められる。家族や、親戚、社会、諸手続き、莫大な費用など数多くの縛りを経なければ維持できない関係にはたして価値はあるのだろうか、と思う。

冬の寒い夜明けにはホットのカフェラテと、ロングコートがぴったり

少し、着飾りすぎるくらいの服を着て、ほろ苦いカフェラテにあったまりながら気を引き締める。寒いとはいえ、この寒さが実は好きだったりもする。人肌恋しくなるのと孤独を堪能していたい狭間を今歩いているんだ。夜明けはもうすぐそこだ。

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