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よんてんごPさんへの返答。あるいは生きることの難しさは「かけ算」であるという重みについて。

スケジュール的に切羽詰まっている。恐ろしいことに既にお盆が終わり、8月も間もなく終わろうとしている。お盆までにめどを立てます、と言った原稿はほとんど進んでいない。引き伸ばすのもそろそろ限界だ。

したがって、あまり金にならないnoteで記事を書いている場合でもないのだが、どうしても言及したかった記事を見てしまった。こういうものが気になったら一度吐き出さないと前に進みにくいのがADHDの性だ。

さて、言及したい記事とはこれだ。この記事を読む前に必ず目を通してほしい。でないと、理解できないだろうからだ。

さて、読み終えただろうか。この記事を読んでどのような気持ちになっただろうか。結構な割合の人が「この子をどうすればいいのだろうか」というモヤモヤを感じていると思う。もちろん、私もモヤモヤを感じてるけども、これは「障害」というものが如何に理解してもらうのが難しいか、という問いを改めて突きつけられたからだ。

記事では、この9歳の女児の問題を以下のように説明している。

①彼女は前述の通り、小1レベルの「足し算引き算」あるいは「ひらがな」から学習進度が止まっている

②それは単純に学習単元の理解が遅れているレベルの話ではなく
「小1で学んでおくべき、根本的な部分を取り逃している」

③具体的に言うと彼女は「問題を解く」ことそのものを理解していない、
問題文を読み、尋ねられている内容を把握し、何をすれば良いか理解する、という行為そのものが「分かっていない」

④なので「たし算をしましょう」とか「花子さんの気持ちを答えましょう」という問題文を読んでも、何をしろと言われているかが分からず、
・適当に数字を言って、正解と言われるまで当てるゲーム
・喜怒哀楽のどれかを言って、正解と言われるまで当てるゲーム
だと思っている

⑤そのため「問題文をよく読んで?」とか「問題に何て書かれていた?」と質問されても、意味が分からない。
本人からしたら「(好きな数字を言ったり、喜怒哀楽を当てるだけのものなのに)何で問題文を読む必要があるの??」と思っているとだから、よんてんごPさんの問い

私の文章を読んでくれる人は障害者当事者だったり、障害に関する支援をする人が多いからピンとくると思うが、これは学習障害(LD)や軽度知的障害者に広く見られる問題だ。特に一桁のたし算引き算が出来ないのは数字を認識する能力が根本的に欠けているLDではごく普通のことだ。

よんてんごPさんは、この子と遭遇した衝撃をこう語っている。

もしかするとですが、高機能自閉症とか発達障害と名前がついた子は、まだそれに応じた治療、というか対応を取れるから良いのかもしれない。
そうではなく、ただひたすらに「生まれ落ちた環境」によって、完全に進む方向が決定付けられ、そこから這い上がれない"普通の子"というのがいる、
というのが僕にとっては今なおショックな現実として、ずーっと心に留まっているのです。

つまり、「障害がなくて家庭環境の問題でこうなった」と受け止ているけど、読む限りでは「生まれ落ちた環境」にも問題があり、同時になにかしらの「障害」を見過ごされた子供だったのだろう。

もし、彼女に障害があるとしたら、なにかしらの診断がついて、特別支援学校や類する教育を受けているに違いない、と思う人も多いだろうし、よんてんごPさんもおそらくそう判断したのかもしれない。

だけど、実際には残念ながら障害の判定を受けていないが明らかに学習や生活に「困難」を覚えている子供は決して絵空事ではない。

実際、目の前でスマホをいじっている妻は繰り上がり・繰り下がりがわからない。なにか現物がない場合は指折り数えるが20以上の数(足の指も含んで考える)の概念が薄い。アナログ時計も読めないし、分数に至ってはそれが何なのかわからない。文章題も読めない。あきらかに記事にある9歳の女の子と重なるところがある。

しかし、妻は高校を卒業して介護福祉士の国家資格にも合格した。ちょっと前まではかなりしんどいながらも介護福祉士やデザインの仕事をしていたし、障害の診断をもらったもの20歳を超えてからだ。このように「診断がない」けども異様に勉強をする能力が抜け落ちていて、それでいて仕事をしている人も実在するのだ。

有名な統計に「発達障害児の割合は6.5%」というものがあるけど、この数字は診断書の有無だけでなく、先生から見て明らかに障害があるだろう、という児童生徒をカウントしたものだ。しかも、この数字は普通学級だけ調査したもので、特別支援学校に通っていたり、普通学校にいても通級学級に通っているような子はカウントされていない。

つまり、この6.5%とは「あきらかに障害があるけど専門的な支援も受けていない子」をかなり含んだ数字だ。よんてんごPさんが出会った女の子もその6.5%に含まれる子だった可能性はかなり高いのではないだろうか。

このような話は特別支援教育をちょっとでもかじっていたら誰でもできる「常識」の範囲内だけども、障害について特に興味がない人にとっては想定外のことであるようだ。

しかし、同時に忘れてはいけないことは、彼女の家庭環境にもまた大きな問題があるだろう、ということだ。もし、彼女の家庭環境がまともであったら障害を乗り越えて勉強する方法があったかもしれないし、早期になんらかの障害や問題が発見されて支援が受けられたかもしれない。そうすれば9歳で媚を覚えるような悲しい事態は避けられたかもしれない。(いみじくも9歳の壁の話もあるのだが今回は割愛する)

私の周りにはいわゆる発達書害があったり軽度知的障害があったり精神障害がある人は何人もいる。(というか私自身が聴覚障害で躁うつ病でADHDだ)そういう方々から話を聞いて分類してみると、生き難さは「かけ算」なのだ、と思うことがある。

たとえば、私は聴覚障害とADHDで躁うつ病だけども、この組み合わせはまず仕事で詰む。聴覚障害に関する支援をしてもらってもADHDの問題で躓くし、逆にADHDが向く、という営業とか外勤の仕事は出来ないだろう。電話が苦手だからだ。

私の場合、本当に幸いながらなんとか文章力で食っていく道筋が出来たけど、ちょっと間違えたら仕事も結婚も出来てなかった。こういう危うさは複数の障害があることで障害が一つだけの場合より何倍も危うくなる。

そして、私の周りの障害者の場合だけど、障害の重さもそうだが、むしろ家族や職場の理解が「生き難さ」を大きく左右しているようだ。障害者が経済的・肉体的に自立することは健常者よりも難しく、家出をしたところでどこにも行き場がない。逆に障害があっても家族の理解と支援で仕事や趣味に活動が出来ている、という人もいる。

要は「生き難さ」が重なれば重なるほど、人生の可能性は狭まっていく。もちろん、どんな状況でもいい人生になる可能性は0になるわけではないけど、複数のマイノリティ性があると10倍も100倍も生きていくことに困難が増していくのだろう。

最後に、よんてんごPさんの問いに対して返答したい。

ごめんなさいね、じゃあどうしたらいいか、っていう解決策についても考えて書こうとしたんですが、どうしてもいい案が浮かばなかったので、こういう問題提起だけして終わりになるnoteになってしまいました。
是非とも、皆さんの思う解決策、を教えてほしいと思います。

この問題はいくつものかけ算があるんだけど、「障害」の曖昧さ、難しさが社会全体に広まることも一つの解決の糸口だ。障害への理解がもっと広まれば、こういう子供が支援につながる可能性は上がっていくし、実際、特別支援教育を受けることもは年々増えている。

そのために私ができるのは、こういう記事を書いて「障害ってこういう問題があるんだよ」と発信していくくらいだ。ネットの片隅にちょっとした足跡を残すだけかもしれないけれど、この足跡をたどって、もう一歩先に進む人が現れたらとても嬉しく思う。

最後の最後に。この記事を書くきっかけを作ってくれたよんてんごPさんに深く感謝いたします。あなたの問い、とてもズシンと来ました。勇気を出して書いてくれて、本当にありがとうございました!

【2019/08/22 追記1】 様々なご意見をありがとうございます。ヘタレなのでビクビクしながら一つずつ読ませていただいております。「媚」の表現については少しあとで釈明したいかと思います。

【2019/08/22 追記2】 現在の私の勤務先である障害者専用クラウドソーシングサービス「サニーバンク」をよろしければ覗いて行ってくださいませ。

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