見出し画像

Back to the late 90’s 第5話 KUO誕生

大学近くのDARA DARAは小さなバーで、確か1Fにカウンター席のみがあり、2Fにターンテーブルがあって、そこで大学のHIPHOP DJやラッパー達が集まっていた。メンバーは、ヒラをはじめ初コンタクトとなるゴンタ君、マーボー(←REGGAEサウンド『JAMMYS』のMA-BOさんではありません、念のため)、そしてREGGAEサウンド『YELLOW CHOICE』のBOOM君など、色んなメンバーが集まって、私の目の前でパフォーマンスを始めてくれたのだ!

マーボー(写真左)と筆者。

確か福島県出身だったマーボーの東北訛りラップに、ゴンタ君のDJパフォーマンスが始まった。スクラッチがとてもカッコ良く、途中からゴンタ君もマイクを握りラップを始めて、フリースタイル大会が始まった。私の記憶ならば、当時のHIPHOPチャートを賑わした2人組のラップ・デュオCRU『Just Another Case』のインストを使って皆がラップを始めた。小さなスペースのDARA DARAで、所狭しとHIPHOPビートが鳴り響いたのだ!

目の前で次々に見せてくれるパフォーマンスにすっかり魅了され私。「わあ、カッコええやん!俺もこれがやりたい!DJやりたい!」と迷いは無かった。

かつてDARA DARAがあった建物。
今はスパイス・カレーの店舗だ。
2Fにターンテーブルがあり、ここでパフォーマンスが演じられたのが、今でも忘れられない。

そして、今までコツコツとアルバイトで貯めたお小遣いを下ろし、アメリカ村のビッグ・ステップにあった三木楽器で向かった。その時ゴンタ君が一緒についてきてくれ、ターンテーブル、ミキサー、ヘッドフォン、カートリッジと、ひと通り一緒に見てくれた。そして一式購入後に、わざわざ我が家まで来てくれて細かいセッティングまで、やってくれたのだ。


アナログ・レコードは高校1年から買い始めていたので、セッティング後は、すぐにDJする事ができた。もちろん最初はミックスもスクラッチも、何も出来なかったがターンテーブルを弄っていく間に、色々とわかってきた。


当時のDJ事情としては、師弟関係を結ぶと言うディスコDJ世代の名残も残ってはいたが、だいぶ薄れてきていた時代でもあった。私自身も当初は、ゴンタ君の自宅へ伺い、手解きを受けたりもしたが、最終的にゴンタ君からは「DJのパフォーマンスは教えるものではない。見て盗み自分のものにしなきゃダメだ!」と手厳しく言われた。なので、わからなかったり出来なかったりすると、DJの教則ビデオやクラブに行ってパフォーマンスしているDJのプレイを観たり、輸入レコード店で購入したミックス・テープを聴いたりして、独学で研究した。もちろん、今のようにDJスクールもなく、スクラッチ・ライヴやUSBが存在する遥か前の時代だ。


それに当時は、DJの敷居が高くて「DJ始めたから、すぐクラブでDJさせてくれ!」なんて言える時代じゃなかった。かく言う私も1997年の冬頃にターンテーブルを買ったが、現場ですぐにDJなんてさせて貰えずで、当初はオタクDJだった。ゴンタ君からOKサインを貰って、ようやくパーティーで一緒にDJさせて貰えるのに約1年近く時間を要してしまった。まあ、その前にMCとして、ひと足先にデビューしたのだか(笑)。


そして、私のステージ・ネームの『KUO』もこの頃から名乗り出した。当初は、自分の本名をそのままつけようと思ったが、ステージに立つ時ときは芸名で、それ以外は本名でいこうと考えていた。まあ、今となれば、とうでもいい話だけど。


上記に書いたように師弟関係を結んでいたのならば、師匠のレコードバック持ちは当たり前。有名な話では、まだHIPHOPフィールドでDJ活動をしていた須永辰緒さんのレコードバックを、これまたREGGAE DEEJAYとして活動する前にラッパーとして活躍していたBOY KENさんがやっていたのは、よく知られた話だ。


師弟関係を結ばなかった私だが、あえて「師匠は誰か?」と問われたら、ゴンタ君と答えるだろう。本当に色々とお世話になった。感謝の気持ちは、未だに変わらず持ち続けている。

つづく……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?