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Back to the late 90‘s 序章 近くて遠い90年代後半

1990年代が終わって気づけば24年目の今年。私自身10代から20代へと駆け登った大人の階段は、見るもの聞くもの感じるもの、そのどれもが刺激的で、多感な私に様々な影響を与えてくれた。ちょうど時期で言えば90年代も末期に差し掛かる頃だ。



関西の、とあるローカル街に生まれ、そこで育ち、やがて大阪の大学に通うようになって、音楽活動を始めるようになり、頻繁に通うようになったミナミや梅田を中心に、京都河原町や神戸三宮は、色んな思い出が詰まった街だ。ただ気づけば「10年ひと昔」ならぬ「20年ふた昔」以上も経ってしまった今日この頃。当然ながら記憶も年々風化されていく。


自分の記憶だけでは、心もとなくなったときに、当時について話を聞こうとするも、皆それなりに年齢を重ねたせいか記憶が曖昧で、食い違いも多い。それに今では音信不通になってしまった人達も多々いて、知るよしもない。


だったらネットで、その頃の関西について調べてみるが、これが驚くほどに情報が少ない。となると、当時の関西ローカル誌に頼るしかないが、それらは、これまでに処分してしまって、手元には残っていない。


『FRONT(のちのBlast)』や『ブラック・ミュージック・リビュー(のちのBMR)』、『レゲエ・マガジン』と言った音楽雑誌は処分せずに残しておいたので、当時の記憶を思い出させてくれるが、やはり事細かい事になれば、関西発のローカル誌となるだろう。

『FRONT』誌
『レゲエ・マガジン』

当時の関西ローカルのカルチャーを知る上で、真っ先に思い浮かんだのが『カジカジ』だ。2020年6月号で残念ながら廃刊となった『カジカジ』は1994年創刊以来、関西のカルチャーを届けてきてくれた。


「よし当時の『カジカジ』を入手しよう」と思ったものの、これが意外なほどに見つからない。足を運ぶのが可能な距離のブックオフや古本市場をはじめヤフオクやメルカリを検索するも、2000年代以降のものであれば、ちょくちょく見かけるが、90年代となると一気に少なくなる。

「ついこないだのようで、もう20年以上も前なんだよねぇ、仕方ないかあ」と思いつつも、やはり腑に落ちない気持ちになる。そして気持ちを奮い立たせて「たかが20年少し前じゃないか!それに俺も、まだまだ若者(ーのつもり......苦笑)だぞ!」と自分自身に言い聞かすのだ(笑)。

何故、私が今更ながら、その当時を探究しようとしているのか?オヤジの単なる懐古主義ならば、好き勝手にあーだ、こーだと言って結論として「昔は良かった」と締め括ればいいだろう。もちろん懐古主義と言う側面もなきにしもあらずだが、関西のストリート・カルチャーが、この時期まだまだアンダーグラウンドで、且つ独自のカラーを放っていたのだ。今日あるカルチャーの礎となるのが、90年代後半の“まさにこの時期”だったと私自身思うからだ。


1996年の七夕に開催された日本初の大型HIPHOPイベント『さんぴんCAMP』の翌97年4月に関西HIPHOPの不朽の金字塔、今は亡きDJ KENSAW氏による『Owl Nite』がリリースされたちょうど同時期に大学へ入学した私。本格的に夜遊びを覚えて音楽(≒HIPHOP)業界へ足を踏み入れたのも、ちょうどこの頃だ。

1997年5月号の『FRONT』誌。
KENSAWさんの貴重なインタビューが載っている。

私が居た(現在も居るが……)関西のHIPHOPシーンは上記の『Owl Nite』がリリースされKENSAW氏率いるLOW DAMAGEを中心に盛り上がってきた。もちろんこれは揺るぎない事実で異論はないだろう。ただ20年以上経過した現在、90年代後半の関西のHIPHOPシーンを語る時「KENSAW氏率いるLOW DAMAGEを中心に盛り上がっていた」の一節だけで語られてしまうのは、その当時の様々な現場に足を運んでいた自分にとって、あまりに寂しく感じてしまう。東京のシーン程ではないにせよ、90年代後半にも、今では名前がすっかり聞かなくなってしまったDJやラッパー、ダンサー達が夜な夜なパーティーを行い、LOW DAMAGEに続けとばかり色々と活動していたのだ。


そんな、今は名前を見なくなったアーティスト(←自分が近況を知らないだけかも知れないが)や、そこにいた様々な人達を、せめて私が覚えている範囲内だけでも、そのネタと自分が書こうとする意欲が続く限り、今後この場で機会を設けて、不定期ながら伝えていこうと思っている。そしてある程度溜まったら、いつか一冊の本にしてみたい!


ただ、私が残念な事に関西のシーンについて根幹となるキーパーソンではなく、ただの枝葉の立ち位置で現在まできてしまった。最近でこそ、気づけば26年目のDJ歴と言う事で、下の世代から「レジェンド」などと言われたりもするが、内心は大変恐れ多いと思っている。


シーンついて指揮を取って総括できる立ち位置ではないし、相応しいポジションではない。それは、自分自身が一番よくわかっている。誰からも認められるDJではなかったし、名を残す程の人気や知名度があった訳ではない。知る人ぞ知る存在程度だ。野球で言えばクリーンナップではなく、せいぜい7、8番打者。相撲で言えば、たまに、まぐれで小結には上がるも、日頃は幕内を行ったりきたりしているのが、やっとぐらいの実力だ。関西のローカル・シーンでこの立ち位置なのだから、それが全国だと、野球では二軍以下、相撲では十両以下と言う事になる。客観的に見ても相違ないだろう。


けれども、その立ち位置だからこそ、見られたこと、聞けたこと、感じたことを完全に自分の脳みそから風化し切ってしまう前に少しでも書き残したい。端から見れば、くだらないことかも知れない。しかし残念ながら関西には、シーンについて根幹となる媒体が、今現在、形としてあるとは言えないだろう。


本来であれば、根幹となる媒体を今は亡き関西在住の音楽フリーライター二木崇氏のように、何処ぞのグループやクルーに属さず、公平な立場で広い見識を持ってシーンを見て来られた方が発信してくれるのが一番ベストだと思う。それかシーンでの立ち位置が、私よりも上で影響力のあるアーティストでも良い。ただその場合、どうしても記事に偏りが生じてしまうけれど……。


90年代後半が、このまま記憶の彼方に埋もれて、残らなくなるのは、あまりにも勿体ない。なぜなら、当時も色んなパーティーあり、そこで活動ていた人達は存在していたのだから。ドラゴンアッシュ『Grateful Days』で本格的に一般大衆にもHIPHOPが認知され始めた1999年後期。そして2000年代に入ると、HIPHOPがより大衆化し、それまで無視を決めこんでいたポップス系音楽雑誌にも記事が載り始め、タモリさんの『笑っていいとも』に日本のHIPHOPアーティストが出演するようになった。ただこうした状況によって、それ以前となる90年代のHIPHOPが持つ特別な感覚や、ハードルの高さが失われていってしまった。良くも悪くもだが……。


以前、noteでDJ GOSSY氏による「自伝」と言うタイトルの執筆を見つけて興味深く読ませて頂いた。33回にわけてGOSSY氏が、体験されてこられたシーンの詳細が、事細かに描かれている。京都から始まり、やがてご自身の活動が東京へと移る90年代から2000年代へかけての貴重な証言録だ。

GOSSY氏の立ち位置やスケール感に比べると、私の証言などは微々たるものになってしまうが、私を含めて当時を体感してきた人間が、少しでも語り発信していくことは、とても意義があると思う。大切な事だ。なので、少しでも賛同してくれる人達は、形はどうであれ、文章なりYouTubeなりで、発信して欲しいと思う。


私を含めた枝葉の発言によって、より根幹がハッキリと見えていくのは、とても有意義な事だ。これに勝る喜びはないだろう。そして50年後、100年後に、90年代後半の関西のシーンを少し踏み込んで振り返った時に、少しでも役立てればと思う。


と、かなり熱が籠った文章となったが、この熱意が継続できるように!決して竜頭蛇尾にならないように!次回以降も発信するつもりだ。

つづく...…

90年代ではないが、ちょうど2000年頃。今は無き大阪ミナミ/アメリカ村にあったClub ItoIで、私が毎週木曜日レギュラー出演していたメンバーとItoIの出口前で写した一枚。真ん中中央が筆者。私のすぐ後ろがCISCO RECORDSでHIPHOPのバイヤーをしていたDJ TOSHIBO氏。

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