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【著書紹介】淵田仁『ルソーと方法』  第三回 山師とは誰か(全三回)

淵田仁ルソーと方法書影

前回は、第五章「『人間不平等起源論』における歴史記述」の議論を追いつつ、自然状態の論じ方という点から、淵田さんがルソーの歴史記述の方法の新しさを引き出している、というところまでご紹介しました(第一回はこちら、第二回はこちら)。以下でご紹介するのは、ルソーが提示するその「断絶を孕む歴史記述」(256頁、強調原文)の議論です。

ここでキーワードとして重要な役割を果たすのが、「内的感覚」という概念です。内的感覚とは、ルソーの分析批判の議論を主題とする第一部第三章の第二節で中心的に論じられた概念ですが、そこでの議論がここでも効いてきます。「内的感覚」という言葉からは、《感覚とは直接私が感じるものでありそれについて誤ることのありえないものである》という直接性・真実性という性格がイメージされますが、こうした考えとルソーの「内的感覚」の含意の違いを取り出すことが第三章第二節のひとつの成果です。そこでこの「内的感覚」の含意を理解するための鍵となるのが、ルソーがある断片に残した次の文章です。

私には三段論法によってはどうにも整序できない内的感覚があるが、これは推論よりも説得力がある。(178頁からの孫引き。元の引用はOC I, p. 1175.〔『ルソー全集』第3巻、407頁〕)

これは、本書の冒頭に印象的に掲げられた二つのエピグラフのうちのひとつでもあります(もうひとつのエピグラフものちにご紹介します)。ここに示されているルソーのアイディアには破壊力があります。淵田さんによれば、これは、「分析的方法であろうが何であろうが、何らかの知的方法が対象の真理性を支えるのではないということを意味している」(179頁、強調原文)。誰にでも妥当するとされる方法や知的操作によって認識の正しさが支えられるというのは「社会に共有されている〈嘘〉」(179頁)であり、まさしくこの〈嘘〉に対する徹底的な批判こそが、真理の導き手としての内的感覚という(〈嘘〉を共有している側からすればそれこそ嘘のように思われる)ルソーのアイディアに込められているのです。そして、この真理の導き手としての内的感覚に依拠して自然状態を描くこと、これがルソーのとった歴史記述の戦略であると淵田さんは述べます。

自然状態は分析的方法による発見ではなく、内的感覚によって〈まず始めに〉措定される。ルソーにとって、虚構であったとしてもそれはデカルトのコギトと同様に哲学的原理としての強度を持つものなのである。ゆえに、自然状態をルソーは理知的に記述するのではなく、体験したかのごとく「目に浮かぶ〔=私は見た、je vois〕」と記述するのである。(258頁)

ここで淵田さんが注目するのは、「目に浮かぶ(je vois)」という表現です。ここでも淵田さんが引用したルソーの発言を引用してみたいと思います。

人間が自然の手を離れたままであるに違いないような人間を考察すると〔considérer〕、ある動物よりは強くなく、他の動物よりも機敏ではないが、結局はすべての動物のなかでもっとも有利に構成された一匹の動物が目に浮かぶ〔Je vois〕。樫の木の下で腹いっぱい食べ、最初の小川で渇きを癒やし、食事を与えてくれた木と同じ木の下で寝床を見出す動物が目に浮かぶ〔je vois〕。(258頁からの孫引き。元の引用はOC III, p. 134.〔『ルソー全集』第4巻、203頁〕)

ここでルソーは、自然状態を「目に浮かぶ」という表現とともに描き出し、それによって、目の前で出来事が起きているかのような効果を読者にもたらそうとしています。これは一見したところ、分析的方法をとるホッブズらの記述と比べると、読み手の感情に訴えるようなロマン主義的な書き方のように思えます。しかし、こうした記述はルソーのロマン主義的側面の発露ではなく、むしろ自覚的な戦略である、というのが淵田さんの見方です。この点を指摘するために、淵田さんはここで、《ルソーが自らの「内的感覚」に依拠する正当性は何によって担保されるのか》と問います(正当化の問題)。淵田さんはその答えの手がかりを、『不平等起源論』序文冒頭にルソーが付した注に見られるビュフォンの『博物誌』の参照に見出します。

「あらゆる人間の知識のなかでももっとも有用でもっとも立ち遅れているものは人間についての知識であるように私には思われる」(261頁からの孫引き。元の引用はOC III, p. 122.〔『ルソー全集』第4巻、190頁〕)。この冒頭の一文に付した注で、「私の最初の一歩から、哲学者たちから尊敬されている権威のひとつを信頼を持って私のよりどころとする」と述べたあと、ルソーはビュフォンの『博物誌』から眺めの引用をしています。

問題は、《ルソーはビュフォンをいかなる理由で「権威」として利用したのか》ということです。これは言い換えれば、ビュフォンの「権威」は内的感覚への依拠の正当性をどのような点で支えると考えられているのか、という問題です。この点について、淵田さんは二つの解答を与えています。

第一に、ルソーが引用するビュフォンの発言のポイントは《人間は環境・情念等の条件ゆえに人間自身の本性を認識することが困難になっている》という点にあるのですが、この点を引き合いに出すことによって、現にある社会状態から自然状態を導出することの困難を指摘することができます。

しかしそれだけでなく、第二に、ルソーはここでビュフォンの権威を逆手に利用している、と淵田さんは考えます。それはいわばイメージ戦略です。すなわち、《ビュフォンという「権威」でさえ人間本性の認識の難しさを認めていたのだがこの私ルソーは「内的感覚」を正しく使用して自然状態を発見できる》という「イメージを他者に提示すること」(264頁)がルソーにとってのビュフォン引用のねらいだったということです。

重要な点は、これらの諸要素がルソーのロマン主義的な側面に由来しているというのではなく、分析から内的感覚へという方法の転換に付随するものであるということであり、書き手から感じられるロマン主義的形象は自らの方法の正当化の戦略なのである。以上が自然状態論におけるルソーの方法であった。(264頁、強調原文)

さらに、ここにもうひとつ重要な論点が加わります。それは、このルソーが歴史記述の方法を、あらゆる読者に対して妥当な方法としてではなく明確なターゲットが想定された方法として採用しているということです。『不平等起源論』はアカデミーの懸賞論文として書かれたものですが、ルソーは「審査員」と「一般読者」という二種類の読者を想定しています。そして、ルソーの「思いつく」や「目に浮かぶ」といった表現方法は、「確かな事実から成る歴史を語る方法というよりは、読者〔……〕が自ら歴史を見ているかのように感じさせる技法」(278頁)として機能している、とされます(この点でルソーは、第四章で論じられる『エミール』における歴史家のイメージを自ら提示していると考えられることになります)。

分析的方法とは現実から出発し自然状態を発見し、そしてそこから現代の状態までを論理的・因果論的に記述する方法であった。だが、ルソーがこの円環的方法に与することはなかった。ルソーは内的感覚によって措定された自然状態から、自身の経験や歴史的事実を踏まえ、断片的に歴史を描こうとした。そこには因果的説明という欲望は存在しない。むしろ、ルソーはビュフォンの『博物誌』の記述方法を踏襲し、その権威を利用するような仕方で歴史を描こうとした。そして、この方法は「審査員」を満足させるようなルソーの科学性を示す根拠であるだけではなく、エミールに対して歴史家がなしたような「一般読者」への働きかけ、すなわち読者に歴史を追体験させ、思考させるという方法なのでもある。(278‐279頁)

ここからはとても興味深い洞察が引き出されます。ルソーは明確な意図をもち特定のターゲットを念頭に置いた歴史記述の方法を採用しているわけですが、これは、歴史記述の意図ではなく真偽を問題にし、特定のターゲットにとってではなく可能なかぎりあらゆる人にとっての妥当性を重視する態度(つまり啓蒙主義の態度)からすれば、まさしく「山師のやり口」のように見えるものです。しかし、ルソーがこの「山師のやり口」を自覚的に採用しているということを考えると、事態は反転して見えるようになります。むしろ、自覚的なルソーの観点から見れば、《誰から見ても確かな真理を誰にとっても妥当な方法で伝える》という考えの方こそが幻影なのであり、そうした幻影に無自覚に囚われた哲学者たちの方法こそが他人を惑わす「山師のやり口」であることになるのです。ここで「山師のやり口」は、「自虐的な自画像」から一転して「皮肉」として姿を現します。

時代的な潮流からすれば、ルソーの方法は単なる「山師のやり口」のようなものであるように見えるだろう。だが、分析的方法とそこから派生する歴史記述の方法に対して鋭い批判を投げかけているルソーの口から発せられるこの「山師のやり口」という謗り口は、ルソー自身に向けられたものではなく、啓蒙の哲学者たちに向けられた皮肉のようにも聞こえるのである。(279頁)

こうして、歴史記述の方法をめぐる議論は、「ルソーと方法」と「山師とは誰か」という二つの問いが重なるところで終わります。この点をよりはっきりと見るために、最後に、「山師とは誰か」と題された結論に引用されたルソーの言葉を引きたいと思います。

私は決して議論をいたしません。と申しますのも、各々の人間は何においてもその人なりの推論する方法〔sa manière de raisonner〕を持っており、その方法は各人以外の何者にもまったく良いものではない、ということを私は確信しているからです。(329頁からの孫引き。元の引用はRousseau à M. l'Abbé de Cardondelet, le 4 mars 1764, Correspondance complète de Jean Jacques Rousseau XIX, 3166, p. 198. 〔『ルソー全集』第14巻、185頁〕)

これは、本書冒頭に掲げられたもうひとつのエピグラフでもあります。先の「内的感覚」のエピグラフに劣らずこちらも強烈な印象を与えます。「私は決して議論をいたしません」と言い放つような人に対してどのようなことが言えるでしょうか。しかし、「山師のやり口」が自虐から皮肉へと反転する道行きを辿ったあとの結論部で提示されるこの発言を改めて読むと、《みんなと同じ土俵に乗って議論しなければならない》というような考え方をもつ人の方がいかがわしく思え、「各々の人間は何においてもその人なりの推論する方法を持っており、その方法は各人以外の何者にもまったく良いものではない」と断言するルソーの方がむしろ思考することの孤独さに対して誠実であるように思えてきます。本書全体の議論もさることながら、結論部のこの箇所はとてもスリリングですので、この記事を読まれた方は、ぜひとも『ルソーと方法』をお手に取って直接読んでいただきたいと思います。

このようにして、淵田さんは、「あまりにも些細で、たわいもないテクスト群」(6頁)を引用しながら、言論空間という公共的なスペクタクルのなかに囚われながら書き続けた「舞台の上のひと」(5頁)ルソーの、孤独な思考者としての別の顔を浮き上がらせています。これは、「哲学的に考えるとは何か」(3頁)という問いに対するひとつの誠実な答えであるように思いました。

(執筆者:守博紀/NPO法人 国立人文研究所事務)


淵田仁(ふちだ まさし)
城西大学現代政策学部社会経済システム学科助教。横浜市立大学商学部を卒業後、一橋大学大学院社会学研究科にて博士(社会学)取得。18世紀フランスの哲学・思想史が専攻。主な著作として『ルソーと方法』(法政大学出版局、2019年)がある。共著に『百科全書の時空──典拠・生成・転位』(法政大学出版局、2018年)『〈つながり〉の現代思想──社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』(明石書店、2018年)等。
ルソー入門:その生と思想 (一般:8,000円/4回 学生:4,000円/4回)
(2020年9月期に開講予定。日程・会場は現在調整中)

【授業予定】
第一回: 啓蒙の時代における〈ルソー〉
第二回: 社会批判者としてのルソー
第三回: ルソーの社会構想
第四回: 自己と社会、その矛盾

【参考文献】
ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』岩波文庫
ジャン=ジャック・ルソー『エミール』全三巻、岩波文庫
ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』光文社古典新訳文庫
ジャン・スタロバンスキー『透明と障害』みすず書房
淵田仁『ルソーと方法』法政大学出版局

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