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【著書紹介】淵田仁『ルソーと方法』  第二回 自然状態はほんとに自然?(全三回)

淵田仁ルソーと方法書影

前回は淵田仁さんの『ルソーと方法』の序論を少しだけご紹介しました。(第一回はこちら

「ルソーと方法」という問いと「山師とは誰か」という二つの問いが切り離されずに問われているようだ、というのがさしあたりの出発点でした。それでは、いよいよ以下では本書のルソー読解の議論に入っていきたいと思います。ただし、本書は論文集ではなく一冊の本としてまとまった内容をもっていますので、(1)まずは本書の議論全体を簡単に確認し、(2)ついで全体の議論のなかでの位置づけを考慮しつつ第五章の内容に入っていきたいと思います。

(1)全体の構造
本書は二部構成となっており、第一部で〈認識の方法〉が、第二部で〈歴史の方法〉が扱われます。なぜ認識と歴史なのか。淵田さんは二つの点から答えています。
第一に、認識の方法と歴史の方法が論点として不可分であることが指摘されます。認識を論点とする第一部ではルソーが批判する「分析的方法」が主題的に論じられますが、この認識の方法をめぐる問いは、《いかにしてルソーは様々なエクリチュールを生成したのか》というテクスト生成の問いにつながるとされています。そして、そこで生成されるテクストとして、第二部で、人類の歴史や自己の歴史を語るルソーのテクストが検討される、という流れになっています。
第二に、「私たちがテクストと向き合う際に無意識に選び取ってしまうディシプリン的眼差しへの反省」(43頁、強調原文)が唱えられます。それは、あるテクストを「哲学」「文学」「教育学」「政治学」などに分類してしまう私たちの態度を問い直すものです。淵田さんの言葉を引用します。

私たちはデカルトやスピノザのテクストと向き合うときには哲学として読もうとし、バルザックやスタンダールであれば文学として読もうとする。では、ルソーの場合はどうだろうか。『エミール』であれば教育的観点から読もうとするだろうし、『社会契約論』であれば政治学・法哲学の観点、『告白』であれば自伝文学として読もうとしてしまう。だが、視点の取捨選択は歴史的な仮構物でしかない。むしろ、デカルトであれ、バルザックであれ、ルソーであれ、あらゆるテクストが書かれる〈その時〉、それらは何か特定のディシプリンによって書かれるのではない。この意味において、哲学か文学か歴史かといった既存のディシプリンによる不動の眼差しがルソーのテクストの豊穣さをいかに見落としてしまうかということを、本書の分析視角である概念未満の方法は私たちに示してくれるだろう。(43頁、強調原文)

こうした観点から本書は認識を扱う第一部と歴史を扱う第二部に分かれます。そして、第一部と第二部ははともにそれぞれ三つの章から成っています。
第一部では主に、〈ルソーは何を批判したのか〉、〈ルソーはそれをどのように批判したのか〉、という二つの問いが扱われます。前者の問いのために第一章がコンディヤックの分析的方法の解明にあてられ、後者の問いのために第二章と第三章があてられます。第二章は議論の準備作業としてルソーの能力論を扱い、この作業を踏まえて、第三章で分析的方法に対するルソーの批判が論じられます。
第二部では〈歴史を語るとはどういうことか〉という問いが扱われます。第四章では〈歴史を語る歴史家とは何か〉という問いが、第五章で〈歴史記述とは何か〉、第六章で〈自分の歴史を語るとは何か〉、という問いがそれぞれ扱われます。

(2)第五章の内容
今回は第五章「『人間不平等起源論』における歴史記述」を中心にご紹介したいと思います。
第五章の主題は歴史記述の方法ですが、『人間不平等起源論』を取り上げて論じられるルソーの歴史記述のやり方は、私たちが普段歴史学の歴史記述ということでイメージするものからかけ離れており、刺激的かつ魅力的です。〈読者に歴史を追体験させる方法〉として提示されるルソーの歴史記述の魅力を、淵田さんの議論を追いつつ、まとめてみたいと思います。また、この第五章は、認識の方法をめぐる第一部との議論上の接続が明確な章でもあります。

第五章の問いは以下の通りです。「歴史家ルソーは、いかなる方法によって『不平等起源論』を記述したのか」(225頁)。この問いに対して、章全体の話を先取りして次の解答が与えられます。「『不平等起源論』は時代の方法的趨勢に対するひとつの抵抗の書であり、あるいはこう言ってよければ、私たちが序論で見た「山師のやり口」で構成されたテクストなのである」(227頁)。『不平等起源論』のルソーは、一般に、「社会の不正・欺瞞を徹底的に暴くラディカルな思想家」(241頁)として知られています。しかし、淵田さんは、このラディカルな思想が提示されたテクストが「山師のやり口」で書かれたものであると指摘します。それでは、ルソーがこの『不平等起源論』で抵抗しようとした「時代の方法的趨勢」とは何でしょうか。それは、ホッブズ、ロック、グロティウス、プーフェンドルフといった社会の成り立ちについて考えた哲学者たちである、とされています。こうした哲学者たちを批判する理由をルソーは『不平等起源論』のなかで次のように述べています。

社会の基礎を検討した哲学者たちは皆、自然状態にまで遡る必要を感じていたが、彼らのうちの誰ひとりとしてそこに到達した者はいないのである。(241頁からの孫引き。元の引用はDiscours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes, Œuvres complètes de Jean-Jacques Rousseau(以下OC), III, p. 132.〔『ルソー全集』第4巻、199頁〕)

ここでいわれている「自然状態」というのは、社会や国家が誕生する前の状態としてホッブズらの哲学者、そしてルソー自身も想定していた状態です。では、なぜルソーは、ホッブズら哲学者たちは自然状態に到達できていないと考えているのでしょうか。その理由は、一言で言えば、結果を原因と取り違えている、という点にあります。すなわち、現在私たちがもつ情念や欲望は現在の社会のなかで生きる過程でかたちづくられていったものであるにもかかわらず、それを自然状態に反映してしまっている、ということです。

この取り違えを引き起こした理由は、第一部で検討された「分析的方法」に求められます。分析的方法とは「分解と再構成という二つの作業を内包するひとつの推論の技術」(246頁)です。そのポイントは、あるものを別のものに分解するにしても、分解されたものから何かを再構成するにしても、それぞれの作業前と作業後の対象には連続性がなければならない、ということです(そしてこの連続性を支えるのがコンディヤックの自同性原理であるとされています(第一章第五節))。自然状態を問題にしているいまの文脈で言えば、《現在の社会状態にある人間の欲求や情動などを分解し、単純な心的要素を発見することで、人間がそもそも自然状態のなかでどのようなあり方をしているかを正しく理解することができる》というのが分析的方法の考え方です。言い換えれば、自然状態と社会状態は、ひとつの鎖を形成するものとして連続的に繋がっているものとして考えられているということです。

人類史を描くにせよ、ある政治体制を説明するにせよ、自然状態と社会状態は連続的に記述されねばならない。これこそ分析的方法が満たすべき要件なのである。だが、〈連続的に説明する〉ということにはひとつの困難が付きまとう。というのも、自然状態と社会状態が連続するのであれば、分析が開始される社会状態は自然状態の結果であることになるのだが、同時に分析によって発見される自然状態は社会状態の結果でもあらねばならないからである。つまり、社会状態における諸要素の原因を含んでいるという想定のもとで自然状態は構築されるのであり、この場合、自然状態は社会状態が生み出したものと言える。(248頁)

こうした事態を、淵田さんはアルチュセールの言葉を用いて「円環(cercle)」と呼びます。ルソーが取り組むのは、この円環からの脱出です。そしてこの脱出のために、ルソーはシンプルに、《自然状態と社会状態を断絶させる》という解答を提出したとされます。淵田さんはこの断絶を(1)理論的観点と(2)レトリック的観点の二つから確認していくのですが、私がとりわけ興味深く感じたのはレトリック的観点からの断絶です。そこでは、「思いつく(s'aviser)」という表現が注目されます。『不平等起源論』に三回出てくるこの表現をここでも引用してみます。

ひとは身振りの代わりに声を分節化することを思いついた。(253頁からの孫引き。元の引用はOC III, p. 148.〔『ルソー全集』第4巻、216頁〕強調は淵田さん)
ある土地に囲いをして、「これはおれのものだ」と最初に思いつき、それを信じてしまうほど単純な人々を見つけた人こそ、政治社会の真の創設者であった。(253頁からの孫引き。元の引用はOC III, p. 164.〔『ルソー全集』第4巻、232頁〕強調は淵田さん)
こうした最初の進歩によって、ついに人間はよりすみやかに進歩をするようになった。(……)やがて、最初に出会った木の下で眠ったり、洞窟のなかに引きこもったりするのをやめて、堅くてよく切れる石の斧のようなものを見出した(……)。次いで小屋を粘土や泥で塗り固めようと思いついたのである。これが家族の成立とその区別とを形成し、一種の所有を導入した最初の革命の時代であり、所有からはおそらくすでに多くの争いや戦いが生じた。(254頁からの孫引き。元の引用はOC III, p. 167.〔『ルソー全集』第4巻、236頁〕強調は淵田さん)

最初の発言は言語の起源、次の発言は所有の起源、最後の発言は家族の起源をそれぞれ描いたものです。言語・所有・家族の起源を描くこれら三つの場面は、「どれも人類史にとってクリティカルな場面」でありながら、「ルソーの筆致はあまりにも軽やかである」(254頁)と淵田さんはコメントしています。「というのも、「思いついた」という表現はなんら起源を説明していないからだ。なぜ思いついたのかを説明しない限り、これらの起源を説明したことにはならないだろう」(254頁、強調原文)。
しかし、ここで淵田さんは、ルソーの議論上の欠陥ないし不足を指摘するのではなく、逆に「自然状態から社会状態への移行の論理的説明の拒否」(255頁、強調原文)というルソーの積極的実践を見出しています。この場合、ルソーの議論に見られる自然状態と社会状態のあいだの断絶は、論理的・体系的不備として低く評価されるのではなくなります(こうした低評価は、ルソーの批判対象であるホッブズらの分析的方法の観点からなされるものであり、それゆえルソーとそもそも同じ土俵に立っていないと言えます)。さらに、ルソーの記述を《自然状態と社会状態を徹底的に対立させることで自然状態を現状社会の批判として際立たせる論理》として好意的に評価する解釈もまた、ルソーの歴史記述の方法の新しさを見逃しているという点で不十分なものとされます。そこで以下では、ルソーが提示する「断絶を孕む歴史記述」(256頁、強調原文)が論じられます。淵田さんが提示するこの魅力的なアイディアを次回ご紹介したいと思います。

(執筆者:守博紀/NPO法人 国立人文研究所事務)


淵田仁(ふちだ まさし)
城西大学現代政策学部社会経済システム学科助教。横浜市立大学商学部を卒業後、一橋大学大学院社会学研究科にて博士(社会学)取得。18世紀フランスの哲学・思想史が専攻。主な著作として『ルソーと方法』(法政大学出版局、2019年)がある。共著に『百科全書の時空──典拠・生成・転位』(法政大学出版局、2018年)『〈つながり〉の現代思想──社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』(明石書店、2018年)等。
ルソー入門:その生と思想 (一般:8,000円/4回 学生:4,000円/4回)
(2020年9月期に開講予定。日程・会場は現在調整中)

【授業予定】
第一回: 啓蒙の時代における〈ルソー〉
第二回: 社会批判者としてのルソー
第三回: ルソーの社会構想
第四回: 自己と社会、その矛盾

【参考文献】
ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』岩波文庫
ジャン=ジャック・ルソー『エミール』全三巻、岩波文庫
ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』光文社古典新訳文庫
ジャン・スタロバンスキー『透明と障害』みすず書房
淵田仁『ルソーと方法』法政大学出版局

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