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背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十九話「思いがけず」

「蒅お願い! この後先輩の案内してあげて!」

「は?」

 藍染め体験を終え、染めたハンカチを作業場の外に干していた時、裕が突然両手をぱん、と張り合わせて、蒅に叫んだ。当の蒅は眉を顰めている。

 時刻はまだ昼を迎える前で、本来ならばこの後は裕のおすすめの徳島観光スポット巡りをする予定だった。
 が、どうやら状況に変化があったらしい。

 瞳を瞬かせる藍華に、裕は向き直ってばっと深く頭を下げると、そのまま事情を説明し始めた。

「本っ当にすみません藍華先輩……! 何かお母さんがあたしが帰ってることを近所に言いふらしたみたいで、友達から今から会おうって連絡来ちゃって……」

「友達って誰だよ」

「ええっとぉ……」

 藍華が返事をするより早く、隣に立っていた蒅が裕の説明に疑問を投げた。すると裕は視線を右に左に彷徨わせながら、バツが悪そうに言い淀む。

「……加奈、だよ」

「加奈ってあいつか」

 その名を裕が口にした瞬間、蒅の視線が厳しく細まったことに藍華は気付いた。どうやら、彼はあまり好いていない人間らしい。蒅は両腕を身体の前で組むと、苛立たしげに息を吐く。

「断れよそんなの」

「で、でも……」

 困惑しきりの裕にかまわず、蒅はにべもなく言い捨てる。その二人のやりとりに、藍華はさてどうしたものか、と苦笑した。裕の都合については別に全く気にしていないのでかまわないのだ。

 このまま一人で徳島を散策するのもそれはそれで楽しいだろう。藍華は一人で行動するのも割と好きな方だ。

 だが、蒅はどうもその『加奈』という人物に裕が会いにいく事自体が気に入らないらしい。

「藍華を連れてきたのはお前だろ。放り出す気かよ」

「そ、それはっ」

「私は別にかまわないわ。ゆっくり見て回ってるから、気兼ねなく行ってきて。蔵色さんも予定があるでしょうし、私は一人で大丈夫」

 言い合いになってしまいそうな雰囲気に、助け舟を出すつもりで藍華はそう提案した。
 すると裕はふるふると唇を震わせて、それから再び深く頭を下げる。

「なるべく早く戻るので! その間だけ、コイツに案内させますから!」

「おい」

「お願い〜〜〜〜っ! ちょっとでいいから!」

「裕お前、まだあいつらの……ったく、わかった。藍華、悪いが俺の案内でも良いか?」

 はらはらしながら見守っていると、蒅が折れてため息を吐いた。まさかそうなるとは思わなくて、藍華は戸惑ってしまう。

「え、でもご予定があるんじゃ、」

「あんたなら別にいい」

 仕事があるだろうし無理はしなくて良い、と伝えたくてそう訊ねたのだが、答えになっていない返事が返ってくる。言い方が少し引っかかったが、それよりも藍華はどう返せば良いものかと困惑した。

 蒅に案内してもらうとなれば、彼と二人きりになるということだ。

 自分は一応既婚者だし、相手にその気が無くとも男性と二人で行動するのは体裁的にどうなのだろうとも考えてしまう。

 それに何より、彼には妙な引力を感じている。今の藍華がこれ以上近づくのは得策ではない気がした。

「あの、私は」

「先輩っ! 本当にすみません! 後でちゃんと埋め合わせしますから!」

 やはり申し訳ないしこちらから断ろう、と思い口を開いたところで裕の何度目かの謝罪で遮られてしまう。彼女は藍華に顔を突き出し、祈るように両手を合わせて瞳を潤ませていた。
 可愛い後輩の罪悪感たっぷりの表情に、流石の藍華も逃げられない。

「い、いいのよ。私のことは良いから裕ちゃんはお友達とゆっくりしてきてね」

「ありがとうございます!」

 蒅の了承を断りそこねた藍華はそうフォローするだけで精一杯だ。ちらりと蒅に目をやれば、いつから見ていたのか藍華に視線を向けていた彼と目が合う。どうにもそれが居たたまれなくて、藍華は慌てて目を裕に戻した。

(適当に彼に案内してもらった後は、一人でぶらぶらしていれば……良いか)

 平身低頭な裕の前で蒅を拒否するのは難しい。なので藍華は一旦その場は流すことにした。

「友達、ねえ……」

 藍華の言葉尻をとらえた蒅が含みのある言い方をした。それに内心首を傾げるが、裕は気まずそうに目を逸すだけ。

 何はともあれこうして、思いがけず藍華は蒅と二人で過ごすことになったのである。

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