室井の山小屋 9
第9章 5日目…
恭司が部屋に敷かれた布団を畳む気配で目が覚めた…どうやら私以外は皆起きているようだった。腕時計を見るとまだ6時を過ぎたばかりだった…
「ああ、起しちまったかね?申し訳ねえ…」
「いえ、みなさんもう起きてらっしゃるんですか?」
「あはは…田舎の暮らしは朝が早えからねえ…やっぱ、結城さんお疲れだったんだねえ、良く寝てらしたわあ、子供たちの面倒までみてもらって…千恵も仁もおじさん早く起きないかって、首い長くしてますよ」
「へへ…俺、山歩くことなんてめったにないすから…すいません…」
「そろそろ、朝飯が出来る頃だから、客間の方にどうぞ。ここあ俺が片づけときますんで、どうせ今夜も使うかもしれねえんで…」
「雨の方は大丈夫ですか?」
「いんやあ…おさまんねえなあ…相変わらずだねえ…」
「そうですか…じゃ、俺、顔洗ってきます」
「洗面は炊事場だから…」
「はい…」
土間の炊事場に下りると、タロと子供たちが駆け寄ってきた。
「おじちゃん!お早うっ!昨夜はお話ありがとう!ねえねえ、今晩も続き聞かせてくれる?」千恵は、タロの身体を撫でていた私の腕を掴み、待ちきれない様子で尋ねた。
「ああ、いいよ…」
「あら、良かったわねえ…どんなお話して貰ったの?」炊事場から声を掛けたのは佳代だ。
「えーとねえ…またさぶろう?…」
「風の又三郎だよ」仁が訂正した。
「へえ、宮沢賢治ですね、お好きなんですか?」
「子供の頃、好きで何度も読んだんで…急にお話って言われて…咄嗟に思いついて…」
「良いですよねえ、あのお話、あたしも大好き。良かったね、千恵ちゃん」
「うん、面白いんだよ。どっどどどどうど…って…ああ、早く夜にならないかなあ…早く続きが聞きたいなあ…」
「それにしてもおじさん、寝坊だよねえ。いっつも最後まで起きねえんだもんなあ…」傍らからそう言ったのは仁だ。
「ええ?6時は寝坊なの?都会じゃ6時は早起きの方だよ」
「じゃあ、いっつもみんな何時に寝るの?」
「うーん… 12時とか1時とか…」
「えーっ!何でっ?そんなの変だよ!」
「そうだな…変だな。直さなきゃな…」
「そうだよ。朝は早起きすれば、楽しいことが一杯あるんだから…」
「そうだよな…俺ももっと早寝早起きしなきゃだな…」
「ほらほら、あんたたち、朝ご飯の用意出来たよ。結城さんの邪魔ばっかりしてないで、早く向こうに行きなさい。佳代先生もどうぞ」
3人は咲恵に促されて私を離れた…
「いっちょ、人生考え直すか…」再びタロの首を撫でながら私は1人呟いた…
「おじさん、こっちこっち!」洗面を終え、客間に入ると、千恵と仁が隣に座れと私を招いた。
「なんだかすっかり懐いちまったな。動物や子供はよ、人を見る目があるからなあ…」康三がそう言って目を細めた。
「あんたみたいないい人から逃げた嫁さんっていうのも、一度見てみたいもんだねえ…」そう呟いたのはお菓子名人のさえだ。優しそうな見掛けによらず、言い難いことをさらりと言ってくれる。
「まあ、世の中、人それぞれだからねえ。それより結城さん、当面やることがないんだったら、しばらくここに居てみたらどうだね?ここは都会と違ってなんもねえけど、面白いと思やあ、山にゃ何でも揃ってんからなあ…そういう生活も楽しいもんだよ」そう言って微笑んだのは千恵の祖母の千津だ。
「漁なら俺が教えてやんべ…」八郎がそう呟くと席にいた全員が思わず彼を見て『ほーお…』と驚きの声を上げた。
朝食を終え、洋次が集落と沢の様子を見回りに行くというので同行させて貰った。雨は一向に衰えていなかった。今朝は霧は発生していなかったので、雨で煙ってはいたが、ようやく集落の風景を良く見ることが出来た。
ここは谷にあるちょっとした小さな丘陵だ。我々が泊まっていた涌井家は丘の一番上に建っている。丘陵の周囲は高い山と、深い森に周囲をぐるりと囲まれている。斜面のところどころには畠が開かれ、その合間合間に民家が点在する。民家は全部で10棟ほどもあるだろうか、半数以上は使われていないということだ。
昨夜の風雨で被害が出ていないか、それぞれの家を見回りながら丘陵を少しずつ下ってゆく…さえの家の周囲を確認し終え、いよいよ沢に一番近い八郎の家に移動しようとした時だった。突然遥か彼方からドシンという重い地響きが聞こえた。
「くそう…遂に始まりやがったな…」
「何ですか?あれ…」
「地崩れだ…多分下の方だべ。あっちこっちに植林があるからよ、町の連中があっちこっち木い切っちまいやがって…植林の斜面はよ雨に弱えんだ。近頃あすぐに崩れやがる…」
「大丈夫ですかね?」
「まあ、沢あ見りゃ分かるさ。見に行ってみんべえ」
沢の流れは相当に水かさを増し、激流に近い状態で、既に八郎の家のすぐそばにまで川幅を広げている。洋次は厳しい眼差しでその流れをしばし見つめていた。
「…こりゃあ少しまずいかも知れねえ…」
「そうなんですか?…」普段の情景を知らない私には、何がどうまずいのか良く分からない。
「ああ、この勢いはまずい。これで流れに岩や木が混じり始めたら、沢の周りは全部危ねえ…」
「沢の周りっていうと…八郎さんの家ですか?」
「いや、村のどこにいても危ねえってことだ…逃げる準備だけでもしとかなきゃあよう…」
洋次と私は急ぎ涌井家に戻った。
佳代と子供たちは奥の間で授業中の様だ。洋次は戻ると直ぐに他の大人たちを集め、状況を報告した。
「後でもう一度様子を見に行ってみるにしてもよ、逃げる算段はしといた方がよかっぺえ」恭司が言う。
「でもよ、下の村行くにゃあ沢沿いの道だベ?何処に逃げる?千津さんどう思うかね?」そう尋ねたのは咲恵だ。
「そりゃあ、山だ。古い森に逃げりゃあええ。植林の近くは危ねえぞ」
「恭司、洋次、お前えらもう様子なんぞ見に行かなくていい。沢にゃあ一切近付くんじゃねえ。俺の家や舟なんぞ忘れていい…ここも危ねえ。直ぐに逃げる準備しろ。子供たちにも早く知らせろ!」そう言っ切ったのは八郎だ。どうやら経験豊富な年寄りたちの意見は、恭司や洋次よりもずっと深刻だった。
「あのお…」私は恐る恐る割って入った。
「何だね?結城さん…」
「もし上の方に避難されるんでしたら、うちの山小屋はどうですかね?ま、俺のじゃないんですけど、好きに使ってていいって言われてますんで…いや、危なくなければなんですけど…」
「確か、神竜様んとこって言ってたねえ…」
「はい。神竜池からちょっと下りたとこです」
「そりゃあ、いいかも知れねえ。なんせあの辺は岩盤が強えし、森は深えし、まず周りが崩れるってえこたあねえだろう…少なくとも此処よりゃあずっと安全だあ。ただし、登り口までは沢沿いだ。行くんだったら早く出た方がええぞ」千津が冷静な眼差しできっぱり言った。
「よしっ、決まりだ!じゃあ急いで準備すっぺ」恭司がそう切り出すと、皆が一斉に動き始めた。
食材、着替え、貴重品…取り敢えず必要なものはリュックに詰められ、千津、千恵、さえ以外が背負うこととなる。重いもの、かさの大きなものは花子の背中にくくり付けられる…
子供たちは授業が中断された嬉しさと、集落に水が押し寄せるかも知れないという不安の狭間で興奮していた。女性陣は手早く米を炊き、大量の握り飯と漬物を用意した。
全ての準備が整い、全員雨具を着込んで集落を出発したのは10時過ぎだった…先頭はタロと仁だ。その後を恭司と花子、そして我々が続く…
一度集落を下って沢沿いの道を下流に向かう…沢の勢いはごうごうと凄まじい。時折川底の巨大な岩がごろごろと転がっている様子が水面からも見える。昨日集落に来た時と比べると、明らかに沢の激流は道に迫っている…
特に沢がカーブを描く箇所では道脇が大きくえぐられている。千津に言われた通り、とにかく速やかに山への上り口に到達することに専念した。
沢沿いの道から20分ほど掛かって、ようやく山道への分岐に辿り着いた…
「よーしっ!とっとと上に登るぞっ!なるべく急いで登るからな。皆がんばってくれよお」恭司が大きな声で皆に号令をかける。それもその筈だ…雨がさらに激しくなってきた。沢の流れはもう既に道を呑み込みそうな勢いとなっていたのだ。
そこからおよそ30分…大人も子供も年寄りも、全員が一丸となり、まるで泥の小川のような山道をひたすら登り続けた。ようやく少し歩き易そうな道らしい道に出た。そこから10分ほど斜面を回り込むように道を進むと、沢を見下ろすことの出来る開けた場所に出た。
「よーしっ、皆あ、この辺で少し休むべえ!」恭司が再び叫ぶ。
道脇の僅かな開けた場所に荷物を置く。昌子と咲恵が早速花子の背中から茶碗とポットを取り出し、皆にお茶を配った。
「ここまで登りゃあ、もう大丈夫だろうよ」千津のその言葉に皆が一安心したその時だった…
『ズゴゴゴゴゴ……ドドドドド……』聞いた事のない不気味な音が沢の谷に轟き渡り始めた…その音は確実にこちらに近付いている様だった…全員が茶碗を片手に固唾を呑んで沢を見下ろす…
「うおんっ!うおんうおんっ!」タロが沢に向かって吠え続ける…
やがてその不気味な音は轟音となって、タロの声も掻き消してしまった…
恐ろしい光景だった…大量の泥水が岩と木々を巻き込み、一瞬にして沢全体を呑み込んだ。周囲の森の木々がなぎ倒されてゆく…泥流の渦の中に家の上まで引き上げてあった八郎の舟が一瞬見え隠れした…我々が歩いてきた沢沿いの道はあっという間に激流の底だ…我々は…あそこを歩いていたのだ…もう30分出発が遅かったら…そして、もしあのまま集落に留まっていたとしたら…間違いなく我々はあの激流に巻き込まれていたのだ…
一体皆はどの位の時間、谷底を凝視し続けていたのだろう…気が付くと沢に押し寄せた泥流の轟音は、ごうごうと流れる継続した水流の音に治まっていた。
「あれじゃあ、あたしらの村も、ひとたまりもなかろうのう…」そう言ったのは千津さんだ。
他の誰も口を開こうとしなかった。
「取り敢えず、結城さんとこに急ぐベえ…」恭司の言葉を受けて我々は再び山道を登り始めた。
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