少年ジェットがいた日..
はじめに...
昭和34年、東京・品川...そこは江戸時代からの宿場町で、人々はお節介で人情家で祭が大好きで、日本を激変させる高度経済成長期の当時でも古き良き下町の風情を色濃く残す温かい土地柄だった。
東京で育ち東京に長く暮らす者なら誰もが感じていることかも知れないが、東京から東京が消えてしまったのはいつからなのだろうとつくづく思う。
あの窮屈なほど密接な地域社会、どの子供も全ての大人たちから見守られ、どんな変わり者にも、どんなはぐれ者にも、はたまたやくざ者にも、口うるさく非難しながらも誰もが親身に近づいてゆくあの人懐こさと大らかさは、やはり東京ならではの気質だったような気がする。
当時の子供社会にもそういった気風が当然のように反映されていた。
物語は私が子供の頃品川で過ごした数年の間に出会った仲間や人々…そこで体験した大小様々な出来事…それらを1人の小学生が経験したほんの3カ月の出来事に集約させてみた。
登場する殆どの人物は実在の人物をモデルにしているが、多くの脚色を加えフィクションとして描き直している。
1 品川マンガクラブ
正治は砂利の敷地に一列に置かれたコンクリートの敷石を、一つおきに注意深く数えながら、少し奇妙なテンポで跳び石のように踏んでいく...
「いち、にっと、さん、しっと、ご、ろくっと……じゅうはちっ!」敷石を無事にクリアすると、4階建ての新築鉄筋アパートに並んだ2番目の上り口に辿り着く。
まだ乾きたてのセメントの匂いのする壁を指で触りながら階段を上がり、最初の踊り場から背伸びをして外を覗くと、道を挟んだ向いにある木造家の二階の窓が庭の大きな柿の木越しに見える。窓のある部屋はこの家に住む女子高校生の部屋で、時々本を片手に薄手のブラウス姿でうろうろしている彼女の姿を見つけると、子供心に胸の奥が心地よく疼く…
このアパートに引っ越してきて以来踊り場からの覗きは、いつの間にか正治の習慣になってしまっていた。この日は彼女の姿はなかったが、春の青空に勢い良く生い茂った柿の木の葉がさわさわと騒ぎ、爽やかな風が優しく顔を撫でた。
踊り場からさらに階段を上がると、右手クリーム色にペイントされた鉄製の扉の上に『203』の部屋番号と『川村健吉』の小さなプラスチックの表札が掲げられている。ここが2ヶ月前から正治の家となった新しい社宅である。正治はこの新しい住まいが気に入っていた。
サラリーマンである父親の地方勤務が終り、一家が東京に戻ってきたのは一年以上前のこと。当時、品川に新築される予定だった新しい社宅の建築が大幅に遅れ、止むなく都内の祖母の家に、叔父や伯母の家族らと共に十数人の大家族生活を送っていた。
正治と兄の克雄は途中転校にならないように、現在の小学校にバスで通学ということとなった。それが、今年の春にようやく新築の社宅への入居が叶い、一家は窮屈な大家族の生活から晴れて独立を果たすことができたのだ。
暫くの間、バスでの越境通学を続けた正治が一番辛かったのは、転校して、折角仲よくなった学校の友達と放課後一緒に遊ぶことが出来なかったことだった。
昨日はどこそこの空地で誰と誰が決闘した、あそこの駄菓子屋で新しいメンコが売りに出ていた、近所の家で子犬が生まれたから今日みんなで見に行こう、そういった事は全て口づての情報でしかなく、自分はいつも地域社会のエネルギーの外側にいる幽霊のような存在に思えてしまうのだ。
それが社宅への入居で生活は一変する。
新しい社宅は、正治が通う区立小学校に隣接していた。たっぷり40分はかかっていた通学時間は、僅か2分に短縮され、放課後も夕暮れまで思う存分近所の友達と交友を深めることが出来るようになった。
何よりも嬉しかったのは、新しい鉄筋アパートの暮らしの文化レベルの高さだった。3DKの小さな箱の様な間取りだが、清潔な水洗トイレにガス釜の付いたコンパクトな風呂、ステンレスのキッチン台にベランダ、風の強い日でもコトリとも音がしない堅牢なスチールサッシの窓…
父親は転勤以来宣伝の仕事に配属されたので、テレビの導入はどの家庭よりも早かったし、引越を機に月賦で電気冷蔵庫と電気洗濯機が購入された。まさに昭和30年代の経済成長を象徴する夢の生活の始まりだった。
「ただいまあー!」
勢い良くドアを開けて小さな玄関に運動靴を脱ぎ捨てると、「おかえり!」と台所から母の声が響く。玄関から台所への引き戸を開けると、母親がテーブルで雑誌に目を通しながら紅茶を飲んでいる。
「給食費ちゃんと渡した?」
「うん」
「この間のテスト、返ってきた?」
「ううん、まだ。おやつある?」
「昨日加代子おばちゃんから頂いたチョコレート饅頭があるわよ」
「これからね、昌志くん家で幸夫くんと3人で集まるんだ。おやつ持ってっていい?」
「あら、また昌志くんと幸夫くん?仲良しが出来て良かったわね」
「うん。ねえ、昌志くんと幸夫くんの分もお饅頭持ってっていい?」
「いいわよ。持っていきなさい。宿題は?」
「あとでやる。あ、そうだ、今日ね夜、金田くんと菅野くんがうちにテレビ見に来たいって。いい?連れてきて」
「同級生?」
「うん」
「いいけど、何があるの?」
「少年ジェット。7時半から」
「すぐに終るの?」
「30分。ねえ、ロジェのおやつ何かない?」
「ちゃんと晩ご飯食べてから来て貰ってよ」
「分かってるよ。ねえ、ロジェのおやつ」
「そこの缶の中のビスケット少し持ってっていいわよ」
「分かった」
「少しにしてね」
「分かった」
隣の和室に置かれた勉強机の上にランドセルを置くと、中からお気に入りのノートと筆箱を取り出し、饅頭とビスケットをチラシ紙に包んで、正治は家を出た。
アパートから国道に向かって細い舗装路を百メートルばかり歩くと、昌志の家がある。新学期のクラス換えで一緒になった昌志とは急速に親密になり、学校ではもちろん放課後も一緒にいる毎日が続いている。
道から数段の狭い階段を上がると、小さな門の向こう側からロジェが吠える声が聞こえる。ロジェは昌志の家で飼われている大きなコリー犬で、狭い庭の半分に貼られた金網の中で生活している。
「おす、ロジェ」
ロジェはいつもお土産を持ってくる正治のことを承知していて、待ち遠しげに金網に鼻をこすりつけている。正治がいつものように差し錠を外して金網の中に入ると、後ろ足で立ち上がり抱きついてくる。足の悪い正治が思わず地面に尻餅をつくと、長い舌でビチャビチャと顔を舐める。
「ちょっと、待って。ほら、おやつ持ってきたよ」
チラシ紙の包みを空けようとすると、ロジェは行儀良く目の前に座り、興奮醒めやらぬ様子で息を荒げながら、正治を見つめている。ビスケットを差し出してもロジェは決して食べようとはしない。
「ロジェ、よしっ!」の号令で初めて頬張りはじめるのだ。
ビスケットを一枚ずつあげていると、玄関から昌志の母親が顔を覗かせた。
「あら、正ちゃん来てたの?」
「あ、こんちわ。昌志くんは?」
「今ね、宿題やってるからもうちょっと待ってて。正ちゃん宿題は?」
「まだ。帰ってからやる」
「あらそう。一緒にやっちゃえばいいのに」
「いいよ、あとで」
「そう、じゃどうする?上がって待ってる?」
「ううん。ロジェと遊んでる」
「あら、またお土産持ってきてくれたの?悪いわね」
「僕たちの分も持ってきたよ。ほら、お饅頭」
「美味しそうね。おばさんも欲しいな」
「いいよ。僕の分半分あげる」
「まあ嬉しい。じゃあ後でね」と、愉快そうにケラケラと笑って、家の中に入っていった。
昌志の父親はサラリーマンだが、母親は師範女学校出だそうで、夕方にはいつも近所の子供たちを集めて学習塾を開いていた。サバサバした気のいい人だが、こと勉強についてはちょっと煩いのだ。もちろん昌志はクラス一の優等生である。
ビスケットを平らげてすっかり興奮したロジェを相手に、暫く金網の中でプロレスごっこに熱中していると、昌志が晴れ晴れとした顔で出てきた。
「あれ?宿題もう終ったの?早いね」
「ああ、あんなの簡単だもん。ノート持ってきた?」
「持ってきたよ。おやつも、ほら」
「お、旨そう。上がれよ」
「じゃね、ロジェ。またね」
名残惜しそうに見上げるロジェを残して金網から出ると、土埃を払って昌志の後に続いた。
「おじゃましまーす」
「はい、いらっしゃい。後でジュースあげるからね。おばさんの分のお饅頭残しておいてよ」
「はーい!」
小さな家には不釣り合いの広い和室には、塾の教室に使われる長い机がいくつも置かれ、黒板の前で昌志の母親がせっせと準備をしている。その横の廊下の突き当たりにこじんまりした書斎がある。学習塾が開かれる平日の午後にこの家を訪れるときは、いつもこの書斎に通される。
「ねえ、正ちゃんのノート見ていい?」
「いいよ。昌志くんのも見せて」
2人のノートにはお互いがこれから描こうとしているストーリー漫画のプロットが書かれている。
新しい学級でこの春から同級生となった正治と昌志と幸夫の三人は、漫画好きという一点で瞬く間に意気投合し、3人で『品川マンガクラブ』と銘打って同好会を結成した。放課後にお互いの家を訪問し合い、貴重な蔵書を見せあうことから始まったが、それぞれ独自のオリジナル漫画を描いてみようという創作活動にまで話は盛り上がっていた。
「あははは…なにこれ?」
「これね、敵の子分の一人。宇宙人。弱いよ。すぐ泣くし」
「何持ってるの?」
「ペレペレ銃。撃たれてもね、くすぐったいだけなんだよね。戦意喪失ってやつ」
「ははは、おもしれー」
「この機械すごいね。ごちゃごちゃしてて」
「時空マシンなんだ。どこでもどんな時代にでも行ける。四次元を通り抜けるからね、体の大きさも変えられちゃうんだ」
「未来に行くの?」
「一応ね、まだちゃんと考えてないけど」
「過去もいいよね。忍者と戦ったりしてさ」
「うん、いいねえ。そういうのもいいよねえ」
話は尽きないのである。
正治と昌志が書斎で漫画ノートを見せ合っているところに幸夫が入ってきた。
「おすっ!」
「うすっ」
「やあ。遅かったね」
「うん、宿題やってた。みんなやった?」
「やったよ」
「俺、まだ」
「正ちゃんまた先生に怒られるぞ。ゲンコツグリグリって」
「あれ、イテーよなあ」
「いてーいてー」
「ジャーン!」
「あ、少年サンデー!」
「すげー!幸夫くん買って貰ったの?」
「ううん。お兄ちゃんの借りてきた。汚すなって」
郵政省の官舎に住む幸夫には、年の離れた高校生の兄がいて、なんと手塚治虫マニアだった。家に行くと、子供にとっては高嶺の花だった手塚のハードカバーの単行本が本棚にズラリと揃っているのだ。もちろん、勝手に手に取ることは許されておらず、遊びに行った時に運良く兄がいれば、手の汚れがないことを確認された上で、丁寧に扱うことを条件に読むことが許可される。
「俺、スリル博士読みたいな!」
「僕も!」
「いいよ、はい。頁折らないでね」
「やったー。サンキュー」
「ねえ、幸夫くんのノート見せてよ」
「えへへ…いいよ、ほら」
と、いつも持っているノートの頁を得意そうに開いて見せた。
「なに?これ?」
「どれどれ?なになに?」
幸夫のノートの新しい頁には、きれいにレタリングされた『品川マンガクラブ』の文字と『栄』の字を円で囲んだグラフィカルな丸いマークが描かれていて、その下に小さく『EIKOSHA』のローマ字。
「へへ、いいこと思いついたんだ。僕たちの品川マンガクラブは今日で解散するんだ」
「なんで?」
「漫画描かないの?」
「違うよ。品川マンガクラブは今日から会の名前じゃなくて、雑誌の名前にするんだ。みんな漫画を書き始めるでしょ。その漫画はこの雑誌に連載されるの」
「すっげー!」
「僕らの漫画が雑誌に連載されるの?」
「でもさ、3人だけじゃ、すっごく薄っぺらな雑誌になっちゃわない?」
「大丈夫。一人連載を二本持つんだ。1本が12ページで3人で6本。連載漫画の頁は72頁。それに目次とかコラムとか読み物とか読者プレゼント頁、作家紹介もね。大体百ページくらいには出来るよ。どお?」
「すごい!やろう!」
「やろうやろう!で、そのマークは?」
「だから、雑誌を作るんだから、僕らは出版社になるんだ。名前はね『栄光社』。雑誌の裏表紙にはこのマークをつけるのさ」
「いいねえ」
「いいねえ。栄光社。なんかかっこいいよね」
「でもさ、印刷は?」
「印刷はしない」
「どうするの?」
「みんな漫画描くときはノートをやめて藁半紙に描くんだ。藁半紙は2つ折りにして使って、1枚4ページでしょ?連載2本分で6枚ずつ描くんだ。で、全部集まったらきれいに綴じて同じ大きさの画用紙で表紙をつける。もちろん背表紙もつけるよ」
「でも一冊だけ?」
「そう。それをね、先生に頼んで学級文庫に置かせて貰うんだ。貸本とおんなじだよね。そしたらクラスの皆に読んで貰えるだろ?」
「貸本の雑誌かあ…いいかも」
「次の号が出たら、古いのは他のクラスに回してもらったりしてさ、学校中に読者ができたらいいよねえ」
「いいねえ」
「じゃ、栄光社結成だね」
「決まったね」
「ねえ、昌志くんスリル博士読もうよ」
「あ、読もう読もう」
「やっぱ、手塚治虫は上手いよなあ…凄いよなあ…」
「うん、武内つなよしも好きだけどね」
「少年ジェット?今日やるよ、テレビ。7時半」
「いいなあ、正ちゃん家にはテレビあって」
「僕はアパートの隣の家で見せてもらうんだ」
「昌志くんもご飯食べたら家に来なよ。金田くんと菅野くんも来るし」
「駄目だよ。夜は出かけちゃ駄目だから」
「そっか、しょうがないな。じゃとにかく、栄光社、みんなで頑張ろうぜ」
「そうだね。俺、ジュース貰ってくる」
「あ、そうだ!おばさんにこれ持ってって」
正治は包みの中から3つチョコレート饅頭を出し、自分の分を半分に割って、大きい方を昌志に渡す。3人はいつものように夕方までたっぷりと連載漫画のアイデア出しに没頭するのだった。
その日の夜、正治は夕食が終るとアパート裏手の坂を降りたところにある学校の裏門に友達を迎えに行く。四月の夜はセーターを着ていても少し肌寒かった。2人のクラスメートはニコニコと待ちきれない様子で街灯の下に立っていた。
「おす。待った?」
「ううん。今来たとこ。な」
茶色いカーディガンを来た背の高い菅野くんは、学校で会う時よりも小奇麗にお洒落させられている。
「うん。ついさっき着いたばっかり」
小柄な金田くんは、昼間学校で会ったときと同じ。ひじの破れたのセーターにお尻に大きな継ぎあてのある半ズボン。素足に踵を踏み潰した運動靴は泥だらけだ。何をしてきたのか、足も手も顔も煤で黒く汚れている。
「正ちゃん家って、学校の近くなの?」
「うん、すぐそこだよ。行こうぜ」
「ああ…母さんがさ、夜に人様んとこにお邪魔するんだったら、奇麗にしてけってさ、うるせえんだよな」
「ふーん、そうなんだ」
「おい、金田。お前、人ん家行くのにちょっと汚な過ぎるぞ。顔ぐらい洗ってこいよ。気が利かねえな、本当によ…」
「ごめんな。気がつかなくってよ」
「いいよ別に。テレビ観るだけなんだから」
金田くんはすっかり意気消沈し、しょんぼりと遠慮がちに2人に付いてくる。
「俺さ、少年ジェット、最初の方しか観てないんだ。今日は誘ってくれて有りがとな。なんかドキドキしてんだ」
「ここだよ。近いでしょ」
「へーえ、奇麗なアパートだな。お前ん家ってお大尽なの?」
「ううん。社宅だもん。お父さんの会社から借りてるだけ」
「へーえ、でもよ、すげえよなテレビがあんだから。なあ」
「うん…」
金田くんはまだ申し訳無さそうに、階段を上がりながら服の汚れをあちこち払っている。
「ここだよ、上がって。ただいまー、連れてきたよー」
ドアを開けて2人を迎え入れた。台所で母親が迎える。
「えーとねえ、同じクラスの菅野君と金田君だよ」
「あら、いらっしゃい。夜なのに大丈夫だった?お家遠いんでしょ?」
「こんばんわ。お邪魔します。これ、お母さんが持ってけって。今朝うちの鶏が産んだ卵です」と菅野くんは紙袋を渡す。
「まあ、美味しそうな卵ね。助かるわ。有り難う。こちらは金田くん?」
「こんばんわ…」
「あらあら、金田君は随分汚れてるわねえ。そこのお風呂場で顔と手と足と洗ってらっしゃい。正ちゃんタオル出してあげてね」
すかさず菅野くんは小声で「みろ、馬鹿。みっともねーな、本当によ…」と、囁く…
タオルを用意した正治が「こっちだよ。ほら」と、金田くんを促して風呂の湯を洗面器に汲んであげる。
風呂場の簀子の上で金田くんは足を洗いながら、遂にめそめそと泣き出してしまった。
「大丈夫だよ。気にすんなよ。早く洗って向こう行こ。少年ジェットもうすぐ始まっちゃうよ」
金田くんがようやくタオルを使い終えると、台所で所在なさそうに立って待っていた菅野くんを連れてテレビの置かれた居間に移動する。
六畳の居間には同じ社宅に住む2人の男の子、それに正治の兄の克雄の3人がテレビを見つめて座っていた。
「広樹くんと武彦くんもさっき来たんだよ」
「えーとね、同じクラスの菅野くんと金田くん」
「いらっしゃい。」
「どうも」
「ども」
「その辺に座んなよ。もう始まるとこだよ」
母親が人数分のジュースとビスケットを運んでくる。
「はいどうぞ。みんなもう少しテレビから離れて座りなさい。目が悪くなるわよ」全員がジュースを片手に少しテレビから離れて座り直すと、いよいよ番組が始まった...
ジェットの愛犬シェーンが吠える。
つづいて少年ジェットの後ろ姿が下半身だけ写しだされる。
振り向いたジェットの手元の拳銃。
画面手前の風船が次々と撃ち割られてゆくと、向こうに拳銃を構えた少年ジェットの姿が…
タイトルと同時に子供たちの声で「僕らの英雄少年ジェット!」、テレビの前の正治たちに鳥肌が立つ。
「シェーン!行こう!」と、高い柵を跳び越え、未来的装飾のスクーターに跳び乗る。
モウモウと煙を上げるスクーターの排気パイプに、主題歌の前奏が始まる。
都会の陸橋をさっそうと走り抜ける少年ジェットと愛犬シェーン…
テレビから流れる主題歌に合わせて正治たちも声を揃えて歌う。
「勇気だ 力だ 誰にも負けない この意気だ ヤア! 白いマフラーは 正義のしるし その名はジェット 少年ジェット 進めジェット 少年ジェット エービーシー!」
「エービーシーじゃないよ、ジェーイーティー」と克雄がたしなめるが、そんなこと皆はお構いなしである。
主題歌に続いて、ジェットとシェーンが河辺で穏やかにくつろいでいるシーンが映し出される。
そこに冒頭ナレーションが入る。
正治たちも声を揃えてお馴染みのセリフを唱える。
「明るく元気で正しい心。少年ジェットこそまことの少年の姿である。いかなる困難・危険も越えて、少年ジェットは今日もゆく!」
再び克雄が「まことの少年がオートバイ乗ってピストル撃ちまくるかよ」と一言。
みんながゲラゲラと笑う。今度は無視されなかったので、克雄も満足そうだ。
[昭和34年1月、当時手塚治虫と並んで人気の高かった武内つなよしの原作で少年漫画雑誌に連載が始まった『少年ジェット』は、SF的な背景の少年探偵ストーリーで、瞬く間に全国の漫画少年の間で大評判となり、同じ年の3月からテレビ放送が始まった。この年の間に日本のテレビの普及率は一気に20パーセントを越え、少年ジェットはまさに日本のテレビ普及期の象徴的ヒーローとして、日本中の少年たちの心に深く刻まれることとなる…]
少年ジェットが終ると、皆は早々に帰っていった。
正治はいつものように隣の子供部屋に布団を敷き、入浴を済ませ、漫画雑誌を持って寝床に入る。私立中学に通う兄の克雄は、まだ勉強が残っているようだ。
読み慣れた漫画を数頁も辿ると、もう眠気が襲ってくる。ウトウトした意識の中で、宿題のことを思い出した。
『ああ…明日のグリグリは痛いだろうなあ…』
2 秘密基地
翌日の学校で、正治を含め宿題を忘れた4人が先生からこっぴどく叱られた。4人の中には菅野くんと金田くんもいた。昨夜2人が正治の家にテレビを観に行ったことは、お喋りの女子の口からとっくに担任には伝わっており、授業が終ると「おい、川村!ちょっとこっち来い」と、呼ばれた。
「お前は勉強が出来るんだし、学級委員だろ。夜友達をテレビになんか誘っちゃ駄目じゃないか」
「でも、少年ジェットがあったんです」
「何だそりゃ、そんなに面白いのか?」
「はい…」
「そうか…それじゃあお前が率先して宿題を終らせてから来るように言わなきゃ駄目だろ」
「はい…」
「分かったら、さっさと帰って宿題済ませとけ」
「はい」
校舎を出ると菅野くんと金田くん、昌志と幸夫、もう一人宿題を忘れた学級一のやんちゃ者、卓也の5人が心配そうに正治を待ってくれていた。
「怒られた?」
「ううん」
「やっぱ、テレビに誘っちゃ駄目だって?」
「ううん。宿題ちゃんとやってくりゃ、いいって」
「ごめんな」「ごめんな」
「平気平気、俺も忘れちゃってたし。グリグリされなかったし」
「だからあん時一緒に宿題やっちゃえば良かったのに」と、昌志。
「畜生…あさ子のお喋り…焼きだな」
「ごひいきだもんな」
「しょうがねえよ、女子だもん」
「そうだな、女子だもんな」
「そうだ菅野と金田、今度からテレビ、うちに観に来いよ。近くだろ」
「え?卓也ん家テレビあんの?」
「ああ、美智子様ん時、お爺ちゃんが買ってくれたんだ」
卓也の家は南品川で代々運送業と銭湯を営み、祖父は区の議員も勤める地元の有力者だった。正治とは住む地域が違うので放課後遊ぶことはなかったが、前の学年から引き続き同級で、学校では結構気の合う友達だった。卓也はお調子者で正義感の強い一匹狼、放課後は概ね一人で行動し、あちこちで冒険や悪戯を見つけては面白おかしく報告してくれる。体こそ華奢だが、やたらと度胸が良く、どこで身に付けたのか子供のくせに恐ろしく喧嘩慣れしている。
つい先日も、校舎の裏にある動物小屋を2人で見に行った時、正治がたちの悪い上級生3人組に因縁をつけられた。
「おい。お前、ヒョコヒョコおかしな歩き方しやがって。目障りだから学校来んな」
卓也は怯えて立ち尽くす正治の前に立ちはだかった。
「何だよお前えは、やんのか?」
ニヤニヤと凄んで、上級生が卓也の胸ぐらを掴もうとしたその時だった。
『ボコッ!』卓也の頭突きがいきなり彼の顔面にヒットした。突然の攻撃に怯んだ相手は顔面を押さえて身を屈めようとする。そこに卓也の見事な回し蹴りが飛んだ。大柄な上級生は地面になぎ倒され、鼻血を流しながら腕を押さえてその場でオイオイ泣き始めてしまった。他の2人は顔色を失ない呆然とするばかり…まるで大人の本物の喧嘩を見るようだった。
教室に戻る途中、卓也は興奮した様子もなくいつもの口調で正治に言った。
「正ちゃんさ、今のこと誰にも言わないでね。先生に知られたらやばいからさ」
「でも、さっきの奴等が言いつけるんじゃない?」
「ああいう奴はね、下級生にやられたなんて絶対誰にも言わないよ」と、余裕の表情で微笑む。
卓也は喧嘩に関しては、本当に同じ年とは思えない熟達者だった。
「じゃあな、またな」
「バイバイ」
「あば」「あば」
卓也と菅野くんと金田くんは正門から南品川に、正治と昌志と幸夫は裏門から北品川に帰ってゆく…
正治はこの品川に住むようになって、小学校に通う子供たちには明確な地域的派閥があることを知った。区立品川小学校は山手通り、つまり東京環状六号線に面して北側にある。
山手通りにほぼ沿っている目黒川を境に反対側は南品川で、ここは江戸時代からの下町。小さな工場や商店、昔ながらの木造アパートや長屋が密集し、宿場町品川を支えたいわゆる職人街である。祭が好きで、気っ風が良く、人情は厚いがガラも悪く、やくざ者も多い地域。
一方北品川は、学校がある山手通りから八ツ山、御殿山に向かって坂を登る丘陵地帯、いわゆる山の手で、戦後に造られた建て売りの文化住宅に加えて、昭和30年代には正治が移り住んだような大手企業の鉄筋の社宅アパートや公官庁の官舎が数多く建てられ、企業勤めのサラリーマンや公務員が核家族で暮らす地域である。品川小学校はまさにその境界線にあった。
その日、家に帰って罰の宿題をそそくさと済ませた正治は、特に目的もないまま団地の子供グループの集合場所に向かった。
団地敷地内の砂場には既に20人近い子供たちが集まっていて、リーダー格である6年生のタカシが皆に指示をだしていた。 優等生タイプのタカシは抜群の運動神経の持ち主でベー独楽にかけては町内右に出る者のいない猛者、責任感が強く年下の面倒見も良い。
「あ、正ちゃんが来た!」と年下の男の子が嬉しそうに叫ぶ。
すかさず、タカシが少し困惑した表情で話しかける。
「どうする?正ちゃん。今日さ、電電公社のやつらと空地でキックベースの試合するんだけど…来る?」
皆が正治を見ている…
メンコやベー独楽やビー玉の試合ならある程度の自信はあるが、スポーツ系の試合となると、足の悪い正治は大概の場合チームの足を引っ張ってしまう。ただし、4年生という年からすれば、当然試合のメンバーとして参加する資格は充分にある。タカシがそのことに気を遣っているのが良く分かる。出来れば正治に試合に参加して欲しくないのだ。
「正ちゃんは足が悪いから、試合には来なくていいよ」とストレートに言われた方が、よっぽど気が楽なのである。
「えーと…いいや、僕。ごめんね、ちょっと後で用があるから」
ほっとした表情を隠しきれないタカシは「そうかあ…じゃあまた今度な。よしっ!みんな行こうぜ!」と殆どの小学生男子を引き連れて出発する。
「正ちゃん、私の家に遊びに来る?」と、そっと近づいてきて小さく囁いたのは、同じクラスの女子、サカちゃんこと栄である。いつも小奇麗で適度に淑やかで、勉強が良く出来、明るい栄は正治のクラスではマドンナ的な人気者。しかも今は正治と共に学級委員を勤めている。
声を掛けてくれたのは素直に嬉しかったが、事の成行からして、ここでおめおめと女子のグループに参加したのでは、さすがに面目が立たない。
「いや、いいんだ。本当にちょっと行きたいとこがあるからさ。またね」
「そお…」
不満げな表情の栄たちを残して、正治は社宅の敷地を後にした。
正治のように身体にハンディーを持つ子供は、周囲からの苛めや差別などが無くても、このように必然的に孤立してしまうことが少なくない。そんな時の為に、正治は品川に引っ越してすぐに、密かに格好の場所を見つけてあった。
社宅から北側に狭い坂を上っていくと、東海道線の線路脇に『権現山』と呼ばれる小さな丘がある。
この丘の上は北品川の子供たちの格好の遊び場だが、丘の裏手、雑木の隙間を縫って下ってゆくとちょっとした開けた場所に出る。せいぜい5メートル四方程度の広さだが、丘側の土壁には大きな洞穴が開いている。洞穴の中に入って5、6メートルも進むと、その先は板で完全に塞がれていて、板には薄れてしまった文字で『危険・立入禁止』と書かれている。当時は日本中のそこここにあった戦時中の防空壕跡である。
ここは、坂道からも丘の上の遊び場からも隔絶されていて、まさに地域の死角にあり、今のところ正治以外の子供がここを訪れた形跡はない。たまにこの近辺に住み着いた野良犬が1匹訪ねて来るだけである。
正治がここを発見した時、穴の入り口の脇に一畳ほどの大きさの古い建築用平台が2枚と木材の板が数本立て掛けてあった。ここを塞ぐ折に使用した木材の残りだろう。正治は近くから大きな石を幾つか洞窟の中に運び込み、その上に2枚の平台を置いて、ここを自分だけの秘密基地にしたのだ。
雑木に囲まれた場所なので人目に付かない分陽当たりは悪いが、特に湿気が多いわけでもなく、雨風も充分にげる快適な場所である。
正治が立て掛けられたままになっている材木を退けると、その後ろの土壁には四角い隠し棚が掘ってあり、靴箱が1つ置かれている。箱を抱えて平台に上がり、中をチェックする。
箱の中には、兄から譲り受けたイヤホン付きのゲルマニウム・ラジオ、古い懐中電灯、切り出しナイフ、小さなノート、消しゴム付き鉛筆1本、紙紐、神社の稲荷の祠から失敬してきたロウソク数本と大きなマッチ箱、ローマッチ1箱、そして赤いビニール袋が1つ丁寧に畳まれて入っている。
ビニール袋から箱の蓋の上に中身を広げる。おもちゃのピストル用の紙巻き火薬や平紙火薬、それに数本の2B弾とアルミ製のフィルム缶が2つ…
正治は1人でいる時には、親から課せられたルールから開放される喜びを満喫することにしている。当時の親達が目の敵にしたのは、健康に有害な添加物を使用した不衛生な駄菓子類と危険性の高い火薬玩具の類いであった。
正治は、親から禁止されている駄菓子屋に出入りし、密かに買い食いと火遊びに没頭しているのだ。赤やピンクの怪しげでユニークな形状の様々な駄菓子。ニッキやサッカリンやチクロの新鮮な味覚に取り憑かれながら、ある日そこで見つけた『2B弾』という爆薬玩具の虜になってしまった。
当時の子供なら多分誰もが知っているこの『2B弾』は、長さ7、8センチほどの細い厚紙の筒で出来た爆裂弾で、先端にマッチ状の着火剤が付いている。これをマッチ箱で擦ると、簡単に点火できる。点火後、2、3秒火を吹いた後、白い煙を発し、それが10秒ほど続き、煙の色が白から黄色に変化する。こうなると足で踏んづけようと、土に埋めようと、水の中に放り込もうと、どんなことをしても決して火が消えることはない。そして、数秒後『バンッ!』と大きな音を立てて爆裂するのである。
僅か5円で10本入りの箱が買え、懐の寂しい時でも1円で2本とバラ買いも可能である。たまにせしめる十円玉や五円玉で充分楽しむことが出来た。正治はこの秘密基地で、駄菓子の着色料に舌を染めながら2B弾の研究に勤しんでいるのだ。
フィルム缶の一つには2B弾を分解して取り出した火薬のサンプルの幾つかが小さく紙に包まれ保管されている。もう一つの缶には、大切なへそくりの小銭が入っている。正治はフィルム缶から小銭を手の平に出す…10円玉が1枚と5円玉が3枚…暫く考えて、2枚の5円玉をポケットに入れると、広げたものを箱の中にしまい、再び箱を棚の中に戻し材木で隠した。
「よしっ」
ズボンの埃をパンパンと払うと、基地をあとにして、坂道を下ってゆく…
坂を下り、社宅の横を通り過ぎ、学校の裏門を過ぎると、大通りにぶつかる手前左側に薄汚れた『五厘屋』の看板の小さな古い駄菓子屋がある。
この駄菓子屋は社宅から近い北品川側にある店なのだが、買いに来る子供は殆どが南品川の子供たちである。小さな店構えの割には奥行きがあり、狭い店内には上手くコの字に通路が出来ていて、ゴチャゴチャと見事に豊富な品揃えの駄菓子や玩具の山の中を、常に5、6人の子供が棚を物色しながら右往左往することが出来る。
この店の主は『おばちゃん』と呼ばれる初老の女性で、口やかましい反面、子供の立場に立って実にきめ細かく商品情報を与えてくれる。
流行にも敏感で、子供たちから一目も二目も置かれる、指導力抜群の人格者であった。
「あら、あんた今日は何買いに来たの?メンコ?メンコはそっちの棚だよ。あー、だめだめ、あんたはいつも巻き上げられっちまうんだから、大メンはまだ早いよ。そこの小さい束のやつにしときな。しっかり蝋を塗って、反らないように少し曲げとくんだよ。近所のお兄ちゃん達によく教えてもらいな。上の棚の束なら月光仮面が入ってるからね。無駄遣いするんじゃないよ」
「グライダー?そこに下がってるやつ全部5円だよ。鉛の付き方で飛び方が違うからね。よく見て選びな」
「そんなにニッキ水ばっかり飲んだらお腹こわすよ。1本だけにして、あとは他のものにしなさい。そこの練り飴は美味しいし、安いよ」
「だめだよ、一人でそんなに買っちゃ。小遣いはもっと大事に遣いなさい」
「あー、学校帰りの子は駄目。ちゃんと家に帰って、ランドセル置いてからまた来な!」
「ほらほら、お菓子を買う子はそこの水道で手え洗っといでっ。そんな手の汚い子にはお菓子は売らないよ」
折角せしめたお小遣いを、途中で無くしてしまった可愛そうな常連には温情があったし、通ってくる子供たちそれぞれの指向や懐具合まで良く分かっていて、適確に助言を与えてくれる。
冬の寒い日には、店先に七輪と小振りの鉄板を出して『もんじゃ』や『どんど』(小さな薄い醤油味のお好み焼き)を焼いてくれるし、機嫌が良いときには、奥から三味線を出してきて、粋な小唄を一振り二振り聞かせてくれる…子供にとっては暖かい理想的な駄菓子屋だった。
通りを越えて遠くからやって来る価値は充分にあるのだ。
しかし、北品川の子供たちがこの『五厘屋』に来ることは殆ど無い。親達から一方的に駄菓子屋への出入りを禁止されていたからだ。
『五厘屋』のおばちゃんは、最近常連になった正治が店に入ってくるのを見ると、すぐに声をかけてきた。
「あっ、あんた今日はすごいの仕入れたよ。そこの棚にあるよ」
いつも正治が真っ先に向かう火薬玩具類の棚に派手な箱が飾ってある。箱には大きく『1B弾!』と書かれていて、中を見ると通常の2B弾より遥かに大きい全長10センチ以上もある太い爆裂弾が入っている。
「すごーい!何これ?」
「1Bだよ。2Bの倍の威力なんだってさ。2Bに慣れた子にしか売らないよ。危ないからね、広いところで離れて破裂させるんだよ。小さい子と一緒にやっちゃ駄目だからね。それとほら、着火のところがちょっと違うだろ。ローマッチとおんなじで、マッチ箱が無くてもどこでも擦れば火が付くんだ」
「すげえ…いくら?」
「1本1円。一箱は5本入り」
正治は1本を手に取って暫く眺めていたが、やがてそれを棚に戻し、5本入りの箱を1つ掴んで、おばちゃんのところに持っていった。
「やっぱり買うかい?あんた、好きだねえ…こういうの」
「うん、えへへ…それとねえ、ジャムカステラ」
「はいよ、ジャムカステラね。両方で10円」
『ジャムカステラ』とは、カステラとは名ばかりの黄色く着色された甘いパン生地にオレンジ色のジャムを挟んだもの。ビニール袋に2つ入っていて、駄菓子のラインナップの中ではボリュームのあるものとして人気が高い。
正治がポケットから5円玉を2枚出して支払いを済ませると、いきなり後ろからポンと肩を叩かれた。
「よう!」
振り返ると、卓也がタコ糸付きの大きな飴を口の中に入れて、ニコニコしながら立っていた。
「あ、タクちゃん。来てたんだ」
「うん、クジやってさ、はずれちゃった…ほら…」
と赤い飴を口から出して、糸を持ってブラブラさせて見せる。卓也と『五厘屋』で合うのは初めてだ。
「正ちゃん、ここ良く来るの?」
「うん、内緒だけどね」
「でも北品川のやつら誰も来ないじゃん」
「うん、禁止されてるから…」
「なんで?」
「駄菓子は身体に悪いんだって…」
「ふーん…平気だけどな」
「平気だよね」
「正ちゃん、2B買ったんだ」
「ああ、これ1B。2Bの倍の威力なんだって…」
「へえ、どこでやんの?」
「権現山。来る?」
「おお、行こうかな」
2人は店を後にして、権現山に向った。
幸い、権現山には遊んでいる子供は少なかった。
高台の一番奥のひと気のない場所を見つけると、正治は手で地面に小さな穴を掘った。
「いい?やるよ」
足下の石から大きめの平らなものを選んで、買ったばかりの1Bの箱から一本を取り出すと、先端を擦り付ける。
『シュッ』と小さな音を発して1Bは火を吹いた。火がおさまると、モウモウと白い煙を吹き始める。正治は煙を吐く1Bを手に持ったまま、じっと変化を待った。
卓也が少し後ずさりして言った。
「正ちゃん、やべえ、危ねえぞ」
「まだまだ、大丈夫大丈夫」
やがて煙の色が黄色に変化しだした。
「よしっ」
正治は1Bを穴の中に置くと、手早く上から土を被せ、さらに上からギュッと靴で踏みつけると、「いいよ、タクちゃん少し離れよう!」と、卓也をうながして数メートル後ろに下がった。被せた土の表面から黄色い煙がゆらゆらと登りはじめている。
『ズボムッ!』突然くぐもった鈍い大きな音と共に地面の土が吹き飛び、細かい土塊が2人の足下付近にまでパラパラと落ちてきた。
「すげえ!」
「すごい!」期待以上の爆発力に、正治は胸の高鳴りを抑えきれず、直ぐに破裂した穴に駆け寄った。バラバラになった厚紙の残骸を拾い集めて、爆裂の具合を確認する。
「ねえ、俺にも1本やらせてよ」
「いいよ。ほら」と、正治は箱から取りだした1本を卓也に手渡す。
卓也は正治を真似て石を拾って擦り付けるがなかなか着火しない。
「だめだめタクちゃん。もっと平らな大きい石でなきゃ。ほら」
正治は石を選んで手渡す。
「でね、もっと先の方をもって、なるべく垂直に立てて強く擦るんだよ」
「こう?」
今度は首尾よく着火し、煙を発し始める。
「まだ、爆発しない?」
「大丈夫大丈夫。煙が黄色くなってから十秒ぐらいだったよ」
「そうか…」真剣に煙を睨んでいる…やがて煙の色が黄色に変化する…
「いち、にー、さん…」
さすがにタクちゃんは度胸がわっている。
「ごー、ろく、しち、はちっ」ここまで数えて卓也は爆弾を空高く放り投げた。
爆弾は空中に煙の弧を描きながら、落下の途中で『ドンッ!』と予想以上の物凄い音をたてて爆発した。遠くで遊んでいた数人の子供たちが一斉にこちらを振り返る。
『やった!』と言わんばかりに卓也は得意そうに中空の残煙を見上げている。
近くの団地のベランダで洗濯物を取込んでいた主婦が険しい顔で覗き込むようにこちらを見ている。まずいことに、団地から飛び出してきた大人に遊んでいた子供がこちらを指さして何やら説明している。北品川の大人たちはこういうことにはちょっと煩いのだ。
「タクちゃん、ちょっと音でかかった。やばい、あっち行こ」
「え?何が?」といぶかる卓也を引っ張って、その場を離れ、雑木林の方に降りていった。
「タクちゃんさ、秘密守れる?」
「なになに?」
「この下にさ秘密の場所があんだけど、誰にも言わない?」
「おう、いいよ」
「じゃ、こっち」
秘密基地に初めて迎える同志として、卓也ほどふさわしい人物はいない、と正治は直感的に思った。
卓也は、雑木林の突き当たりに突然現われた小さな空間をキョロキョロと見渡している。
「ほら、ここ。そこの洞窟んとこが俺の秘密基地なんだ」と中の平台まで卓也を案内した。
「すげえ!ここ何?」
「前に見つけたんだ。防空壕の跡みたい。誰も来ないんだぜ、ここ」
「いつも正ちゃん1人?」
「うん。ここに居るときはね。ねえカステラ食べない?」
「おう。貰っていいの?」
「いいよ」と、袋からジャムカステラを出して、1つを卓也に渡した。
2人がおやつを頬張り始めると、雑木の隙間から薄汚れた白い大きな野良犬がのっそりと現われた。
「あ、日吉丸だ」
「正ちゃんの犬?」
「ううん、野良犬。ここによく来んだ。慣れてて可愛いよ」
「日吉丸っていうの?」
「うん。俺が勝手に名前付けたの。そんな感じでしょ?」
「そうだな。へへ…おい日吉丸、こっち来い!」
日吉丸は卓也に近づき、伸ばした手の匂いを嗅いで、ペロペロと舐めた。卓也がカステラを半分割って差し出すと、パクリとくわえて平台の上に登り、美味しそうに頬張る。
食べ終ると、次に正治にすり寄って、お裾分けを貰った。まるで自分が飼い犬だった頃を懐かしむ様に、正治がここに来ると、何処からともなく現われ、傍らに寝そべって一緒に時間を過ごすのだ。
「正ちゃん、いつもここで何してんの?」
「秘密の研究。見たい?」
「おう」
正治は隠し棚から箱を取り出して、一部始終を細かく卓也に披露した…
「…だから、爆裂弾は3種類の火薬を遣うんだ。これが発火薬、これが導火薬、それで爆薬だね」
卓也は正治のゲルマニウムラジオをいじりながら説明を興味深げに聞いていた。
「へーえ、正ちゃんて、爆弾作んだ」
「うーん…爆弾だけじゃなくって、地雷とかいろいろ作ってみたいけど、まだまだ無理だな」
「なんで?」
「だって、いろいろ試してみるのに、火薬もっと沢山いるし、そんなに2B買えないしさ。紙火薬とか、いろいろ沢山買えるといいんだけど…お小遣いあんまり貰えないしさ…」
「そうか…俺さ、協力するからさ、頑張れよ。ここ、時々俺も来ていい?」
「いいよ。良くなきゃ教えないもん」
「他にここ知ってるやついないの?荒井とか斉藤とか…」幸夫と昌志のことである。
いつもクラスで3人が仲良しであることを卓也は良く知っているのだ。
「幸夫くんと昌志くんとは一緒に漫画描いてるけど、爆弾のことは話してないよ。僕だけの秘密だし、あいつらあんまり危ないこと好きじゃないしね」
「じゃ、今んとこ2人だけの秘密なんだな」
「そうだね。絶対秘密だよ」
「おう。ここで、すごい爆弾作ろうぜ」
「うん」
2人が日吉丸に見送られて帰宅の途についた頃には、空は一面の夕焼けに覆われていた。
3 師匠
あの日以降も、卓也は相変わらず単独行動の冒険の日々を追及していて、「今日はちょっと行くとこがある」「これから見に行かなきゃならないものがある」と言っては何処かに消えてしまい、秘密基地に姿を現すのは2日に1度ほどだったが、基地に来たときには暫く正治と一緒にいて、駄菓子を分け合いながら爆弾研究の悩みを聞いてくれたり冒険の成果を報告してくれる。
正治にしてみれば、社宅のグループや漫画仲間たちからは決して得られない卓也の新鮮な危うさと真直ぐな正義感に触れることが、爆弾研究の大きな励みとなっていた。
卓也は時に、冒険の成果を見せるために、正治を様々な場所に案内した。
大きな塗料工場の敷地内に設置されたトロッコ、ザリガニが異常に群生する線路脇の排水溝、倒産した会社ビルへの侵入、生きた鰻を一気に引裂く鰻屋の職人、土木工事現場に掘られた大きく深い穴、ビルマ大使館内の美しい庭園、小高い山の頂上に二人を運んでくれるベルトコンベア、埋め立て途中の底なし沼、処理場に集められた自暴自棄の凶暴な豚の群れなど、卓也の行動範囲は驚くほど遠方にまで及んでいた。中には犯罪の境界線を越える過激な冒険もある。
「こらあ!お前らそこで何してる!」と怒鳴られ、大人から追いかけられることもしばしばあったが、卓也は足の悪い正治の為にいつも確実な逃走経路を確保してくれていたので、捕まって親や学校に通報されることはただの一度もなかった。
ある土曜日の午後、正治がいつものように秘密基地で爆薬の調合をしていると、卓也がぶらりとやってきた。
「おう!どお?進んでる?」
「駄目だな。火薬もっと欲しいけど、全然足りないや」
「おう、これ持ってきてやったぞ」と、卓也は膨らんだスボンのポケットから小さなトランジスターラジオを取り出して見せた。
「すごい!トランジスターラジオじゃん!どうしたの?これ」
「前に爺ちゃんに貰った。ここに置いとくから使っていいよ」
「え?本当にいいの?」
「おう、いいよ。ほら」とラジオを手渡してくれた。
当時、トランジスターラジオは大人にとっても贅沢な高級品だった。正治が持ち込んでいたゲルマニウムラジオは、基本的には鉱石ラジオに毛が生えたようなもので、感度も鈍く耳を澄ましてイヤホンの奥から聞こえる微かな放送波を追い求めなければならず、いつでも思い通りに好きな番組を受信できるわけではなかった。
卓也のトランジスターラジオはこの秘密基地の環境を、文化レベルを一変させた。
キラキラ輝く銀色のアンテナを伸ばしてボリュームを上げ、チューニングダイヤルを回すと、正治の好きなコニーフランシスの歌声が鮮明にスピーカーから流れ出した。
「やった!フェンがはいる!」
エルビス・プレスリー、ポール・アンカ、プラターズ、コニー・フランシス、チャック・ベリー、ボビー・ダーリン、ダイヤモンズ…
時代の最先端の音楽を届けてくれる極東米軍放送局FEN。
平台の上に置かれたラジオからは、軽妙な英語のDJコメントを挟んで、次々とヒット曲が流れる。洞穴の土壁の反響と板に伝わる振動…小さなスピーカーから驚くほど立体的な音響効果が生まれた。
夢心地の気分を卓也が遮る。
「正ちゃん、師匠のとこに行ってみない?」
「師匠?…誰?それ…」
「商店街のお面屋さん。知らない?」
「ああ、あの、お面彫ってるおじさん?片腕のひと?」
国道の向こう側の商店街に、古い提灯屋がある。提灯は普通季節的に需要が集中するものなので、ここの主は普段は店先で般若や天狗、お多福やひょっとこといった庶民芸能や神楽の面を彫っている、いわゆる『面打ち』と呼ばれる木彫家だ。
ただし、どんな事情なのかは知らないが、彼には片腕がない。肘のところで断ち切られてしまっている腕で器用に木材を抑えながら、無我夢中で面を彫り続ける姿は、ちょっと鬼気迫るものがあり、気にはなるものの、近付いてゆく勇気が正治にはなかった。
「そうそう、その人。行かない?」
「いいけど、何しに?」
「相談すんだよ、お金のこと。いい人だし、いろんなこと知ってるからさ、きっと何か教えてくれるぜ」
「いい人…なの?」
「おう、いつも行くんだ。俺の師匠。行こうぜ!」
2人は早々に基地を片付けると、商店街に向かった。
その人はいつものように店先に小さな腰掛けと道具台を出して、膝の上に彫りかけの面を置き、背中を丸めるように懸命にノミを使っていた。
「師匠!こんちわ!」
「おう!卓也か。また来たのか」
いつも背中を丸めて下を向いて面を彫っているので、正治はその人物の顔をきちんと見たことがなかったが、手を休めてこちらを向いた男は、初老で白髪まじりの職人刈り、深い皺の細面に小さな目が優しそうに笑っている。やせ形ながら屈強そうな体つきで、ダボシャツの上に開襟シャツを羽織っていた。ノミを持った腕の肩の辺りには入れ墨がちらりと見えている。
「今日はダチ公連れてきたんか?」
「うん!正ちゃんって言うんだ。同じクラスでね、仲良しなんだ。こいつ級長なんだよ」
「はじめまして。こんちわ」
「おう、よく来たな。級長か、卓也のダチは優等生か。おう、級長さんよ、卓也は学校じゃどんなだ。え?暴れん坊か?」
「いえ、いいやつです。弱いやつはいじめないし、秘密は守るし、信用できるやつです」
「おっ、信用できるやつときたか。そりゃ、てえしたもんだ。見込まれたもんだな、はは… よし、おじさんもここらで一息入れるか…」
と、ズボンの木屑を手拭いでポンポンと払いながら店の中に声を掛ける。
「おいっ!卓也がダチ公連れて来たぞっ!なんか菓子でも出してやれっ!ほら、2人とも中に入えんな」
2人はうながされるまま、店の中に入る…
狭い店内には作業場を中心に大小様々な提灯、さらに壁には彩色された20点ほどの木彫の面がずらりと飾られ、光沢を放っている。それはまるで、人間の喜怒哀楽全てを壁一面に集めたような迫力で、正治は一瞬足がすくんだ。
「…な、すげえだろう」卓也が耳元で囁く…
「…うん…」
「おう、2人ともそんなとばっ口に突っ立ってねえで、こっちに来て座んな」と、師匠は作業場の板床をコンコンと叩く。
「はい」と2人は腰掛ける。
「お、なんだ、級長さんは足が悪いんか」
ここまでストレートに聞いてくる大人は、大概の場合良い人物である。正治の緊張が少し和らいだ。
「はい。小児麻痺です」
「正ちゃんはね、足が悪くっても、体操でも何でもみんなと一緒にちゃんとやるんだよ」
「あったりめえだ。おじさんだって腕が無えからって仕事しねえでブラブラしてたら、おまんまの食い上げだあ。なあ」
「あのお…おじさんの腕はどうしたんですか?」正治が恐る恐る尋ねる…
「これか?こりゃあエソだな。焼夷弾で火傷したとこから腐っちまってよ、そうなるともう、こうバッサリ切るしかねえんだな」
「ほらほら、あんた、子供相手にそんなおっそろしい話してんじゃないよ」と、奥からおかみさんがお盆を持って顔を出す。
「こんにちわ」
「おじゃましてます」
「はいはい、よく来たね。子供はめったに来ないからさ、こんなもんしかないけど、ま、ゆっくりしていきなさい」
板床の上に番茶と五家宝を盛った器が置かれる。
「おう、遠慮しねえでやんな」
「いただきまーす」
「いただきます」
2人は板の上に黄な粉をこぼさないように慎重に五家宝を頬張る…
「卓也、今日はなんだ?仕事見に来たのか。それとも、また喧嘩の相談か?」
「ううん、ほらこの間相談したでしょ。どうやったらお金が稼げるかって」
「おう、あの話か。お前え、なんでそんなに金が欲しいんだ?親から小遣い貰えねえのか?」
「ううん、僕じゃなくて、こいつなんだよ」
おかみさんが口を挟む…
「子供はね、外で遊んでりゃいいんだよ。やたら金なんか持つとロクなことにならないんだから!あんたも人様の子供に変な知恵つけないでおくれよ」
「るせえな!ばばあは奥にすっこんでろ!なあ」
「はいはい。じゃあね。遠慮しないでゆっくりしておいきよ」
おかみさんは、機嫌良さそう笑いながら奥に戻っていった。
「おい、おめえら、廃品屋って分かるか?」
「うん、クズ拾いの人でしょ」
「おう、この辺には頑さんってのがよく来んだけどよ、この間ちょっと聞いてみたんだ。子供が持ってって金に換えてくれるもんはなんかねえか、って。そしたら、アカと鉄クギなら買い取るって話だったぞ」
「アカって何ですか?」
「アカってえのは銅のことだな。家の洗面のとことか…ほら、そこの棚の縁に付いてるだろう。赤茶色で緑色のサビが付くやつだ」
「鉄クギって、普通のクギ?」
「五寸釘だな。このくらいのでけえやつだ。サビはきれいに取ってな、1本や2本じゃ駄目だぞ。10本くらいかき集めりゃ、多少の小遣いにはなっだろう」
「へーえ、アカと五寸釘か…」
「頑さんって人はどこに行けば会えるんですか?」
「たしか…そうそう、旧街道の向こう側に引揚げがあっだろ?あそこから来るって言ってたな。俺の方から話しといてやるよ」
「宜しくお願いします」
『引揚げ』というのは、朝鮮戦争によって難民として日本各地に引揚げてきた在朝日本人家族の人たちのことで、品川では海岸近くの埋め立て地近辺に自分たちで小屋を建てて暮らしている。品川近辺では最も危険な地域とされている。
「で、金稼いで一体何に使うんだ?」
先程のおかみさんの忠告からして、まさか正直に爆弾の実験に使うなどとはとても話せない。どう言ったらいいのか、言葉を探していると、卓也がすかさず割って入った。
「こいつね、凄いんだ。漫画も描くし、色んなもの発明するんだ。遊び道具とかさ。いっつも色んなこと考えててさ。な」
「漫画描く材料とか、色んなもの作る材料とか、お小遣いだけじゃ足りなくって…」
「ほう…そうか。うちの店でなんか手伝いでもありゃいいんだけどよ、子供に出来るようなことは無えしなあ…ま、あとはお母ちゃんやお父ちゃんの手伝いでもして小遣いせびるんだな」
「はい…」
2人は師匠の店をあとにすると、すぐその足で秘密基地に一番近い空地に向い、片隅に放置された廃材の山を引っ掻き回した。しかし、長く放置された廃材には既に多くの廃品屋の手が入っており、アカはおろか、目ぼしいものは殆ど見つけられなかった。
腐った板を踏み抜き、湿気ですっかり重くなってしまった太い木材を移動し、膝や手に幾つもの擦り傷をつくり埃だらけになって、ようやく錆びた2本の五寸釘を手に入れた。それでも2人は第一歩を成し遂げた充実感を胸に、悠々と大切な戦利品を秘密基地に持ち帰ったのだった。
夕方、2人は正治のアパートの階段の踊り場に並んで立っていた。柿の木越し、向かい家の二階に女子高生の姿があった。半袖のブラウス姿で、いつものように本を片手に部屋を行ったり来たりしている。
「どお?タクちゃん」
「マブいじゃん…いつもいるの?」
「ときどき…だけどね」
「でも大人だな。おっぱい大きそうだし」
「うん、大人だね。タクちゃんってさ、どんな大人になりたい?」
「うーん…分かんねえなあ…正ちゃんは?」
「やっぱ漫画家かなあ…あと、少年ジェットになれたらいいなあ…」
「はは…なれる訳ないじゃん。それにあれ、大人じゃねえぞ」
「でもさ、探偵でさ、いつも戦いとかあって、かっこいいじゃん」
「そうだな…確かに、かっこいいよなあ…俺も少年ジェットみたいになれたらいいなあ」
「なれたら、いいよねえ…」2人はしばらく黙って空想を巡らせていた。
4 栄と晶
「ただいまー!」
「お帰りなさい。まあ、随分汚れてるわねえ。手と足と洗いなさい。顔もよ」
いつものように、夕食を支度しながら母が迎えた。
「はーい」正治は洗面所に飛び込む。
「正ちゃん今日は何処に行ってたの?」
「権現山」
「昼間、サカちゃんが来たから、権現山に行ってるって言ったけど、さっきまた来て、居なかったって言ってたわよ」
「タクちゃんと一緒にね、裏の林の方にいたから。何だって?」
「あら、タクちゃんと一緒だったの?」
卓也の母親は学校のPTA役員だったので、母親同士も良く知っているのだ。
「ねえ、サカちゃん何の用だって?」
「そうそう、荒井君も来たわよ。明日午後に斉藤君の家に来てって」
「そう。ねえねえ、サカちゃんの用は何だったの?」
「あ、サカちゃんはね、明日の朝、日曜学校に一緒に行かないかって」
「日曜学校?なにそれ?」
「ほら、徳川さん家、クリスチャンでしょ。教会よ教会」
「教会?日曜日にも学校があるの?」
「礼拝でしょ。きっと」
「れいはいって何?」
「牧師さんのお話聞きに行くのよ。神様のお話とかさ」
「ふーん、面白いの、それ?」
「知らないわよ。私だって教会なんて行かないもの。でも、あんた光栄よ。サカちゃんは世が世なら徳川のお姫さまなんだから。あんたなんか本当だったら口もきけないんだからね」
この話は耳にタコができる程聞かされていた。実際、同じ社宅に住むサカちゃんの父親は、清水徳川家の直系嫡子で一体どんな事情があったのかは知らないが、終戦の混乱期に父と同じ会社に勤めだしたという話だった。
「どうするの?行くの?」
「…行ってみようかなあ…」
「そう。だったら、早く徳川さんにお返事に行ってらっしゃい」
「分かった…」
正治は玄関を出ると、一端外に出て、同じアパートの隣の入口に入った。栄の家は一階だった。
覚悟を決めてブザーを鳴らすと、栄の母親がドアを開ける。正治の胸の鼓動は早鐘の様に高鳴っていた。
「あら、正ちゃん」
「こんばんわ。あのお…サカちゃんいますか?」
「いるわよ。どうぞ、上がって」
「でも…もう、遅いから…」
「そお?…じゃ、ちょっと待って」と、母親は娘を呼びに行く。すぐに栄が玄関に現われた。
「正ちゃん、いらっしゃい。ねえ、ちょっと上がらない?」
「え?いいよ。もう遅いもん。それよりさ、明日の日曜学校誘ってくれて有り難う。一緒に行く」
「え!本当?嬉しい」
「でさ、どうしたらいいのかな?時間とか、持ってくものとか…」
「あのね朝9時からだから、そうねえ…8時20分頃私迎えに行く。持っていくものは、べつに何もないかな…あ、そうだ、神様の御寄付がいるかな」
「神様のゴキフ?って何?」
「あのね、礼拝の時にね神様への寄付をね、カゴで集めるの。別にしなくてもいいんだけど…大体皆ね10円位カゴに入れるの」
「ふーん…10円持ってけばいいの?」
「あの、嫌だったら、しなくってもいいんだけど…」
「分かった。10円持ってく。じゃ、明日待ってるから…」
「8時20分頃ね。お寝坊しないでね」
「分かった。じゃ、明日。バイバイ」と、ドアを閉めた。
閉めたドアの向こうから『お母さん!明日、正ちゃん一緒に行くって!』と栄の嬉しそうな声が聞こえた。正治は外の風の中でしばらく顔の火照りを冷まして、家に戻った。
翌朝、8時20分きっかりに栄は迎えに来た。
栄には姉と弟がいたが、迎えに来たのは栄一人だけだった。
「あれ?メグちゃんとマコちゃんは?」
「先に行くって。早く行こう」
「うん」
正治は明らかに普段より奇麗な格好をしている栄を見て、一番汚れていない運動靴を下駄箱から出して履く…
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃーい。お金、ちゃんと持った?」
「うん、持った」
「サカちゃん、正ちゃんをよろしくねー!」
「はーい、行ってきまーす」
2人は社宅をあとに、権現山の脇道を登って、品川駅近くの八ツ山の教会に向かった。
「サカちゃん、あのさ、教会で何するの?」
「神様やイエス様のことお勉強するのよ」
「ふーん…神様とキリストは違うの?」
「違うわよ。神様はねこの世界をお創りになった方でね、イエス様は神様とお話しができる人。だから神様の声をみんなに伝えて下さるの」
「へーえ…でもさ、イエス・キリストってずっと昔に死んじゃったんでしょ?」
「そうよ。でもね、一度復活して、神様と一緒に天国にいるって知らせにきてくれたの。だから、今でも天国から私たちのことずっと見守っていて下さるのよ」
「ずっと見てるの?」
「そうよ、だからどんな悪いことしても、良くないこと考えてても、隠し事があっても、イエス様は全部御存知なの」
「え?嫌だなあ、それ」
「なんで?正ちゃんはそういうことあるの?」
「あるよ。沢山あるもんな。秘密もあるし。サカちゃんは全然ないの?」
「うーん…ちょっとはあるかな?ふふふ…」
「あるよねえ。全部知られちゃったら困るよお」
「そうね、ちょっと困っちゃうわね。あははは…」2人は顔を見合わせて笑った。
それから手を繋いで再び歩き始めた。正治は栄の手の感触に少し胸をドキドキさせながら『これだって、秘密だもんな…』と、イエス様が口の堅い人物であることを願った。
教会の立派な礼拝堂には沢山の子供たちが集まっていた。栄の姉と弟は既に来ていたが、それぞれ年齢ごとの集団に分けられていた。栄はずっと側にいて、慣れない正治のエスコートをしてくれたお陰で、初めて経験する教会の礼拝を正治は思った以上楽しむことが出来た。
教会の職員やボランティアの大人たちは学校の先生たちとは違い、とても優しかった。
牧師の話もどこか遠い国のお伽話のようで空想を膨らませてくれたし、何より賛美歌の唱和は正治を一種ファンタジックな気分に浸らせてくれた。途中で回される寄付金のカゴは、まるでそれらのための入場料のようだと正治には思えた。
びっくりさせられることもあった。牧師の最後の説教の前に、彼は子供たち全員にこう尋ねた。
「皆さんの中で、この1週間、誰にも、1つも、どんな小さな嘘もつかなかった人はいますか?いたら手を挙げて下さい」
『そんなやつ、いるはずないじゃん』と内心ほくそ笑んでいると、僅かながら数人の子供がサッと手を挙げる…その中には、なんと栄の姉もいたのだ。正治が振り返って見た彼女の顔は、毅然と凛々しく真直ぐ牧師の顔を直視している…
『サカちゃんは、あの人の妹なんだ…同じ家族なんだ…』そう思うと、自分との道徳感の隔たりは測りようもなく、何ともやるせない気持ちになった。勉強が出来るとか、宿題を忘れないとか、親の言うことをよくきくとか、そういうこととは全く次元が違うのだ。ただし当の栄が正治を横目で見ながら恥ずかしそうに微笑んでいたので、少しほっとすることが出来た。
昌志の家には既に幸夫も来ていた。3人は連載用のお互いの新作を見せ合い、ようやく見え始めた『品川マンガクラブ』創刊号の姿を思い描きながら、頁割や細部の装丁を議論し合った。
「でさ、創刊号いつ頃出すの?」
「それだよね。もうすぐ6月だから…できたら夏休み前には出したいけどな」
「でもさ、折角創刊号なんだから、ちゃんと丁寧に仕上げたいよね。俺、今日の原稿ももうちょっと奇麗に仕上げたいしなあ…」
「そうだねえ…あんまり焦ってやるのもきついかも。初めてだし…」
「いっそさ、夏休みが終って、新学期の時に出すことにしたら?」
「随分長くない?」
「夏休みの宿題が忙しくならないうちに仕上げることにしたら?」
「いいね。8月の真ん中くらいを目標にしようか。だったら、まだ2ヶ月以上もあるし、挿し絵とかも一杯作れるかもしれないね」
「少しほっとした。今、いろいろ他にもやりたいことあるし…」
「そういえば正ちゃん最近何してんの?」
「そうそう、学校終るとすぐにどっか行っちゃうしさ」
「うん、ちょっとね。いろいろね。でも漫画もちゃんと描いてるよ」
「なんか面白いこと?教えてよ」
「ごめんね、ちょっとまだ秘密。そのうちもっと面白くなるから、そしたら教えるから」
「なんだよ。なんか嫌な感じ…」
「嫌な感じ…」
「へへへ…まあ、そう言うなよ。そのうちちゃんと教えるから。ね。あ、やべ。俺、そろそろ行かなくちゃ…」
「何処行くの?」
「近所のお兄ちゃんのとこ」
「じゃな。またな。そのうち絶対教えてよ」
「分かった!じゃね」
正治は昌志の家を出ると、自分と同じ社宅の敷地内にあるもう一つの棟に向かった。
この時代、子供たちの地域社会には、どこにでも『お兄ちゃん』と呼ばれる存在が一人や二人は必ずいた。勉強やクラブ活動が盛んになる中学や高校に進学しても、近所の年下の子供たちの面倒をよく見て、長老的な立場で相談相手になってくれる大変奇特な青年たちである。
正治がよく訪ねるアイちゃんこと晶もそんな存在だった。どこで培ってきた経験か、社宅の子供たちのありとあらゆる相談に適確に応えてくれる。空地の使い方、小さい子供の遊ばせ方、ルールの決め方、夜店の金魚の飼い方、工具の使い方、竹ヒゴの曲げ方、ベーの削り方、メンコの補強のし方、簡単なトランプ手品、等々ありとあらゆることを伝授してくれる知識の宝庫だった。
ブザーを鳴らすと、ドアを開けてくれたのは晶だった。
「おう、正ちゃん、いらっしゃい。どした?」
「あのね、アイちゃんに教えて欲しいことがあるの。今、いい?」
「ああ、いいよ。上がんなよ」
「おじゃましまーす」
「あら、正ちゃん。いらっしゃい。今日は晶に用事?」台所から晶の母親が声をかける。
「うん」
「おばちゃんには、ご用事無いの?」
「え?あ、別に…ないです」
「まあ、がっかり。たまにはおばちゃんとこにも遊びに来てよ」
「あ、はい…でも…あの…」
「ほら、もういいよ。正ちゃん、こっちおいでよ」晶がうんざりした顔で助け船を出してくれた。
「おほほほ…本当に可愛いわね、正ちゃんって…あとでお紅茶でも入れてあげるからね」
晶の部屋には登山用の道具類が広げられている。
「アイちゃん、また山に行くの?」
「もう少ししたら夏山が始まるからね、道具の手入れしてるんだよ」
「へーえ…見ていい?」
晶は、床の上に広げられた様々な登山用具を一つ一つ手に取って、正治に説明してくれる。
「すごいね。これ全部持って登るの?」
「これで全部じゃないよ。これに着替えとか食糧が加わるから、もっと重くなるんだ。まあ途中の山小屋に預けておくものもあるから、いつも全部持って歩くわけじゃないけどね」
「重そうだねえ…楽しい?」
「苦しいけど、楽しいんだな」
「山の上に行って、何すんの?」
「別に…登るだけだよ。登ったら降りるだけ…」
「楽しい?」
「ああ、これが楽しいんだな」
「ふーん…なんかいいなあ…僕もやってみたいなあ…」
「そうそう、それより正ちゃん聞きたいことがあるんだろ?」
「あ、そうだ。あのさ、アイちゃんクギの錆って奇麗に簡単に落とせる方法って知ってる?」
「うーん…普通はサンドペーパーかな。紙やすり。それでも落ちなきゃ、暫く希塩酸に漬けとくといいんだけど。知ってる?」
「ううん…」
「ちょっと、待ってて…」そう言うと、晶は正治に背を向け、部屋の押し入れの中をガサゴソと物色し始める…晶が探し出して正治の目の前に並べてくれたものは、数枚の紙やすりと大きな薬品ビン、軍手と使い古したボロ布、空になったマヨネーズのビン…
「これが、希塩酸。塩酸を薄くしたもんだな。言っとくけど劇薬だからね」
「危ないの?」
「ああ。薄くても塩酸だから、絶対直接手で触らないこと。もし、皮膚についちゃったら、すぐに水で洗い流すこと。服とかに付いても、ほっといたら穴あいちゃうからね。扱うときは、必ず軍手をして、注意して…」と、軍手をして、薬品ビンの蓋を開け、慎重に空ビンに注いで、きっちりと蓋を閉める…
「ほら、これやるよ」
「ありがとう…」正治は恐る恐るビンを受け取った。
「でも、どうやるの?」
「まず、錆びたクギはこのサンドペーパーを適当に小さく切って、こするんだな。それでも奇麗にならない時は、この希塩酸をガラスか瀬戸物の入れ物に注いで、そこにくクギを浸けておくんだ。五分か十分位かなあ…」
「浸すんだね。分かった…」
「そしたら、素手で触らないようにお箸かなんかでクギを取りだして、さっと水で洗う。そしたらもう手で触っていいからね。それからボロ布でこすってみ。結構しつこい錆も落ちるはずだよ。それでも残る錆は、もう一度サンドペーパーでこすれば大丈夫と思うよ。ほら、これもあげるよ」と紙やすりと軍手とボロ布を渡してくれた。
「いいの?」
「おう、いいよ。それより、急にクギの錆取りなんて、どうしたの?家に新しいクギ無いの?」
「違うよ。拾った五寸釘を磨くんだよ」
「ははあ…釘打ちやるのか」
「釘打ち?何それ?」
「地面や木に的描いて、五寸釘投げて刺すやつ。こうやって手裏剣みたいに。なんだ…違うのか。じゃ、なんで五寸釘がいるんだ?」
「売るの」
「へーえ…誰に?」
「引揚げの廃品屋さん」
「へえ!買い取ってくれるんだ、五寸釘」
「うん」
正治は、火薬の実験のこと、卓也のこと、提灯屋の師匠のこと、廃品屋の頑さんのことを晶に詳しく説明した。子供の楽しみや立場を熟知している晶には、秘密は一切必要ないのだ。
「うーん…引揚げには近付かないほうがいいと思うけどなあ…あそこの不良は半端じゃないからな。折角お金が手に入っても、すぐカツアゲされるぞ」
「え?そんなに危ないとこなの?…」
「ああ、あそこには警察も近付かないって話だぜ。釘持っていくんだったら、外で会ったほうがいいんじゃないの?」
「そうか…そんなにヤバいんだ…」正治の心の中に一気に不安が広がる…
「そうだ、正ちゃん、これあげるよ。秘密基地で使ったら?」
晶が差出したのは古い真鍮製のアセチレンランプだった。燃料のカーバイトと水を装填して、正治にランプの使い方を教えてくれた。
「カーバイトはね、水に濡れると化学反応おこして、アセチレンガスを出すんだ。ちょっと待つと臭いがしてくるよ、ほら…」
正治が指さされた円形の反射盤付近に鼻を近づけると、ニンニクのような強い臭いが鼻を刺激した。
「本当だ…臭い…」
「ここにマッチで火を付けると…ほーら!」
「わあ!明るい!」
アセチレン・ランプの眩い光が、陽当りの悪い晶の部屋を煌々と照らした。
基地に到着すると、もう卓也は来ていた。日吉丸もちゃっかり隣に座っている。ラジオからはジャン・アンド・ディーンの『ベイビー・トーク』が流れている…
「よお」
「よお。タクちゃん、もう来てたんだ」
「おう、さっきな。結構見つけたぜ、ほら」
卓也はポケットから紙の包みを出し、平板の上で得意そうに中を開いた。そこには十数本もの五寸釘があった。
「すげえ!どしたの、これ?」
「見つけたんだよ。3ヶ所。工場の廃材置き場が一番凄かったかな。ガサゴソやってたらよ、工場のおっさんに怒られちゃったけど…へへ…ほら、これ」と、紙の包みをもう一つ出した。中には美味しそうなおかきが沢山入っていた。
「お、旨そう…どしたの?」
「その工場のおっさんがくれたんだ。食おうぜ」
「うん」
「ほら、日吉丸も少しやるよ」日吉丸は嬉しそうに尻尾を振っている…
正治はおかきを頬張りながら、卓也が手に入れてきてくれた五寸釘を調べた。
「やっぱ、結構サビあるねえ…」
「でもさ、昨日のより少しは奇麗だろ」
「そうだな…でも、タクちゃんさ、その工場のおじさんに怒られたんじゃなかったの?」
「おう、最初はな。廃材なんか引っ掻き回してると怪我するぞって。何やってるんだって言うから、五寸釘探してるって…で、五寸釘なんかどうすんだって言うから、廃品屋に売ってさ、それでお菓子買うんだって言ったら、菓子ぐらいおじさんがやるって、くれたんだ、これ。儲かっちゃった。へへ…そいでね、危ないから暇なときに探しといてくれるって、また遊びに来いってさ。結構いいおっさんだったぜ」
「良かったじゃん」
「おう、正ちゃんの方は?」
「あ、そうそう…近所のお兄ちゃんからこれ貰ってきた」
正治は、紙袋から晶に貰った道具の一式を取りだして、卓也に一つ一つ詳しく説明した。
「凄いねえ、本格的だな」
「だろ?ちょっと五寸釘の錆取り工場って感じだよね。ほら、暗くなっても作業が出来るようにランプも貰ってきた。火付けてみようか」
「おう、付けよう付けよう」
正治は習った通りにカーバイトと水を仕込み、ランプに火を付ける…
「おー!明るいなー!」
「…ねえ、タクちゃんは引揚げの方って行ったことあるの?」
「ない」
「おっかなくない?」
「本当はちょっと怖い…」
「大丈夫かなあ…?」
「大丈夫だよ…きっと…」
「そうだね…」
5 頑さんと汀兄弟
翌日、学校の昼休みに正治は卓也に呼ばれた。
「正ちゃん、ちょっと一緒に来て」
向かったのは隣のクラスだった。
「おい、和夫!」
卓也に呼ばれて振り向いたのは、学年で一番駆けっこの速い浅川くんだった。
色黒で身体も大きく、喧嘩好きの暴れん坊で、有名な猛者だ。
噂では父親は地元のやくざだという話である。
「おう、卓也。どした?なに?」と、ニコニコと親しげに近付いて来る。
「ちょっとよ、聞きたいことがあんだけどよ、顔貸せよ」
「いいぜ」
3人は廊下に出た…
「今日よ、川村と一緒に引揚げの方へ行かなきゃなんないんだけど、お前あっちのこと詳しい?」
「うーん…兄貴はあの辺顔が利くから、一緒に行ったことはあるけどなあ…1人じゃ絶対行かない。ヤバいもん」
「やっぱ、そんなにヤバいか?…」
「ヤバいよ。卓也、汀兄弟って知らねえ?」
「ああ…なんか聞いたことあるな。会ったことはねえけど…」
「うちの学校の連中も大勢カツアゲされてるぜ。断って殴られたやつもいるしよ。強えらしいぜ。台場小。兄弟揃って4年生だってよ」
「なんで?兄弟なんだろ?双子?」
「違うんだよ。何だか良く知らないけどよ、片一方は間違いなく俺たちより上らしいぜ。お前ら引揚げのどこいくの?」
「廃品屋の頑さんっていう人のとこなんだけど…」正治が答えた。
「頑さん?なんだ、知ってるよ。お喋りのおやじだろ?うちの方、よく来るもん。家も知ってるよ」
「本当?じゃあ地図描いてくんない?」
「いいけどよ、今日行くの?俺、一緒に行ってやろうか?」
「いいの?お前が一緒だったら、ちょっと心強いかな」
「いいよ、どうせ暇だしよ。でも、なんかあったら俺すぐ逃げるからな」
「駄目だよ、川村足悪いんだから…」
「そうかあ…ま、いいや。何とかなるか。いいぜ、付き合うよ」
「ごめんね…」
「いいよいいよ、しょうがねえよ」
「じゃあ、行く前にお前ん家寄るわ」
「おし、待ってる」
「じゃな。またな」
「じゃあね」
「おう」
浅川くんが教室に戻ると、正治は卓也に尋ねた。
「タクちゃん、浅川と仲いいの?」
「別に…あんまし一緒に遊ばねえし、クラス違うしな。会えば口くらいはきくけどよ。あんまりちゃんと話したこともないかな…」
「じゃ、なんで引揚げのこと浅川に聞いたの?」
「あいつ喧嘩っ早いし、度胸もあるから、もしかして詳しいかなって思ってさ、良かったな聞いてみて」
「うん。良かったあ…」
放課後、正治は家に帰ってランドセルを置くと、急いで基地に行き、箱の中から奇麗に磨き上げた五寸釘の束を取って、卓也と待ち合わせた品川神社の前に向かった。
暫くすると、卓也が走って来る…
「ごめんな。待った?」
「ううん、そうでもないよ」
「お袋が家のこと手伝えってうるさくってよ。逃げてきた。行こうぜ。正ちゃん持ってきた?」
「うん、全部で16本。ほら。ねえねえ、記念にさ1本ずつ持ってようよ」
「おう、いいねえ。折角ピカピカにしたんだしな。そうだ、和夫にも1本やろうぜ」
「そうだね」
和夫の家は、商店街からさほど遠くない典型的な住宅密集地の路地に面した木造アパートだった。
玄関で靴を脱ぎ、中に入ると、廊下は学校を終えた子供たちで騒々しかった。
階段を上ってすぐのドアの前で卓也が和夫を呼ぶ…
「あーさーかーわーくんっ!」
ドアが開き、和夫が顔を出した。
「おう、ちょっと待ってて…」
2人がドアの外で待っていると、中から和夫と母親との会話が聞こえる…
「ちょっと、俺行ってくる」
「行くって、何処行くのよ?ロクでもない連中と遊ぶんじゃないよ」
「違うよ。学校の友達だよ」
「学校の友達って誰よ?」
「小田くんと北品川の川村くん」
「小田君って朝日湯の?」
「そう、卓也」
「川村君って、もしかして、隣のクラスの級長さんの?」
「そう、ほら足の悪い子…」
「あんたにしちゃ、上出来じゃないか」
再びドアが開いて、今度は和夫の母親が顔を出す…何処かへ出掛ける準備か、化粧の途中という風だったが、機嫌良さそうに微笑みかける…
「小田君と川村君?」
「はい、はじめまして…」
「ども…」
「和夫を誘ってくれてありがとうね。これ、ほら、どっかで皆でおやつでも買いなさい」と、がま口から5円玉を一枚ずつ渡してくれた。
「あ、どうも有り難うございます」
「おばさん、ありがとう」
「いいのよ。ほらこれも、あんたの分」
「お、サンキュー」
「喧嘩するんじゃないよ。仲良く遊びなさい」
「はーい!」
3人はアパートを出た。
「大丈夫だった?おばさん、どっか出掛けるんじゃなかったの?」
「いいんだよ、いつもなんだから。これから仕事に行くの」
「え?今から?」
「そう。お店で働いてんだ」
「夕ご飯は?」
「姉ちゃんが帰ってきて作ったり、隣のおばちゃんちで食べたりだな」
「お父さんは?」
「殆どいない。いいんだよ、あんなの帰ってこなくて、どうせコレだしよ」と、和夫は頬に小指で線を引く…
「家にいる時は結構優しいんだけどな…」
「何だか大変だな」
「別に、そうでもねえよ。普通だよ」
「でも、お兄さんがいるんだろ?」
「いないよ。姉ちゃんしかいない」
「だって、さっき兄貴って言ってたじゃん」
「ああ、あれはね、同じアパートの弘兄ちゃん。夜学の高校生でね、昼間はトラックの助手。仲良しなんだ。その兄貴のね、夜学の友達が引揚げにいんだよ」
「そっか…ねえ、頑さんちって、こっちでいいの?」
「おう、このままずっと向こう」
和夫の指示に従って埋立て地の方向に歩いてゆくと、やがて旧東海道に出た。
「ここを渡ると、右の方に行ってもうすぐだぜ」
街道筋の店や家々を抜けると、広い原っぱのような場所に出る。その遥か向こう側に沢山のバラック小屋が密集する集落が見える。
手前の原っぱには5、6人の小さな子供たちが遊んでいたが、正治たちが歩いて来るのに気が付くと、全員遊びを止めてじっと3人を目で追っている。3人は緊張を必死で抑えて、黙って歩き続ける…
集落の入口のところで2人の男子が声をかけてきた。
見たところ、正治たちよりも少し上級生の様だ…
「おめえら、なんだよ。何しに来たんだよ」
「頑さんのとこに来たんだけど…」
「なんだ、お前ら頑さんの知りあい?」
「うん、ちょっと用があって…」
「頑さんいるかなあ?」
「さっき、帰ってきて、家の前で屑の整理してたけど。な」
「ああ。お前ら、家、知ってんの?」
「うん。確かあっちだよな。あそこ入ったとこだろ?」
「おう」
それ以上、話はないようなので、正治たちは構わず和夫の言う方向に向かう…
正治が振り向くと、2人は何かを相談している様子で、やがて一人が慌てて何処かに走って行った。
「何か、やな感じだな」
「やな感じだね」
「大丈夫だよ」
「大丈夫だよな」
正治たち3人は引き上げ集落の中、頑さんの家を目指した...
この辺りの家はどれも、明らかにプロの大工が建てたものとは思えず、それぞれ程度こそ違え、いずれも廃材を利用して手作りで建てたような小屋ばかりだった。中には、屋根と簡単な囲いだけで、窓も扉もない小屋もある。集落の中には、店はおろか電柱もポストも公衆電話も交番も何もない…
正治にとって、それは『人が住む町』という概念を覆すものだった。
「おい、あんまりキョロキョロすんなよ」卓也が正治をたしなめる…
あちらこちらで洗濯物を干したり、ものを片付けたり、立ち話をしたり、赤ん坊をあやしている様々な大人たちは、外界の子供たち正治たちには、殆ど感心を示していないようだった。
「確か…この辺だったけどなあ…あ、あそこだ、あそこ!」
和夫が示した場所には、トタン屋根の囲いの中に沢山の廃材が積み上げられている。その傍らに置かれたリヤカーから、せっせと廃材を選り分けている人物…それがどうやら『頑さん』のようだ…和夫が真っ先に近付いていく…
「頑さーん!」
男が作業を止めて顔を上げる…
「おう、お前は確か、楓荘の子だな」
「うん」
「お父ちゃんは、どしてる?」
「知らない。最近あんまり帰ってこない」
「ははは…全く、仕様がねえお父ちゃんだなあ…」
作業ズボンに綿シャツ、ボロボロの前掛けに軍手姿の頑さんは、ギョロリと大きな目でやたらとまゆ毛の太い褐色の中年だ。逞しい顔つきの割には小柄で痩せている。首にかけた手拭いで、顔の汗を拭こうと作業帽を取ると、ツルリと見事に禿げた頭が現われた。
「あのね、こいつらから頑さん家に案内してくれって頼まれて…」
「こんにちわ」
「こんちわ。あの…提灯屋の師匠から聞いてきたんだけど…」
「…おう、聞いてる聞いてる。提灯屋の旦那から今朝聞いたよ。小遣い稼ぎたいガキってお前らのことか。卓也ってのはどっちだ?」
「はい。俺です」
「もう1人は優等生だってな」
「いえ、そんなことないです…」
「で、お前ら、みんな学校がおんなじなのか。そうか。そいで、何か持ってきたのか?」
「おい」卓也からうながされて正治はポケットから紙包みを取りだし、開いて頑さんに渡す…
「あの…これですけど…」
「おお、五寸釘か…錆も奇麗に取ってあるな。いいぞこれなら。そうだな…今なら1本1円ってとこだな…いいか、こういうもんはな、相場ってもんがあってよ、いっつもひっきりなしに値段が変わるんだ。今日は1円だったもんが明日は50銭になっちまうこともありゃあ、1円50銭に上がることもある。いいな?」
「はい」
「おじさんも商売だからある程度は儲けなきゃなんねえ。売るんだって材料ごとにキロ単位でまとめて売らなきゃならねえし、ある程度まとめて持ってきて貰えると助かるな。鉄、銅、アルミ、無垢のもんがいい。鋳物は質が悪いから駄目だぞ。メッキも手間がかかるから駄目だ。分かるか?」
「はい。分かります」
「よしよし、さすが優等生。今日のこれは…いっちょこ荷車秋刀魚の塩漬け、ごんぼの蒸したの菜っ葉の葉っぱのキュウリのとーなす、いっちょここ荷車秋刀魚、と、13本、四捨五入で15円!これでどうだ?」
「はい、いいです…」
何故、四捨五入で15円なのかは分からなかったが、卓也の目も満足そうだったので、正治は了承した。頑さんはポケットから小銭を出して10円玉と5円玉を一枚ずつ正治に渡した。
「有り難うございます」
「おう、こちらこそだ。また持ってきてくれよ」
「はい」
その時、商談成立に感激している正治と卓也を和夫がつついた。
「おい!あれ!」
和夫が目を向けた後方を振り返ると、いかにも悪童といった面々の子供たちが7、8人ズラリと並んで3人の行動をじっと窺っている。
『やばい…』正治はうろたえた。和夫も不安げに卓也の顔色を窺ったが、卓也の目は完全に据わっていて、相手を見据えたままだった。その時、状況に気が付いた頑さんが大声で怒鳴った。
「こらあ、お前ら!こいつらはな、俺の知り合いだ。これからちょくちょくここに来るけど、悪さなんかするんじゃねえぞっ!仲良くしてやれっ!分かったなっ!」
彼らは無言のまま、中でも一際大きな1人に促されてその場を立ち去った。多分あれが悪名高い汀兄弟のグループなのだろう…
「まったく…この辺のガキゃあ、他所もんには容赦ねえからなあ…みんな悪い奴じゃないんだけど…まあいいや、あとでおじさんが良く言い聞かせとくからよ。今日はもう帰んな。折角稼いだ大切な金だ、どっか隠しとけよ。もしあいつらに巻き上げられたら、おじさんに言いな。取り返してやるからよ」
「いや、いいです。自分たちで何とかします」卓也がきっぱり言う。
「おう、そうか。そうだな。自分で稼いだ金は自分で守らねえとな。ま、気をつけて帰れよ。また持ってこいよ。待ってるからな」
「はい」
「有り難うございました」
頑さんと別れた3人は元来た道を引き返す…
「浅川くん、ごめんね。変なことになっちゃって」
「いいよいいよ。このくらい覚悟してたからよ。でもお前ら、すげえな。商売してんだ。面白そうだな。俺も手伝わせてくれよ。な」
「いいよ。ねえ、タクちゃん」
「おう、いいぜ。それよりよ、ほら、あいつらあそこにいるよ」
集落を出た原っぱで彼らは待っていた。
「いいか、無視して黙って歩けよ」和夫が言う。
ほんの2、30メートルの距離だったが、正治には恐ろしく長い道のりだった。いよいよ彼らの横を通り過ぎようとした時、一番体の大きいリーダーが声をかけた。
「おい、お前ら、ちょっと待て」全員が前に立ちはだかる。
卓也が舌打ちをして一歩前に進み出た。
「なんだよ?」
「お前ら何年だ?」
「4年だよ」
「どこの学校だ?」
「品川」
「品小がなんでここにいるんだよ?」
「うるせえな。いいじゃねえか」
「おめえら、俺らの縄張りで金稼いでんじゃねえぞ」
「せえな。関係ねえだろ」
「ま、頑さんの知り合いじゃ殴るわけにもいかねえしな。いいや、金は全部置いてけ。な。それで勘弁してやるよ」
「嫌だね。俺らが稼いだ金だ。なんでお前らにくれてやらなきゃなんねえんだよ。馬鹿か?」
「なんだとう!やられてえのか?」
「いいぜ。対パン張ってやるぜ。その代わりこいつは足が悪いんだ、こいつだけ勘弁してやってくれよ」
「いいよタクちゃん。俺もやるよ。やらしてよ」
「大丈夫?」
「うん。やってみる…」
正治は覚悟を決めていた。こうなったら、たとえどうなっても稼いだ15円は守りたかった。3人で15円、1人頭5円…『体を張るにはちょっと安いかな?』とも思ったが、不思議と恐怖心は消えていた。
「じゃあ、3人だ。そっちも3人出せよ。それなら頑さんも口出せねえだろ?」
「おし、いいぜ。おいそこの足悪いお前え、喧嘩初めてか?」
「うん…」
「じゃあこっちはゲン、お前入れ」どうやらキャスティングに配慮があったようだ。
「俺、やる」
和夫の相手はリーダーより少し小柄の顔のよく似たやつだった。この2人が間違いなく噂の汀兄弟だろう。3人はそれぞれの相手と向かい合い睨み合った。他の数人は後ろに下がる…
「川村、相手から絶対目え離すなよ」和夫が囁く…
「うん…」
相手のリーダーが卓也に蹴りを飛ばし、卓也がそれをかわしたのが喧嘩の開始だった。
卓也がバランスを失った相手を突き倒した時、正治の相手が突進してきた。
殴られると思ったが相手は肩口を掴んだだけだった。
正治はとっさに相手を振りほどこうと夢中で腕を振るうと、偶然肘が何かにゴツンと当たった。
それはどうやら相手の顔面だったようで、彼は顔を抑えてうずくまった。
正治は思わず「あ、ごめん」と謝ってしまった。
すぐに立ち上がって反撃してくるのだと身構えたが、相手はそのまま一向に立ち上がってこない…
こういう場合、どうしたらいいのか分からず、卓也か和夫に教えて貰いたかったが、2人とも大苦戦でほぼ取っ組み合いの状態である。
特に卓也は体の大きな相手に何度もねじ伏せられそうになりながらも、それを逃れては蹴りを入れ、また逃れては頭突きで突進するも、相手は一向に怯まない様子で襲いかかってくる。
何もすることがなくなってしまった正治は、仕方なく相手に近づき「ねえ、大丈夫?もうやめる?」と話しかけてみた。
何も返事がない…どうやら泣いているようだ…
「あの…ごめんな。そんなに痛い?大丈夫?」
すると後ろで見ていた一人が叫んだ。
「ヒデオ!ちょっとやめてよお!ゲンちゃんがなんか変だよお!」
かくして、決闘は水入りとなった。4人は喧嘩をやめて、様子を見に来た。
見る限り、4人にはまだ傷も怪我も無い様子だった。
ヒデオと呼ばれていたリーダーが、うんざりした表情で服の埃を払いながら近づいてくる…
「おいっ!ゲン!お前、何やってんだ!根性ねえぞっ。最後までちゃんとやれっ!そんなトーシローに負けてもいいのかっ!」
ゲンという子は、無言でうずくまったままだった。
「なんだ、大丈夫か?お前…」ヒデオがしゃがんで怪我の様子を見ようとすると、ゲンはそれを振り払い、泣きながら集落の方に走って行ってしまった。
正治は折角の決闘を自分が台無しにしてしまった気がして、やるせなくて泣きたい気分だった。
「ごめんな。俺、そんなに強く殴るつもりなかったんだけど…」
「馬鹿…正ちゃん謝んなくていいんだよ」と、卓也が言う。
「お前らいい度胸だなあ…」ヒデオが言った。どうやら、褒め言葉のようだった。
「じゃあ、続きやろうか…」一同戦意喪失の雰囲気を卓也が打ち払った。
「いいぜ。おい、お前はもういいや。あとは2対2だ」
その時、原っぱの奥から声が聞こえた。
「おーいっ!タクちゃーん!」こちらに向かって買物カゴを持って走ってくる子供がいる。
よく見ると、同じクラスの金田くんだった!近づいてきた金田くんは、肩で息を弾ませながら満面の笑顔だ。
「やっぱり、タクちゃんだっ!あ、正ちゃんも一緒?おお、和夫じゃん。どしたの?お前ら、ヒデオたちと知りあい?ねえねえ、何して遊んでんの?」
「………」
「あのさ、俺さ、母ちゃんから買物言われて、帰るとこだからさ、ちょっと待っててよ、ね。すぐ戻るからさ。ね、ね」金田くんは嬉しさを隠しきれない様子でまくし立てる。
「………」
戦闘状態で対峙していた全員が、何が起こったのかを懸命に理解しようとしていた。金田くんは不穏な雰囲気をようやく察知した。
「…どしたのお前ら?…あっ!駄目だよヒデオ、こいつらいじめちゃ。俺、こいつらには恩があるんだから」
「雄太…お前こいつら知ってんのか?」
「知ってるよお、同級生だもん」
「そういえば、お前品小だったな」
「うん、ほら風呂屋の卓也。話したろ?俺がいっつも風呂ただで入れて貰ってる…でね、こいつはね級長の正治。それと…隣のクラスの浅川。正ちゃんのとこでテレビ見せてもらったし、浅川には俺が商店街のとこでカツアゲされそうになったとき助けて貰ったし、みんなすげーいいやつだよ」
「なんだ…そうか…雄太のダチなのか…悪かったな、変ないちゃもんつけてよ」
「おい、雄太。こいつらいい度胸だったぜ」
「そりゃそうだよ。卓也と浅川は、すげー喧嘩強いんだから。あっ、やべ、母ちゃん待ってんだ!早く行かなきゃ。じゃな、すぐ戻るから待っててくれよ。喧嘩しちゃ駄目だからなっ!」言い残すと金田くんは勢い良く集落に向かって走っていった。
「あいつんちって、ここだったんだ…」正治が呟く。
「ああ…旧街道の方って話は聞いてたけどな…」卓也が応える。
「金田ってよ、雄太って呼ばれてんだな。でもよ、良かったな…」と、和夫。
「ああ、やっぱあいつら強えな…」
「強え、強え…」
「それより、正ちゃん、凄いじゃん。一発でのしちゃったの?」
「すげえよな。一番で勝負決めちゃったもんな」
「えー?違うよお、こう肘がね、当たっちゃったんだよ」
「いいんだよ、それで。お前最初の喧嘩に勝ったんだぞ」
喧嘩に勝つということはこんな事だったのか、と正治は折角奮い立たせた気合いをどこに納めたらいいのか分からず、とても喜ぶ気にはなれなかった。
「おい、お前、タクジ」ヒデオが卓也に声をかけた。
「タクジじゃねえよ。卓也だよ」
「ちょっと話しねえか…」
「おう、いいぜ」
2人はその場から少し離れて話し始めた。
他の子供たちは全員正治と和夫の周りに集まってきた。もう、誰にも敵意はない。喧嘩の感想を聞かれたり、お互いの名前を紹介し合った。
話をしてみると皆気の良い、良く笑う陽気な子供たちだ。やはり、相手の2人、ヒデオと康夫が噂の汀兄弟であることも、この時確認できた。
正治はふと卓也の方に目をやる…卓也とヒデオは並んで地面に腰を下ろし、何やら話をしていたが、やがて立ち上がり、笑顔でしっかりと握手を交わした。どうやら、上手く話がついたようだった。ヒデオは戻ってきて、皆に言った。
「おい、今日から俺と卓也はダチだからな。お前らこれからは絶対こいつらに手え出すんじゃねえぞっ!」と、卓也の肩をポンと叩いた。
「お前らもよろしくな」とヒデオが手を出す。
正治と和夫がヒデオと握手を交わしていると、雄太が戻ってきた。
「ごめんごめん、待たせた?」
「いや…」
「あのさあのさ、母ちゃんがね、タクちゃんたち家に呼んでこいって。風呂のこととか、テレビのこととか、お礼が言いたいんだって」
「えー?面倒くせえなあ…」
「ね、来てよお、そんなこと言わないでさ。絶対連れてこいって、俺、連れてくるって言っちゃったしさあ…」
「しょうがねえなあ…じゃ、行くか?」
「うん…行こうか…」
「あっ、そうだっ!」正治が成行をさえぎった。
「さっきのさ、あのゲンっていう子。大丈夫だったかな?俺、ちょっと、謝りに行かなくていいのかなあ…」
「大丈夫だよ、多分…あいつ根性ねえだけだかんな。よく泣くんだ。そうか…でもあいつだけ仲直りしてないな…じゃ、俺が一緒に行くよ。どうせ雄太ん家の途中だし…」ヒデオが言う。
「悪いね」
「泣いて帰ったから、俺もどうせ後でおばさんに呼び出されっだろうし、一緒に行くわ」
金田くんを加えた正治たち4人は、汀兄弟に伴われてゲンの家に向かう…
正治たちがゲンの家にたどり着く前に、ゲンとその母親と出会った。
「ほら!」ゲンは母親に背中を小突かれながら半ベソでこちらに歩いてくる。母親はヒデオたちに気が付くと、凄い形相で足を早め近づいてきた。
「ヒデオ!またうちの子そそのかして喧嘩させたね。怪我させたの誰だいっ!」
「ち、違うよ、喧嘩じゃないよ」
「じゃ、何したんだ?」
「決闘だよ」
「馬鹿!おんなじだよっ!見なっ!ゲンの顔。ほらっ、ゲン!こっち来て顔見せてやんな」
後ろでションボリしていたゲンが前に出てくると、母親が顎を持ち上げて顔を上げさせた。左目の下が腫れ、内出血で黒くなっている。
「誰がやったんだよ?康男、お前じゃないだろうねっ?」
「すいません…僕です…」正治が前に出て頭を下げた。
「…あんたたち…誰?」
「だから、知らないやつって言っただろう…」ゲンが呟く…
「こいつら、他所もんでさ、決闘になったんだ、原っぱで。こいつら3人と俺と康男とゲンで…」
「この子たちが何か悪さしたのかい?」
「いや、あの…他所もんだから…」
「なに訳の分かんないこと言ってんだよ。こっちの子達とあんたたちと、どっちが先に手え出したんだよ?」
「…それは……俺たちだけど…」
「お前らはチンピラかっ!」
そう怒鳴ると、小柄な母親は、ヒデオの横っ面を平手で張り飛ばした。
ヒデオは黙って下を向いていた。
「ゲンっ!お前も先に手えだしのかっ!」
ゲンがコックリ頷くと、間髪入れずに頭にゲンコツが飛んだ。
「てめえで喧嘩売っといて、ピーピー泣いて帰って来んじゃないよっ!間抜けっ!」再びゲンコツが飛ぶ。あまりの迫力に呆然とする正治に、ゲンの母親が話しかけた。
「あんた、足引きずってるけど、どっか怪我したかい?」
「いえ…これは…あの…僕、もともと…足悪いんです…」
「そうなの。悪かったねえ。ここの子達は暮らしがこんなだからねえ、他所で苛められるんだよ。いつの間にか喧嘩ばっかしするようになってさ、全くもう…でも、悪い連中じゃないからね、堪忍してやってね」
「いえ、いいんです。さっき仲直りしましたから…」
「おばさん、俺たちさ、皆友達になったんだよ。なあ?」康男が言う。
「おう」卓也と和夫が応えた。
「あはは…雨降って地固まるってやつだね。そりゃあ良かった!あんたたち、仲良くしてやってね。こいつら本当は他所の子たちとも遊びたいんだから。ほら、ゲンも、もうベソベソしてないで、皆と外で遊んどいでっ!」
「でも…母ちゃん、痛えんだよお…」
「痛くないっ!なんだい、そんなもんで死にゃしないよっ!こっちゃ忙しいんだから、ほんとにもう…」
そう言い残すと、母親はゲンを置いてさっさと行ってしまった。
「ごめんな。怪我させるつもり無かったんだけど…大丈夫?」正治がゲンに謝った。
「ゲンちゃん、こいつら俺の学校の友達なんだ」金田くんが口を添えた。
「そうなの?」
「ああ、俺らみんなちゃんと仲直りしたからな。ほら、お前も握手しろ」
ゲンは納得し切れない様子でしばらくモジモジしていたが、ヒデオに肩を小突かれると渋々正治の手を握った。
「君んちのお母さん、凄いな…」
「へへ…」ゲンは照れ臭そうに笑った。
正治たちは、その場で汀兄弟たちと別れ、雄太の家に向かった。
「こっちこっち!」
雄太は、めったに来ることのない外からの友人達を嬉しそうに案内する。彼の家は他の家々と同じ小さなバラックだった。燃料業を営んでいるらしく、皆が家の前に着いたときには、母親が入口の軒下で大量の炭や練炭の整理をしていた。
「ただいまー!連れてきたよ」
「あら、いらっしゃい」
煤で汚れた前掛け姿で軍手を外しながら、雄太の母親は優しそうな笑顔で振り返る…身なりは汚れて見すぼらしかったが、若く利発そうな美しい母親だった。
「えーとね、こいつが卓也。それと、こいつが正治。それとね、隣のクラスの浅川くん。ほら、商店街で不良から助けてくれた…」
「有り難うねえ…」
「いえ、どうも…」
「それから、小田君と川村君、いつも雄太に良くしてくれて本当に感謝してるわ。お母さんたちにもくれぐれも宜しく言っといてね」
「はい」
「ねえ、みんな中に入ってよ」
「おう」
「どうぞ、入って頂戴。汚いところだけど驚かないでね。おばさんはもう少し片付けしなきゃならないけど、後でお菓子出してあげるから、遊んでいってね」
「おじゃましまーす!」
雄太が戸板の引き戸を開けて、家の中に入れてくれる。中の様子を見て、正治は驚きを隠せず、その場に立ち尽くしてしまった。家は八畳程の一間だけで、床の無い土間だった。雄太のまだ幼い弟と妹が地面に棒切れで絵を描いて遊んでいる。窓はなく、そのかわり屋根の一ヶ所に大きく四角い明かり取りの枠が切ってあり、開閉のための長い棒が付いている。壁の脇にはいくつかの棚や木箱、奥の大きな棚には布団と衣類が置かれ、そこから簀子のようなものでかろうじて一部床が作ってあり、畳が2枚置かれている。ここが椅子で食卓で寝床なのだろう。
正治が何よりも驚いたのは、家に水道と電気が無いことだった。集落には役所の計らいで数ヶ所に水道がひかれており、そこは住民共用の水場となっている。洗面や洗濯や炊事など水周りのことは各家の近くの水場で行われている。燃料は炭や練炭が主で、灯油コンロやプロパンを利用している家庭は極く一部でしかない。電気は集落全体に全く引かれていない。日が落ちると、家の中ではアルコール・ランプ、外の水場や共用のトイレ付近にはアセチレン・ランプが点灯する。
雄太の話では、2、3軒の家には発電機があって、たまに夕食後、皆がラジオを聞きに集まるということである。大人も子供も近所中が酒や菓子を持寄って一同に会し、煌々と光る電灯の下で、大変楽しい宴席になるという。
大雨や台風の時は、近所中が一丸となって、破損したり倒壊した家の人々を助け、その後数日は子供たちも手伝って、集落中が補修工事や大工仕事、炊き出しで大わらわとなる。子供にとってはこれもまた楽しいのだそうだ。
正月の餅つき会や夏の水場の水遊び、始終何処かで開かれる誕生会…嬉しそうに寄ってくる弟と妹を適当にあしらいながら、3人は興味深々で雄太の話に聞き入った。ここの集落の暮らしをあれこれ聞いていると、明らかに物の足りない貧しい生活ながら、合理的で無駄が無く、近所同志が一つの大家族のように纏まっていて、活気に溢れている。もちろん様々な問題や厳しさも多いのだろうが、正治たちにはとても魅力的な生活に思えた。
「なあ、タクちゃん、ヒデオたちと何があったの?」一頻りここの生活の話をし終えると、雄太が尋ねる。
卓也はいきさつを説明した。
「で、ヒデオは金渡せって言わなかったの?」
「言ってたよ。少しだけでも置いてけって。でも、断った」
「いいって?」
「おう。その代わり、爆弾の実験はヒデオたちも誘ってここの原っぱでやってやることにした」
「本当?いいねえ、それ。もってこいじゃん」思いがけなく実験場の確保ができて、正治は喜んだ。
「楽しみだなあ…じゃあ、これからちょいちょい遊びに来るんだ」
「おう、そうなるな。それとよ、お前がうちの風呂に来るだろ。そん時にヒデオたちも一緒に来ていいって言っといた。ただし、1回に3人までな。あんまり多いと、お袋が文句言うしよ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。今日家帰ったら、頼んどくからよ。任せな。今度よ、休憩室にテレビ入れるって言ってたから、テレビも見れるようになるぜ」
「本当?すげえ!ヒデオ喜んでたろう?」
「おう。それでチャラだ。釘探すのも手伝ってくれるってよ」
仕事を片付けた母親から、サイダーとシベリアが振舞われる…
母親は小さな子供たちの面倒を見ながら、4人の会話を黙って聞いていたが、時折涼しげに笑って雄太の表情を追っていた。
帰りに雄太は3人を旧街道まで見送りに来た。
「いいお母さんだね…」
「金田の母ちゃんてさ、別嬪だよな」
雄太は照れ臭そうに含羞んでうつむく…
「お父さんは?なにしてんの?」
雄太は話題が父親に触れると急に表情を曇らせた。
「知らねえよ…あんなやつ…酒飲んで、母ちゃんや俺たち殴るしか能がねえんだ…」
「……」
「…ま、そんなもんだよ、親父なんて。俺んちの父ちゃんなんてコレだしよ」和夫が再び頬に小指で線を引いた。
「おまけに、母ちゃんだってゲンのお母ちゃんとタメ張るぜ。俺なんかいっつもボコボコよ。お前なんかマシだよ。お母ちゃん優しいし奇麗だし…ほんっと、俺なんか不幸のどん底!」
その言い方が妙に可笑しく、4人はその場でいつまでも笑った。
6 日吉丸1号
卓也、和夫、雄太、そして引揚げの新たな友人たち…正治が密かな楽しみで始めた爆弾開発は、思いがけず多くの協力者を得て、にわかに順風が吹きはじめた。
それは何よりも潤沢な資金調達が実現したからだった。
秘密基地には和夫や雄太やヒデオの弟康男も出入りするようになり、正治は爆薬の調合や燃焼実験に没頭することが出来るようになる。
一方、卓也と和夫はそれぞれ仲間を引き込んで、毎日品川中の空地や廃材置場を荒らし回り、基地には日々まとまった数量の五寸釘が集められ始める様になった。
頑さんは、子供たちが入れ替わり立ち替わり出入りすることで、周囲から『商売に子供たちを利用している』と思われることを嫌い、商品や現金のやり取りは、卓也と正治以外とは行わない事に決めた。
必然的に、品川の子供たちが集める大量の五寸釘は全て正治と卓也の元に集められることとなったのだ。
卓也は3日にあげず納品のために頑さんの元に通っている。最初は十数円だった売上は数十円となり、多いときには百円札が2枚3枚に及ぶこともあった。
2Bや1B、爆竹、ねずみ花火、かんしゃく玉、打上げ花火、ローマッチ、平紙火薬…正治が試行錯誤のために必要とするものは、不自由なく買い集めることが出来たし、カーバイトや希塩酸、軍手やトランジスターラジオの電池など、必要なものを買い足してもなお、メンバーのおやつ用の駄菓子も確保することができた。中古ではあったが手回し式のグラインダーも購入して、雄太と康男が担当する錆落し作業も飛躍的に効率が上がった。
程なく、直径2センチにも及ぶ厚紙の筒で出来た爆裂弾が開発され、『日吉丸1号』と命名された。導火線の付いた単純な爆裂弾で、ただちに試作品が引揚げ集落前の広場で実験される事となった。
素晴らしい晴天に恵まれた実験の日、正治と卓也は試作の爆弾とロウソクとマッチを紙袋に入れ、基地から引揚げ集落前の広場に向かった。今回正治は卓也の許可を取って、初めて昌志と幸夫を誘っていた。
広場では、既に和夫や雄太、汀兄弟たちが待ち遠しげに顔を揃えていた。卓也や和夫やヒデオが手伝いに引き込んだ新メンバーなのだろう、見知らぬ顔もちらほら見える。正治たちの姿を見つけると、全員がぞろぞろと集まってくる。
昌志と幸夫は、見るからに不逞の輩といった面々に恐れをなし、緊張を隠せない様子だ。
「大丈夫だよ、あいつらみんな仲間だから」卓也がそう囁いてくれたお陰で2人とも幾分かは安心した様子だった。
「どう?正治、出来た?」ヒデオが声を掛ける。
「うん。今日は6本実験する」
誰が置いたのか、広場の中央にはみかん箱が一つ用意されている。正治は、直径2センチ長さ10センチ以上もある『日吉丸1号』の試作6本を紙袋から出して並べた。
「おお…」周囲から歓声が上がった。
「すげえな…これ…」
想像以上に精密そうで丁寧に仕上げられた外観にヒデオが感心した。
「おい、正ちゃん、みんなに説明してやれよ」卓也が促す。
正治は緊張で顔の筋肉が少し痙攣するのを感じた。
「あ、うん…えーと…みんなが釘集めてくれたお陰で、ようやく爆弾の試作が出来た…これは、手榴弾型の爆弾で『日吉丸1号』。日吉丸は、これ作った場所によく来る野良犬の名前なんだけどね…」
皆はくすくす笑った。
正治は自分を落ち着かせるように、ゆっくりと自分のアイデアを言葉で辿る…
「で…これは、ここの頭の導火線に火を付けると、大体3秒後に物凄い量の煙を出すんだ。煙が出るのは5秒か6秒、それから爆発。煙が出始めたらゆっくり狙って投げられるように作ってある。ただ、まだ完成したって訳じゃないんだけど…」
「じゃあ、今日は爆発見られないの?」雄太が尋ねる。
「そうなるかも知れないな…やってみなきゃ分かんないし…」
「やろうぜ、やろうぜ!」待ちきれない様子で康男が促す。
「そうだな…」
正治は袋からメモ用のノートと鉛筆、ロウソクとマッチを出し、ロウソクに火を付けて箱の上に立てると、ノートを開いてメモを確認した。
「最初は…と…これからだな」と、一本を手に取る。
「じゃ、いくよ…」
短い導火線をロウソクの火に近付けると、『シュッ』と小さな火が筒に向かって走る。ほどなく正治の予想通り筒の頭からモクモクと白煙が吹き出した。
「よしっ!」正治が爆弾を投げる。
大量の白煙を吹き出しながら、大きな弧を描いて手榴弾は遥か前方に落下してゆく。しかし、その白煙の量たるや、正治の当初の目論見を遥かに越えていた。爆弾は発煙筒のように大量の煙を発した後、『シュバッ』と音を立てて飛び散り、残骸は数ヶ所で小さな炎を上げて燃えていた。
あまりの迫力に、全員しばし呆然と煙の中の燃える残骸をしばらく見つめていたが、やがて拍手が沸き起こった。
ギャラリーの反応に反して、正治はの心の中には『失敗』の二文字が浮かんでいた。発煙の派手さは予想を超えていたが、正治にとって、あれは爆発でなく、単なる燃焼に過ぎなかったのだ。
次の2弾目も似たような結果だった...
3弾目は、さらに悲惨だった。発煙の後、本体は飛び散ることもなく、その場で勢いよく火炎を噴射しただけだった。暗たんとした正治の心境に反して、広場の子供たちは狂喜していた。
そして、4弾目…
半ば意気消沈した正治は、やけくそ気味に着火した爆弾を思いきり遠くに投げた。着地後、見る見る地面は白煙にわれてゆく…広場の全員が白煙の中の着地点を凝視していた…
やがて、爆弾は煙の中で『ドンッ!』と、低い大きな破裂音を発して、周囲の土や草を吹き飛ばした。
『これだっ!』正治は喜びを隠し切れなかった。観客全員が、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
正治は興奮気味に次の爆弾に火を付ける…
5弾目…
『ドカンッ!』2度目の見事な爆裂音が広場に轟いた。
「おおっ!」ここでみんなはようやく歓声を上げる。メモを確認しながら最後の一発を手に取る正治。
「そうか…だとすると、最後のこれは、多分駄目かな…」その言葉通り、最後の爆弾は発煙の後、不発に終った…
第1回の実験は終った。思いがけない好結果に正治は満足だった。
「正ちゃん、やったな!」卓也が肩を叩く。
「ありがと…」正治は卓也ににっこり微笑み返すと、すぐにノートと鉛筆を掴んで、爆発のポイントに行き爆弾の破片を調べ始めた。
しゃがみ込んで地面から爆弾の残骸を一つ一つ黙々と拾い上げて調べている正治の背後から昌志と幸夫が近付いてきた。
「正ちゃん…大丈夫だった?」
「うん、上手くいったよ…結構ビクビクだったけどさ、へへ…」正治は顔を上げて嬉しそうに笑った。
「何してんの?」
「あ、これ?どういうふうに破裂したか、覚えとくの。ほら、どこで破裂したかとか…どれがどのくらい燃えたとか…メモしとかないと忘れちゃうし…」
「へーえ…」
「凄かったよ。作んのさ、大変だったろ?」
「少しな…でも、みんな手伝ってくれたし…」
「で、どうすんの?次は、何やんの?」
「手榴弾はこれで大体オッケー。次はね、地雷かな…興味ある?」
「うん」
「一緒にやる?」
「おお、いいよ」
「俺も、やりたいな」
「本当?じゃ、2人ともあとで一緒に来てくれる?」
「うん。分かった」
卓也が近付いてきた。
「正ちゃん、どうする?基地に戻るだろ?」
「うん、もうちょっと、すぐ済むから。あ、それからさ、斉藤くんと荒井くん、今日から基地に来てもらっていいよね?」
「おう、俺は全然いいぜ」
正治と卓也は、広場をあとにすると、昌志と幸夫を連れて基地に戻った。
4人を出迎えた日吉丸は、新顔の2人に興味津々で近付いては盛んに匂いを嗅いでいた。
「凄えな…ここ…」
「権現山にこんなとこあったんだ…」
「うん、社宅に引っ越してきてすぐに見つけたんだ」
「ここで爆弾作ってんの?」
「ああ、釘の錆落しもここでやってる。ここなら誰にも邪魔されないからね。2人とも内緒だよ」
「うん。分かった」
「それよりさ、一緒にやってくれるんなら、ちょい相談があんだ」
正治は平台の上にアルミのフィルムケースに入った幾つかの調合済みの火薬を並べ、ノートのメモに沿って、これまでの爆弾開発の経緯を詳しく説明する…
これまで開発に関わる技術的な問題は全て1人で解決してきた正治だったが、今後漠然としたアイデアを膨らませ実現させる為には、共に知恵を絞ってくれる仲間が欲しかったのだ。
「なるほどねえ…」
「じゃ、今日の手榴弾はこの通りに作れば、いくらでも作れるんだ…」
「そう、そのはず。材料さえあればね」
「釘は順調に集まってるんだろ?」
「今まではね。でも、ここんとこ大分減ってる」
「みんなで目ぼしいとこは大体取り尽くしたからな…」卓也が呟く。
「そうか…そういう問題もあるんだ…」
「いや、お前らはそんなこと心配しなくていいよ。そっちは俺と和夫で何とかするから。地雷の方頑張ってよ。まだ少し貯えもあるし…」
「そうなんだ…」
「おう、任せな。また、新しい場所も見つかるかもだしな」そう言い放つと、卓也はトランジスターラジオのチューニングをいじり始めた。いつだって卓也の言葉は心強いのだ。
「で、地雷ってどうするの?」
「爆薬は少なめにする。踏んづけると足元の土がバッと飛び散るようにするんだ」
「出来るの?そんなこと…」
「土の中で破裂させるとどの程度になるかは、大体分かってる。問題は火を付けなくても踏んだだけで着火させるには、どうしたらいいかって…」
「それって、すごく難しいんじゃない?」
「だって、かんしゃく玉はぶつけただけで破裂するし、ローマッチはどこでも擦れば火が付くじゃん」
「そういや、そうだな…」と、昌志。
「踏んだ瞬間に爆発させるんなら、摩擦熱…だな」幸夫が呟く。
「やっぱ、そうだよね…」正治は、あらためて昌志と幸夫2人の協力は不可欠だと感じていた…
その後も皆が心配した通り、調達する釘の本数は日を追って減っていった。
卓也と和夫さらに数人のメンバーが新しい発掘場所を求めて品川中を駆け巡っていた。
7 青木くんとにしら
ある日の放課後、正治は担任の先生に呼ばれた。
教員室に入ると、いつもにこやかな先生が深刻な顔つきで正治を待っていた。まさか、爆弾のことが誰かの口から漏れたのでは…正治は不安に顔を強ばらせた。
「おう、悪いな、呼び出して」
「いえ…」
「川村、お前、青木とは仲いいか?」どうやら、心配したようなことではないらしい。
「別に…そうでもないですけど…」
「ほら、青木、ずっと休んでるだろ?」
青木君は勉強も運動もそこそこ出来、比較的活発な生徒だったが、何故かどこか目立たないところがあって、影が薄い。仲の良い友達も少なかった。そういえばここ数日休んでいたが、クラスメートはあまり気にしていなかった。正直言って、正治も言われて初めて気が付いた。
「青木くん、病気なんですか?」
「うーん…いや、そういうわけでもないんだけど…」先生は説明し辛そうだった。
「家の方には様子を聞きに行ってきたんだけど…どうもご家庭の事情がいろいろあるらしくてな。お母様ともあまりちゃんと話が出来ないんだ。お前、学級委員だから、明日の朝、学校の前に青木のとこに迎えに行ってやってくれないかなあ…誰か仲のいいやつ誘ってもいいから…」
「分かりました…あの…青木くん家、何かあったんですか?」
「いや、お前は心配しなくていい。迎えに行ってくれるだけでいいから。それと今の話、あんまり他の子に喋るんじゃないぞ」
「分かりました…」
「じゃ、頼んだからな」
「はい」
校舎の外で卓也と雄太、昌志と幸夫の4人が心配そうに正治を待っていた。
「爆弾のことだった?」みんなの不安は同じだった。
「違う違う。青木のことだった」
「青木ってうちのクラスの?」
「そういや、あいつ、ずっと休んでるな。病気?」
「そうじゃないらしいんだけど、明日学校の前に迎えに行って欲しいんだってさ。あ、これ他の人には言わないでね。先生にそう言われてんだ」
「なんかあったの?」
「よく知らない…」
「でも、青木ん家ってちょっと遠いぜ。工場の方だろ?」
青木くんの家は南品川の西側、学校区のぎりぎりのところにある。その辺は町工場ではなく、比較的大きな工場のある地域で、遊び場が少なく、南品川の子供たちも頻繁に足を運ぶような場所ではなかった。
「俺、あの辺よく知らないから、誰か一緒に行ってくれないかな…」
「あいつと仲いいやつって誰だっけ?」
「青木って、学校以外で遊んでんの、あんまり見たことないな」
「そういや、そうだな…」
「あっ、たしか一平が結構仲良しって言ってたぞ」卓也が言った。
「内海くん?」
「そう、いつだったっけか、あいつ青木ん家に遊びに行ったって言ってたぞ。そうだ、正ちゃん後で行ってみようぜ」
正治は担任から騒ぎにならないよう口止めされていたので、卓也と2人だけで一平を訪ねることにした。
一平の家は、卓也の家の近所にある大きな材木店だ。ひょろりと痩せて、顔色は青白く、いつも強い近視の眼鏡を掛けている。身体があまり丈夫ではないらしく、欠席や遅刻や早退が多く、冬にはいつも帽子にマフラーにマスク姿、クラス中の誰よりも厚着だった。かといって、決してひ弱でおとなしい訳ではない。休み時間だろうと授業中だろうと、スキさえあればいかにも子供らしい下らない冗談やギャグを大声で連発する。
冗談のレベルは相当に下らないので、殆どのクラスメートはうんざりしていたし、授業中に先生のゲンコツを貰うことも、教室を追放されて廊下に立たされることも、珍しいことではなかった。それでも、下手な鉄砲もなんとかで、ごく稀に彼の冗談がピタリとツボにはまることがある。そんなときにはクラス中が笑いの坩堝と化し、一平は一躍ヒーローとなる。その極く稀な瞬間の為に、彼は誰に何と言われようと日々コツコツと下劣な冗談やギャグを積み上げていく…そんな少年だ。
材木店の奥の二階屋を正治と卓也が訪ねると、内海くんの祖母らしい老女がニコニコと玄関に出迎え、一平を呼んでくれた。
「あれ?タクちゃんと川村。どうしたの?なんか用?」
「おう、ちょっとよ、聞きたいことがあんだけど…」
「上がれよ」
「おう」2人は一平の後について、二階の子供部屋に上がった。
「婆っちゃんっ!友達来たから、ジュースかなんか頂戴っ!」一平が階段の上から大声で怒鳴る。
「はいはい…」と、下から小さな声が聞こえる。
「おい、お前お婆ちゃんにすげえ偉そうな口きくな」
「そお?」
「うちの婆ちゃんだったら、ただじゃ済まねえぞ」
「へへ…で、話ってなに?」
「そうそう、お前さ、青木と仲良かったよな」
「うん、割とね。うちにも何回か遊びに来たよ」
「実はさ、正ちゃんがね、先生から明日学校に行くときに青木を誘ってきてくれって頼まれたらしいんだ」
「青木くん、ずっと休んでんだろ?」
「ああ…その話か…」
「何だよ、お前何か知ってんのか?」
「ああ、あいつちょい可愛そうなんだ…」
一平の話はこうだった…
青木くんの両親は一昨年離婚して、彼は新聞社に勤める父親に引き取られ父子で暮らしていたが、昨年父親は再婚、新しい若い母親ができた。青木くんは新しい母親に気に入られるように努めたが、彼女とはあまり馬が合わないらしく、今年になって赤ん坊が産まれると、その関係はますます悪化するようになる。
頼りの父親は仕事が多忙で日曜日も殆ど家に居られない。初めての子育てに心境不安定な継母は、その苛立ちを青木くんに遠慮なくぶつけてくる。いつも学校から帰ると、あれこれ家の手伝いを言いつけられ、外で遊ぶことも許されない青木くんの状況を聞いて、一平は何度か外に誘い出しに家に行ったらしい。
学校の友達が迎えに来れば、母親は外出を許可するようで、何度か彼を連れ出して一緒に遊んだそうだが、そんなときは帰宅後さらに辛く当たられるらしく、最近になって、本人からもう誘いには来ないで欲しいと頼まれたらしい。
そんな安物のメロドラマのような話が本当にあるのかと、正治は半信半疑だった…
学校でも何度か話をしたことがあったが、青木君の話はいつも同じで、日曜日に父親がオードリー・ヘップバーンの映画に連れていってくれたことを、さも嬉しそうに話す。
映画の内容や、オードリー・ヘップバーンがどんなに美しい女優であるか、そのあと父親がレストランでビーフシチューを食べさせてくれたことなど、その時の感動を詳細に話すのだ。
怪獣活劇やディズニーアニメの話ならいざ知らず、いきなりオードリー・ヘップバーンの『真昼の情事』のと言われても、子供の耳に念仏である。2人になると必ずその話になるので、正治はしまいにうんざりして、あまり口も利かなくなってしまった。
学校では、明るく振舞っていても、いつもどこか寂しそうな不思議な存在だったが、そういうややこしい背景があったとすると、彼の存在感の全てが説明できるのである。
「内海くんて、いっつもふざけてばっかりいるけど、意外と友達想いなんだねえ…」
「おう、お前偉いな。見上げたもんだぜ」
「へへ…見上げたもんだよ、屋根屋のふんどしってね」今回の一平の冗談は少し笑えた…
翌朝、正治は一平と一緒に青木くんを迎えに行った。
青木くんの家は、小さな平屋の文化住宅だった。
「あそこだよ」
一平は、4軒同じ顔を揃えて並んだ住宅の手前から三軒目の家を指差す。
近付いてゆくと、目指す家の庭から赤ん坊のむずかる声が聞こえる。
小さな庭に沿った垣根越しに中を覗いて、正治は我が目を疑った。背負い紐で赤ん坊を背中に括り付けた青木くんが、たらいの前にしゃがみ込み、洗濯板で一心不乱に大量のおむつを洗濯しているのだ。
とその様子を眺める正治を、勝手を心得た一平が促す…
「川村、こっち」2人は玄関に回る。
「あーおーきーくんっ!」一平が大きな声で呼んだ。
青木くんは洗濯の手を止めて玄関の方を振り向いたが、自分から応答することはなく、その場で様子を伺っているようだった。
ほどなく玄関の引き戸を開けて母親らしき若い女性が顔を出した。見たところ普通の母親のように見えたが、ランドセルを背負った2人を見ると、露骨に迷惑そうな表情を浮かべた。
「あら内海君…」
「お早うございます。青木くん病気?ずっと学校休んでるから、迎えにきたんだけど…」
「そう…利樹は今、ちょっと用事なのよね…あとで行かせるから、あなた達先に行ってて頂戴」
「いいです。待ってます」正治が言った。
「あ、こいつ級長の川村くん」
「おはようございます」
「あらそう…ちょっと待っててね」
母親は家に戻り、縁側から青木くんに声を掛けた。
「あんた、まだ終らないの?」
「……」
「学校の友達が迎えに来たわよ。行ってらっしゃい」
「いいの…?」
「いいわよ。それ、ちゃんと終らせてから行ってよ」
返事はなく、青木くんの洗濯のピッチだけが上がった。
暫くして、再び母親が玄関に顔を出す…
「あなたたち、学校遅刻しちゃうから、先に行っててくれる?」
「いいんです。先生に言われてますから。待ってます」
「…そう…」
彼女はそれっきり顔を出すことはなかった。正治と一平は、それ以上家の中の様子を窺うことをやめ、玄関の前で青木くんを待つ間、小声で話をした。
「ちょっと授業さぼれるな」
「そうだね。ねえ、青木くん誘うときって、いっつもこんな感じなの?」
「そうだなあ…大体こんな感じかな…ひどいときは庭に立たされて怒鳴られてることもあるし…」
「なんで?」
「知らない…聞いてもあいつ、何にも言わないしよ…」
「なんか、可愛そうな感じだな…」
「…あいつだってちょっとは悪いんだ」
「そうなの?」
「可愛げないしな…怒られても泣かないし…第一、あいつ新しいお母さんのこと嫌いなんだもん」
「そうなんだ…嫌いなんだ…でも、仲良くしようとしてるんでしょ?」
「そうだけどね…嫌いじゃ駄目だよな」
「そう?…」
「そりゃそうだよ。自分のこと嫌いなやつが側にいたら、川村だって嫌だろ?」
「そうか…そうだな…でも、大人なんだから…」
「毎日おんなじ家で一緒に暮らしてるんだぜ。自分のこと嫌いなやつだったら、大人だって意地悪もしたくなるんじゃない?」
「意地悪なの?」
「知らない。あいつ、何にも言わないから…」
「そうか…俺も、お母さん、嫌いなことあるけどな…」
「そういうのと違うよ。俺だってそうだよ。でも、やっぱ好きだろ?」
「そうだね…」
「あいつは本当に嫌いなんだ」
「お母さんなのに…?」
「本当のお母さんじゃないからな…」
一平は、いつもクラスの中ではふざけてばかりで、まともな会話をしたことはなかったが、きちんとした考えを持っていることを正治は初めて知った。それに比べ、現実に対する自分の理解力の乏しさが恥ずかしかった。
暫く待っていると、玄関からランドセルを背負った青木くんが飛びだしてきた。
「ごめんね、遅くなって」
「行こうぜ!」3人は学校に向かった。
「大丈夫だった?」
「うん。ありがとう。迎えにきてくれて。ごめんな」
「やっぱ、家、出にくいの?」
「そういうんじゃないんだけどな…やること一杯あって…俺、子供だからそんなに上手くできないだろ…よかったよ、内海と川村が迎えに来てくれて、早く片づいちゃった」
「大変だな…」
青木くんがあまりにも満面の笑顔なので、正治も一平もそれ以上質問することを控えた。
翌日の朝も、またその次の日の朝も、正治と一平は青木くんを迎えに行った。学校での彼は、何事もなかったかのように陽気で、授業やクラスメートとの遊びにも活発に参加していたが、授業が終るや、一目散に家に飛んで帰ってしまい、彼のことを案じている一平や正治との距離は一向に縮まる様子は見られなかった。
青木くんへの迎えが始まって4日目の朝、正治と一平がいつものように迎えに行くと、偶然出勤に出掛ける父親と玄関で鉢合わせした。青木くんが自慢するだけあって、背の高い、端正で知的な顔立ちの立派な人だった。
「やあ、君たち、利樹の学校の友達?」
「はい、お早うございます。青木くん、迎えに来たんですけど…」
「そう…近所の子たちなの?」
「あの…先生に言われて、毎朝迎えに来てます」
「どして?」
「青木君、しばらく学校休んでたから…」
父親の顔色が変わった。
「そうか…今、連れてくるから、君たち、ここでちょっと待っててね」そう言い残すと、父親は家の中に取って返した。
「お父さん、知らなかったみたいだな」
「大丈夫だったかな…」
「しょうがないよ」
ほどなく青木くんと父親が玄関から出てきた。
「おす」
「おう」
「……」青木くんはバツが悪そうにうつむいていた。
「君たち、今日はこのままおじさんが利樹、学校に連れていくから、先に行っててくれるかな」
「でも…」
「先生に聞かれたら、そう言っておいてくれる?」
「分かりました。行こうぜ」
「じゃな。青木後でな」
青木くんはこっくり頷く。正治と一平は2人を残して学校に急いだ。
途中正治が振り返ってみると、話をしながらゆっくり歩いてくる2人が遠くに見えた。
教室に到着した時、まさに授業が始まろうとしていた。
「おい、川村、青木はどうした」先生が正治に尋ねた。正治は先生の側に行って、事情を話した。
「そうか…みんな、先生ちょっと急用があるから、しばらく自習しているように。分かったか。川村、徳川、頼んだぞ」
「はい」
先生は急いで教室を出ていった。替わって正治と栄が教壇の上に立った。
「国語の時間ですから、先生が戻ってくるまで国語の自習にします」
「みんな、教科書を開いて、これからやるところを静かに黙読しましょう」
型通りに、学級委員として決められた口上を言ったが、従う生徒は半数もいない。いつものことなので、さして気にもならなかったが、念のため釘を刺した。
「あんまり騒ぐなよ。うるさいと隣の先生来ちゃうからな」
教室は幾分静かになった。栄が正治を見てにっこり笑った。
教壇の上から窓を通して校舎の入口が見える。
先生が立っている。
そこに青木君が父親に連れられてやって来た。
父親は深々と頭を下げると、先生と話し始めた。
父親の片手は、青木くんの肩に置かれ、時折頭の上にそっと移ってはまた肩に戻る。
正治は自分の席に戻った。
この日以来、正治と一平は、青木くんの朝の迎えから開放された。
青木くんは遅刻することもなく毎日学校に来るようになった。放課後、外で遊んでいる彼の姿を見かけることも多くなったが、それからも彼は友人達に決して多くを語ろうとはしなかった。
広場での2度目の実験の時、卓也と正治は一平と青木くんを誘った。今度の実験は、手榴弾『日吉丸1号』の完成実験と、地雷に使用する火薬の爆発実験だった。完成した『日吉丸1号』は3弾用意され、その全てがほぼ完ぺきな結果を出した。
一平と青木くんは驚きを隠しきれない様子で、正治に駆け寄ってきた。
「すげえな!卓也から聞いてたけど、本当の爆弾じゃん!」
「2Bなんか目じゃないよな。よく作ったなあ!」2人とも大はしゃぎだった。
次に、地雷の実験に取りかかる。
正治は4本のアルミのフィルムケースを取りだした。それぞれに火薬が調合されている。
「えーとお…次にやるのは、地雷の実験なんだけど…今日持ってきたのは、地雷の爆発部分だけ。本当は足で踏んづけると爆発するようにしたいんだけど、そこはまだ出来てないんだ。で、先にどの位の爆発力にするかを今日の実験で決めようと思って、これ、いろいろ作ってきたんだけど…」
集まった悪童達は真剣に説明に耳を傾けていた。幸夫が後を続けた。
「地雷って言っても、僕らが戦争ごっことかで使うわけだから、本当に足が吹っ飛んだり、怪我しちゃうとまずいから、ビックリする位にしたいんだよね。で、今日はこの火薬を土の中に埋めて上に重い石を置いて実験してみる。準備するから、みんな手伝って」
正治と幸夫と昌志はみんなに指示を出して、地面の4箇所に穴を掘らせた。
ヒデオたちが広場の端から大きめのコンクリートの塊を4つ運んできた。
正治はそれぞれの穴の中心にフィルムケースの蓋を取って置き、代わりに導火線の付いたボール紙の蓋をして、土で埋めてもらう。
埋めた爆薬の真上にコンクリートを置き、その下から導火線が顔を出すようにセットする。
「じゃ、いくよ。爆発力の弱い方からね」
最初の導火線にマッチで火が付けられた。導火線の煙は順調にコンクリートの下に吸い込まれていく。みんなは固唾を呑んで火の行方を見守る。
やがて…『ズ』と、低く鈍い音がして、コンクリートの置かれた下の地面から煙がゆらゆらと染み出してきた。
「ちょっと、弱いな…」
正治は呟いて、次の場所で導火線に火を付けた。今度は、みんなその場所の周囲に集まってきていた。
『ズンッ』地面が揺れて、コンクリートが少し傾いた。
「おおっ」近くにいた子供たちが、ビックリして思わず跳び退く。
「やっぱ、もっと密閉しなきゃ駄目なんじゃない?」昌志が言う。
「そうかなあ…土の中に埋めるから大丈夫と思ったんだけどな…」
正治は首を傾げながら3番目の場所に移動し、導火線に火を付ける…
前の2つよりも導火線が長かったのか、待ち時間が少し長かった。
『ズボムッ!』周囲の土が外側に崩れ飛び、コンクリートは5、6センチも地面の下に沈み込んだ。
「うおおっ!」はじめて大きな歓声が上がった。
「これだな。こんな感じじゃないかな…」昌志と幸夫が何回も頷き返した。
「最後のは、もしかしたらちょっと危ないよ!」正治が大声で皆に注意を促す。
導火線に火が付けられると、卓也と和夫がみんなを少し遠ざけた。
『ドンッ!』地面の土が吹き飛び、大きなコンクリートの塊はひっくり返ってしまった。
何人かが驚きのあまり、尻餅をついた。細かい土塊がみんなの頭上にパラパラと落ちてきた。
一番近くにいた正治は、頭に降り注いだ土を払いながら卓也に言った。
「こりゃ、ちょっとヤバいな」
「冗談になんねえな」
「子供がやるこっちゃねえよな」みんなが笑う。
「じらいしちゃいや~ん!」と、一平が腰をくねらせた。
実験結果はみんなに正治たちの爆弾開発が順調に進んでいることを充分にアピールできた。 みんなの意気は大いに上がっていたが、実はここまで順調に進んできた爆弾開発計画も、大きな岐路を迎えていた。
実験の後、正治たち中枢メンバーを囲んで、皆は広場の中央に車座に集まった。
「最近、釘あんまり集まんねえよなあ…」ヒデオが話し始める。
「結局いっつもちゃんと集めてくんの卓也と和夫だけだもんな」と康男。
「空地はすぐなくなっちゃうから工場とかの廃材置場の方がいいんだよ。どんどん捨てられるからさ」
「でも、そんなとこ、そんなにないだろ…」
「もうそろそろ、お金もなくなっちゃうぜ」
「いいよ、そんなに焦んなくても…こっちもちょっと難しいんだ」正治が言った。
「なに?地雷のこと?」
「うん…着火の仕掛けが煮詰まってる…いろいろ試してんだけど…」
「あ、そうだっ!」幸夫が口を挟んだ。
「正ちゃん、セルロイドがいいみたいよ」
「セルロイドって、下敷きとか筆箱とかの?」
「そうそう、セルロイドってねもともと火薬の材料にもなるんだって。低い温度で発火して凄い早さで燃えるって。ほら、手品でさ、ボアッて火が上がって花が出てくるのとかあるじゃない。あれも、セルロイドの一種なんだって。図書館の本に載ってたよ」
「本当?セルロイドか…」
「うん。ゆうべね、やってみたんだ。下敷きのはじっこナイフで削ってさ、少し。火付けてみたら、シュバッってさ、一瞬で燃えちゃった。結構匂いが凄くて、お兄ちゃんに怒られちゃったけど…へへ…」
「それ、使ってみようぜ」
「そうだな…セルロイドなら安いしな…」
「あと…基地のことなんだけど、ちょっとヤバいんだ…」卓也が話題を変えた。
「そうそう、金田と康男がおとつい怒られたんだよ。な」と、和夫。
「うん、ごめんな。康男とさ、遅くまでいたんだ。もう暗くなってきたからランプ使ってさ、釘磨いてたんだ。そしたら近所の大人の人が来て…おばさん。あんた達どこの子って」
「で、どした?」
「ここは子供の遊ぶとこじゃないから帰りなさいって、言われた」
「防空壕の跡だから崩れるかもしれないって、危ないって。最近子供がよく出入りしてるらしいから、見に来たんだって」
「そんで?お前らは何て言ったの?」
「みんなで遊びの時の隠れ家にしてるって、置いてるものは持って帰れって言われたけど、自分たちのじゃないものもあるって言ったら、友達にもここに物置いちゃ駄目だって言っとけって。な」
「ヤバいな…」
「ここんとこ、沢山出入りしてたからな」
「どっか、他に移らないとかな…」
「どっか、探さなきゃ…」
「ヒデオ、ここは駄目かな…」
「駄目だよ。ここの大人は、たち悪いやついるからよ…やってることバレたら、根こそぎ持ってかれるぜ」
正治と卓也にとって、『秘密基地』を失うということは、2人で創り上げてきた全ての核を失うということ…とは言え、みんなの手前打ちひしがれる訳にもいかず、しばらくお互いの言葉を待っていた。
たった2人で始めた爆弾開発の秘密基地...何しろそれが、あっという間にこれほどの大所帯になってしまったのだ。
これだけの大人数の子供達が出入りしても、周囲の大人たちの目に止まらない場所なんて、どこかに見つけることができるのだろうか...
誰も解決策を見出せないまま、長い沈黙だけが続いた...
「あのお…俺、話していい?」重苦しい沈黙を破ったのは、青木くんだった。
「なに?」
「今日初めて来たから、詳しいこと、よく分かんないけど…俺、いい場所知ってるけど...」
「何の場所?」
「だから、廃材が一杯置いてあって、誰も来ないとこでしょ?」
「そんなとこあんの?」
「あるよ。うちの近く。誰も来ないし、多分周りのどっからも見えない」
青木くんは説明し始めた…
以前殆ど外出が許されなかった彼は、外で遊ぶ機会が少なく、近所に親しい友人もいなかった。
ところが、たまに父親が家にいる日には、母親は打って変わり、外に遊びに行くようにしきりに外出を強要した。
そんな時には、家を出たものの、何処に行って何をすればいいのか分からず、近所を一人でうろうろと探検して時間を潰していた。探検といっても、近所で見て回るものは工場や倉庫しかなく、警備員や守衛の目を盗んで子供が敷地の中に入り込める場所は、そうそうは見つからないのだ。
随分前の日曜日の事だった。
朝から外出を強要された彼は、近所をうろうろしているうちに、ある工場の前で立ち止まった。そこは古い中規模の工場で、日曜日なのに門は閉じられておらず、うるさそうな守衛の姿もなかったので、何となく敷地の中に入ってみた。
染みだらけの古い鉄筋の建物を回り込んでみると、敷地の裏手の庭にこじんまりした木造の寮があった。裏庭は思ったよりも広々としていて、3人の若い作業服姿の青年がキャッチボールをしていた。
青木くんがしばらく彼らを眺めていると、中の一人が「一緒にやる?」と声を掛けてくれた。
彼らは集団就職で上京してきたばかりの住込みの見習い工員で、一緒に遊んでみるとまだ大人の匂いのしない、ちょっと年の離れたお兄さんの様だった。
半日も一緒に遊んでくれて、寮の中でおやつまでご馳走してくれた。
夕方帰り際に、また日曜日に遊びに来いと言われたが、その機会はなかなか訪れず、1ヶ月以上が過ぎてしまっていた。
最近自由の身になった青木くんは、また彼らに会いたくて日曜日に同じ工場に行ってみた。何故か門は閉められていたが、鍵は掛かっておらず、簡単に開いた。
中に入り、以前と同じように建物を裏側に回り込むと、なんと寮は取り壊され、敷地の隅に廃材がうずたかく積みあげられていた。工場建屋の出入口には全て鍵がかけられており、人の気配は何処にも伺えなかった。
仕方なく敷地の外に出た青木くんは、偶然通りかかった人に意を決して、ここにいた人たちはどうしたのか、尋ねてみた。話では、会社が倒産し、工場は新たな持ち主に買い取られたそうだが、暫くはこのまま放置されるらしい、とのことであった。もちろん従業員達も全員解雇になったらしい。
「しばらくはあのまんまだと思うよ」
「いいじゃん、そこ」
「とにかく見に行ってみようぜ」
「行こう、行こうぜ!」
正治たちは、青木くんを先頭に、早速その場所に向う。
南品川の住宅密集地を西に向って抜けると、工場や倉庫が建ち並ぶエリアになる。
通りには人影も少なく、時折貨物のトラックが土煙をあげて通り過ぎてゆく…
「この辺は来たことないなあ…」
「俺、たまに来るぜ」と、卓也。
「ほら、さっきのあの煙突のある工場。あそこの守衛の親父と俺仲良し。正ちゃん一緒に食ったろう?おかき。あれくれたのあそこ」さすがに卓也は行動範囲が広い。
青木くんの案内した道は、本道からそれた狭い無舗装の道だった。大型のトラック一台がぎりぎり通行出来る程度の道幅である。
「この道は、知らねえなあ…」卓也が呟いた。
道の両側には、2メートルほどの高い塀が続いていて、塀の向こう側ところどころに2、3階建てのモルタルや鉄筋の建物がある。建物と建物の間に何があるのかは塀に遮られていて全く見えない。
「ここだよ」
道の右側に丁度トラックが出入りできる位の幅の鉄門があり、奥には古い鉄筋3階建ての建物が見える。入口の看板は外されていて、そこだけ下地が白くなっていた。
門は閉まっていたが、鍵は掛かっていないようで、青木君が格子の間から手を差し入れて、内側の閂をずらして押すと『ギ…』と重そうな音を立てて簡単に隙間が出来る。みんなは青木くんに倣って恐る恐るぞろぞろと敷地の中に入った。
「誰もいないから大丈夫だよ」と青木くんが言う。
建物の周囲を回り込むと裏庭に出る。30メートル四方はあろうかという想像以上の広さで、周囲は塀で囲われている。塀の向こう側はどの方向も隣接する工場の壁で、小さな通気窓が数箇所あるだけだ。つまり、これだけ広大なスペースがほぼ完ぺきな死角として存在しているのだ。
しかも周囲は騒音の多い工場ばかりで、一軒の住宅もなく、ここで子供たちが何をしていても周囲から一切干渉を受ける心配がないことは明白である。
「すげえ…」
「広いな…」
しかも、充分な広さとプライバシーだけでなく、ここには正治たちが必要としていた全てのものが揃っていた。
「あそこに寮があったんだ」
青木くんが示した敷地奥の場所は既にさら地になっていたが、工場の建屋から鉄骨に支えられたトタン屋根が伸びていて、屋根の下は地面から30センチほどの高さでコンクリートの通路が打たれていた。多分雨の日でも寮と工場を行き来出来るようにしてあったのだろう。
その屋根つきの通路が終る辺りには手押し式の井戸ポンプが残されていて、試しにポンプを押してみると、きれいな水がふんだんに出た。
そして、何よりも驚いたのは、寮の跡地の奥、つまり敷地の一番奥に置かれた廃材の山である。
廃材は一様に整理されている。
寮一軒分の木材、コンクリートブロックや建築用石材、数十枚に及ぶ一間サイズの木製パレット、やかんやガスコンロなどの日用品、一斗缶や木箱、工場で使われていたものなのか無垢の大きな金型やアルミ材の数々…まさに宝の山だ…どの位の五寸釘が探し出せるのか見当もつかなかったし、良質の鉄材やアルミ材など、頑さんが涙を流して喜びそうなものがゴロゴロしていた。
「タクちゃん、これアカだよ!」廃材の中に大きな銅版を何枚も見つけて正治が叫んだ。
「本当かよ」
「うん。ほら、緑青付いてるもん」
「あ、それ寮の洗面だ」
「…これ…一財産になるぞ…」
全ての問題が一気に解決したのだ!
「ここで大丈夫だった?」心配そうに青木くんが言った。
「大丈夫も何も、ここ完璧だよ!」
「おう、青木のおかげで全部解決だ!」
みんなから拍手が起こる…青木くんは恥ずかしそうに笑っていた。
正治は早速頑さんのところに運ぶべき廃材を物色し始めたが、それは子供の手で運べるような量でも重さでもなかった。
ひとまず今日のところは全員引揚げて、明日の放課後、再び集まることとした。
「そうだ、で、ここ、これから何て呼ぶ?」和夫が尋ねた。
「そうだなあ…ただの秘密基地じゃ、もったいないよな…」
そのとき幸夫が廃材の中の板を指し示した。
「ここに、なんか書いてあるな…」
板に黒く書かれていたのはカタカナのようだったが、殆ど消えかかっていて読めない状態だった。
「えーとお…ニ、シ、……ラ…かな?あとは読めないな…」
「に・し・ら…いいじゃん、にしらにしようぜ」と、卓也。
「いいねいいね、にしら、ってなんかいい感じだよね」昌志が言うと、みんな口々に賛同の意を示した。
「じゃ、『にしら』って呼ぶことにしよう。明日からここが俺たちの拠点だ」正治が締め括る。
「にーしーらー、にーしーらっ…」一平が腰を振って踊っていた。
8 日吉丸2号
翌日、正治は、学校が終ると急いでランドセルを家に置き、権現山の基地に向った。
隠し棚から火薬類や道具箱、ランプ、トランジスターラジオ、現金の入った箱を紙袋に納め、感慨深げに平台に腰掛ける…木立の中から日吉丸が現われて、正治の隣に座った。
「お前とも、しばらくお別れだな…あ、そうだ…」
昌志が日吉丸用に持ち込んだ犬用のビスケットがまだ残っていることを思いだした。木材の後ろを探ると、ビスケットの袋とどんぶりを取りだして、袋の中に残ったビスケットを全てどんぶりに入れる。どんぶりは山盛りになった。日吉丸は嬉しそうに尻尾を振りながら、ビスケットの山にかぶりつく…
ほどなく昌志と幸夫がやって来た。
「正ちゃーん!」
「おう!」
「あ、日吉丸来てるな。にしらに連れてくの?」
「駄目だよ。日吉丸の縄張りはこの辺だからな」
「そうだよな…」
「荷物は?」
「これで大体終り。あとゴミ集めてくんない?団地のゴミ置場に捨ててくから」
「分かった。板は?片付けてくの?」
「いいよ、平台はそのまんまで。雨の日とか、日吉丸の居場所になるから」
「そうだね」
「俺、水汲んできてやろ」
正治は近くの団地の水道からビンに水を汲んできて、餌の隣にもう一つどんぶりを置いて水を注ぐ。あっという間に基地は綺麗に片づいた。
「さ、行こうか…」
「ああ、急がなきゃな」
「日吉丸、またな。時々様子見に来るからな…」
「またな!」
3人は卓也の実家が経営する運送会社に急いだ…
運送会社の車庫前には、大型のオート三輪を囲んで卓也達が3人の到着を待っていた。
「よう、待った?」
「いや、今さっき車出して貰ったとこ。基地の荷物引揚げてきた?」
「おう、これで全部」
「荷台に乗っけちゃうよ」
「うん」和夫に荷物を渡すと正治は卓也に尋ねた。
「オート三輪借りられたの?」
「おう、バッチリだよ。これもう古くてさ、もうすぐトラックに買い替えるから、少しぐらい擦ってもいいってさ。あ、あれ、和夫んとこの弘さん」
いつか和夫が話していた同じアパートに住む夜学の高校生で、昼間はトラックの助手をしている弘だ。スポーツ刈りでヒョロリと背の高い弘はオート三輪の足回りを点検している。
「弘さん。来たよ。こいつが正治」
顔を上げた弘は、いかにも人の良さそうな笑顔の汗をタオルで拭った。
「はは…君が爆弾博士の正ちゃんか」
「…はじめまして…」
「大丈夫だよ。弘兄ちゃんには全部話してあるから」和夫が言った。
「すんません。宜しくお願いします」
「おう、今日は仕事休みだし、大丈夫だよ。それに車貸して貰えたしな、練習になっから俺も助かるよ。よろしくな、へへ…」弘は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、行こうぜ!弘さんお願いします」
「おう!」
道に詳しい卓也と青木君が運転席の隣に座り、他は全員荷台に乗り込む。
「全員乗ったか?荷台は危ないからしっかりに捕まってろよ。金具のとこは持つなよ。手え挟むぞ。じゃ、出すからな」
「はい!」
エンジンが掛かり、大型のオート三輪はゆっくり通りに出る…いつもとは違う高さで、いつもとは違う速さで景色が通りすぎてゆく…
期待感も手伝ってか、荷台に座る正治の顔を打つ風は心地良かった。
にしらにはすぐに到着した。卓也と青木くんが門を開く。車はゆっくりと敷地の中に入り、建物を回り込んで裏庭の奥に停まった。みんなが荷台から跳び降りる。
「よーし、じゃあみんな、廃材ん中からでかいもんだけ選んで、ここに集めて」卓也が車の荷台近くの地面を指差した。
「あ、俺の紙袋の中に軍手あるよ」正治が言うと、和夫が素早く荷台に跳び乗り、紙袋の中から軍手の束を取りだしてみんなに配る…
にしらの廃材の山には期待以上に数多くの宝が埋もれていた。
「それそれ、そこの、その下のでかいやつ。1人じゃ無理だぞ。おい、お前らあっち手伝え。そこどかしてから持ち上げないと崩れるぞ…」
今や廃材の山に関しては誰よりも豊富な経験を持つ卓也が、その能力をいかんなく発揮していた。
鉄板、銅板、金型、ローラー、ギア、大型のベアリング、アルミ型…目ぼしいものを集めただけだったが、30分もすると大量の鉄材が地面に並んだ。
「凄いな。これ、全部持ってくのか?」弘が訊いた。
「うん。積めるでしょ?」
「そりゃ積めるけど、大変だぜ」
「もちろん、みんな手伝うよ。な」
「おう」
「よし分かった。じゃ、下から持ち上げる奴と、上で受け取る奴の2組に分かれて貰うぞ。まず平ったいもんから、その次にでかいもんから順に積むからな」弘はそう言いながら慣れた手つきで金具を外し、荷台の縁板を開く…皆は言われた通り2手に分かれ、弘の指示に従って、掴み所のない重い鉄材を次々に荷台に上げ、平積みしてゆく。積み込みにはたっぷり30分以上を費やした。
弘が荷台の金具を閉じながら言う…「荷台は、これだとちょっと危ねえなあ…助手席に乗る奴以外は歩いて行って貰った方がいいな」
「いいよ。向こうはヒデオたちがいんだろ。手え足りっだろうから、俺たちここで待ってるよ。卓也と川村で行ってこいよ」和夫が言った。
「じゃあ、みんなで使えそうなもん探しといて」
「おう、分かった」
正治と卓也は、弘の運転するオート三輪でヒデオたちの待つ集落前の広場に向った。
「あれ、全部頑さんに売るの?」弘が2に訊く。
「そう」
「もったいねえなあ…このまんまスクラップ工場に持ってきゃ、もっとうんと高く売れるぜ」
「いいんだよ、頑さんには世話んなってるし」
「そう、たまには頑さんにうんと儲けて貰わないと…だもんな」
「そうか…子供のくせに義理堅いんだな…でも、結構な金額になるぜ。お前ら子供だから舐められてピンハネされるぞ」
「頑さんはそんなんじゃねえよ」卓也がきっぱりと言う。
「そうか…」
「でも…どれくらいになるんだろうね?」
「分かんねえなあ…千円とか超えるかもな…」嬉しそうに卓也が言った。
「あんまり期待しないほうがいいぜ。屑は屑だからな」弘がたしなめる。
広場の入口付近でヒデオたちがリヤカーを2台用意して待っていた。
「すげえ量だな…」ヒデオたちが車の荷台を見て唸った。
ヒデオを筆頭にした集落の子供たちは、こういった仕事には慣れているらしく、抜群のチームワークで次々と積み荷を降ろし、リヤカーに積み込んでは頑さんのもとに運んでいく。正治と卓也は、最初のリヤカーの積荷と一緒に頑さんの家に向った。心配して弘も一緒に付いてきてくれた。雄太から大量の鉄材が届くことを聞いていた頑さんは、最初の積荷を見て驚きを隠せない様子だ…
「すげえな、これ…お前えら、一体これどこで拾ってきたんだ?」
「へへ…内緒…」卓也が答える。
「おう、弘じゃねえか。なんでお前ここにいんだ?お前の手引きか?」
弘はここの住人とは顔見知りだ。
「違うよ、俺はただ、車の運転頼まれただけだよ」
「そうか、そういやお前、運転手だったな」
「助手だよ。それより頑さん、こいつら律義だぜえ。俺、この荷物見てよ、頑さんとこに持ってくより、工場に直接持ってった方が高く売れるって言ったんだ。でも、こいつら頑さんには世話んなってるから、こういうときに儲けて貰いたいってよ…だから、ちゃんと分け前払ってやってくれよ」
「馬鹿野郎、俺あガキ騙すような商売はしねえんだ。この卓也と正治とはずっと売上折半でやってんだよ。余計な口挟むんじゃねえ」
「そうか…そんならいいんだけど…こんだけのもん見ると、ちょっと心配になってよ…」
「そりゃそうだな…今までの五寸釘とは訳が違うな」
鉄材は2台のリヤカーで次々と頑さんの家の前まで運ばれてくる。頑さんは、銅板や鉄やアルミの無垢材など、目ぼしいものを幾つか選ぶと、ヒデオたちに手伝わせて小屋の中に運び入れた。
「さすがにこれだけ金目のもんだと、外に出しといたんじゃ危ねえからな」
「で、頑さん。全部で幾ら位になるかな?」正治は恐る恐る訊いてみる。
「まだちゃんと量った訳じゃねえけど…アカだけでも3、4千…多分…細かいもんも入れて全部で…万はいくと思うがなあ…」
「万って、1万円ってこと?」卓也が目を剥いた。
「万は万だ。折半で五千円ずつってことだな。見た感じだと、もうちっといくと思うけどなあ…」
「1万か…すげえな…」弘が呻く。
「今日は金は払えねえぞ、明日工場に売りに行ってくるから、それからでいいか?」
「うん、いいけど…弘さんのお礼とかあるから…少しだけでも先に貰えるといいんだけどな…」卓也が言う。
頑さんはズボンのポケットから百円札の束を出して、数え始める…
「いっちょこ、荷車、秋刀魚の塩漬け、ごんぼの蒸したの、菜っ葉の葉っぱの胡瓜の唐茄子…と、これで千円。取合えずこんだけでいいか?あとは、明日の夕方になるな…」
「ありがと、あとは明日また来る」卓也は百円札を受け取り、その場で半分の5枚を弘に渡す。
「弘さんこれ、お礼」
「おい、いいのか?こんなに…」
「うん、最初から1割くらいは払うつもりだったから…」
思いがけないまとまった収入に、弘は素直に嬉しそうだった。
もちろん、頑さんも嬉しさを隠しきれない様子だ。
ヒデオ、康男、雄太の3人を加えて、オート三輪は意気揚々とにしらに戻ってきた。
和夫と昌志と幸夫たちによって既に新しいスペースにはアレンジの手が加えられ始めている。
コンクリート打ちの通路の上には、使用できそうな棚や作業代が設置され、通路が途切れる一番奥、つまりかつて寮が建っていた場所には、コンクリート材と木製のパレットで八畳ほどの床が立ち上げられていた。正治たちが車から降りると、みんなは作業をやめて走り寄ってきた。
「どうだった?」
「うん、ばっちり。上手くいったよ」
「で、幾ら位になった?」
「まだわかんないけどな、明日頑さんが売ってきてからだな。取合えず前金で千円だけ貰って来た」卓也が自慢げに応える。
「本当かよ…じゃ、もっと貰えるってこと?」
「まあな。頑さんの話じゃ…万はいくだろって言ってたからな。俺たちの取分も少なく見ても五千円はいくって感じかな」
みんなの口から歓声が洩れた。
「じゃあ、これでお金の心配は無くなったんだ…」
「そうだね。当分は大丈夫だね」
「弘兄ちゃんのお礼は?」和夫が尋ねる。
「大丈夫。たんまり貰ったぜ。ありがとな。またなんかあったらいつでも手伝うぜ」
喜んでいる弘を見て、和夫も大満足だった。
「じゃ、俺は学校あるから、そろそろ車返しに行くわ」
「俺も弘兄ちゃんと一緒に帰るわ」と和夫。
「そうか…じゃ、俺も一緒に戻んなきゃ…明日は頑さんのとこ行ってから来るから…また、明日な」
「うん。また明日ね」
「バイバイ…」
「あば…」
オート三輪を見送ると、ヒデオが正治に声を掛けて来た。
「あのさ、あそこ、和夫や昌志くんたちが板貼ったとこさ、小屋建てちゃわない?」
「小屋?」
「おう、頑さんの小屋位んだったら、俺たちで建てられるぜ。な」
「ああ、俺たちいつも手伝ってるからな」康夫が言う。
「本当?」
「それって、すごいな…」幸夫が思わず呟くと、金田くんがニコニコと頷いていた。
「材木はたんまりあるし、大丈夫と思うぜ。あとはどんな風に建てるかまず決めないとな。それからノコとかトンカチとかバールとか道具が必要だな。みんなで作るとなると数が揃うといいけどな」
「何日くらいかかる?」
ヒデオと康夫は顔を見合わせた。
「土日入れりゃあ…3日くらいかなあ…」
上手い具合に明日は金曜日。
明日から3日連続で頑張れば、にしらに正治たちの家が建つのだ。
「おれ、明日家から道具もってくる」
「俺も」
「よし、んじゃ、おれは助っ人なるべく連れてくるわ。でも…道具は難しいかな…バールとかトンカチとか持ち出すと喧嘩に使うって思われちゃうしな…へへ…」ヒデオはきまり悪そうに頭を掻いた。
「道具ならうちに一杯あるよ」
「なんで?」
「だってうち材木屋だもん」一平が言った。
話はトントン拍子に進んだ。最後にヒデオは正治や昌志や幸夫と、どの程度の小屋を建てるか意見を交わし始めた。
「普通よ、家ってのはまず柱を立てて、梁組んで、枠から作ってくだろ?うちらの小屋はまず壁から作んだ。こう面で支えるんだな。ここには山のようにがっちりしたパレットが置いてあっから、もってこいなんだよ。あとはどうしても窓が欲しいとことか、ドアをどこに付けるかとかそういうことだけ決めておけばいいんだ」
「屋根はどうすんの?」
「屋根はなるべく軽く作ること。斜めにして雨が漏らないように丁寧に被せていくこと、細い角材と薄い板でも結構しっかり出来るんだぜ。少しぐらいの雨漏りはご愛嬌だな」
説明は理にかなっていて簡潔で分かりやすかった。何よりも実践に裏付けされた力強さと安心感があったので、正治たちは手伝いに撤することにして、全てをヒデオを長とした引揚げの子供たちに託すことにした。道具や資材が不足した場合は一平がその調達に当り、虚弱な一平をリカバーする為に青木君がサポートすることとなった。
「じゃ明日から頼むな。俺たちも手伝いに来るから」
「おう、任しとけって」
翌日、正治は授業の休み時間に教室の机の上で、爆薬を調合していた。昨夜、下敷きを削ってセルロイドの粉を大量に作ってきたのだ。そこに火薬を混ぜてゆく…
『こんな感じかな…』
正治はフィルム缶にたっぷり出来上がった発火薬に蓋をして、そっとポケットの中に忍ばせた。
次の休み時間に卓也と昌志と幸夫を誘って、人目のない校庭の裏に行った。
「ほら、これ…これで火が付くはずなんだけどな…セルロイドが多いから火薬の量も調節しやすいし、何か突っ込んで、グイッて擦りゃ火が付くと思うんだけど……」
正治はフィルム缶を出して中を見せた。
「やってみてよ」昌志が言う。
「うん」正治は近くの木の丈夫そうな細い枝を選んで折り、フィルム缶を半分地面に埋めて、呼吸を整えると、一気に枝を缶の中に差し込んだ。想像したような反応は何も起きなかった。さらに差し込んだ枝を、グイッと回してみたが、やはり何も起きない…
「だめだな…」
「何でだろうな…擦り方が悪いんじゃないか?もっとこう…」
「いや、地雷なんだから、踏んづけただけで発火しなきゃ意味ないよ…」
「そりゃそうだなあ…」
「やっぱ、調合が悪いんだ…きっと…」正治はフィルム缶を取って、蓋を閉めた。
校庭の端にある砂場の縁に腰掛け、再びフィルム缶の蓋を取って、中をしげしげと見つめる。
「これで一番発火しやすい状態だと思うんだけどなあ…」
「摩擦熱をさ、中で起こすのに何か足りないんじゃない?」昌志が言う。
「石は?ローマッチとかさ1Bとかはさ、こう石に擦りつけるじゃん」卓也が提案する。
幸夫は苦笑していたが、正治は案外それはあるかもしれないと思った。
その時突然、近くを走っていた上級生が正治の背中にぶつかった。
「あっ!」
手に持ったフィルム缶が砂場の砂の上に落ち、調合された火薬の半分以上が砂の上にこぼれてしまった。
「てめー!気ーつけろっ!馬鹿野郎お!」
卓也が怒鳴ると、びっくりした上級生は「ごめん、ごめん」と言いながら走り去って行ってしまった。
「あーあ…こぼれちゃった…」
「もったいねえなあ…」
「あ、そろそろ教室戻んなきゃ、やばいぜ」
正治は拾ったフィルム缶の中に手早く砂混じりの火薬を拾い集め、蓋を閉めると教室に戻った。
次の授業中、正治は教壇からは見えない位置にフィルム缶を出し、どの位砂が混じってしまったか確認し始めた。思った以上に砂は大量に混じっていた。よく見ると、砂の粒には殆ど目に見えないような細かいものも、ごつごつした岩のかけらのように粗いものもある。
いずれにしろ、砂と火薬類を選り分けることは不可能なので、これはいっそのこと均等に混合してしまった方が、何か別のことに使えるかもしれないと考えた。正治は筆箱から鉛筆を一本取り出すと、逆に持ち、フィルム缶の中に差し込んで、ゆっくり、そっと撹拌しはじめた。しかし、火薬類と様々な粒子の砂粒全てを均等に混ぜるのはなかなか難しい…
缶の端のほうに火薬が塊状になって付着しているのを見つけ、正治が鉛筆に少し力を入れて缶の端を擦ったその瞬間である...
『シュボワッ!』
いきなり缶は発火し、大量の白煙を噴出しながら一瞬のうちに燃焼した。その一瞬で教室全体は白煙に包まれ、火薬の臭いが充満した。
「おいっ!窓を開けろ窓っ!他のみんなは息を止めて背を低くしろ!」先生が叫ぶ。
正治は固まっていた。卓也も昌志も幸夫も雄太も一平も青木くんも何が起こったのか、直ぐに察しがついたが、こうなってはフォローのしようもない。
全ての窓が全開になると、すぐに白煙は風が運び去り、あとにはきな臭い香りと気まずさだけが残った。クラスのみんなが立ち上がり周囲をきょろきょろと見回している…
「一体何が起きたんだ?」先生が言う。
「川村君の机の辺から煙が出ました」一番後ろの席の女子が言った。
「おい、川村!何があった!」
観念した正治は、立ち上がっていさぎよく頭を下げた。
「すみません…僕がやりました」
「やりましたって…何やったんだ?」先生が正治の机に近づく。
「あの…これに…セルロイドと砂入れて…鉛筆の後ろで混ぜてたら…急に火が付いちゃって…」淵が黒くなったフィルム缶を見せた。
「火傷はしなかったのか?」
「あ、はい。大丈夫でした…」
「他のみんなは大丈夫だったか?喉が痛かったり目が痛かったりする人は直ぐに保健室に行きなさい」
大げさに派手なハンカチで口を押え、か細い咳をしてみる自己顕示欲過剰の女子が2人ほどいたが、特に不調を訴えるという大挙にまでは及ばなかった。
「あー?何でそんなことやってたんだ?」
「あのお…セルロイドを粉にして…何かと混ぜると…どうなるかなって…」
「社会の授業中にか?」
「はい、すいません」
「で、何か分かったか?」
「はい、砂と混ぜると摩擦で発火するって…」
「そんな危ないことやって、自分が怪我したり、人を怪我させたりしたらどうすんだっ!」出席簿が思い切り正治の頭の上に振り下ろされた。
『バンッ!』
「痛…」
「痛くないっ!」
『バンッ!』『バンッ!』間髪いれずに残り2発が振り下ろされた。
「よしっ、この授業が終わるまで廊下に立ってろ。放課後は掃除当番。掃除が終わったら教員室に来い。分かったか?」
「はい…」
正治は脳天を摩りながら教室から廊下に出た。
しかし廊下に立っている間に身体中から喜びが溢れてきた。
『やった!砂だったんだ。タクちゃんが言った通り、ヒントは石だったんだ。これで地雷が出来るぞ…』
地雷開発の構想はどんどん膨らみ、仕掛け、容器、調合のタイプまでが頭の中に出来上がっていき、あっという間に懲罰の時間は過ぎていった。
授業が終わり、先生が教員室に戻ってしまうと、みんなは興味深々で正治の元に集まった。
「なになに?どうしたの?」
「どうやったら火が付いた?」
「上手くいったってこと?」
「先生に言った通りなんだよ。タクちゃんが正しかった。石なんだ。砂を混ぜると摩擦熱が出やすくなるんだ」
「なるほど…」
「だから…ちょっと見て」正治はノートに簡単な図を描き始めた。
「こう…容器はちょっと細長くして…上は紙で蓋しちゃう。これを土の中に縦に埋めるんだね。そいで、同じ長さくらいに割り箸を切って上に当てる。で、その上に板を置いて少し土を被せとくんだ。どお?」
「いいじゃん」
「今度は上手くいきそう?」
「多分ね。だってさっきもちょっと力入れて擦っただけだったもんな。びっくりしたよ。今日、何発か作ってみるよ。あ、そうか、でもちょい遅くなるな…」
「あれじゃ仕様がねえな。助けようがないもんな」
「俺たちは先ににしらに行って、ヒデオたち手伝ってるからな」
「道具も持ち寄んなきゃなんないし…」
「正ちゃんもなるべく早く切り抜けて来いよな」
「うん…分かった…」
正治は懲罰の掃除当番を終え、覚悟を決めて約束通り教員室に向かった。
「先生… 掃除終わりました…」
「おう、ご苦労様。それで?…」
「あ、あの…今日は…すいませんでした…」
「何が悪かったのか、分かってるな」
「はい…」
「二度とあんなこと、学校でやるんじゃないぞ」
「はい…分かりました…」
「よし、もう帰っていいぞ」
「すいませんでした…失礼します」
正治がにしらに到着した頃には、既に大勢の子供たちが働いていた。
正治を見つけると、昌志と幸夫が駆け寄って来る。
「ヒデオくんたち凄いよ」
「うん。ほら、どんどん小屋が出来てくよ」
「本当だ…」
幸夫が指差した場所では、小屋の四方の壁がもう殆ど建ち上がろうとしていた。
正治はヒデオに近づいて話し掛けた。
「遅くなってごめんね…」
「おう、授業中に爆発させちゃったんだって?」
「えへへへ…ちょっと失敗…」
「大丈夫だったのかよ?」
「うん。すんげえ怒られたけどね。でもお陰で地雷完成するよ。」
「本当か?」
「おう、これから作る。それより小屋凄いな…」
「ああ、あとはカスガイ噛ませて、両脇の屋根沿いの斜めの蹴込み板打ち付けたら壁は完成だな。窓はちっちゃいけど二箇所切っといたからよ。入り口はドア付けんなら丁番とかいるから、なんか見つけないと…屋根やんのは明日からだな。やっぱ、パレットとブロックとあるから早いよ。釘もカスガイも山のようにあるぜ。終わったら錆とって売りゃ、また一儲けだぜ。なあ」
「そう…ねえ、俺さ地雷の方作ってていい?」
「おう、いいよ。和夫たちも手伝ってくれてるから、こっちゃ大丈夫だからよ」
「悪いな…」
正治は早速コンクリート通路上の新しい作業台のところに行き、棚に置かれた箱を開けて、中から火薬が入ったフィルム缶をいくつか取り出す。
ノートを開いて、幸夫と相談し、先にボール紙の筒を何本か作って貰う事にした。セルロイドを削り、火薬を調合し、放課後学校の砂場から失敬してきた同じ条件の砂を作業台の上に広げた。
砂とセルロイドと火薬…正治は思い描いた幾つかのタイプをフィルム缶に作ると、昌志に廃材の中から踏み板に使えそうな板を物色しておいてくれるよう頼み、南品川の飲食店街を一回りして、大量の使用済みの割り箸を手に入れた。考えてみれば、誰に指示されるわけでもなく、それぞれが自分の役割をはっきりと自覚して、いつの間にかきちんとしたフォーメーションが出来上がっていたのも、何とも不思議な話である。
にしらに戻ると、昌志や幸夫と相談しながら、3タイプの地雷の試作品を作った。
これらは『日吉丸2号』と名付けられた。
正治たちの作業が一段落する頃、頑さんのところに行っていた卓也がやってきた。
卓也の前に全員が集まった。
「どうだった?」
「へへ…」卓也は嬉しさを隠せない様子だ。
「ねえ、いくら位に売れた?」
「すげえぞ、ほら…」と、ポケットの中から紙の封筒を出して、正治に渡す。
「わ、千円札じゃん」
正治が封筒の中を覗くと、千円札が六枚と百円札が六枚、さらに五十円玉が一枚入っていた。
「それと、これ、みんなにお土産!」卓也が大事そうに抱えた紙の袋を下ろすと、中には冷えたラムネの瓶が沢山入っていた。みんなから歓声が上がった。
「すげえな…」
「こっちの取り分は昨日の千円も合わせて全部で七千七百五十円。帰りにラムネ二十本、百円使った。ちゃんと栓抜き袋ん中に入ってるからな」
ラムネは全員に手渡り、4本残った。
「ヒデオの方はどう?」
「おう、壁は出来たぜ、明日屋根作って、んで完成だ。ひゃー、労働の後のラムネは旨いぜ!で、正治の方は?」
「うん。3本出来たよ。地雷。『日吉丸2号』な。これ飲んだら実験してみる」
「おお、楽しみだな」
「それよりさ、卓ちゃん、これ、お金、どうしよう…」正治は現金の箱の中を見せた。
「ちょっと大金になっちゃったな…」
「靴箱じゃさすがにやばくない?でも、持ってて家で親に見つかるのもやだしなあ…」
「台の横に引き出し置いてあっだろ?」思いついた様に一平が言う。
「うん。まだ使ってないけど…」
「あの一番下のでっかい引出し、鍵掛かるよ」
「本当?」
「うん。鍵、一番上の引出しの中にテープで止めてあったよ」
一平の言うとおりだった。現金の靴箱は、鍵付きの引き出しに入れられることとなる。出納係は一平と青木君に任された。ただし、念には念をいれて、千円札一枚ずつが昌志と幸夫に預けられ、いざと言うときの為に保管しておくように依頼された。
「じゃあ、これからは一平が金の係りだから、宜しくな」
「だいじょうぶ、インディアン正直者。ちゃあんとできる。白人うそつき、みなみなごろし…」
「大丈夫そうだな…」
「じゃ、そろそろ地雷の実験、始めようか」
「オーケー、もういつでもできるぜ」
「やろうやろう!」
ただちに幸夫の指示で3箇所に穴が掘られる。慎重に埋められた3本の『日吉丸2号』の上に割り箸と板がセットされ、そっと土が被せられた。
「よし、ぱっと見た感じじゃ分かんねえな…」
「誰がやる?」
「あのね、一応危ないかもしれないから、半ズボンじゃないほうがいいかも…」
「じゃ、決まりだ、ヒデオと一平と幸夫だ」
「ひゃー…怖えー…」一平が叫ぶ。
「どれが一番危ない?」
「えっとねえ、多分大丈夫と思うんだけど、強力な順にいうと、あれ、つぎがあれ、そんでこれだな」
「一平、お前、一番軽いんでいいや、最初に踏んでみ」卓也が命令した。
「ちょっと待って、だれかタオル貸して」
正治は渡されたタオルを一平の右足首の辺りからズボンの上に巻きつけた。
「いいよ」
「じゃ、いきまーすっ!」
一平は小さくジャンプして目的の場所に右足を踏み込んだ。
『ズボッ!』
「わ!」足元の周囲の土が少し吹き飛び、一平は驚いては思わずつんのめり、地面に片手を付いた。
「すげえ!やった!」
「大丈夫?一平」
「なんだこれ、凄いよ。いきなり足の下の土がなくなっちゃう感じ、なんだか良く分かんないけど、びっくり!」
「もっと、普通に歩いてくれたほうがいいかな」
幸夫が片足にタオルを巻いて、次の場所にゆっくり歩いて行った。仕掛けた辺りに片足が乗る……しかし、今回は何の爆発も起きなかった。
「あれ?だめだな」
「不発だな…」
「もう一回仕掛け直してみよう」
「じゃ、次、俺やってみるぜ」ヒデオが足にタオルを巻きつけながら言った。
ヒデオも幸夫と同じようにゆっくりと仕掛け地点に歩く…
ヒデオの右足がその場所を踏み込んだときだった。
『ズボムッ!』一平のときの倍以上の土塊が吹き飛んだ。大きな身体のヒデオがたまらず尻餅をつく。
「おおっ!」
「大丈夫?怪我しなかった?」正治が駆け寄った。
「おお。大丈夫大丈夫。凄えぞ!一瞬足が持ち上がったぞ」
「これだな」
「やったな」
「おう」
みんなから拍手が沸き起こる。大成功だった!ただし、この地雷は摩擦熱の起き方に偶発性が高く、不発の確率を排除することはできなかった。
夕方にはみんなはにしらを引き揚げた。正治は残って、今日の実験の結果を整理しながら成功の喜びを噛み締めていた。
「まだ帰んなくっていいの?」最後に残った卓也がいた。
「そうだな。もうそろそろ帰んなきゃな」
ビルの谷間のにしらは、もう暗くなりかけていた。
「そうだ、まだラムネ残ってたな。正ちゃん飲もうか?」
「いいねえ、飲もうよ」
残ったラムネはバケツの中で井戸水で冷やされていた。卓也が景気良く2本続けて栓を開ける。
「ほら」
「おう、サンキュー」
「あーっ、旨えな」
「美味しいね」
「なんかこうやってよ、夕方2人でラムネ飲んでると、ちょっと前が懐かしいよな」
「本当だよね。最初は2人だけだったもんねえ…」
「日吉丸とな。そうだ、日吉丸元気だった?」
「うん、おとといはね。残りのビスケット全部あげてきた」
「そうか、じゃ、大丈夫だな」
「大丈夫だよ。もともとあそこは日吉丸ん家だし」
「そうだな…俺たちが借りてたようなもんだもんな」
卓也がトランジスターラジオのスイッチを入れると、プレスリーの甘い歌声が流れる。
「よかった!ここもちゃんとフェン入る…」
「でもよ、本当に俺たちついてるよな。ここのことも金のこともよ。なにやっても上手くいくよなあ…」
「みんな、いい奴ばっかりだしね」
「武器もばっちりだよな」
「うん。俺たち本当に少年ジェットになれるかもな」
「本当だな。本当になれるかもな…」
そう言いながら卓也はアセチレンランプに火を付けた。
「綺麗だな…」
眩いランプの光が2人の満足そうな表情を照らし出した…
9 にしら探偵事務所
土曜日の午後一杯をかけて、ついににしらに小屋が完成した。
小屋の中は八畳程の板張りで、子供が使うには充分な広さだ。
正治たちは、外の作業台の周りに集まっていた。
「じゃ、書くよ」台の上には綺麗に鉋がけされた板が置かれ、墨汁の缶と筆を持った幸夫がみんなに声を掛けた。幸夫は慎重に筆を走らせる…板に『にしら探偵事務所』の文字が大きく書かれていく…
「できた…どお?」
「いいじゃん、いいじゃん…」
「掛けてみようぜ!」
小屋の入り口に、できたての看板が掛けられた。
「いい感じじゃない」
「やっぱ、幸夫こういうの上手いな」
「すげえな、大人の字みたいだな」
全員の拍手を受けて幸夫はニコニコと得意満面だ。
「明日の日曜さ、ここでパーティーやろうぜ」
「いいね…にしら探偵事務所設立記念パーティー、だね」
「おう、そういうこと」
「ここ、広いしさ、明日は周りの工場も全部休みだから、沢山集めちゃおうぜ。なるべく声掛けてさ」
「北と南と引き揚げの子供たちの親睦会にするのって、どう?」
「いいじゃん」
「ラムネも一杯買ってきてさ、お菓子も一杯買ってきてさ…」
「出来たら予算は千円以内に収めて頂きたいですな…」と一平。
「女子は?」
「おう、いいぜ。その代わり、大人には絶対内緒が条件な。おしゃべりは焼きだかんな。それが出来りゃ、女子でもチビでもオーケーだ。その代わり大人にばれて、やばいことになったら、連れてきたやつの責任だからな。よく覚えとけよ」
「ていうか、良く考えて誘ってね」
「メンコとかベーとかビー玉とか、いろんなことして遊ぼうぜ」
「何時から?」
「朝からでもいいよ」
「弁当持ってこようかな」
「ラーメン食いに行ってもいいしな」
「そんなことしていいの?」
「おう、明日は特別。せっかく沢山儲かったしな。買い食いしようぜ」
「予算はなるべく千円以内にして欲しいですな…」
「せえな。分かってるよ!」卓也が苦笑する。
「ヒデオもなるべく誘って来いよ」
「おう、分かった。楽しみだな」
「じゃ、明日な」
「またな」
「あば」
「バイバイ」
みんなはそれぞれの地区に帰っていった。
正治は社宅に戻ると、敷地の中でまだ遊んでいたタカシと栄に声を掛けて、南品川に出来た新しい秘密基地や明日開催されるパーティーの話をした。
「なんだか、面白そうだな…それ…」
「お家も建てちゃったの?」
「うん、大人には絶対秘密だよ。結構広いとこだからさ、団地の子何人か誘ってきてくれても大丈夫だからさ…お昼くらいからになるかな」
「おう、じゃ行くよ。場所、詳しく教えてよ」
「私も。日曜学校終わったら行ってみようかな…」
日曜日の朝、正治がにしらに到着した時には、ヒデオたち引揚げのグループが既にパーティーの準備に取り掛かっていた。そこに、卓也と一平と青木くんがクラスの女子2人を伴って、物凄い量の飲物とお菓子を数台の自転車に積んでやってきた。「おう、仕入れてきたぜ」
「明美ちゃんと節ちゃんも手伝ってくれたの?」
「うん。男子だけだと気が利かねえからな。俺が頼んだんだ」一平が言った。
「悪いね…」
「なんかさ、凄いね、正ちゃんと卓ちゃん。お金一杯稼いじゃったんだって?」
「駄目だぞ!絶対内緒だかんな!お前ら女子はお喋りだからよ…」卓也が脅すように釘を刺した。
「分かってるわよ」
「そうそう、午後にねサカちゃんたちも来るって」
「本当?楽しみ!」
「ヒデオたちがどんど焼いてくれるんだって。で、買い出しにお金が欲しいってさ」雄太が割り込んだ。
「本当?すげーな。よし、俺、一緒に行ってくる。ちょっとさ、悪いけど節ちゃんたちも手伝ってくれる?」
「いいよ」
一平は青木くんと2人の女子を連れて、引揚げのメンバー数人と出掛けて行った。
ヒデオたちは集落から七輪や鉄板や鍋を持ち込み、調理台を井戸の周りに用意する。幸夫を中心に他の男子たちは、ベー独楽の土俵作りや宝探しイベントの仕込みに余念が無い。女子たちの多くの関心は新築の小屋に向けられ、女の子ならではの感性で瞬く間に小屋の生活環境が整えられていった。それは恐るべき女性特有の能力で、大量の廃材の中から食器、敷物、カーテン、置き物、洋服掛け、花瓶、ランプ置場、壁の飾り、等々…の代用物を次から次に見つけ出し、ああでもないこうでもないと激論を交わし、楽しそうに笑いながら、雨風が凌げるだけの空間を、少女じみたマイホームに作り替えてしまうのだった。
「やっぱ、女子って違うなあ…」正治がため息交じりに囁く。
「所帯じみたな…」卓也がつぶやく。
こうして、昼前にはパーティーの準備が着々と整っていった。
正午を迎える頃には、にしらの子供たちの数は40人以上に膨れ上がっていた。「おい、そろそろ始めようぜ」卓也が正治をうながす。
正治は、グループの主だった面々と一緒にコンクリート通路の上に立った。みんなは、ようやく何かが始まるのを察して正治たちの前にぞろぞろと集まってきた。
「みんな。今日は集まってくれてありがとう。最初に俺たちのメンバーを紹介するね。北や南や引揚げとか、いろいろ知らないやつが多いと思うけど…」
一人一人が紹介され、それぞれが連れてきた友人達もみんなに紹介されていく。
「俺たちは、みんなでちょっと商売やって、結構上手くいったんで、今日は食べ物も飲物も沢山用意したし、あとで宝探しもやって賞品も当たるから、みんな楽しんでいってね」
「その代わり、ここのことや今日のことは大人や今日来なかった奴等には絶対に内緒だからな。秘密は守ってくれよな!」卓也が締めた。
飲物の栓が抜かれ全員に渡された。みんなはお互い協力してパーティーの準備を進めたこともあって、すぐに打ち解け合い、あちこちで笑い声が高まっていった。
特に人数の少ない女子は、まとまるのも早く、小屋の周囲に陣を取り、小さな子供たちの面倒を見ながら、お喋りに花を咲かせていた。飲物のお代わりや駄菓子の用意など、周囲の細かいことにも気配りがあり、男子は男子で新しい交遊に心置きなく夢中になれた。
「やっぱ、女子たち誘ったの正解だったな」様子を見ながら正治が言う。
「パーティーつったら、やっぱ女子でしょ」一平がしたり顔で応えた。
「爺ちゃんが言ってたな、信用が欲しかったら女と食い物を大事にしろって…金はその後でいいんだって…」卓也が言った。
「大人って…やっぱ物知りだな…」昌志がつぶやいた。
ヒデオたちが七輪に火を起こし、持ち込んだ鉄板に油を敷いて、『どんど』を焼き始めた。手伝おうとに近付いた正治たちは、汀兄弟の手さばきに目を見張った。大きなアルマイトの鍋にたっぷり溶かれた小麦粉を、さっとお玉ですくい、鉄板の上に注ぐと、そのお玉の背で瞬く間に器用にクマやウサギやカメの形に薄く伸ばしてゆく。キャベツのみじん切り、削り節、干しエビ、千切りの乾しイカをパラパラと上から振りかけ、コテで手早く裏返す。ハケで醤油が塗られ、再び裏返し、これを素早く2回繰り返すと、香ばしい醤油の焼けた香りが鼻を刺激する。
「はいよ。ウサギ出来上がり!」新聞紙の上に熱々の『どんど焼き』が乗せられ、手渡される。
「次は何?」
「あたし、犬にして」
「おう、了解!犬だな」ものの1、2分で、利口そうにお座りをした犬のシルエットが『どんど』に焼き上がる。
「次は?」
「この子、お人形だって…」
「じゃ、キューピーさんな…」
「すげえな…お前ら…」
「おう、いつもやってるからな」
「ヒデオは名人なんだよ。康男も上手いよ」雄太が誇らしげに言う。
「おう、正ちゃんは何がいい?」
「え?俺?そうだな…少年ジェット…」
「…そら、ちょっと無理だなあ…」みんなから笑いが漏れる。
「鉄腕アトムなら出来るぜ」
「本当?」
「おう、任せな」
アトムの横顔どんどが焼き上がる。周囲から歓声が上がる…
汀兄弟の驚異の才能のお陰で、パーティーの昼食は大きく盛り上がった。
にしらでヒデオと康夫の手でどんどが次々と焼き上げられていた頃、栄たち社宅の女子グループがタカシともう一人の社宅の6年生に連れられてやって来た。
「すごいな…一杯集まってんだな…」タカシはにしらの盛況ぶりを見て驚いていた。
「ここがにしらなの?」栄が尋ねる。
「そう、空地なんだ。広いでしょ?あそこが探偵事務所。お菓子もラムネも一杯あるから、好きに呑んだり食べたりして。あと、あそこでどんど焼いてるから、おなか空いてたら食べてって。あとで宝探しもやるし…」
「子供だけで建てたの?あのお家。何だか夢みたいな遊び場ねえ…あ、中田さんや秋山さんも来てる!」
「うん。準備手伝って貰ったんだ」
栄たちは女子が中心に集まっている小屋のグループに加わりに行った。
「正ちゃん、飲物とか食べ物とか、お金どうしたの?」タカシらしい質問だ。
「えへへ…みんなでちょっと商売したんだ。廃材とか売ってさ。結構上手くいっちゃって…あ、内緒だよ。絶対」
「へーえ…俺、どんど焼き食べたいなあ…」団地の6年生が言う。
「いいよ。こっちにおいでよ。みんなも紹介するから」
正治はタカシたちを連れてどんど焼きのところに向った。
「おいっ、あれ、汀兄弟じゃん…やばいよ…」
「何?汀兄弟って…」喧嘩や抗争とは無縁のタカシが友人の指差した方を見る。
タカシは怪訝そうな表情を浮かべていたが、突然目を輝かせた。
「ああっ、ヒデオじゃない?おーい!ヒデオ!」タカシが、鉄板を前にどんど焼きパフォーマンスを繰り広げているヒデオに声を掛けた。
「あーっ!姫野っ!うおー、久し振りい!」いつもクールで強面のヒデオがこれほど満面の笑顔を見せたのは初めてだった。2人は肩を叩きあって固い握手を交わす…
何故全く無縁のはずのヒデオとタカシが旧知の仲だったのか?
タカシの話では、ヒデオたち台場小学校の生徒はかつて校舎改築の為、一年間ほど品川小学校に通っていたことがあったそうだ。ただし、2つの小学校が一つの校舎を共用することは難しく、止むなくその一年間は午前と午後の二部制で授業が進められ、品川小と台場小の生徒達は、或る日は午前、或る日は午後といったように、決して交わることのない不思議な共同生活を送ることとなる。
しかし、授業こそ両校の生徒達を隔絶してはいたものの、課外活動や学校行事でお互いが顔を合わせることは決して珍しくなく、必然的に両校生徒は派閥化し、無意味な敵対関係を築くこととなってしまう。小さな喧嘩や小競り合いは日常化し、特に運動会はこういった対抗意識の格好のはけ口となった。
もちろん、正治の社宅アパートの子供たちの多くは、ここ1年ほどの間に転校してきているので、当時のことは全く知らない。ところがタカシは、現在の社宅がまだ木造の文化住宅だった頃からこの地に住んでいたので、就学時から品川小学校に通っていたのだ。
当時はまだ低学年だったタカシとヒデオは両校の同学年を代表する運動会の花形だった。競走や棒倒しや騎馬戦…だけでなく、ビー玉、ベー独楽、メンコなど、どちらが強いか、どちらが上手いか、どちらが勝ったか、どちらが負けたかは、常に学年中の話題にされた。様々な場面で競い合ううちに、2人の間には次第に友情が芽生え始める。放課後にベー独楽や鉄棒の練習を一緒にする様になり、お互いを認め合い、信頼し合う関係が育まれると、周囲の敵対関係も解消されるようになっていった。
やがて、台場小学校の改築工事が終了すると、子供たちも元の校舎に帰って行き、2人の関係も遠のいてしまった。その後、ヒデオの身に何が起きて2年間も進級が遅れたのかは、タカシも知らない。
ヒデオとタカシはこの日久し振りに、にしらで共に長い時間を過ごした。ベー独楽、ビー玉、メンコ…ヒデオとタカシは驚くべき技術レベルの高さを皆に披露してくれた。どれをとっても2人の腕は優劣がつけ難かった。2人は何度も目を合わせては、笑顔を交わしていた。
「じゃあ、開始!」和夫の合図で今日のメインイベント『宝探し』が始まる。
この宝探しゲームは幸夫のアイデアだ。賞品は一等豪華百円のおもちゃから六等の5円のビー玉セットの類いまで様々…誰もが駄菓子屋やおもちゃ屋の店先で一度は欲しいと思ったことのあるものばかりが、ずらりと揃えられている。
参加者はまずクジ箱の中に沢山用意された指示書を1枚引く。そこにはこのにしらの中の或る場所が指示されている。そこに行って周囲を探すと、次の指示書を見つけることができる。次の指示書には『黄色いハンカチ』とか『てんとうむし』とか『赤いリボンを付けた女の子』とか探し出すべきものが1つ書かれていて、参加者は何とかそれを伴い指示書と一緒に戻らなければならない。こうして初めて最終クジの札を箱の中から引くことが出来る。ハズレ札は僅かなので、早い者勝ちの競争となる。これはパーティー最後のメインイベントとして、参加者全員を大いに盛り上げることとなった。指示書探しやアイテム探しは思った以上に困難らしく、北や南や引揚げの子供たちは派閥の枠を超えて協力し合っていた。
女子の一等賞、ミニチュアキッチンセットには栄が見事当選したが、一緒に遊んでいた引揚げから来た一番小さな女の子に譲られた。男子の一等賞、双眼鏡は雄太が獲得し、にしらの備品に寄付された。他の子供たちの間でも、賞品の交換やお裾分けが繰り広げられ、にしらの子供たちは今や全員が一つにまとまった。
こうして、パーティーは大成功に終り、今日ここに来た子供全員には、この場所を決して他の誰にも他言しないことを条件に、今後のにしらへの出入りが許可され、散会となった。
年下の子供や女子たちが居なくなったにしらで、正治達は後片づけをしながら、今日1日ここで起きた素晴らしい出来事の余韻を噛みしめていた。
「おい、ゴミどうする?」
「ここに置いといても、誰も取りに来ないからな…戻る途中に確か大きいゴミ箱があったよな。そこまで持っていこう」一平が言った。
ヒデオたちも持ち込んだどんど焼きの道具類を概ねリヤカーに積み終えていた。
「明日からまた、頑張ろうな」
「正ちゃん…これからどうすんの?」
「お金は充分あるからな、手榴弾と地雷、ちょっと沢山作っとこうぜ」
「そうだな…で、次の研究は?」
「次はいよいよ、ピストルかな…」
「ピストル?」雄太が訊いた。
「へへ…ちょっと考えがあんだ」
「正ちゃん、ヒデオにも聞いたけど、爆弾作ってんの?何だか大掛かりだね。大丈夫?危なくない?」タカシが話に割って入る。
「大丈夫大丈夫。それよりタカシくん、絶対内緒だからね」
「おう。今度俺も見に行くよ」
これからの展開に胸を膨らませながらヒデオのリヤカーと一緒に全員がにしらを引き払おうとした時、女子や小さな子供たちと一緒に先に集落に戻ったはずのゲンが、ただならぬ様子で駆け込んできた。ゲンは半ベソでわき腹を押さえていた。唇が切れて血がついていた。
「ヒデオ!やられた!百合が百合ちゃんが…」
「なんだゲン、どうした!やられたって、何がやられたんだ!百合がどうしたっ!」
「俺と勲とよ、女の子達とよ、みんなで歩いてたらよ…前からでけえ奴等が来てよ…お前ら引揚げのガキだろって…う…う…みんなで逃げようとしたけど…捕まっちゃってよお…」
「おい、とにかく行こうぜ」卓也が言った。
「ゲンちゃんどっち?」雄太が訊く。
「あっち。向こうの角左に少し行ったとこの倉庫の横」
みんなは荷物を置いて、ゲンの示す方向に急いだ。
引揚げ集落の女子達は人気のない倉庫の前の道脇にかたまっていた。顔面を腫らせた5年生の男子が泣きじゃくる小さな子供たちを必死でなだめている。やはり5年生で集落の女子の中ではリーダー格の百合は倉庫脇にしゃがみ込み、泣いている。他の女子が心配そうに周りを囲んでいた。みんなが大事に持って帰ったお土産の賞品は辺りにバラバラにされて踏みつけられていた。
「おい!勲、大丈夫か!」
「ヒデオ…ごめんな…俺とゲンじゃ駄目だった…守れなかった…」
「どうした…誰にやられた?」
「10人ぐらい、でかい奴等。見たことねえ奴等…多分6年坊…最初は、引揚げのガキは臭え臭えって絡んできやがって…畜生…逃げようと思ったんだけど、チビたちがいたし、すぐに囲まれちゃって…俺とゲンで女とチビには手え出すなって言ったんだけどよ…すぐに袋にされちゃってよ、何にも出来なかった…ごめんな…」
「で、百合たちはどうしたんだ…」
「臭えぞ臭えぞって、砂ぶつけられてよ…百合が、小さい子がいるからやめろって前に出たら、ひでえんだよ。いきなり押さえ付けられてパンツ下げられて…」
「イサっ!言わないでっ!」百合が大声で叫んだ。
「そいで、そいつらはどうした?」
「すぐに笑いながら行っちゃったよ。虫けらは巣に帰れって…」
「虫けらって言ったのか?」
「うん…畜生…」
ヒデオは一瞬凄まじい目つきをしたが、すぐに落ち着きを取り戻して、そっと百合に近付いた。
「お前、偉いぞ。身体張ってチビたち守って…大丈夫か?」
「砂かけられたの…痛いの…」
「分かった、もう何にも言うな。俺が負ぶってってやるから、一回にしらに戻ろう。おい、悪いけどお前らチビたち負ぶってやってくれないか?」
「おう」
にしらに戻ると、男子は小さな子供たちの面倒を見ながら外に待機した。女子達は水を汲み、小屋の中で百合を介抱した。
「でもよ、おかしいな…南の奴等には引揚げの連中には絶対手え出さねえように、話つけてあんだけどなあ…」卓也が呟く。
「俺も言ってあるぜ。上級生にも釘刺しておいたんだけど。誰だろうな…」和夫が言う。
「おい、誰か名前言ってなかった?」
「…あ、言ってた。最後に一番でかい奴に、『ただし、もう行こうぜ』って」
「でっかい『ただし』っていったら…もしかして、浅間台の忠じゃないかな…」団地の6年生が言った。
「そうか…うっかりしてたな…この辺は浅間台の連中の縄張りの近くだもんな…」卓也が言う。
「浅間台の忠か…やべえ奴と関わったな」
「浅間台って浅間台小学校?」
「あっちの方のことはあんまり知らねえな…」康夫が言う。
「何なの?その忠って奴…」雄太が尋ねる。
「6年坊。浅間台で今番張ってる奴。でけえらしいよ。砂利屋の倅でよ、金持ちでよ、小遣いエサに強そうな奴ばっかり周りに囲ってんだ。金はあるからカツアゲはしないらしいけど、ちょっとヤバい奴でさ、普通のワルじゃねえんだな。対パンは張らない。気に入らねえやつは袋だな。女も年下も関係ねえらしいぜ。ようするに弱いもん虐めの組織暴力ってやつだな。たちが悪いんだ。俺も話でしか知らねえけど、やたら評判悪いぜ。やり口からして、間違いなくそいつらだな」卓也が忠について知っている情報を披露した。
「なんだよ、そんな悪党なんで学校が放っとくんだよ」康夫が言う。
「汀兄弟から、それ言われちゃあおしまいだな」和夫が言うと少し雰囲気が和んだ。
「とにかく学校や親の前じゃ、普通の生徒なんだよ。成績も悪くないらしいしさ。大人に言っても誰も信用しないってさ。悪賢いんだよ」タカシの友人が言った。
「数はどの位いんだ?」
「詳しくは知らねえけど、大体10人くらいでのしてんだったら、多分15、6人は集めんじゃねえかな」
「何人いようと、きっちり息の根止めてやる…」ずっと黙っていたヒデオが凄い迫力で重そうに口を開いた。
「おいヒデオ、問題起こすなよ」タカシがたしなめる。
「あんまりイキむなよ、ヒデオ。ああいう奴らはよ、真っ当にいっても駄目だよ。警察沙汰になったらヤバいしさ。悪賢さじゃこっちは負けてねえんだからよ。な、正ちゃん」卓也が言う。
「僕、喧嘩のことは分かんないけど、道具も場所も揃ってるし、じっくり考えてやりゃ潰せると思うよ、きっと」正治が応える。
「そうか…」
「最後はヒデオがきっちり対パン張れるようにしてやるから、心配すんなって。みんなも協力してくれよ」
「おう」
その時、一平が一人遅れて戻ってきた。道に散乱していたおもちゃを拾い集めてきていた。
「ほら、一等の賞品、殆ど大丈夫だったよ」そう言ってミニチュアの小さなキッチンセットを女の子に手渡す。ようやく女の子に笑顔が戻った。
しばらくすると、女子たちが小屋から出てきた。
「おい、百合、大丈夫か?」ヒデオが優しく声を掛ける。
「うん…もう大丈夫…」
全員リヤカーを囲んでにしらをあとにした。国道までみんなで一緒に歩いた。
途中、百合が正治に話しかけた。
「ごめんね。折角楽しかったのに…変なことになっちゃって…」
「いいんだよ。百合ちゃんたちは何にも悪くないんだから。それより、もう平気?大丈夫?」
「うん。まだ少し痛いけど…大丈夫。あのね…このこと、栄ちゃんには言わないで欲しいの。折角仲良くなったし、嫌われたくないの…」
「分かった。大丈夫。絶対言わない」
「ありがと…」
初夏の太陽はすっかり傾いて、正治たちの影をアスファルトの上に名残惜しそうに引き伸ばしていた。
10 ケ・セラ・セラ
翌日学校が終ると、卓也を除くメンバー全員が、にしらの小屋に集合した。
「卓也はどうしたの?」
「浅間台の知り合いから忠が写ってる写真借りに行ってる。そのうち来るよ」
「そうか。昨日のが間違いなく忠だって、まず調べなきゃな」
「そう…一応ここ、探偵事務所だから…」正治が言う。
「で、どうすんだ?」
「もし、昨日の奴等が、その浅間台の忠って奴だったら?」
「俺が決闘申し込む…」ヒデオが言った。
「まずはそれが筋だろな…」和夫が頷く。
「どうやって申し込むの?決闘…」
「タクちゃんが浅間台の6年に知合いがいるみたいだから、伝えられっだろう?なあ…」
「そうだな…まあ、卓也に聞いてみようよ」
「でもよ、まともに対パン受けるかな?」
「もし、忠って奴だったら、決闘受けといて、人数揃えて袋にしに来んだろうな…」一平が言った。
「じゃあ、こっちも人数揃えようぜ」
「それじゃあむこうと同じじゃねえか。俺は嫌だぜ。その代わり、もし袋にされたら、そのあとで戦争にして、倍にして返してやる…」ヒデオが言う。
「だけど、みすみす分かっててやられに行くことないじゃん。殺されたらどうすんだよ…」
「とにかく、むこうが汚え真似するまでは、俺は正面から行くぜ」
「寄ってたかって、ゲンちゃんたち袋叩きにして、女子にまで手え出したんだから、充分汚いと思うけどなあ…」
いくら周囲がいさめても、ヒデオの決心は一向に変わらない。
「で、いつ何処に呼びだすんだ?」
「いつでも、何処でも、今からでもいいぜ」ヒデオが応える。
「あのさ…今日、正ちゃんと幸夫とタクちゃんと4人でいろいろ話したんだけどさ、もしも、そいつらが決闘の場所に来ても、ちゃんと約束守んないで、沢山人数揃えてかかって来たらのことなんだけど…」昌志が正治と幸夫に目配せしながら切り出した。
「そう…そうなったら、もういいんだよね。こっちも対抗して…」幸夫がヒデオに持ち掛けた。
「そうなったらな…どうすんだよ?」
「なんとかさ、逃げて、ここまでおびき寄せられないかな?」正治が尋ねる。
「ここって、にしら?」
「そう…ここ…ここに全部誘い込むんだ。で、全員でやるっていうこと」
「相手は大人数だろ。6年生だぜ。俺たちだけで勝てる?」
「そりゃ、相手は6年の不良ばっかだから、まともにやったら負けるかも知んない。でもね、こっちには手榴弾と地雷があるだろ?」
「爆弾使うのかよ…」
「だって、こういう時のために作ったんだからさ。相手が乗り込んできそうな場所に一杯地雷仕掛けとくんだ」
幸夫があとを続けた。
「最初の地雷が爆発したら、小屋の中や裏に隠れてた俺たちが全員顔を出す。できれば多けりゃ多いほうがいいんだ。やつらに、しまった、こんなにいたのかって思わせられればいいんだ。何人くらい集められるかな?」
「うちはあと3人くらいなら何とかなるな…」ヒデオが言った。
「和夫は?」
「釘手伝ってくれてた奴が2人と、あと同級生1人、この間来てた奴」
「6人か…今俺たちは15人だから…あと4人で25人になるな…よし、その線でいこうか…」幸夫が言った。
「そうか…袋にしようって乗り込んだら25人もいたってことだもんな。ちょっとビビるよな」
「でも、こっちから向かって行っちゃ駄目だからね。場所決めて、地雷沢山埋めるから、こっちは相手をそこに追い込むんだ」
「どうやって?」
「手榴弾だよ。地雷の外側から一斉に投げつけるんだ。煙も爆発もちょっと強力に作っとけば、相当慌てると思うよ。タクちゃんが言ってたけど、何人いたって本当に喧嘩する根性があるやつは大抵4、5人くらいのもんだろうって…あとは殆ど戦意喪失だって」
「なるほどな…それなら上手くいくかもな…」
「で、上手くいって、相手が降参したらどうすんの?」
「謝ったぐれえじゃ、絶対許さねえからな…俺は…」ヒデオが呟く。
「……」全員が暫く沈黙した…
爆発と煙でうろたえる不良達を、その後どうやって屈服させたらいいか…小屋の中は大いに盛り上がった。
「なんだよ、随分騒がしいな…」卓也が小屋にやってきた。
「あ、タクちゃん、どした?写真」
「おう、借りてきたぜ。忠って野郎の同級生に会ってきた。学校でも相当怖がられてるみてえだな…これ、去年の林間学校の時だって…」卓也は一枚の大判の写真を見せた。日光・東照宮の前の階段で撮った集合写真だった。
「お、丁度いいや。ゲン、イサよく見ろ。こん中に昨日の奴等いるか?」
ゲンと勲が待ちかねたように写真を覗き込む…
「…いたっ!こいつだっ!」
「あっ、こいつもそうだ」
2人は集合写真の後方でにこやかに笑う周囲よりもひと際身体の大きい2人の男子を示した。
「やっぱそうだったな。こっちが忠だ」卓也が右側の男子を指で弾く。
「でも…そんなに悪そうな奴には見えねえけどなあ…」
「ていうか、普通だよな」
「あ、こいつ級長のバッジ付けてやがる」
「勉強もできんのか…」
「そいつの話じゃ、どうも大したことはねえらしいけどな。親が厳しいらしくてよ、級長に選ばれねえとうるせえらしいんだ」
「だけど、他にも立候補する奴とかいるだろ?」
「忠って奴が立候補したときは、他には誰も出ねえんだってよ。前に対抗した奴がいて、そいつ女子に人気があって選ばれたらしいんだ」
「へーえ…で、どしたの?」
「便所で焼きだってよ。毎日。でよ、そいつ、学校来なくなったって」
「ひでえな…」
「もう、やりたい放題だってよ。宿題も当番も全部他のやつにやらせて、手柄は全部独り占め。気に入らねえ奴は取り巻きに叩かせて、自分は先公におべっか使ってよ…話聞いてるだけで胸がムカムカしたぜ。その担任つうのがまた唐変木らしくてよ、話になんねえよ。うちの担任だったら、ビンタの百や二百じゃ済まねえぞ、本当によ」
「許せねえな…」
「どうしようもねえ悪党だな」
「でも…何か変だな…」正治が呟く。
「何が?」
「そんな、漫画にでも出てきそうな悪党って、本当にいるのかなあ…」
「そう言われりゃ、そうだなあ…」
「親が悪いんだ、そりゃ。親にも先公にも思いっきり優等生だって思われてなきゃいけない理由が何かあんだろ…必死に誤魔化してたら、そうなっちゃったんじゃないの?」こういうことに関しては、一平はみんなよりずっと大人の感性と意見を持っている。
「成程ねえ…悪党でいなきゃ、成り立たないもんな」昌志が言った。
「でもよ、周りはたまったもんじゃねえよな」
「臆病なのかもな、きっと」
「いくら臆病でも、必死になってる奴あ怖えぞ」卓也が言う。
「どんな事情があるか知らねえけど、百合のことは絶対に許せねえ…二度とできねえように、きっちり落とし前つけさしてやる」ヒデオが中空を凝視して言った。
「そりゃ、そうだな」
「大丈夫、最後はヒデオに任せるから。みんな、いいよな」正治が言った。
「おう」
「最後って…どうすんだ?」卓也が正治に経緯を尋ねた。
正治はこれまでの話を説明した。
「そうか…25人いりゃ、何とかなりそうだな」
「でも、ちゃんと作戦立てとかないとね。俺もそうだけど、喧嘩なんてあんまりしたことない奴も多いだろ?どうやって戦ったらいいか分かってないと怖いよ」昌志が不安そうに言う。
「そりゃ、そうだな…」
「それ、俺が考えてもいいけど…」幸夫が申し出た。
「本当?幸夫くん、そういうの得意だもんね。頼むよ」
「じゃあ、タクちゃんと和夫くんさ、俺喧嘩のことよく分かんないから、ちょい協力してよ」
「おう、いいよ」
「あとさ、ちょっと気になることがあるんだけど…」昌志が言った。
「何?」
「手榴弾とさ、地雷とさ、ま、一度にじゃないだろうけど、沢山爆発さすんだろ?」
「そうなるな」
「きっと煙とか凄くってさ、敵と味方の区別が難しくなっちゃうんじゃない?」
「確かに…そうだよなあ…」
「そうだ!ユニフォーム作ったら?シャツとか…全員同じ色の」幸夫が提案した。「なんかチャラくねえ?」卓也は表情を曇らせる。
「そうだけど、言ってられねえだろ」意外と現実派の和夫が制した。
「それ、すごい大事かもしんないな…」正治も賛成する。
「でもよ…シャツ25枚も買ったら大変だぞ」
「ボロでも何でもいいからさ、ランニングとか下着のシャツ何とか集められないかな…25枚…」幸夫が言った。
「それなら、何とかなるかも知れねえな…だけど…そんなんでユニフォームになんのかよ?」
「染めるんだよ。おんなじ色に。どうせ、その時だけ着られりゃいいんだろ?ボロでも何でもいいじゃん。絶対に見間違えないように派手な色に染めちゃえばいいんだよ」
「何色?」
「そりゃ、敵が絶対に着てこない色だよ」
「男子が絶対着ない色っつったら…赤とか…桃色とか…かな…」
「げええ!桃色お?嘘だろっ!あっちが戦意喪失する前にこっちが戦意喪失だぜえ!」卓也が叫んだ。
「タクちゃん、我慢してよ。それ着て学校行けって言ってんじゃないんだから。そん時だけなんだからさ」正治がたしなめる。
「正ちゃんがそれでいくってんなら、俺は従うぜ」ヒデオが言った。
「おれもいいぜ」と和夫。
「どう?タクちゃん」
「しょうがねえか…こうなりゃ、桃色だろうと花柄だろうと何でも着るよ」
「ぼ…ぼ…僕らはももいろ探偵団っ…」と、一平が歌いながら踊った。
『にしら探偵事務所』にみんなの爆笑が沸き起こった。
浅間台の忠グループをいかにして屈服させるか…作戦会議を進めていると、タカシと社宅の6年生が自転車でやってきた。
「おっす」
「おう、タカシじゃねえか。どうした?」ヒデオが嬉しそうに表情をほころばせる。
「ああ…どうなったか、気になってな」
正治は、これまでの経緯と作戦の内容をざっくりと説明した。
「やっぱ忠だったのか?」
「ああ…間違いねえな…」ヒデオが答える。
「いつやんの?」タカシが訊く。
「うまく準備ができれば、次の日曜かな」
「……」タカシは考えているようだった。
「タカシ、止めても無駄だぜ。昨日のことは絶対に許せねえんだ」ヒデオが非難を封じた。
「違うよ…こいつからも、忠のこと色々聞いてさ…よかったら、俺も手伝おうかと思って…」
「本当かよ…お前、喧嘩嫌いじゃなかったのか?」
「そうだけど…忠って奴はちょっと俺も許せないかな…」
「タカシがやんなら俺も手伝うよ」
「本当?手伝ってくれるの?」正治は喜んだ。
「やったな。6年が2人だぜ」
「おう、すげー戦力だな」
「じゃ、明日から、放課後はにしらに集合ね」
「分かった。必ず行く」
「おれも行くから、宜しくな」
「こっちこそ…」
タカシとヒデオは固く握手を交わした。
翌日の午後、にしらのメンバーは大幅に増員された。ヒデオが連れてきた新メンバー3人は4年5年6年が1人ずつ、3人とも手榴弾の実験の時に来ていた見覚えのある顔だった。これで引揚げの高学年男子は全員顔を揃えたらしい。和夫の仲間は同じアパートの5年生が2人と、クラスから和夫が厳選した喧嘩好きの、大塚くんが加わった。正治の社宅からは、タカシと6年生がもう1人。
卓也は同級生の菅野くんと4月に転校してきた河田くんの2人を連れてきていた。菅野くんは正治の家にテレビを見にきたことがある。身体が大きく目鼻立ちがはっきりしていて、喧嘩相手として立たせれば見た目には迫力はあるが、実は温厚でひょうきんな性格だ。
転校生の河田くんは、クラスでは無口でいつもニコニコしている。このにしらの比較的近くにある大きな塗料工場の社宅に住んでいて、周囲にクラスメートが殆どいないせいか、なかなか友達ができないらしく、まだクラスに溶け込みきれていない。身体が非常に大きく、ガッシリしていて、間違いなく学年で一番の大きさだった。いつだったか、正治はどうしてそんなに大きいのか尋ねたことがあったが、事情があって、学年が1年遅れたと笑顔でさらりと答えた。理由は聞き出せなかった。力も強く運動神経も抜群で、体育のドッジボールでは、担任の先生と互角に渡り合い、みんなを驚かせた。卓也の見立てでは「ありゃ、ただもんじゃねえぞ…」とのことである。
にしらのメンバーは15人から一気に25人に膨れ上がったのだ。
正治と卓也と昌志は、新メンバーを小屋に集めて、グループのこれまでの活動と経緯、一昨日の事件と次の日曜日に何が行われようとしているかを説明した。
「すげえな…おまえら本当に4年坊かよ…」6年生の新顔が呟く。
「…だから、日曜日には浅間台の連中と戦争になるかも知れない。やっぱ喧嘩はやだって人は今のうちに言って抜けても構わないから…河田くん、いいの?」
「友達と喧嘩すんのんは嫌やけど、そういうんやったら、構へん…」と、関西訛りで静かに応える。
他の新メンバー達も異論は無いようだった。
「爆弾のこととか、細かいことは、またあとで話すから…」
「今日はとにかく、知らない人がいたら、お互い顔と名前を覚えておいてね」最後に昌志が加えた。
「なんだか凄え組織的だな…」和夫の同級生の大塚くんが呟く。
「だろ?こんなのちょっとないぜ。燃えるだろ」和夫が言う。
「ああ…」
「タカシ、こっち来いよ。うちの連中紹介するよ」
タカシがヒデオに呼ばれると、菅野くんと河田くんが寄ってきた。
「正ちゃん、入れてくれてありがとな。卓也が面白そうなことやってんなって思ってたんだけどよ、あいつ口が堅くって、教えてくんなかったんだよ。すげえことやってたんだな。俺、こういうの大好きだからよ。働くぜえ!」
「頼むわ…ねえ、河田くんってさ、喧嘩大丈夫?」
「へへへ…大丈夫や。前に中学生にコテンパンにやられたことあるけどな…」
「中坊と対パン張ったことあんだ…」
「対パン…て何?」
「一対一ってことだよ」
「あー…相手は3人やよって…全然あかんかったわ。へへ…」
「タクちゃん…すげえ奴引っ張り込んだな」
「だろ?転校してきた時からそうじゃねえかと思ってたんだ」
一方、ヒデオとタカシは、少し離れた場所で5、6年の上級生をまとめ上げてくれていた。
みんなが和気あいあいと打ち解け始めたころ、幸夫が自転車でやってきた。
早速、外で作戦集会が開かれた。
「これ、作ってきた」
幸夫は大きな模造紙をコンクリートの上に広げた。全員が周りを取り囲んで覗き込んだ。模造紙にはマジックインクでにしらの地図が大きく描かれ、そこに様々な色に塗り分けられた25の丸とその動きが点線で描かれている。
「ここはにしらで、ここが入口の門。いい?広場の中心に点線で囲った場所が地雷原ね。地雷と手榴弾は50発ずつ。どお?正ちゃん」
「手伝いが増えそうだから、大丈夫だよ」
「こっちの25人は全部で7つの班に組分けしておく。5人の班が2組と3人の班が5組。第1班はこの5人、ヒデオくんたちの班、決闘場所に行く5人だね。決闘の立会いはそれぞれ4人まで。それはこっちから伝えておく。あ、そうだ。決闘の場所は、この間ゲンちゃんたちがやられた倉庫の前でどお?あの辺は日曜日殆ど人がいないし、ここから近いでしょ?時間は昼過ぎ。1時くらい。いいかな?」
「おお、いいぜ」ヒデオが応える。
「じゃ、俺、今晩浅間台の奴に言っとくわ。忠に伝えとくように…」卓也が言った。
「頼む。この5人の条件は足が速いこと。それと、一番危ない役だから、度胸はいるよね…」
「やっぱ…でかい奴の方がいいのかな…」卓也が不安げに言った。
「そうでもないな。ヒデオくんはともかく、でかいのばっかりが行ったら、もし相手が少なかった時、退いちゃうかも知れないからね…4年生とかが混じってて、ちょっと舐められるくらいがいいかも」
「お前、意外と悪賢いな」卓也が嬉しそうに言った。
「で、ヒデオくんたちは倉庫前で忠たちと会うだろ。そのまんま順調に決闘になったら、あとはヒデオくんと忠の問題だから、俺達は手は出さない」
「そんな、すんなりいくはずないぜ」
「そう…相手はこっちが5人なのは分かってる。だから、もし大人数で来たら、その時は最初っから決闘なんか応じるつもりはないってことだよね」
「そしたら、逃げて、ここまで誘き寄せるんだろ?」和夫が訊いた。
「そう…多分相手は囲んでくるだろ?そしたら先制攻撃仕掛けて、そのまま一気に走るんだ。あそこからだと百メートルくらいかな?相手は絶対追いかけてくる。この広場まで誘い込むの。できるよね?」
「分かった。大丈夫だと思うぜ」
「ヒデオくんたちは、広場のこの辺まで来る。相手は同じ様に広場に入って来るよね。全部広場の方に行ったら、門のかんぬきに鍵掛けちゃうんだ」
「でも、あそこの門、鍵ないよ」
「針金かなんかでグルグルに縛っちゃえばいいんだよ。とにかく出口を塞いで逃げられないようにすんだ。で、ヒデオたち5人以外は全員小屋と建物の陰に隠れとく...」
幸夫は敵を取り囲むように配置して、手榴弾でかく乱し、地雷エリアから逃れようとした者をどのように攻撃し、どのように捕獲してゆくか細かいフォーメーション計画を披露した。
「おう、良く出来てるじゃん…」
「やっぱ、勉強できるやつは違うな」
「お前ら、本当に4年坊かよ…」
「じゃ、みんなで相談してこれに名前入れて」
幸夫は2枚目の模造紙を広げる…そこには第1班から第7班までの各人数分の枠が表に描かれている。既に第1班の筆頭にヒデオの名前が書き込まれており、各班の所々に赤い印が付けてある。これは、喧嘩の実力のある者が必要というマークだった。ものの20分も話し合うと、各班のメンバーが決定した。
決闘場所に出向く第1班の5人は、ヒデオと卓也と和夫と勲、それにタカシが加わった。正治は当然のことながら、小屋前の火薬班だった。
「これで完璧だな…」
「だといいけどな…」
「今から日曜まで、班のメンバーはなるべく一緒に行動して、しっかりチームワークを固めてね。とにかくそれが一番大事だからね」幸夫が真顔でみんなに言った。
みんなもいつになく真剣な顔で頷いた。
「それと、もう一つ調べてきたんだ」幸夫が続ける。
幸夫は図書館から借りてきた図鑑の一頁を開いて、写真を指差した。植物図鑑だった。
「これなんだけど…だれかこの木が生えてるとこ知らない?」
「お、この木なら前の原っぱの奥の方に生えてるぜ。あかねだろ?」引揚げの5年生が言う。
「どのくらい生えてる?」
「結構あちこち生えてるぜ。数えたことないけど、10本じゃきかねえと思うけど…な」
康夫も図鑑を覗き込んだ。
「そういや、生えてるな。細っこい、あんまり大きくない木だろ?」
「そうそう。その茜の木のね、根っこを採ってきて欲しいんだ」
「おう、いいよ。根っこだけでいいんだな。どの位?」
「なるべく沢山…」
「何に使うの?」
「潰してお湯で煮て、シャツ染めるのに使うんだ」
この日は物事が次々に決まっていった。
いつまでに誰が何をすべきなのか、自分の役目を果たすためには、何をし、何を習得しなければならないのか、誰もがきちんと理解した。
正治は本番の情景を思い描きながら、手早く火薬を調合しサンプルを作り、実際に何本かを爆発させて、当日に使用する手榴弾と地雷の威力を決めた。その手際の良さと爆発の迫力に新しいメンバー達は目を丸くし、誰もがこの計画は必ず上手くいくと信じた。
夕方、翌日からの仕入れと段取りを決定して、その日の作業を終えた。
初夏の空が赤く染まりだした頃、にしらには正治と卓也だけが残っていた。ラジオから聞きなれたドリス・デイの『ケ・セラ・セラ』が流れていた。正治は廃材置場を引っ掻き回してピストル制作の材料を物色している。卓也はコンクリートの通路に置かれた台の上に座り、気持ち良さそうに曲に合わせて足をブラブラさせながら、空を見上げている。曲がサビにさしかかると、卓也は日本語の歌詞で一緒に歌い始めた。
「ケ~セラ~セラ~、なるようように~なる~、先のこと~など~わから~ない~ケ~セラ~セラ~…」
「あった!」廃材置場で正治が叫んだ。
「どうしたー、正ちゃーん!何があったー?」卓也が歌を止めて呼びかける。
「ちょっと、まってて!」正治は廃材の中から細い鉄パイプを持ってきた。
「ほらっ!」正治が片一方の柄の先端、切り口を卓也に見せる。そこには銀玉鉄砲の弾がピッタリはまっていた。
「おう、ピッタリじゃん。でも、そん中に弾通すんだったら、ピッタリ過ぎねえ?」
「ちがうよ。ほら、この辺で切って、薬きょうにするんだよ」
「やっきょう?」
「そう、こん中に火薬仕込むんだ。撃鉄が叩くと中の爆薬が爆発して、弾が飛び出す…ね、ピストルの弾だよ!」
「へーえ…だからピストルの弾って、ああいう格好してるんだあ…俺、全然知らなかった」
「そうだ、金鋸誰か持ってないかな。うちに平紙火薬のピストルあるからさ、改造して銃身と弾倉仕込めたら、ピストルが作れるんだけど」
「金鋸ならうちにあるぜ」
「本当?」
「ああ、父さんの工具箱に入ってた。こうコの字したやつだろ?糸鋸のでっけえやつ…」
「そう、それそれ」
「明日持ってきてやるよ。あと、何かいる?」
「ラジオペンチとやっとこ、ドライバーは持ってるから、あとニッパかな…」
「分かった!一式持ってきてやるよ」
「そお?怒られない?」
「大丈夫大丈夫」
「でもお父さんのだろ?持ち出していいの?」
「大丈夫大丈夫。ケ~セラ~セラ~、なるようように~なる~…」卓也が再び歌いだす。
正治も一緒に歌った。
「先のこと~など~わから~ない~ケ~セラ~セラ~…」
2人の歌声が静かな夕映えのにしらに響いた。
11 家出とピストル
翌日、1時間目の授業が終ると、幸夫と卓也と菅野くんが正治の机にやって来た。「帰りに、浅間台の奴に伝えるように言っといたぜ」卓也が言った。
「何だって?」
「忠のグループやっつけるって言ったら喜んでたぜ、そいつ。絶対に伝えるって。今日の夕方返事聞きに行ってくる」
「そうか…いよいよだな」
「いよいよだね」
「ところでさ、金田くん、休んでるねえ…」
雄太が珍しく学校を欠席していた。
「どしたんだろうね…」
「サボリだよサボリ、きっと」
「やっぱ、そうかなあ…」
「ねえ、正ちゃん、ピストルの方はどお?」幸夫が尋ねる。
「ああ、昨日ちょっといい材料も見つかってさ。考えてみたんだ。これ…」
正治はノートを開いて見せた。ノートには平紙火薬ピストルの改造案が描かれていた。
「へえ…パイプと銀玉かあ…」
「やっぱ、正ちゃんこういうの考えると本格的だねえ…」
「あとは、細かい材料と工具があれば、何とかなるかな。あとで頑さんのとこに行って探してくる」
「期待してるぜ」
「頑張ってな」
「うん」
昼休みになっても雄太は学校に現われなかった。
卓也、昌志、幸夫、和夫の4人は、休み時間ごとに、こまごまとした相談や連絡の為、校内のメンバーの間を忙しく跳び回っていた。正治は正治で、ピストル製造の細かいパーツをどうやって揃えるか、考えを巡らせていた。
給食が終ると、日曜日ににしらに遊びに来た女子3人が話し掛けてきた。
「ねえ、正ちゃん」
「ん?なに?」
「私たち、今日また、にしらに遊びに行っていい?」
「いいけど…みんなちょっとガタガタしてるよ…それでも良きゃ、いいんじゃない。ただ、にしらで見たり聞いたりしたことは、絶対外で誰にも話さないって、守ってよね。大丈夫?」
「分かった。約束する。ね」
「うん。でも…ガタガタしてるって…何やってんの?」
「ここじゃ話せないな。また来た時にね」
「正ちゃんは今日も行くの?」
「ああ…でも、ちょっと探し物があるから…引揚げの方に寄って、それから行くと思う」
「なんだか、みんな、忙しそうねえ…」
「まあね…」
放課後、正治は急いで家に帰った。母親に頼んで出しておいてもらった着古しの下着シャツ3着と平紙火薬ピストルを紙袋に押し込み、昨日にしらで探し出したパイプを持って、頑さんの家に急いだ。
引揚げの原っぱには、ヒデオを中心に子供たちが顔を揃えて集まっていた。
「あっ、正治だ!正ちゃーん!」
正治が歩いて来るのを見つけて呼んだのは康夫だ。
「どしたの?みんな…にしらに行かないの?」
「正ちゃんは?」
「ああ、ちょっと頑さんに用があってさ…」
「ねえ…雄太学校に来てた?」百合が訊いた。
「ううん…金田くん、休んでたよ。どうしたの?」
「やっぱ、そうか…あいつ…親父に殴られてさ、家出したらしいんだ…」ヒデオが言った。
「家出っ?」
「ああ…今朝からあいつの親父が探してんだけどさ、何処にもいないんだって。俺達も手分けして探そうかと思って…」
「誰ん家にも行ってないの?」
「ああ…誰の家にも来なかったみてえなんだ…」
「…じゃ、にしらの小屋にいるんじゃない?行ってみた?」
「あ、そうか…」
「あそこだったら、寝泊まりくらいできるだろう?」
「そりゃそうだな。おい、行ってみようぜ」
「うん」
「俺、頑さんのとこちょっと寄って、それから行くわ。あ、そうだ、百合ちゃん。今日、サカちゃんたちが遊びに来るってさ」
「本当?」百合が嬉しそうに微笑んだ。
「ああ」
「ねえ…あのこと、言ってないでしょ?」
「何にも話してない。大丈夫だよ。それよりさ、もし金田くん、にしらにいたらどこにも行かせちゃ駄目だよ」
「おう、分かった。とにかく行くわ。後でな…」
「うん…あとでね…」
頑さんは家の前の廃材置場で、誰かを大きな声で怒鳴りつけている。
「だから何遍も酒はやめろって言っただろうがっ!女房に頼っていつまでもぐうたらしてっからこういうことになんだ!ちったあ、働いたらどうだ、ええっ?これから一体どうすんだ、お前え!」
怒鳴られている小柄な男は、何も言い返さずに下を向いている。あまりにもタイミングが悪そうなので、出直そうかどうしようか思案していると、正治の姿を見付けた頑さんが声を掛けてくれた。
「おう、正治じゃねえか。おお、そうだ、キンちゃん。こいつ雄太の同級生だぞ」
そう言われて小柄な男が振り向く。痩せて赤茶けた顔は意外に端正で、どこか雄太に似ていた。
「正治、こら雄太の親父だ」
「あ、どうも…はじめまして…」
「やあ…どうも…」
「やあ、じゃねえぞ、馬鹿野郎!それどこじゃねえだろっ!」
「……」
「なあ、お前、雄太学校に来なかったか?」
「さっきヒデオくんたちにも聞かれたけど…金田くん休んでたよ」
「そうか…雄太の野郎、昨夜から行方不明でよ。お前、心当たり、どっかねえか?」
「うーん…いや…分かんないです…」
「そうか…もし見かけたら帰るように言ってくれよ。嫌だったら俺がしばらく面倒見るからって…」
「何かあったんですか?…」
「いや…とにかく、頼むわ…お前えも呆っと突っ立ってねえで、どっか走って探してこいっ!手前えの子供だろがっ!」
「あ、ああ…じゃ…」雄太の父親はあわててその場から立ち去った。
「…ったくよ…おう、正治、ところで何だ?何か用事があんだろう?」
「うん、あのね、ちょっと工作に使う材料探しに来たんだけど…そこの廃材探していい?」
「おう、この辺のだったら、勝手に持ってっていいぞ。どうせ捨てるもんだしな。俺はちょっと用事があるからよ、勝手に拾って勝手に持ってっていいからな」
「はい」
頑さんの廃材置場から目ぼしい材料をいくつか見付け出すと、正治はにしらに急いだ。
にしらには既にみんなが集まっていた。
「雄太、いたぜ」ヒデオが言った。
小屋に入ると、数人に囲まれて雄太がしょんぼり座っていた。
「金田くん…どうしたの?」
「あ、正ちゃん…」
振り向いた雄太の左目の脇に大きな痣ができていた。
「母ちゃんが…母ちゃんが出てっちゃった…」
雄太の話はこうだった…
昨日の朝、母親が燃料業で必死に貯えた現金がそっくり無くなっていた。どうやら夜のうちに父親がこっそり持ち出したらしく、母親はがく然としていた。その現金は、雄太たち一家が近くのアパートに転居する為の資金だった。雄太の母親は燃料の配達業で日々稼ぎだす小銭を懸命に貯え、何とか敷金と前家賃を用意する目算が立ち、ようやく不法なバラック暮らしから脱出できると喜んでいた矢先だったのだ。
昨日雄太が学校から帰った時には、母親は珍しく父親に声を荒げて返金を迫っていた。父親は酒に酔っている様子もなく、さすがに悪いと思ったのか「勘弁してくれ」と頭を下げていたので、雄太はこれ以上は大ごとには至るまいと、その場を離れにしらに向かったのだそうだ。
ところが、夕方家に戻ると事態は急変していた。家には父親一人しかおらず、その父親も酒瓶を片手に泥酔していた。机の上に母親から雄太宛の置き手紙があった。手紙には、これ以上ここで暮らしてはいけないこと、黙って出てゆくことを許して欲しいこと、幼い弟と妹は連れていくこと、落ち着き先が決まったら必ず迎えにくることが簡単に綴られていた。
雄太は、父親に何故母親を出て行かせたのか、すぐに謝って連れ戻すように何度も懇願した。酔った父親は、さらに酒を煽るばかりで、何も応えてはくれない。
これから、自分はどうすればいいのか、ノートや鉛筆は誰が買ってくれるのか、だれが食事を作ってくれるのか、洗濯は誰がするのか、風邪をひいたときには誰が看病してくれて、誰がお粥を炊いてくれるのか、服の繕いは誰がしてくれるのか、給食費や臨海学校の積立金はどうするのか、苛められたとき、悲しいとき、一体誰が慰めてくれるのか、唯一の働き手で、頼れる母親が居なくなって、次々と沸き起こる不安を全て父親にぶつけた。大切な母親をすぐに探し出して欲しいと、何度も何度も父親に頼んだ。
「うるせえっ!」黙っていた父親がいきなり雄太を突き飛ばした。
それから、胸ぐらを掴まれて何度も殴られた。雄太が大声で泣きだすと、父親は酒瓶を抱えて何処かへ行ってしまった。
これ以上父親と一緒にいても何も解決しないと感じた雄太は、遠足用のリュックサックに着替えと教科書を入れ、父親がいない隙に家を飛びだしたのだ。ところが、家は出たものの、一体何処に行けばいいのか分からず、昨夜はにしらの小屋で一夜を過ごしたのだった。
「でも、これからどうすんの?頑さんがさ、帰ってきたら面倒見てくれるって言ってたよ」
「俺…母ちゃんのとこに行きたい…」
「でも、何処に行ったか分かんないんだろ?」
「どっか、心当たりねえのか?」
「確か…ずっと前に、親戚がいるって言ってた。遠くだけどいつか行ってみたいって…」
「遠くって、何処?」
「岩国って言ってた…どこだか良く知らないけど…」
「岩国って…確か…広島のもうちょっと先の方じゃないかな…」幸夫が言った。
「そんな遠くまでは行かねえんじゃねえか…」
「なあ、雄太やっぱ帰ろうぜ。なんなら、俺ん家に来てても良いぜ。そのうち母ちゃんからも連絡があるよ、きっと」ヒデオが言う。
「やだ、俺、もうあそこには帰らない…」
「じゃあ、俺ん家にくるか?お袋に頼んでやるぜ」卓也が言った。
「駄目だよ。何処行ったって…父ちゃんが押しかけて迷惑掛けるに決まってるし…もう、あいつに会いたくない。あいつに会わなくて済むとこにいたいんだ、俺」
「そうか…じゃ、どうすんだよ…先生に相談するか?…」
「そんなの駄目だよ。先生だって困るよ、きっと…」
「そうだよなあ…一応親がいんだから、親に引き渡すだろうな」昌志が言う。
「こういう場合ってさ、普通どうなんのかな?」正治が訊いた。
「捜索願とかが出されてさ、警察が動いて…探しだすだろ。で、捕まったら、保護者に引き渡されるんだよ。つまり、やっぱ親だよな」
「じゃあ、子供が親から保護して欲しい時はどうすんだよ…」
「……」
「…手詰まりだな…」
「ああ…」
しばらく考えていた雄太が、みんなを見て言った。
「俺さ、しばらくここいちゃ駄目かな…?ここなら、誰にも見つかんないしさ…」
「別に俺達はいいけど…なあ…」正治は卓也を見た。
「そうだな…しばらくここにいりゃいいじゃん。そのうち何か、方法が見つかるかもだしな。風呂はうちに入りに来いや」
みんなにも異論はないようだった。というより、誰も他に解決策を見出せなかったのだ。
「でも…学校はどうすんの?」ゲンが尋ねる。
「馬鹿か、お前え。雄太は家出してて、行方不明なんだぞ。呑気に学校通ってたら変だろが!」康夫が言う。
こうして、にしらの小屋は暫くの間雄太の住まいとなった。
もちろん、雄太がにしらにいることは、部外者には一切秘密にすることが必要だった。小屋は雨風をしのげるしっかりとした作りだったし、ここは井戸水もあり、にわか仕立ての便所も完備している。
すぐにヒデオたちが、雄太の為に七輪や燃料、食料や寝具など、生活用品を調達することとなる。
ヒデオたちが戻る前に、栄たちクラスの女子がやってきた。正治と昌志と幸夫は3人の女子に、次の日曜のことや雄太の事情を正直に丁寧に話した。もちろん、百合との約束を守り、話の内容は一部割愛してあった。単なる秘密の遊び場感覚だった3人は、事の重大さに驚いたようだったが、正治たちが全てを話してくれたことが嬉しかったらしく、自分たちにも何か手伝わせて欲しいと言いだした。
これは幸夫にとっては願ってもない申し出だった。ユニフォームの制作作業には、是非女子の手が欲しいと思っていたのだ。
幸夫が女子たちに作業の段取りを説明していると、一平他数人の買い出しグループが戻ってきた。
数種類の火薬玩具、マッチとローマッチ、セルロイドの下敷、工作用ボール紙、クラフト紙、糊、カーバイト…もちろんこれらは昌志を中心とした爆弾制作班に渡され、早速地雷と手榴弾の量産が開始された。
昌志はこの分野で驚くべき才能を発揮した。スタッフの作業手順を効率良く配分し、これまでの倍以上のスピードで次々と爆弾を作り上げていく。
加えて雄太のために、味噌や醤油、鍋や食器、本や漫画が持寄られた。
染料を定着させるためのミョウバンと染料の茜の根は、引揚げのグループが調達していた。古着のシャツは既に20枚近く集められている。栄たちクラスの女子と、百合たち引揚げの女子は小屋の中で、ほころびの多いシャツを繕ってくれていた。
次に男子たちは廃材置場の周囲を囲う柵作りの大工仕事に取り掛かる。廃材や石の処理はそれらが敵の手に渡って武器とされない為には絶対に必要不可欠な準備なのだ。
正治は、持ち込んだ紙火薬ピストルを分解し、卓也の協力を得て加工作業に専念した。
にしらは、日曜の決戦に向けて、にわかに活気付きはじめたのだ。
『カチンッ』正治が加工したピストルの引き金を引く。スムースに撃鉄が弾倉の穴を打つ。
「大体これでオッケーだな」卓也が嬉しそうに言う。
「あとは、薬莢か…」
「だな…あ、俺そろそろ行かねえと…」
「そうか、忠の返事聞きに行くんだよね」
「おう、行ってくるわ。聞いたらすぐ戻ってくるからな」
「うん、待ってるよ」
「じゃな」卓也は小走りににしらを出ていった。
正治は出来上がったばかりのピストルを愛おしげにいじっていた。銃身の脇が木材で補強されていたり、グリップに布が巻かれていたり、見た目は決して恰好良いとは言えなかったが、機能的には申し分なかった。
栄が一人近付いてきて、正治の横に座る。
「サカちゃん…有り難う、手伝ってくれて」
「面白いね。みんないい子ばっかりだし…楽しいわ」
「そう…良かった…」
「それ、なあに?」
「ん?ピストル。格好悪いけどね、完成したら本物のピストルと同じに、弾が発射できるんだ。銀玉だけどね」
「それも使うの?」
「いざとなったらね。脅し用だけど」
「危なくないの?」
「そりゃ、危ないよ。危なくなきゃ脅しになんないもん。爆弾もそうだけど…」
「日曜日に、みんな喧嘩するんでしょ?」
「多分ね…」
「正ちゃんも、人ぶつの?」
『ぶつ…』女の子の使う言葉は、何て温和なんだろう…正治は思う…
「もしかしたらね。俺、あんまり慣れてないけど…」
「ぶたれないでね。怪我とか、しないでね」
「うん…気を付けるけど…喧嘩だから…」
「あたしも、見に来てもいい?」
百合の一件が脳裏をかすめた。
「駄目駄目っ!相手の連中、すごいワルだから、女子や小さい子は絶対に来ないでっ!危ないから…来ちゃ駄目だよ。絶対だよ」
「分かったわ…でも…気を付けてね」
「う…うん…」
正治と話をしていた栄を、引揚げの女子百合が呼びに来た。
「栄ちゃん、幸夫くんがね、染めてみようって。おいでよ」
小屋の前で七輪に火が入れられ、一斗缶に茜の根の煮汁が沸かされていた。
「いくよ」幸夫が数枚のシャツを入れる。
幸夫と女子たちが棒を使い交代で中を掻き回してゆく…
暫くすると、幸夫が指示を出した。
「よし。じゃ、炭取って火を落として…」
取りだしたシャツを、もう一つの一斗缶に用意されたミョウバンの薄め液に浸し掻き回す…再び染料液に戻す…幸夫は何度かこれを繰り返す…最後に井戸水で濯ぐと、鮮やかなピンク色のシャツが出来上がった!
「すげえ!桃色だっ!」雄太が叫ぶ。
「成功だな…」満足げに幸夫がつぶやいた。
「きれいに染まるのねえ…幸夫くんこんなの、どこで覚えたの?」
「ヘヘ…本で調べたんだ」
「へえ…木の根っこでなあ…この色見たら、卓也が泣いて喜ぶぜ」ヒデオが嬉しそうに言った。
小屋の前が笑いに包まれた時、タイミングよく卓也が戻ってきた。
「おう、どうした?何かあったの?」
「タクちゃん、ユニフォームできたよ。ほら、いい色だろ?」
卓也は干されたシャツを見た。
「げえっ!本当にピンクじゃんっ!」
「お前、似合うぜえ、きっと」ヒデオがからかった。
再びみんなが笑う。苦笑いしている卓也に正治が尋ねた。
「タクちゃん、で、どうだった?」
「おう、相手受けたぜ」
「決闘するって?」
「おう」
「立ち会いは4人まででいいって?」
「おう。全部受けたってよ」
「汀くんのこと、知らないのかな?」
「知ってるらしいぜ。勲たち叩いてから、汀に狙われるって言われてビビッてるらしいからな」
「対パンなら自信あんのかな?」
「そうじゃねえよ。どうも、やっぱ人数揃えてるみたいだな。放課後忠の取り巻きが慌ててたってよ」
「そうか…じゃ、決定だね」正治が言った。
「思う壺だな…」タカシが呟いた。
「よしっ、気合い入れないとな」と菅野くん。
「ああ…二度と立ち直れねえように、きっちり締めてやる…」ヒデオが呟いた。
「おい、やめろよ…女子もいるんだから…」正治が小声でヒデオをたしなめた。
一平が前に出てオーバーな身振りで叫ぶ…
「ううう…燃えるぜえっ!熱く燃える俺らの心は……おピンクう!」腰に手をあて、小屋の前に乾されたピンクのシャツを真直ぐ指差す。一同はどっと笑い、一気に緊張が解れた。
翌日の放課後、正治は教員室に呼ばれた。金田くんのことだろうとは思ったが、上手く惚けられるかどうか不安だった。
「失礼します」
「おう、呼び出して悪いな。饅頭があるから食ってけ」
「いいんですか?」
「いいぞ。座って待ってろ、今、お茶入れてやるから…」
渡された白い饅頭を持って、もじもじしていると、先生がお茶を持ってきてくれた。
「すいません。頂きます」饅頭は甘くて美味しかった…
「川村、お前、金田のこと何か知らないか?」
「金田くん…どうかしたんですか?」急に饅頭の喉の通りが悪くなり、正治はお茶に手を伸ばす。
「先生にもよく分からないんだけど…何の届けもなしで休んでるから、今日の昼に家の方に行ってみたんだ。ほら、お前ら今日は5時間目音楽だっただろう?」
「はい…」
「誰もいないんだよ。で、近所の人の話だとな、金田のやつ家出したらしくてな、みんなで探してるって話なんだけど…おい、みんなに言うんじゃないぞ」
「あ、はい」
「で、お母様は何度か会ってるから、どこにいらっしゃるのか訊いたんだけどさ、何だかはっきり教えてくれないんだよなあ…川村、お前、金田から何か聞いてないか?家のこととか…お前、仲良かっただろ?」
「はい。えーと…ちょっと前に金田くんの家に遊びに行ったことがあります。そのとき、お母さんにも会いましたけど…」
「なんだ、お前、家に行ったことあんのか?」
「はい、優しくてとってもいい人でした。ただ…」
「ただ、何だ?」
「金田、お父さんは嫌いだって…お酒飲んで、お母さんや子供、殴るって…」
「そうか…そんな話してたか…そいで、ここんとこ何か変わった様子はなかったか?」
「いえ、別に…普通に遊んでたけど…」
「そうか…分かった。いや、悪かったな、変な話聞かせて」
「いえ」
「金田のこと何か分かったら、先生にすぐ教えてくれよ」
「あ、はい…」
「くれぐれも、クラスのみんなには何も言うなよ」
「はい、分かりました」
「じゃ、帰っていいぞ」
「はい、ご馳走さまでした」
「おう」
正治は家にランドセルを置くと、大急ぎでにしらに向かう…
雄太は何事も無かったかのように、みんなと一緒に楽しそうに働いていた。卓也と昌志と幸夫、それに3人の女子が駆け寄ってきた。
「先生に呼ばれたんだって?」
「何の話だった?」
「金田くんのこと。すごい心配してた。まだ大事にはなってないみたいだけど…先生、今日引揚げの方に行ったらしいんだ。お父さんにもお母さんにも会えなかったって…」
「家出のことは知ってた?」
「うん。近所の人に聞いたって…」
「そのうち、騒ぎになるな…」
「ああ…多分な…」
「おい、雄太っ!」卓也が雄太を呼んだ。
作業を邪魔されて、怪訝そうに雄太がやってくる。
「何?何かあった?」
「何かあった、じゃねえよ。お前、あんまり長くここにいるとヤバいかもよ」
「なんで?」
「先生が探し始めたんだってよ」
「心配してたぜ。俺呼ばれてさ、嘘つくの辛かったよ」
「先生…いい奴だもんな」
「本当だよ。このままほっとかないよ」
「このまんまばっくれてたらよ、多分警察沙汰だぜ」
「そうねえ…きっと、警察に届けるわよ、先生」
「どうすんだよ…お前…」
「あの…考えたんだけどさ…俺、日曜のことが終ったら、やっぱ母ちゃん探しに行こうかと思うんだ…」
「探しにって、岩国?」
「うん。他にあてないもん。思いだしたんだ。母ちゃんのね親戚の人の名前。叔母さん。藤村君江」
「そうか…そこまで分かってんなら、何とかなるかもな…」
「岩国までどうやって行くの?」
「歩いて行く…」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。のたれ死ぬぞお前…おいっ!一平っ!」
「へいへい…お呼びで…」
一平が揉み手をしながら登場した。
「今、金庫に金いくら入ってんだ?」
「へえ…あれからまた、少し売れやしたんで、4千両と5百ってとこでしょうか…」
「日曜日の分は全部仕入れ終わったんだよね。」
「そりゃあもう、充分仕入れさせて頂きやした。もう…充分で…」
「幸夫と昌志に千円ずつ預けてあるから…」卓也は正治の顔を見る。
正治は了解したとばかりに大きく頷いた。
「雄太、お前本当に岩国に行きたいんだったら、俺達の金やるよ。な」
「うん。日曜が終ったら、残ったお金、全部持ってっていいよ。そしたら汽車で行けるよ」
「ええ?いいよ。そんなの悪いよ」
「悪くねえよ。どうせあぶく銭だしよ。遊びだし…お前が母ちゃん探す方がずっと大事だよ」
「そうそう、俺達はまた稼ぐから…大丈夫、大丈夫」
「……」
「偉いっ!偉いねえ。見上げたもんだよ屋根家のふんどしってね。江戸っ子はそうじゃなきゃいけねえや。参ったね、どうも。いい話じゃねえか、ほんとによっ。いよっ、大棟梁!惚れたよ!…」一平は勝手に一人で、ますますテンションを上げていくのだった…
正治は、卓也と一緒に金鋸やグラインダー等の工具を駆使して、何とか薬きょうらしきものを完成させた。完成した薬莢付きの弾丸を、ピストルの弾倉に装填する。塀に木の板を立て掛け、3メートル程離れて、正治は慎重にピストルを構えた。ゆっくり撃鉄を起こし、引き金に掛けた指に力を入れる。
『パーンッ!』乾いた軽い破裂音がして、衝撃が手に伝わる。
銃口から跳びだした銀玉は、3メートル先の板にめり込み、ほぼ貫通しようとしていた。
「おおおお!」
見ていた数人のギャラリーから歓声が上がる。
「すげえ!正ちゃん!」卓也が駆け寄ってきた。正治は、銃口から微かに立ち昇る残煙を見ながら、手に記憶された衝撃の感触をいつまでも味わっていた…
12 にしらの戦い
決戦に向けて、準備は着々と進んだ。金曜日を迎えるまでには、爆弾の制作はほぼ終っていたし、廃材置場の周囲の柵も完成していた。広場の石は、敵の武器にならないように雄太が暇に任せて拾い集め、シャツの染め付けもあと数枚で全員分が揃うところまで来ていた。ピストルは最初の一丁に加えてもう一丁が作られ、門を守る一平の班に預けられることとなる。あとは正治と卓也が薬莢付きの弾丸を作れば、準備は完了となる。
金曜日…朝から天気は曇りがちで、学校が終わる頃には大雨となった。
それでも、メンバーは全員にしらに集まった。小屋の中と、トタン屋根の付いた通路が作業場となった。
「やべえな…この雨…」金鋸でパイプをカットしながら、卓也が正治に話し掛ける。
「ああ…今日あたりから、地雷の仕掛け、やろうと思ってたのになあ…」薬莢に火薬を詰めながら、正治が応える。
「でも、今日降って良かったんじゃない?天気予報だと、明日からまた晴れるって言ってたし、土日が雨だったら、地雷、おじゃんだもんな」昌志が言う。
「そうだね…あんまり天気のことは考えてなかった…地雷の仕掛けは、やっぱギリギリ間際でやった方が良さそうだよね。湿気のことも考えなきゃな…」正治が厳しい表情で言う。
「日曜には、地面ちゃんと乾くかな?」
「仕掛けを日曜の朝やるとすると…表面は大丈夫だろうけど、20センチくらい掘るだろ…少し湿っけてんだろうな…」幸夫が言う。
「あのさ…地雷とさ、割り箸と一緒にビニール袋に入れちゃったらどうかな?」タカシが助言する。
「それ、あるな…」正治は真っ先にそのアイデアに飛び付いた。
早速、火薬入れから、いつも使っているビニール袋を一枚取りだして「この位のビニール袋って集められないかな?50枚…」と、皆に訊く。
「そんなの売ってるわよ」女子の一人が答える。
「え?本当?どこに?」
「金物屋さんとか。ねえ?」
「うん。そんなに高くないわよ。あたし買いに行ったことあるもん。まとめて買っても何十円じゃない?確か…20枚で10円とかさ…」
「うんうん、そうそう…そんな感じ、そんな感じ…」
「女って…なんでそんなに、買物の話、得意なんだ?…」卓也が呟く。
「何よ、教えてあげたんじゃないの」
「はは…悪い悪い…何でも良く知ってんなって思ってさ…へへ…」
「ねえ…明美ちゃん、明日でもいいから買ってきてくんない?」一平が頼む。
「いいよ」
「じゃ、こっち来て。お金渡しとくから」
夕方までに、手榴弾50本、地雷50発とその踏み板50枚、ピストル2丁と弾丸16発、ピンクのシャツ25枚、全てが仕上がった。
雄太はここの小屋での一人暮らしにも慣れてきたようで、給食の残りや、女子たちが七輪と鍋で炊いてくれるご飯、差し入れの総菜や缶詰めで、悠々と管理人を勤めてくれていた。夜はさすがに1人では淋しいらしく、残飯目当てに寄ってきた野良猫をいつの間にか1匹小屋に引き入れていた。まだ若い雌のとら猫で、雄太は『リョウ』と呼んでいた。
正治たち大勢が、作業に励んでいる間は、周囲でうろうろしたり、通路のトタン屋根の上で居眠りしているだけだったので、その辺の野良猫だとばかり思っていたが、雨が降ったこの日は小屋の中に上がり込んで、しきりに雄太に纏わりついていたので、雄太の新しい友だちであることが分かったのだ。
「雄太、お前、その猫飼ってんのか?」ヒデオが訊いた。
「うん…おとといの夕方、そこでメシやったらなついちゃった」
「可愛いな、よく慣れててさ…」和夫が羨ましそうに言う。
「夜ね、俺の毛布のとこで一緒に寝るんだよ、こいつ。一人っきりになっちゃうと、何かちょっと怖いからさ、丁度良かったよ…なあ、リョウ」雄太はそう言いながら猫の頭を撫でた。
「何でリョウって名前にしたの?」正治が訊いた。
「え?妹の名前…」雄太が呟く。
「…ふーん…そうなんだ…」
この日、雨は夜まで降り続いた。正治たちは、にしら全体に大きなビニールシートを掛けたい心境だった。
土曜日、天気は朝から曇っていたが、学校が終わる昼前にはカラリと晴れた。行方不明の雄太の件は、学校では、まだ大きな問題にはなっておらず、何事もなかったように授業は進んだ。
正治は授業の後、先生に経過を尋ねてみた。
「あの…先生…」
「おう、川村、どうした?」
「あの…金田くんのこと、何か分かりました?」
「ああ…」先生は表情を曇らせた。
「昨日の夕方、お父様とは会えた…」
「で、どうでした?」
「いや、金田、まだ帰ってないみたいだな…ま、先生も探してみる」
「……」
「お前は心配しなくていい。他の連中にも話すんじゃないぞ。先生が何とか動いてみるから。な」
「はい…」
校舎の前には、学校の4年生メンバー全員が正治を待っていた。
「どうだった?」
「まだ問題になってない?」
「うーん…雄太のお父さんと話したみたい…先生、今日明日で探してみるってさ」
「きっと、大ごとになるな…」
「多分な…」
「仕様がねえよ。事情が事情だもんなあ…」
「お母ちゃん、帰ってやってくんないかなあ…」
「そうだよなあ、俺もそれ期待してんだけどな」
「金田くん、可哀想…」
「お父さんが出てきゃあいいのよ!」
「そうよ!いっつも女が損するのよねえ…頭来ちゃうわ」
「でもさ…親子だしなあ…そんで、夫婦なんだろう…」
「こういう時はさ、子供が一番損するんだよ」青木くんが吐き捨てるように言った…
「……」
「もしさ、雄太のこと、みんなでかくまったのバレたら、どうする?…」
「大丈夫だよ。あそこならバレねえよ。もしバレても、俺が全部被るから心配すんな。その代わり、そん時ゃにしらは俺一人の隠れ家ってことにするからな。みんなは知らないことにしろよ」卓也が言った。
「雄太のことは、雄太に任せようよ」昌志が言う。
「そうだな…それより、いよいよ明日だからな」
「晴れて良かったね」
「良かったな」
「明日も晴れだってよ」
「よしっ、今日はいろいろ予行演習するからね、お昼食べたらすぐににしらに集合してね」
「もし出来たら、雄太の昼飯、少しずつでいいから、持ってってやってくれよ」
「そうだな。分かった」
「ねえ、あたし達も行っていいでしょ?」
「うん。今日まではいいよ。明日は危ないから女子は来ないでよ」
「分かってるわよ。じゃあね」
「おう、後でな…」みんなはそれぞれの家に急いで帰っていった。
1時過ぎには、全員がにしらに揃った。
通路の脇には、雨で乾かし切れなかったピンク色のシャツが針金に掛けられ、ズラリと真っ青な晴天の空にひるがえっていた。
ヒデオ、タカシ、卓也、和夫、勲の5人は、決闘場所の倉庫前に行き、下見をしながら、敵の囲みをどう突破してにしらに逃げ込むか、話し合った。
倉庫から道を走って、にしらの門、建物を回り込み、小屋の前まで地雷原を踏まずに、相手を迎えるポジションに着くまで、実際に何度か予行演習を重ねていた。
他のメンバーは、決められた班ごとに分かれ、相手が広場に入ってきた時に、完全に身を隠すことの出来る場所を確認し、次にいかに素早く躍り出て、敵を包囲できる配置を組むか、何度も練習した。
各班の配置の近くには、火種の炭を置く場所が石と瀬戸物のかけらで目立たないように設置された。
次は地雷原の配置だった。
50発分の密集した地雷を仕掛ける穴を決め、エリアが決定され、メンバーは全員地雷を踏まずに動ける範囲を覚えさせられた。
この間、一平と河田くんと青木くんの3人は、相手がヒデオたちを追って門をくぐり、建物を回り込んだら、すぐに門を閉め、針金でかんぬきを固定する練習をした。
正治と昌志と幸夫の3人は、敵の機先を制して小屋の脇から手榴弾を投げつける役割。
木材の切れ端を使って、上手く適確に敵の位置に手榴弾を落とす練習が必要だった。当初全員に2発ずつ持たされるはずの手榴弾は、万が一敵が怯まずに突進してきた時に、喧嘩の熟達者たちがすぐに対応できるよう、彼らをその役割から外すことにした。
その分余った手榴弾は、正治たち3人が敵の動きを見ながら、投げつけることとなる。
戦いのフォーメーションが決定すると、喧嘩の熟達者たち、つまりヒデオ、康夫、卓也、和夫、勲、引き揚げの6年生、河田くん、大塚くん、計8名が講師になり、他のメンバー達に乱闘になった際の、戦い方が伝授された。
これまで殆ど喧嘩の経験がない北品川の子供達にとっては、喧嘩は体力と度胸だけの世界だとイメージしていたが、ヒデオや拓也たちは抗争に当たって、実に理にかなった様々な対処法を伝授してくれた。
「いいか、絶対に相手を拳骨で殴ろうとするなよ。ゲンコで殴るのは凄え難しいからな。まずまともに当たらねえし、当たっても手え怪我するからよ。もし、面と向かうことになったら、頭突きで飛込め。狙うのは相手の鼻から顎の間ぐらいならどこでもいい。怖がらずに突っ込むんだ」
「こうだよ。思いきり突っ込まないと、殴られちゃうからな。相手の胸の辺りを見ながら突っ込めば、丁度鼻の下に当たるから、手加減しちゃ駄目だぞ」卓也が河田くんを相手に形を見せてくれる。
「小学生に1発や2発殴られたって、大したことないから、ビビんないで相手から目え離さない様にな」和夫が付け加える。
「あと、棍棒とか木刀とか持ってる奴には、絶対近付くな。俺達に任せろ」
「加勢するときは、脇から足に飛び付いて、相手をぶっ倒すんだ」
「相手が倒れたら、殆どこっちの勝ちだからね。すぐに蹴りを入れる」
「どこを蹴ればいいの?」
「どこだっていい。相手はすぐに起き上がろうとするから、ガンガン蹴り飛ばして、起き上がらせるな」
「蹴るときはな、近付いて蹴るんや。遠くから蹴っても利かへんで。手加減はあかんよ。思いっきりや…上から踏んづけてもええんや…」河田くんは普段とは別人のように生き生きとしていた。
最後にみんなにピンクのシャツが配られた。シャツの裏には、それぞれサイズに合わせてカタカナで名前が書かれていた。全員、早速着てみることになった。
「よし、全員着替えたらこっちに集まって!」幸夫が言った。
通路の前にピンクのシャツの全員が揃う…上から幸夫と女子たちがみんなを眺めまわした。
「よしっ、なかなかいいね。これなら敵味方はっきり分かるな」幸夫は満足そうだった。
「いい感じよねえ…」
「どお?サカちゃん」
「可愛いわあ。ピンクの兵隊さんね」
「もう…やめてくれよお…」卓也が叫ぶ。
みんなから、どっと笑いが沸き起こった。
「ぼっ…ぼっ…ぼくらはももいろ探偵団っ…」一平が大声で歌いだした。
「ぼっ…ぼっ…ぼくらはももいろ探偵団っ…」みんなも声を揃えて歌った…
日曜日の朝、東京の空は晴天だった。父親はゴルフで、正治が朝起きたときには既にいなかった。
兄の克雄もクラブ活動で朝から学校に行った。
正治は、逸る心を押さえながら母親と2人で朝食を摂っていた。
「正ちゃん、今日お昼ご飯どうする?」母親が訊いた。
「あのね、みんなと南品川の空地で遊ぶことになってるから、パンでも買って食べたいんだけど…いい?」
「本当?あら、嬉しい。じゃ、あたし今日は1日のんびりしてていいんだ」
「夕方まで、やること一杯あるんだ」
「みんなって、誰?」
「えー、昌志くんと幸夫くんでしょ、タクちゃんでしょ、菅野くん、内海くんに青木くん、それから隣のクラスの浅川くんや大塚くんや、他の学年の子とか…タカシくんも来るんだよ」
「まあ、凄いわね。タカシくんも来るの…」
タカシの名前を聞いて母親は安心しているようだった。
「何して遊ぶの?」
「いろいろだよ。探偵ごっことかさ…」
メンバーとは事前に口裏を合わせていた。親同士が親密な地域社会では、絶対に必要な根回しだった。親同士は、いつどこで顔を合わせるとも限らない。今日の子供の行動について情報を交換することは充分考えられる。その時にお互いの情報に食い違いがあると、面倒臭いことになるのである。
「あんまり危ないことしないでね」
「うん」
「お昼代は30円でいい?」
「うん。充分」
「ちゃんとパン買って食べるのよ。五厘屋さんとか行っちゃ駄目よ。ま、タカシくんが一緒だったら大丈夫だろうけど…」
「分かってるよ」
朝食が終わって、家を飛びだすと、社宅の入口のところにタカシたち二人がいた。
「あ、タカシくん!」
「おう、正ちゃん、丁度いいや、一緒に行こうぜ、にしら」
「うん」
「お母さんに上手いこと言ってきた?」
「うん。南品川の空地で探偵ごっこ…」
「俺も、おんなじ…」
「いよいよだな」
「うん。いよいよだね」
「上手くいくかな?」
「大丈夫だよ。万全だもん」
正治たちがにしらに到着すると、既に殆どのメンバーが顔を揃えていた。通路に置かれたラジオから流れているのは、ロックンロールのヒットパレードだった。チェビー・チェッカー、チャック・ベリー、プレスリー、ファッツ・ドミノなど…軽快なヒット曲が次々と流れている。
「いよいよだな」卓也が嬉しそうに近付いてきた。
「良かったね。ピーカンに晴れたね」昌志が言う。
「うん。地面乾いたかな?大丈夫かな?」
「ああ、大丈夫そうだけど、一応ビニール使おうよ。念には念をだから…」
「そうだね。よし、そろそろ地雷仕込もうか…」
「おーい!みんなあ!地雷仕込むから、集まれー!」卓也が叫んだ。
全員が小屋の前に集まってきた。
「あ、正ちゃん、おはよう」雄太が元気そうに声を掛ける。
「金田くん、朝ご飯食べた?」
「うん。今朝菅野くんがさ、おにぎりとゆで卵持ってきてくれた」
「まだ、来てないの、誰?」
「和夫たちだな。4人…大塚は来てるけど…」
「一平は?」
「ああ、さっき青木連れて飲物仕入れに行った」
「ビニールだったら、60枚、ちゃんと預かってるよ」昌志がビニール袋の束を見せる。
「じゃあ、やろうよ」
「オッケー。じゃあみんなやるよ。仕掛け方は前に説明した通りだからね」
昌志は一揃いをもって、前に決めた地雷原の中心に行った。みんなもゾロゾロと付いてゆく…
「穴の位置は目印の枝が刺してあるから、抜いて穴を掘る…」昌志は説明しながら穴を掘り、みんなの手本になるように一発目の地雷を仕掛けた。
「地雷原の、中心の方から外に向かって仕込んでよ!仕掛けるときは中心を向いてやって。仕掛け終わった地雷、踏まない様にね!」正治が付け加える。
みんなは、言われたように、慎重に仕掛けに取りかかった。
半分ほど済んだ頃、和夫たち3人がやってきた。
「ごめんごめん。遅くなっちゃったあ!」和夫の左顔面が少し赤く腫れていた。
「どしたの?もうどっかで喧嘩してきちゃったの?」
「違うよ!母ちゃんにビンタ張られたんだ…」
「何やったの?お前…」
「父ちゃんが、家の金パクってたの黙ってたんだ…」
「何で黙ってたんだよ?」
「だってよ…黙っててくれって、頼まれたらよ…やっぱ、言えねえよな、母ちゃんには悪いと思ったんだけどよ…今朝、金が無くなってんの気が付いちゃって…俺、慌ててシドモドしちゃってよ…何か知ってるだろうってことになっちゃった訳よ。んで、これだよ。参ったぜ…」和夫はビンタで赤く腫れた顔を示した。
「そんで、こいつアパートの前に、立たされてやんの。可哀想だから俺達も待っててやったんだ」同じアパートの5年生が言った。
「まったく…雄太の親父といい、お前の親父といい、家の金パクって、何やってんだ?大人って…大したことねえよな。お前も家出すんじゃねえだろうな!」
「しねえよ。父ちゃんの不良も母ちゃんのビンタもしょっちゅうだしな…いちいち家出してたら、身体がいくつあっても足りねえや」
「ま、こっちはあんまり心配しなくていいみたいだな…」卓也が言う。
「えへへ…悪いな…」和夫は照れ臭そうに謝った。
地雷の仕掛けは、たっぷり1時間以上かかって無事終了した。
この日、東京の気温はどんどん上がり、昼前にはまだ梅雨前だというのに30度近い夏日を記録した。一平と青木くんは、大きな氷入りのヤカン2つ分の冷たいシロップ水と、大量の菓子パンを仕入れてきた。決戦前の緊張の中、みんなは早めの腹ごしらえをし始めた。
これで、やるべき準備は全てやり終えた…
冷たいシロップ水を乾いた喉に流し込みながら、正治は真っ青な空に輝く太陽を見上げた…ラジオからペギー・リーの『フィーバー』が流れていた…
いよいよ、その時がやってきた。にしらの全員がピンクのシャツに着替える。
「そろそろ行く時間だね」正治はそう言って、ラジオのスイッチを切った。
「おう。ヒデオ、行こうぜ…」卓也が声を掛ける。
ヒデオと卓也と和夫、タカシと勲の5人はピンクのシャツの上からそれぞれのシャツを着る。
「ちょっと暑いな…」ヒデオが厳しい顔で呟いた。
「じゃな」と、卓也。
「じゃね、頼むよ」
「おう…」5人は広場から、決闘場所に向かって行った…
「よしっ、じゃ、みんな、決めた通り場所に付いてようぜ。こっから先は、いつ始まるか分かんないからな。ヒデオくんたちが戻るまで、絶対に姿見せんなよ」
みんなは、黙って正治の言葉に従った…緊張と静けさがにしらを支配した。
ヒデオたち5人は、にしらの門を出て、倉庫前までの道をゆっくり歩く…
「タカシ…ゆっくり歩いて、大きく息をすんだ…気持ちが落ち着くぞ…」ヒデオが喧嘩の経験の無いタカシに言う。
「逃げる時ゃ全速力だからな」
「おう…」
最初の角を左に曲がると、もうその先に倉庫が見えていた。倉庫前には忠のグループらしい一団の姿が見えた。
「結構いそうだな…」
「やっぱな…」
「人数、数えとかなきゃな…」
5人はゆっくり近付いていった…
近付いてくる5人を見ながら、何人かがヒデオたちを囲むように散らばるが、その表情はみな緊張でこわばっているように見えた。一団の中心でしゃがんでいた4、5人がゆっくり立ち上がり、ヒデオたちの前に対峙し、敵意をむき出しにして睨みつける…確かに写真で見た忠ともう一人がその中にいた。
「全部で12人だ…」和夫が卓也に囁いた。
卓也が頷く…
「忠か?…」ヒデオが忠に話し掛ける。
「汀ってのはお前か…ああ?」忠が一歩前に出て、ヒデオの足元から顔へ、舐めるようにゆっくり視線を上げていった。まるでチンピラのような下品な脅し方だ…と、卓也はちょっと胸がムカついた。
「おう、ここでやるか?」ヒデオは落着いた様子で話を進めた。
「何をだよ?…」
「決闘だよ。対パン受けんだろ?」
「へへ…」
「何が可笑しいんだ?立会いは4人って言っといたはずだぜ。そっちはちっと多すぎんじゃねえのか?」
「決闘か…そんなこたするまでもねえだろ…お前え等、漫画の読み過ぎじゃねえの?わざわざ人数まで教えてくれてよ…へへ…お人好しだな…」
「なんだ…対パン張る度胸もねえのか…女子供叩いて、面白えか?…」
「うるせえ!つべこべ言ってんじゃねえぞ。お前え等引揚げ相手にまともにやってられっか!今日はうちの暴れん坊揃えてきてやったからよ、たっぷり袋にしてやるぜえ…へへ…お前え等とはここが違うんだよ、ここが…」忠は自分の頭を指差した。
「やれっ!」忠の号令で、写真で見た隣の大柄がヒデオに向かって突進してきた。ヒデオが軽くかわして蹴りを入れるのと同時に、卓也と和夫が電光石火の勢いで退路を塞いでいた数人に襲いかかった。
まさか自分たちの方に向かってくるとは思っておらず、彼らは慌てた。
頭突きと跳び蹴りで2人が倒れた。
「ヒデオ、行くぞっ!」卓也が叫んだ。
ヒデオとタカシと勲も体当たりで数人をかわし、にしらに向かって走った。
「逃げたぞっ!捕まえろっ!」後方でヒデオの怒鳴る声が聞こえる。
向こうは相当慌てたらしく、追いかける体制に手間取ったようだ。このままでは、相手は自分たちを見失ってしまうかもしれない…
「おい、も少しゆっくり走っていいぞっ!」ヒデオがみんなを制した。
「そこ曲がったぞ!」
「あっちだ、あっち!」
「その辺に入ったぞ!」
ヒデオたちは既にしらの門を抜けて、建物を回り込み、広場に到着しようとしていた。
卓也が建物を回り込む手前で立ち止まり、門の様子を伺うと、ようやく先頭の1人が門に入り、卓也の姿を見付けてくれた。
「おーい!こっちこっち!こっちの奥に入ってったぞ!」
どうにか追い付いたものの、1人で乗り込む勇気がなく、門のところで全員の到着を待っているようだ。卓也は余裕で広場を回り込み、既に小屋の前に到着していたヒデオたちに加わった。
「掛かったぜ。門のとこで仲良ししてる。ヘヘ…全員お揃いでいらっしゃるみてえだぜ」卓也は笑っていた。
「何だか愚図いな…」和夫が言う。
「おい、タカシ、大丈夫だぜ。どうやらあいつら見掛け倒しだぞ」ヒデオが言った。
「正ちゃん12人だからな」卓也がみんなに聞こえるように言った。
正治たちは小屋の陰に身を潜めながら、ひたすら様子を窺っていた。
ヒデオたちの話の内容から察するに、状況はこちらの予想通りに運んでいるのが分かった。
「暑いな…もう脱いでようぜ…」ヒデオが言った。
5人は上のシャツを脱ぎ、ピンクのユニフォーム姿となる。
やがて、相手のグループが、忠を先頭に一塊りとなってゆっくりと広場に入場して来る…
誰もがにしらの広場に最初に来たときには、意外な広さに驚くように、何人かがキョロキョロと周囲を見回している。
忠を先頭にした中心グループの4、5人は、前方に待機するヒデオたちを真直ぐに睨み付け、威嚇するように近付いてくる。残りはそれに追従しているだけのようだ。
「おかしいな…1人減ってるぞ…」和夫がささやく…
グループが予定通りの距離に達したとき、ヒデオが先頭の忠に声を掛けた。
「ちょっと待て、お前えら!もう一度聞くぞ、俺と対パン張る気は本当に無えんだな?今からでも遅くねえぞっ!」
忠は素直に立ち止まった。
「寝惚けたこと言ってんじゃねえ!手前えらで逃げ出したくせによお。追い詰められて、袋のネズミで、気でも狂ったんじゃねえか?大体お前えら何だあ?そのチンケな桃色はよお…土下座用かあ?お遊戯でも踊って見せてくれんのか?」
彼らは露骨に馬鹿にしてゲラゲラと笑った。
「おい、そこの威勢のいい坊や、女みてえに可愛いぜえ…」忠の横の大柄が卓也を指差して笑う。
「くっ…」さすがに我慢の限界を超えた卓也を、和夫が制した。
「なんだ…やんのか坊や…」大柄が言った。
「構わねえからやっちゃえ!」そう言って忠は後に下がった。代わって、大柄の4人が後の6人を従えてヒデオたちに近付き始める…
「お前えら、悪いこた言わねえから、それ以上近付かねえ方が身のためだぜ」
一向に戦意を失わないヒデオの迫力に、10人は一瞬ひるんだ…
「どうする…?」建物の陰から門の様子を窺っていた一平が河田くんに訊いた。
相手グループの中の一人が見張り役に門のところに残っているのだ。大きいいかつい奴だ。
「構へん…行こうや…」河田くんは何の躊躇もなしに門に向かった。一平と青木くんも後に続く…
相手は仲間が入っていった建物の裏手の方が気になるらしく、すぐ傍まで河田くんが近付いても全く気付いていない。
「ちょっと兄さん、ここで何しとん?」
ビックリした相手が振り向く…「なんだ、てめ…」
河田くんは相手の襟首を掴むと、思いきり引き寄せ腹部に膝をめり込ませた。相手は声を詰まらせ、その場にうずくまる…河田くんは襟首を掴んだまま相手を引きずって門から引き離す。
「内海くん、ええよ」
「お、おう…」
一平と青木くんは急いで門を閉め、かんぬきを引いて針金でグルグルに縛る…
「痛かったやろ…堪忍な…」
河田くんが相手に声を掛ける。
「は、放せっ!」相手は襟を掴んだ手を振りほどこうとした。
『ボクッ』河田くんの重そうな拳骨が相手の腹に打ち込まれた。
「暴れたらあかんやないか…お前は大人しく黙っとったらええんや…」
相手は半ベソで完全に屈服した。
「いいからさっさとやれっ!」忠が後から再び叫ぶ。
怯んでいた10人は、その声でじりじりと距離を詰めてきた…先頭の1人は、足元が一瞬地面の窪みに取られたような感触を覚えた…
その瞬間…
『ズボムッ』足元の土が吹き飛んだ!
「わ!」飛び退いた隣のもう一人が次の地雷を踏んだ。地面が再び爆発する…
慌てれば慌てるほど、連鎖反応のように次から次へ足元で爆発が起きる。
その時、正治と昌志と幸夫が、小屋の脇から火のついた手榴弾を投げつける。物凄い量の白煙を吹き上げながら跳んできた3発の手榴弾は、後方の忠の近くに落ちた。
「うわっ!なんだこりゃ…」忠と後方の兵隊達が煙から逃れようとして、地雷原に足を踏み入れる。足元の地面が吹き飛ぶ…『ドンッ』『ドンッ』『ドンッ』最初の3発の手榴弾がもの凄い音で破裂した。ボール紙の破片が忠やその仲間達の足や顔にピシピシと当たる…その間も地雷の爆発はコンスタントに続いている…
忠たちは喧嘩どころではない状態だった。ひたすら爆発から逃れようと狼狽え続ける…
「罠だっ!おいっ!逃げろっ!」忠がそれに気付いたのは、あまりにも遅すぎた。広場は既に大勢のピンク色の子供たちに囲まれていたのだ。
「ちきしょう…どこにこんな沢山いたんだよお?…」逃げ場が無いことを悟った一人が泣きそうな顔で訴えていた。
しかし、恐怖はまだほんの序の口だった。大量の手榴弾が四方八方から、忠たちの上に降り注がれたのだ。最初の3発でその威力を思い知らされていた彼らは、さらなる状況がイメージでき、逃避できない恐怖にパニック状態となった。しかも広場の中央は大量の煙で、自分の足元さえ見えない状況になっていた。全員が爆弾から地雷の爆発から何とか逃げようと外側へ外側へと散り散りになっていく…必然的に敵の懐に飛込むこととなるのだ。
煙を抜けると、そこには必ず数人のピンク色の敵が立ちはだかり、襲いかかってくる。頭突きを喰らい、足や腰に組み付かれる。倒れれば、容赦なく蹴りの嵐である。仕方なく、這うように煙の中に戻るしかない…逃げ込んだ煙の中では…『ドンッ』『ドンッ』『ドドンッ』『ズバンッ』『ズドンッ』『ドンッ』…爆発の嵐となっている…あまりの恐ろしさに、今度は違う方向に逃げようとする…退路を塞ぐように、まるで、亡者を地獄に追い返すように、新しい爆弾が飛んでくる…止むなく、逃げる方向を変更する…再びピンクの軍団の攻撃が襲いかかる…しかも次の相手が喧嘩の熟練者だと、苛酷さはさらに増す…みぞおちを殴られ、足が折れるかと思う程の重い回し蹴りを腿に喰らい、顔面への鉄拳で鼻血を吹き出す者もいる…あまりの痛さに、戦意を失い、その場にへたり込んでも、四方から次々と浴びせられる蹴りに、無我夢中で転げ回り逃げ回る…
あっちこっちで、悲痛な訴えが聞こえ始めた。
「助けてくれえ!勘弁してくれえ!」
「降参します!降参、降参っ!」
「痛えよお…やめてくれよお…」
「忠い!助けてえっ!ただしいいい!」
「やめてやめてやめてやめてっ!謝るから、謝るからあ!」
「やだよー!怖いよー!もう、帰りたいよー!」
広場の戦況は正治や幸夫の計略通り、見事に有利に展開していたが、門の前では河田くんたちが苦戦を強いられていた。煙の中の混乱は逃げようとする敵たちに、かえってチャンスを与えることになってしまったのだ。次々と襲いかかる頭突きやタックルを払いのけるられる力量を持った者3人が、出口を求めて次々と門に辿り着いたのだ。
河田くんは一番身体の大きな1人に手一杯で、取っ組み合いの状態…一平と青木くんの2人では、残りの2人が門を乗り越えるのを何とか阻止するだけで精いっぱいだった。2人は、蹴られても投げられても、必死で足元や腰にしがみつき、河田くんが最初の1人を片付けるまでの時間を稼いでいた。もちろん、一平が建物の横に置かれたピストルを手に取る余裕など全くなかった。
ようやく河田君が最初の1人をねじ伏せようとした時、様子を見に来た大塚くんが加勢に入ってくれた。大塚くんは一平の相手に襲いかかり、こちらも取っ組み合いとなった。身体が自由になった一平は、すぐにピストルを取り、撃鉄を起こして、空に向けて発砲した。
『パーンッ!』
相手3人はビックリして、一平を見た。青木くんの相手は今まさに門の上にしがみついているところだった。次の弾を装填して、一平が叫んだ…
「やめろっ!大人しくしろっ!」
1人が一平が構えたピストルを見て、「なんだよ…おもちゃじゃねえか…」と呟いた瞬間…一平が門の上にしがみついている1人の近くを狙って引き金を引いた。
『パキーーンッ!』
銃口から発射された銀弾は鉄の門に当たって粉々に弾け飛んだ。
「わわわ…」『ドスン』門の上から1人が落ちてきた…
さらに次の弾を装填すると、一平は大塚くんの相手の足元に発射した。
『パッシューン!』弾は地面にめり込み土埃をあげた…
「ひひゃっ!ほ、本物じゃねえかっ、その鉄砲…」
「あったり前えだっ!命が惜しかったら、全員大人しく両手を頭の上にのせろいっ!」
3人は呆然と一平を見ていた…
「ほれっ」『パシューン!』次の弾がもう一人の足元に飛ぶ…
「わ、やめろっ!」3人は慌てて両手を頭に乗せた。
一平たち4人は、最初の見張り役の1人を加え4人の捕虜を広場に引き立てて行った。
「すげえなそれ…作ったの?」一平の前を歩いていた捕虜の一人が頭に手を置いたまま訊いた。
「へへへ…俺の友達が発明したんだぜえ…ちょっと格好悪いけどな…」
「弾、どうなってんの?」
「ほーら、これ。ちゃんと薬莢付きだぜ」ポケットから弾を取り出して見せる。
「すげー!本当だ!ちょっと見せて」と、片手をさしだす。
「こらこらっ!駄目駄目!両手は頭の上!敵に渡せるわけねえだろ!」
「じゃあ、今度。喧嘩じゃねえとき…な?」
「いいよ、こっちの仲間になんだったらな…」
「わかった…」
広場の通路の上で正治が叫んだ。
「よーしっ!いったん、攻撃止めえっ!」
爆弾攻撃と倒れている者への攻撃が止められた。
『ドンッ』火がついた最後の一発が破裂すると、次第に煙が薄れてゆく…
「捕虜のばんごーう!」
「いーち」「にーっ」「さーん」…あちらこちらから通し番号が叫ばれる。降参した捕虜のすぐ近くにいる者が一人、襟首をつかんで番号を言っていく。捕虜数を確認するため、事前に決めていた方法だった。
「ごー」「ろーく」「……」
「よーし、広場の捕虜6にーんっ!じゃ、通路の前に集めてー!」
降参した連中は、引き立てられて正治が立つコンクリート通路の前に横一列に座らせられた。
すぐに菅野くんと団地の6年生が捕虜の両腕を1人ずつうしろに回し、両手の親指の根元を針金で一つに括ってゆく…
「門のとこから4人捕まえてきたから、あと2人だな…」
薄煙の向こう、小屋の前辺りに2つの影…卓也の怒鳴り声が聞こえる…
「てめえ!何が可笑しいんだあっ!もう一度言ってみろおっ!おらあっ!」相手は忠の横にいた大柄だった。大柄は卓也に何度も蹴りを入れられ、謝っても謝っても許して貰えず、顔にはいくつもの痣を作ってうずくまって泣いていた…
「卓也っ!もう止めとけよ。とっくに降参してるじゃん」和夫がいさめる。
勲が泣きじゃくる大柄を引き立てて行った。
「だ、だって…俺のピンク見て、あ、あいつが一番笑ったんだぜえ…」確かに、華奢で童顔の卓也は、本当にピンクが良く似合っていた。
「うふふ…」
「あーっ!和夫、てめ、この野郎、笑ったな!」
「だって…卓也、それ似合うぜ…一番…」
「きしょうっ!だから始めっからこんなの着んの嫌だったんだっ!」卓也は乱暴にシャツを脱ぐと、憎々しげに地面に叩き付けた。
にしらに一陣の風が吹き、視界を遮る煙幕を一掃した…
広場の中央、地雷原の脇に、忠が1人立っていた。みんなは約束通り、忠だけにはなるべく手を出さずにいたのだ。完敗を察して、忠はギュッと唇を噛みしめ、悔しそうな表情を浮かべている…
「おう…ようやく2人になれたな…忠…」ヒデオが忠の前に進み出て言う。
みんなは、2人を遠巻きにした。
「どうした、ここが違うんじゃねえのか、ここが…」と、ヒデオは頭を指差す。
「ち、畜生…」忠はうつむいた。
「さ、仕切り直そうか。対パン張ろうぜ。最初っからそのために呼んだんだからな…ほら…お前の仲間もみんな見てるぜ」
「……」
「大丈夫だよ、俺達はお前えみたいに対パンの相手、袋にしたりしねえからよ。どした…やらねえのかよ…」
「…畜生……やってやる…」忠は顔を上げてヒデオを睨みつける…
「へへ…そうこなくっちゃな。よしっ!いつでもいいぜっ!」
突然、忠が物凄い勢いでヒデオに突進した…ヒデオはそれをかわさず、真っ向から受けた。
忠の大きな身体を組止めたヒデオはその圧力に押されてゆく…
と、突然身体を開いて相手を腰の上に乗せた。
見事な下手投げが決まった!
忠は宙を舞い、背中から仰向けの状態で地面に『ドンッ』と音を立てて落ちた。
「う…く…くそう…」忠はすぐに起き上がり、再び姿勢を低くして突進する…
ヒデオは素早く襟首を掴み、回り込みながら引きつけると、腹を膝で蹴り上げた。
「うっ…」一瞬身体を屈した忠は痛みをこらえて、思いきり拳を振るう…
ヒデオはそれを鼻先で見切り、一歩踏み込んで、頭突きを忠の顔面に食らわせた。
大きくのけ反った忠のみぞおちに拳がめり込む…「ううう…」忠は前に屈んで地面に倒れ込み、ヒデオの足元に両手と額をついたまま動けなくなった…
勝負はあっという間に、しかも一方的に終わった…
ヒデオが拳を振り上げて叫んだ…
「よーしっ、敵将捕ったあ!」
「うおおおお…!」にしらのメンバー全員から歓声が上がった。
捕虜達は全員、自分たちがあれほど怖れていた忠が、いとも簡単に完敗したことが信じられない様子で、呆然と忠を見つめていた…
「…きしょう…ちきしょう…」忠は涙を流しながら地面を拳で何度も叩いていた…
「おい…忠…お前、あんまり喧嘩したことねえんだろう…意気がるんだったらよ、もちっと強くなってからにしろ…な。…ま、頑張ったよな」ヒデオはそう言って、忠の背中を上からポンと叩いた。
「…ちきしょーお…」忠は膝をついてうつ伏したまま、声を出して悔しそうに泣き始めた…
捕虜は全員解放されたが、だれも忠に話しかける者はいなかった。
忠は、最後にとぼとぼと広場を去っていく。
ヒデオが近付いて声を掛ける。
「おい、忠!またな」
忠は後ろ姿のままコックリと頷いた…
正治が不発や未発の地雷を撤収していると、ヒデオが近付いてきた。
「正ちゃん…」
「あ、その辺まだ踏んでない地雷あるから、気を付けてね」
「お、おう…」
「何?」
「有り難うな…お前のお陰だよ」
「良かったね、上手くいって…でもさ、ヒデオくん強いねえ…」
「そんなことねえよ、相手が弱すぎたよ」
「最後は許してあげてさ…格好良かったよ。やっぱ正義だよね…正義はいいよねえ…」
「…しっかし…お前って本当に面白え奴だなあ…」
「タクちゃんには負けるけどね…」
「ほんとだな…限度超えてたよな…あいつ最後までピンクのシャツに怒ってんでやんの…はは…」ヒデオは晴れ晴れと笑った…
当の卓也は、一平と2人で改造ピストルをおもちゃ代わりに、少年ジェットごっこに余念がなく、すっかり普通の子供に戻っていた。
戦いの後片づけが終わり、駄菓子とラムネで祝勝会をしていると、突然広場に作業服姿の大人が入ってきた。
「やばいっ!誰か来たぜっ!」康夫が囁いた。
「大人だっ!大人が入ってきたっ!」誰かがみんなに注意を促す…全員に緊張が走る…
「おいっ!坊主達!ここで何やってんだっ!」
そういいながら、男はみんなが溜っている小屋の前の通路のところまで近付いてきた。
身体はがっしりと大きく、白髪の混じった角刈りで、顎の張った厳つい顔だったが、深い皺に囲まれた小さな目は意外に優しそうだった。
「みんなで遊んでるんですけど…」正治が答える…
「遊んでるって、ここはお前ら、私有地だぞ…」
「だって…空地じゃん…」卓也が言った。
「そりゃそうだけどなあ…おっ、こんな小屋誰が建てたんだ?」
「僕たちみんなで建てました」
「よくまあ…子供だけでこんな立派なもん、建てやがったなあ…」
「えへへ…俺達の秘密基地にしてるんだ」褒められたと思った一平が自慢する。
彼はこの広場に隣接する工場の守衛さんだった。休日出勤の工員から、隣の敷地から花火を打上げるような破裂音と大勢の子供の声が聞こえたので、様子を見に行って欲しいと連絡があったのだそうだ。
正治たちは、みんなで戦争ごっこをやっていたと説明した。
彼は、子供が空地を見付けて遊び場にするのは仕方ないとしても、ここは工場の跡地で危険な廃材が山積みされており、近所の大人の目が行き届く場所でもないので、ここを子供だけで使用することは止めるように、親切に丁寧に話してくれた。しかも、廃材を利用して素人が建てた小屋は、強風で倒壊する危険もあること、火遊びでもしも火災が発生すれば、もっと悲劇的な事態になることを付け加えた。
「分かったか?」
「…はい……」
みんなは、にしらの明け渡しは免れないと、覚悟した。
「ま、いろいろ持ち込んじまってるみたいだけど、今日中に持って帰れ。いいな?小屋のことは明日俺の方からここの持ち主に連絡しとくから…そのまんまでいいから…な」
「あの…大事なものは、明日学校が終わってから運び出すんでいいですか?」
正治は雄太のことを心配していた。せめて、今夜一晩だけでも、準備の為の猶予を作ってあげたかったのだ。
「まあ…その位は仕方ねえな。その代わり、必ず明日一杯で引揚げるんだぞ。分かったな」
「はい」
「おじさん…」雄太が話しかける…
「なんだ?」
「これ…ここで飼った猫なんですけど…」
「なんだ…野良猫まで拾ったのか?」
リョウはいつの間にかピンクの布の首輪をしていた。
「ここでしか飼えないから…」
「分かった。おじさんが面倒見てやる。名前は何てんだ?」
「リョウです。雌です」
「リョウちゃんか、宜しくな…」おじさんはリョウの首を撫でながら優しい顔で笑った。
夕方、正治、卓也、ヒデオ、和夫、康夫、雄太の6人はにしらに最後まで残り、通路に座って、夕焼を見上げていた。ラジオからは、プラターズの切なげな歌声が流れている…
「あー…明日でにしらも最後なんだな…」正治が呟く…
「でもよ、この何日か、楽しかったよな…」
「ほんと…楽しかったよなー…」
「もう、こんな楽しいことないかもな…」
「そんなことないよ。にしらは無くなっちゃっても、またどっか探してさ、何かやろうよ。もっとでっかいこと…」
「やろうな、でっかいこと…」
「頼むぜ、正ちゃん…」
「みんなずっと仲間だったらさ、そいで大人になったら、もっと凄いこと出来るよ、きっと…」
「そうだな、出来るな…きっと…」
「雄太、お前、どうすんだ?」
「明日、岩国に向かう…」
「ちゃんと一平から金貰った?」
「うん。でもあんなに…本当にいいの?」
「いいよ。俺達はまた稼ぐからさ…な」
「ああ、それより、母ちゃん見つかるといいな…」
「うん…」
「ラジオやるよ。持ってきな。そいで、いよいよ金が無くなったら、どっかに売っ払っていいからな」
「本当?じゃ俺、毎日フェン聴くわ」
「ばーか、フェンは東京じゃないと聴けないの」
「ランプも持ってっていいよ。カーバイトも…」
「うん。ありがとう…」
「必要なもんは全部持ってけ。遠慮すんじゃねえぞ」
「落着いたら、手紙で知らせてね」
「分かった…」
「頑張れよ」
「うん」
「俺達も、頑張ろうな」
「おう」
正治が突然大きな声で『少年ジェット』の登場ナレーションを唱え始める…
「明るく元気で正しい心…」
全員が加わる…
「少年ジェットこそまことの少年の姿である。いかなる困難、危険も越えて、少年ジェットは今日もゆく!」
夕焼けのにしらに、子供たちの最後の笑い声が響いた…
エピローグ・その後の少年ジェットたち...
[雄太の事]
戦いの翌日の放課後、みんなが最後のにしらに集まった時には、雄太は一枚の書き置きを残して、荷物とラジオとランプと供に姿を消していた。
書き置きには雄太らしい下手な汚い字でこう書かれていた…
『みんな、ありがとう。みんなの顔をみると、かなしいので、くる前に出発します。お金、ありがとう。ラジオとランプは、かりにしときます。かならず返します。きっとまた会って、あそんでください。あば。』
数日間、雄太の失踪は、学校でも大きな問題となった。
4年生の全クラスには、各担任から雄太の失踪が伝えられ、どんな些細な事でも知っている者は情報提供するように要請があったが、名乗り出るものは誰もいなかった。
その後、父親も集落から姿を消してしまい、保護者不在のまま学校が地元の行政にかけあって警察に捜索願を出した。しかし、雄太の行方は一向に掴めなかった。
およそ2ヶ月後の夏休みも終わろうという頃、雄太は広島県で浮浪児として保護され、知らせを受けた先生が、はるばる広島まで引き取りに行った。雄太は広島市郊外の河川上流付近で何日も野宿していたそうだ。もちろん岩国の親戚は探し出せなかった。
これは、ずっと後に先生から聞いた話だが、保護された時、雄太は薄汚れたピンク色のシャツを着ていたらしい。引き取りに行った先生が、新しい洋服を買い与え、ボロボロになったピンクのシャツは捨てるように言ったが、雄太は頑として言うことを聞かず、大切そうに畳んでリュックに仕舞ったという。東京に戻った雄太は、児童相談所経由で郊外の孤児施設に入所してしまったので、品川の皆の前に二度と再び姿を現すことはなかった。
その後、ヒデオたちと手紙のやりとりが数回あり、ラジオとランプは、ヒデオを通じて卓也と正治の手元に返却された。
雄太の父親はその後もずっと行方が分からなかったが、母親は翌年になってようやく姿を現し、定期的に雄太のいる施設に面会に来ていたそうである。
中学卒業まで施設にいた雄太が、その後どこで何をしているのか、知る者は誰もいない。
[正治の事]
正治たちの秘密基地にしらは、戦いのあった翌週には業者が入り、小屋の撤去が行われ、以後厳重に施錠され立入禁止となってしまった。次の場所はなかなか見付からず、暫くの間、メンバーたちはよく集落前の広場に集まっていたが、夏休みも終わる頃からは次第にその頻度も減っていった。
昌志と幸夫と3人で始めた連載漫画雑誌『品川マンガクラブ』は、新学期が始まる前に創刊号が完成し、以後およそ1年をかけて学級文庫に6冊が並ぶこととなる。
卓也との友情はその後もずっと続いたが、6年生になる頃にはいよいよお互い私立中学受験の為の勉強が始まり、毎日夕焼の下を駆け巡る日々は終焉を迎えた。
その後、正治が兄と同じ私立中学に合格すると、一家は祖母と同居する為に目黒に転居したので、品川の多くの友人達とも急激に疎遠になってしまう。
正治は、高校に進学するころから、不良グループとの付き合いが多くなり、何度も停学と留年を繰り返したが、なんとか大学を卒業し、その後紆余曲折を経て商業映像の演出業で身を立てることとなる。
[卓也の事]
にしらの戦いの後、卓也が真っ先にしたことは、母親に頼み込んで『日吉丸』を野良犬の末路から救ったことである。『日吉丸』は運送屋のトラック車庫の一角で飼われることとなった。立派な犬小屋と鑑札付きの首輪が与えられ、見る見る毛艶も良くなり、一回り逞しくなっていつも卓也の傍らに笑顔で従っていた。
正治と同じく受験勉強を頑張った卓也も、無事私立大学の付属中学に合格したが、高校時代に傷害事件を起こし退学となってしまう。その後、卓也は武闘派の不良達の世界で都内にその名を轟かせた。噂は正治の耳にも達する程だった。
周囲は気が気ではなかったようだが、後にきっぱり足を洗い、夜学に通いながら家業の運送業を手伝うようになった。
[昌志の事]
昌志は年を重ねるごとに勉強に対する情熱を増していった。もちろん小学校・中学校時代は最優等生を貫き、有名都立高校、国立大学、大学院を経て、土壌微生物学者となった。長年国の研究機関で独自の研究を重ね、学者として国際的にも注目されることとなる。
[幸夫の事]
その後、幸夫の興味は漫画から音楽へと移っていった。6年生の頃には、正治の家に一人でピアノを弾きに来ることが多くなった。
地元の中学に進学した後、両親が離婚し、母親と共に品川から離れた。都立高校に進学したが、大学には進まずに、ジャズミュージシャンの道を目指した。後に編曲家として認められ、自らビッグバンドを主宰し、活発な活動を続けることとなる。
[和夫の事]
度胸も良く、体力もあって、現実的な思慮深さを兼ね備えた和夫は、その後も正治たちにとって頼れる重要な仲間だった。
中学時代、高校時代を通じて着実に地元の不良としての地盤を固め、父親と同じヤクザの道に入ったが、それは父親の様な下っ端ヤクザの道ではなく、確実に大きな組織の幹部へと昇り詰めていった。
その後、品川でも組織暴力団への取り締まりが強化される中で、和夫がどのように立ち回ったのか定かではないが、建設会社を所有したという噂を聞いている。
[汀兄弟の事]
引揚げ者たちの集落は、あれから2年ほど経って、住民への立退き命令が出されたが、支援団体の圧力で各戸ごとに相応の転居補助金が自治体から拠出された。
住民はバラバラになったが、汀兄弟の一家は東品川のアパートに移り、その後も和夫や卓也と付き合いを続けていた。
ヒデオはその後も道を踏み外すことはなく、夜学の高校を卒業した後、頑さんの計らいで産業廃棄物のスクラップ会社を興した。高度成長の時流に乗って、若くして成功を納め、康夫もゲンも頑さんも、この会社の一員となったという。
[一平の事]
あれほど病弱だった一平はにしらの一件以降、目に見えて逞しくなった。私立中学に進学し、大学卒業後サラリーマンとなったが、父親の死をきっかけに家業の材木業を助けるため、実家に戻った。
[菅野くんの事]
高校卒業後、機械販売会社の営業マンとなって結婚もしたが、休暇中に覚えたスクーバ・ダイビングの世界の虜となり、離婚して単身ミクロネシアに移住し、ダイビングのインストラクターとして、現地でダイビングショップを経営する。
[青木くんの事]
あれ以降、家庭内の軋轢は避けようもなく、地元の中学を卒業後、家を出たという話だが、以後の消息は誰も知らない。
[河田くんの事]
にしらでの河田くんの武勇伝は、一平の講釈のおかげもあって、学年中に轟き渡り、彼は一躍人気者となった。ところが、中学に進学する頃に再び父親の転勤が決まり、品川から去っていった。
その後の消息は不明である。
[タカシの事]
タカシは地元の中学に進学しても、いかんなくその能力を発揮して、3年生の頃には生徒会長も勤め上げた。都立高校を経て大学の法学部を卒業後、弁護士となった。
噂ではヒデオの会社の顧問弁護を引き受けているということである。
[女子たちの事]
栄はミッション系の私立中学に、明美と節子は地元の中学に進学した。
3人とも滞りなく順調に高等教育を終えて、早い時期に結婚し、良き母親となった。
[忠の事]
にしらでの決闘以降、浅間台の不良グループは解散状態となった。当の忠は、学校でもすっかり大人しくなり、孤立を深めていたという。
あれから何度か引揚げの集落に一人でやってきて、ヒデオに挑戦したらしいが、小学校卒業までに遂に一度も勝利することはなかった。ヒデオの話では、着実に強くなっていたということだ。
地元の中学には進学せず、私立中学に行ったそうだが、その後父親が経営する資材会社が倒産…一家はどこかに移って行った。もちろん、その後の彼の消息は誰も知らない…
昭和34年6月、
品川にいた少年ジェットたちの姿は、いつまでもみんなの心から消えることはなかった…
[了]