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デュウェップさん… 1

長年、撮影の仕事をしていると、様々な出会いがある。
特に取材先が生まれて初めて行く国や街の時は、今回はどんな出会いがあるのかと少しワクワクする。

本来撮影取材というものは、どんな場合も、撮影する価値のある特殊な状況に直面する訳だから、そこで出会う人々とも一種特別な関係が生まれるのだ。まして予期せぬアクシデントが起きる時には、その絆も特別なものになる。

特筆すべき出会いも色々あったが、今回はその中でも最も深く心に残った1人の人物を紹介しよう…


1996年の秋のことだった…

私は2度目の結婚生活がいよいよ破綻するかもしれないという懸念を抱えながらも、依頼された長期の海外ロケに出た。
この仕事のクライアントは某大手商社。この商社がグローバルに行う主だった海外事業、さらに当時盛んに行われていたODA(途上国への政府開発援助)事業をドキュメンタリータッチで紹介してゆく、いわゆる海外向けの広報映像作品だ。

従って、今回の取材地は…およそ20カ国に及ぶ。
もちろん、これだけの大掛かりな仕事では撮影隊は一班だけではない。3つのチームを編成し、私は主に撮影の難しいODA関連を受け持ち、先進国の取材は大切な部分だけの立会いに留めることになった。それでも撮影取材は、およそ2ヶ月に及んだ。


カリマンタン島(ボルネオ島)での撮影を終えた我々の撮影チームは、ジャカルタ経由で次の撮影地ベトナム南部、ホーチミン空港へと向かった。

当時のホーチミン市…ドイモイが始まり、市民の移動手段は自転車から小型バイクに変わりつつあった

ご存知の通り、ベトナムは社会主義国。私にとっては初訪問国だ。ドイモイ政策(開放経済政策)から10年、海外からの投資も急ピッチに増えてはいたものの、解放したばかりのこの国での撮影はまだまだ制限が厳しいと聞いていた。
社会主義国では観光地以外の撮影は特に厳しいのだ。
入国ビザ・器材搬入許可書・撮影許可書・情報省通関命令書等々...準備は事前に全て整えている。

報告では政府情報省の担当高官が入国審査の場所で出迎えてくれるということだったので間違いはないだろうと安心していた。
ところが....何故かそこには、誰も迎えに来ていなかった…

軍服を着た中年の女性審査官は我々が撮影隊だと聞いた途端、スタッフの内器材担当2名のパスポートを没収し、全ての器材は差し押さえられてしまった。
私は責任者として別室に通され、片言の英語しか分からない通訳官を間に、何枚もの書類を武器に、この厄介な女性審査官となんと2時間も押し問答を繰り返さなければならない羽目に陥ってしまったのだ…

彼女曰く、こんな特殊な撮影があるのであれば、事前通達されていないはずがない、という理由で技術スタッフ2名と撮影器材は、調査の間空港に差し止めるという話…
その為の書類と許可書を示し、この空港に情報省の担当官が来ているはずだと、何度説明しても彼女は頑として首を縦に振らない....

実は当時は、途上国ではこういうことは度々あった。
『まいったな....袖の下っていう事か…ドイモイってこういうことなのかな…』
と、私はカバンの中のドル札がどの位あったか、考えていた…


と、その時、『バタンッ!』物凄い勢いで部屋のドアが開いた!
軍服を着た別の入国係官が、サングラスにジーパン、カーキ色のベストに野球帽というまるでテロリストのような姿の男に胸ぐらを掴まれて部屋に引きずり込まれてきたのだ!

『な、なんだ?…何か事件に巻き込まれるのか?…』

サングラスの男は連れてきた係官を怒鳴りつけ、部屋の隅に押しやると、あっけに取られている女性審査官の前ににじり寄り、物凄い剣幕で怒鳴り始めた。
もちろん全てベトナム語なので、私にはさっぱり状況は分からない…

男は怒鳴りながら私の横に立ち、彼女の目の前に自分の身分証らしきものを突きつけ、私が手にしていた書類の束をひったくり、目の前の机の上にドンッと置き、彼女に顔を近づけて、低い声で何かを囁いた。
それまで堂々とふてぶてしかった彼女は、慌てて声をあげて必死に何かを釈明している様だったが、彼が構わず彼女の制服の身分証を引き千切ってしまうと、目に涙を浮かべながらがっくりうなだれて部屋から出ていってしまった。

男はさらに、部屋の隅でビクビクしている係官と通訳官に厳しい口調で一言声を掛ける。彼らは打たれた様に姿勢を正し、敬礼をし、急いで部屋を出ていってしまう。

そして男は帽子とサングラスを取って、あっけにとられている私に顔を向けた。
歳は50過ぎといったところだろうか、決して大きい人物ではないが、がっしりとした身体に、目つきの鋭さばかりが目立つ。

「すみません...御迷惑をおかけして...ディレクターの川崎さんですね」
かなりなまりはあるものの、流暢な日本語だ!
「は…はい...」
「私、ベトナム情報省のデュウエップ、申します。少しハノイからの飛行機が遅れまして、その間に皆さんにとても不愉快な思いをさせてしまったようで...」
この人が情報省の高官だったのだ。

「な、何だったんですか?何がどうなったんですか?」
「大丈夫です、彼女はもう2度と公職に就くことはないでしょう。お恥ずかしいところをお見せしました。ドイモイ以前にはこういうことはなかったのですが...すいません…」
彼は悲しそうな表情で深々と頭を下げる。

難は去ったものの、かなり強面の反自由主義者の様だ。
これはこれでやっかいなのかもしれない…


兎にも角にも、情報省のデュウエップさんのお陰で、スタッフも器材も無事入国でき、私達はドライバー、通訳、器材運搬の現地スタッフを加え、まずはようやくホーチミン市内のホテルに落ち着くことができた。


そして、翌日からいよいよホーチミン周辺の撮影が始まった…

朝の通勤風景…混沌の中に整然がある…
途上国独特の汚らしさがなく、清潔だ…
どんな小さな店も店内はきちんと整理され、どこか日本的気質を感じる…


デュウエップさんは心配した通り『気さく』とはほど遠い人物だった。
常に我々と同行こそするものの、ニコリともせず一歩離れて常に現場を監視し、宿泊も一人だけ別の現地の安ホテルに部屋を取る。食事の時もいつも一人別のテーブルに座り一番安い物を注文する。
酒もビールも決して口にすることはなく、撮影の打ち合わせも必要な会話以外には決して加わろうとしなかった。

他のベトナム人スタッフは、やはり南国人の気質だろう、皆陽気で人懐こかったが、同行する強面の政府高官に気遣ってか、我々日本人とは次第に距離を置くようになっていった。
ホーチミン市周辺の撮影の間、重苦しい雰囲気が常に現場に充満し始めた....


一方、都市部の撮影を無事終えた頃から、ベトナム各地はモンスーンによる豪雨にみまわれ始めた。
我々はベトナム最後の撮影場所である中部山岳地帯の植林現場、つまり、戦時中枯葉剤で壊滅した森林の再生のための植林事業の現場に向かう…


ダナン空港を経由し、山越えのためのジープを3台調達。一昼夜掛けて現場に入るという計画だ。
まずはダナンのホテルに泊まり、雨天撮影の準備を整える。


そして翌朝、我々は降りしきる雨の中、一路国道を北に登り始めた。
雨はますます強さを増してゆく…

雨はどんどんひどくなってゆく…


午後、ベトナム王朝時代の首都フエに到着。
ここで植林事業を行う政府企業の社長たちと合流。
ところが、彼曰く、「この豪雨では山に入るのは危険です。今日はホテルを用意しましたので、天候の回復を待って明日現地に入りましょう」
ということで、一同は思いがけずベトナム一美しい古城の町フエの大河のほとり、町一番の豪華ホテルに嬉しい足止めオフ日となった。

「私はどこか安い宿を探します」というデュウエップさんだったが、私は「緊急の事を考えて同じホテルにして下さい」と引き止めた。
ところが、既にホテルの部屋は足止めされた観光客で満室。
結局、一番広い私の部屋で、同室ということになる。
私にとってはこれはチャンス。この機会に何とかデュウェップさんと少しでも親しくなれれば、重苦しくなってしまった現場の雰囲気を改善できるかもしれない。

ホテルの部屋


ホテルの部屋に入るとデュウエップさんは...
「川崎さん、すみません...こんな老人と一緒の部屋に泊まるのは嫌でしょう...」「いえいえ、全然そんなことないです。デュウェップさんとは少しお話もしたかったし...折角一緒に仕事をするご縁があったんですから... 」
「川崎さん…フエ、初めてですか?」
「はい、フエもなにもベトナムは初めてです」
「今日は仕事はお休みね」
「はい、スタッフにも一日ゆっくり休む様に伝えました」
「ここは美しい町です。私、御案内します。出掛けません?」
「え?でも雨が...」
「雨はベトナムの名物ね」
と、デュウエップさんは初めてニッコリと笑顔を見せてくれた。

こうして私とデュウエップさんは降りしきる雨の中、シクロ(自転車タクシー)を拾って街中へと出掛けた...





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