古本を買う


1.はじめに

 最近、大学生時代以来3年ぶりくらいに澁澤龍彦のエッセイを読んだ(『世紀末画廊』.河出書房新社.2010.8.3)。

 2021年1月にkindle版を買ってはいたものの、当時は経済学や数学の勉強、その他趣味としての読書は椎名誠の諸エッセイやオーバーロード原作全巻が専らだったため、そっち方面にまで手が回らず、2年あまり塩漬け状態で放置していたらしい。

 それから萌え系ライトノベル(主に学園イチャラブ系。文末に掲載)や『准教授・高槻彰良の推察』シリーズを読了し、次に読む本ねえかなあとkindleのライブラリを眺めていたところ、目に留まったのが前掲書。読書メーターによれば、最後に同作者の著作を読んだのが2017年の『胡桃の中の世界』だったから、実に5年半ぶりの邂逅である。筆者を世紀末芸術、ひいては幻想芸術全般の世界に引き込んだ張本人。高校1年生の時に何気なく立ち寄った実家最寄りのTSUTAYAで手に取った『私の戦後追想』というアンソロジーがきっかけだった。したがって、澁澤龍彦という作家を知ってから足掛け10年弱になる。

 そんな作家のアンソロジーが『世紀末画廊』であり、面白くないわけがなかった。読書開始前の時点では筆者の脳みそは萌え系ライトノベルとなろう系ファンタジー、そしてミステリーで99%を占めていたから、いい具合にショックを受けた。そしてまた、再び世紀末芸術に対する興味が湧いた。以前フィリップ・ジュリアンの『世紀末の夢』を読んでからというもの、ラファエル前派やユーゲントシュティール、象徴主義やデカダンスといったカテゴリーでくくられる諸々の画家を好きになっていた(有名どころで言うとモローやルドンなど)。

 しかしながら、世紀末芸術に関する日本語の文献はルネサンスやモダニズム芸術といった分野と比べると、体系的にまとまったものがなかなかない。ボードレールやクリムトなどの人物に関する研究はあっても、時代を俯瞰した書籍については、本屋へ足を運んでも新品の書籍はどこにもない。このため、古本で買うことを余儀なくされる。言わずと知れた通販サイト「日本の古本屋」で目に付いた本を手当たり次第に購入する。クレジットカードの支払いはとんでもないことになったが、満足感はある。

 古本には新品に備わっている美々しさはないものの、使い込まれた特有のアンティーク感が出る――という考えは無論ない。むしろすべて新品で手に入れたいというコレクター的な熱を持っているくらいだが、それでも古本屋に入った時の、あの一種の独特な高揚感は否定できない。筆者が学生時代よく利用していた本屋は、地下~2階の3階づくりになっており、1階のカウンターに座っている店主が一人だけで営業していた。他の階へ行っていることも多く、そんな時はこっちの存在に気づき次第「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。

 3階分もあるわけだから、蔵書数もかなりの数に上る。書家のみならず、そこらへんに置かれたテーブルや椅子にも年季を経た本が平積みされている。そんな中を歩きながら、ふと目に留まった本を手に取り、数ページ読んでみる。巷で言われている「本との出会い」とはくらべものにならない出会いが埋まっている。古本屋は店主の好みである程度方向性が決まったりするが、その店は人文学系に力を入れていたので、まさに宝物殿の様相を呈していた。

 しかし、そんな古本屋も、いつの間にかつぶれてしまっていた。惜しい限りである。筆者は基本的にAmazonや紀伊国屋書店で新品を、日本の古本屋で中古を買う出不精だが、やはり実店舗が閉店するのは、時代の趨勢とはいえ寂しさを禁じ得ない。閉店した古本屋の在庫がどこに行くのかは分からないが、いわば「本の墓守」ともいうべき業界が消滅の憂き目に遭わぬよう、ささやかながら買いつつ祈るばかりである。

 前置きはこれくらいにして、これまで実店舗、ECサイトで買った古本のうち、面白かったものや得したものを羅列していきます。なるべく絶版本、中古でしか買えない本を挙げますが、Amazonくんが表示してくれなければ止む無く現行で手に入る文庫本のリンクを貼っています(筆者は文庫本と単行本、なかんずくハードカバーを厳しく峻別する派閥である)。

※あくまで買ってよかったものを羅列。このため、割安で買えたものを挙げている場合もあり、必ずしも既読しているものとは限らないことに留意されたい。参考までに、本のタイトル横にステータスを付すこととする。

2.買ってよかった古本リスト

  • バートン版千一夜物語(筑摩書房)【既読】

(筆者が買ったのは単行本だが、文庫本のリンクを掲載)
 別名『アラビアンナイト』。言わずと知れた中世イスラームの説話文学である。今更ここで本の内容を紹介するまでもないが、一夜を共にした女を殺す恐ろしい王様シャフリヤールの夜伽の相手を命ぜられたシェヘラザードという少女が、延命のために王様の好きそうな話を1000夜語るというものでり(1000話ではない)、マトリョーシカのような物語構造となっている。

 夜伽の話については甲乙様々あるものの、魔神や魔法が当たり前に存在するファンタジーの世界は、なろう好きなら魅了されるのではないかと思う。実際、ここに書かれてる物語は起承転結が意外としっかりしてるものが多いので、創作のヒントにもなると思う。

 なお、買ってよかった最大の要因は、全11巻セットを2800円ほどで買えたため。

  • ソドムの百二十日(青土社)【既読】

 続いてはこちら。言わずと知れたマルキ・ド・サドの代表的著作(副題には『淫蕩学校』とあり、こちらのタイトルで出版されたものもある)である。サドというと皆様の頭に思い浮かぶのは『悪徳の栄え』と『美徳の不幸』及びそれに付随する『新ジュスティーヌ』や、たまに本屋で新品で陳列されている『ジェローム神父(抄訳)』などかもしれないが、こっちもこっちでサド説が全開となっている。むしろ、『悪徳の栄え』などと異なり、ブランジ公爵を始めとする悪漢たちが犠牲者を城に集め、法と道徳の及ばぬ暗黒世界のもと、自分たちの思いつく限りの倒錯的性行為を繰り広げるこちらの小説の方が、サドの思考世界らしさが表現されているともいえる。

 しかしながら、筆者の個人的な意見として、サドの作品には、一つのフランス文学とみなされ、構えて読まれる価値は無いように思える。サドの小説は初見でこそ圧倒され、幻惑されるような世界と言葉遣いが繰り広げられてはいるものの、言葉を変えると、一つの思想――「自然は悪であり、悪こそが人間の成すべきことである」――を繰り返し繰り返し焼き増す退屈の繰り返しという以上の内容ではないだろう。それこそ一種の冒険小説の色合いを帯びている『ジェローム神父』や『悪徳の栄え』などはサドのファンタスティックな想像力が跳躍しているとはいえども、出てくる人物にジュリエットやデュクロが既に言ったことを繰り返させるのみであるから、「コイツどこかで見たことあるな」という既視感に常に付きまとわれることになる。

 極論、サドの小説は読まなくていいと思います。研究所を参照すれば十分。

  • 小栗虫太郎全作品(桃源社)【既読】

 今は亡き桃源社が今際の際に残したまさしく畢生の仕事。これこそがスワン・ソングかと感嘆せずにはいられない。

 小栗虫太郎という小説家の名前を聞いた人は多いだろう。日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる『黒死館殺人事件』を書いた張本人だ。圧倒的なペダントリーに彩られ、殺人のトリックはおろか登場人物たちの会話でさえ半分以上何を言っているのか分からない、まさしく日本版ヴォイニッチ手稿と呼ぶにふさわしい本書を、買って読んではみたものの、意味が分からず本棚の奥深くに閉まったままという方も少なくないのではないか。

 さて、そんな作家だが、実は探偵小説一辺倒というわけではない。デビュー作の『完全犯罪』や長編『紅殻駱駝の秘密』、法水麟太郎が堂々出陣する『夢殿殺人事件』から『人魚謎お岩殺し』に至るまでは、確かに探偵小説としての醍醐味、作者一流の怪奇幻想趣味が放縦に炸裂している世界に酔いしれる楽しさがあるが、『有尾人(ホモ・コウダッス)』に始まり『アメリカ鉄仮面(クク・エー・キングワ)』で締められる、我らが折竹孫七を主人公とする『人外魔境』シリーズは、『黒死館』と並んで同作家の代表作として讃えられることが多いものの、そこには探偵味はなく、怪奇やグロテスクといった明治~昭和に至る探偵小説の特徴はない。むしろ『人外魔境』シリーズには、現在でいうファンタジーのような面白さがある(そんじょそこらのファンタジーとは比べ物にならない独特の奇形的な想像力ではあるが)。現在同書が手元にないので、正確なあらすじをここに引くことはできないが、試みに2,3個ほど同シリーズの作品のあらすじを述べると、『天母峰(ハーモ・サムバ・チョウ)』では、チベットの遥けき山の頂に住むと伝わる伝説の民族の説話が語られ、読者を否応なしに物語世界へと巻き込んでゆくし、『水棲人(インコラ・パルストリス)』は、水の中に住むと言われる新人類を巡って一種スパイ小説的な趣のある物語が展開される(終幕では探偵小説的なカタルシスが生まれる)。『畸獣楽園(デーザ・バリモー)』では、奇形として生まれついた動物たちが一様に目指す謎の魔所をめぐる物語が展開される(もっとも、中盤まではめちゃくちゃ読ませる語り口なのに、終わり方は許し難いほどにあっさりしている)。

 これだけ述べただけでも、いかに『人外魔境』シリーズが作家の博識無双に支えられ、奔放な想像力が織りなした驚異の連作小説であるかがお分かりいただけると思う。しかしながら、小栗虫太郎の戦場は探偵小説と冒険小説のみにとどまらず、スパイ小説にまで手が伸びていく(『奇獄囚「ビルマ亀」』や『青い鷺』。特に後者は傑作中の傑作なので一読されたし)。筆者は学生時代に小栗虫太郎の繰り広げる世界にすっかり魅了され、すぐさま通販で中古本を買い、家に引きこもって貪るように読んだ覚えがある。

 ……小栗虫太郎の話だけであと100万字は書けるが、次に移ることとする。

  • 尾崎紅葉全集(岩波書店)【未読】

 文豪ストレイドッグスや文豪アルケミストのおかげで、オタクにも文豪の名前が膾炙されつつある中、尾崎紅葉も同様のルートで知りえた向きも多いかと思う。筆者の場合、たまたま書店で手に取った泉鏡花『草迷宮』にすっかりやられてしまい(あの文章美と母性礼賛は他に類を見ない)、それを経由して鏡花の弟子たる紅葉を知った、という経緯だった。

 初めて読んだ紅葉の作品は、言わずもがな『金色夜叉』である。主人公である間貫一は、許嫁である鴫沢宮子を、金持ちの男に奪われる(感じる……NTRの波動……!)。その出来事に多大なショックを受けた貫一は、宮を熱海の砂浜で蹴り飛ばし(感じる……サディズムの波動……!)、心の奥底ではそれが誤ったことであるとは知りつつも、拝金主義に走り、電車のプラットフォームで知り合った美人局経由で高利貸しの手先となる(余談だが、高利貸し=氷菓子=アイスクリームという隠語がある)。一方で、金持ちと結婚した宮も幸せになれない日々が続き、たまに貫一のことを思い出す日々を送る。←ここら辺全部うろ覚えです(;^_^A。

 作者の死をもって未完に終わった同作品は、『新続金色夜叉』にて終わるが、筆者がこれを通読した時の衝撃は今でも覚えている。とんでもない作家がいたものだと思った。明治は漱石と鴎外が席巻する退屈な文芸界だとばかり思っていたが、なかなかどうして自分の無見識を恥じるばかり。ついでにそこから「紅露時代」を作った双璧の片一方たる幸田露伴にも手を伸ばした(面白かった)。

 さて、『金色夜叉』の衝撃やまぬ間に、衝動的に全集を買ったわけだが、雅俗折衷というこの時代独特の文体は読み手に対して忍耐力、そして理解力を要求してくるものであるから、生粋の21世紀人たる筆者には少々疲れるものである。しかも、いかに大家の全集とはいえども、作品の出来には甲乙があるものだから、「まだ俺には早いな」と思って本棚に塩漬けしている状態である。そのうち、代表作である『三人妻』や『多情多恨』、『伽羅枕』くらいは読んでおきたいと思っている。

3.末尾

 文字数が5000字を超えて疲れたので、本記事はここまでとする。筆者の本棚に陳列されている古本については、そのうち折を見て思い出とともに語りたいと思う。

 最近では金沢にあるうつのみやという書店で古本市があったので行ってみた。金沢の郷土史や雑誌類、日本美術史が大半を占める中で、ムンクの画集やルネサンスに関する論考などの古書もあったので、なかなか面白いとは思ったものの、値段が貼られていなかったので退散した。その後書店でウィンドウショッピングでもしようと思っていたら、国書刊行会50周年記念ということで復刊フェスのようなブースがつくられていた。興味を持って近づいてみたら、リトアニアの美術史家ユルジス・バルトルシャイティスの著作集が復刊しているというスキャンダルに頭をやられ、気が付いたら諭吉と引き換えに2冊買ってしまった。


 冒頭述べたように、以下、萌えた学園ラブコメラノベを列挙していく。

  • ママ友と育てるラブコメ

 
80/100萌え。

  • 高嶺さん、君のこと好きらしいよ

 30/100萌え。なろう出身作家らしさ。

  • 午後九時、ベランダ越しの女神先輩は僕だけのもの

 60/100萌え。アニメ化作家にしては……ってところ。

  • じつは義妹でした。~最近できた義理の弟の距離感がやたら近いわけ~

 70/100萌え。絵がかわいい。ショトカに萌えます。

  • クラスのギャルが、なぜか俺の義妹と仲良くなった。

 100/100ブヒ。ブヒーブヒヒブヒブブヒブヒブヒブヒヒヒブヒブブブヒヒブヒブヒ(やっぱり学校一の美少女ギャルに迫られてタジタジするラノベは良いブヒね)。

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