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誕生日と黒土と音楽の心地よさ。思い悩む夏、2022ver.

誕生日の翌日は、何かがリセット…もしくはリニューアルしたような気がする。一体なぜなんだろう。実際には何一つ変わってなくて、あ、いや、年は取ったけども、食べ物の好みが変わるわけでもないし、大きな仕事が舞い込むわけでもないし、宝くじが当たるわけでもない。そもそも宝くじを買っていない。それでも、当日のおめでとうの言葉は嬉しくて、その言葉を胸に迎える翌日は、明らかに昨日の私の心持ちとは違う。

「おめでとう」は、バロメーターかもしれない

誕生日当日、ぴろろんとスマホがなる。いつもよりちょっとだけ、ほんのちょっとだけ通知音の回数が多い。「おめでとう」のメッセージの数は、自分の「人付き合い」に関するバロメーターかもしれない。年々少なくなるメッセージ。そういえば、私も遠く離れている友人たちに送らなくなっている。あ、そういえば実家の誰からも来ていないねと苦笑する。深く考えすぎると、闇に落ちるからやめましょうか。

あるSNSで、毎年律儀におめでとうメッセージを送ってくださる人がいる。普段は交流がないので、ああ懐かしいと思い、同時にまだ私のこと覚えていてくれたのかとちょっと嬉しくなる。そこで「ありがとうございます。元気ですか」というような返答する。しかし、返ってくるのは素っ気ない定型文のような言葉。どうやらこの人は、私と仲良くしたいと思ってメッセージをくれているのではないと、3年目くらいでやっと気が付いた。おそらく相互フォロワーさんに誕生日メッセージを送るのが、この人の毎日の習慣なのだ。でもあなたにとっては365日毎日の習慣でも、こっちには年に1度きりの誕生日だ。見方を変えるとちょっとホラーなのだが、いつ気が付いてくれるだろう。

せっかくの黒土

甲子園は、明日8/22が決勝。むすこが野球をするようになってから、野球のルールや楽しみ方がわかるようになった。この時期は、甲子園の試合をテレビやラジオを流しっぱにしながら仕事をしている。

甲子園の黒土は、高校球児の憧れ。敗退時にはグラウンドの土を持ち帰る球児も多い。元気なスライディング、黒土で真っ黒になるユニフォーム。

テレビに映る勝ち上がった選手たちは、毎日汚れのない清潔ですっきりしたユニフォームを着用している。すごい。プロはチームおかかえの洗濯屋がいるらしいが、この子たちはどうしているんだろう。そうか、甲子園に出るほどのチームなら、ユニフォームのスペアくらいあるね。でも汚れたユニフォームをそのままといいうわけにはいかないだろうから、ホテルで自分もしくは後輩たちが洗うのだろうか、それとも洗濯に時間をかけるくらいならということで外注なのだろうか。洗濯くらいで?と思うでしょう。でもね、黒土の汚れは手ごわくて、全自動洗濯機にテキトーに放り込んだくらいじゃあんなに真っ白にはならないのだ。手洗いでごしごしするか、泥汚れ専用の洗剤での漬け置きしないと真っ白にはならない。まさかマネージャーにやらせているのではとよぎったけれど、それがその学校のマネージャーの仕事なら、私が目くじら立てることではない。

試合を見ながらそんなことをつらつらと考えていたら、息子の少年野球時代を思い出した。ここ岡山では、子どもが野球をするグラウンドは白い砂が敷かれているところが多く、黒土が敷かれた立派なグラウンドを使うのは、大きな大会の試合などのみ。

地方の少年野球は、習慣も考え方も、昭和からアップデートされていないチームがけっこうある。コーチに駆り出される「父」の負担。「お茶当番」という言葉に込められた「母」の負担。これには、「両親揃っていないと、野球ができない」くらいの圧を感じる。茶ぐらい自分で飲めやと言った、東京のチームで一緒だったテツママ元気かな。そんな感じなので、チームの監督は王様のような振る舞いをする人も多い(息子が所属したチームは、全体的に昭和体質ではなかった)。

ある日の黒土グラウンドでの試合の時、相手チームのカントクがドヤ顔で子どもたちに叫んだ。

「せっかくの黒土じゃああああああああ! 汚せ! 汚せええええええええええ!」

すげえ。ユニフォームの汚れは、子どもたちの頑張りの勲章。まあ、気持ちはわからなくもないけれど、その言葉を聞いて「誰が洗うんじゃいボケ」と心の中で呟いた母は、私だけではなかったはずだ。

音楽のリラクゼーション効果

子どもの吹奏楽コンクールの演奏を聞きに行った。流行り病のため、観覧は事前申告制。そうなるとホールへ来るのは子の家族のみ。ふらりと立ち寄れないためか、ギャラリーが少なくちとさびしい。コンクールは曲も決まっているので、自分の子の出演が終わってもホールに留まる人は、よほどの吹奏楽好き。せっかく来たのだからと、私は3校分楽しんだ。3校を比べると、音楽に詳しくない私でも、なんとなく子の学校がうまくいったのか、それともうまくいってなかったのかがわかる。けっこう、あの子たち良い音が出ていたのではとのんきに考えながら、演奏を楽しんだ。

金賞。やったね。

天井の高い大きなホールで良い音に身を任せていると、雑な表現だが、けっこう色々なことがどうでもよくなってくる。直前にスマホで読んでしまった主語のでかいジェンダー論記事、ご近所さんのよくわからない詮索、詰まっている仕事、仕事相手にないがしろにされて傷ついたこと、だから会ったことのない人と仕事をするのはイヤなんだ。おっと、愚痴がすぎる。それらすべてが、演奏を聴いている間は頭から離れていた。この感じ、広大な景色を見たときと似ている。月並みだけど、自分が小せえなあと思い知らされるあの感じ。ぼんやりと「今」に集中できるのが有難かった。

そして、以前このホールに来た時のことを思い出す。今年は3年ぶりのコンクール観覧だったので、ここへ来たのは2019年のこと。

読み返すと、子の進路に悩んでいる自分に、ちょっと照れる。そんなもの、どうにでもなるぜと2019年の私に言ってやりたい。自分のことなら行き当たりばったりで何でもクリアしてきたのに、なぜ子のことになるとしおしおになってしまうのか。そして、それは今も変わらず。次は下の子の進路に悩む2022年夏。部活で野球馬鹿になっている子に、「三年生」を経験させてやれないかもしれない。

でも、夫と共に踏ん張れば、どうにかなることを知っているのが、2019年からの私のバージョンアップである。

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