【#一日一題 木曜更新】 長く長く書きたいんだオレは
山陽新聞の「一日一題」が大好きな岡山在住の人間が、勝手に自分の「一日一題」を新聞と同様800字程度で書き、週に1度木曜日に更新します。
一文は70文字程度でリズムよく、歯切れよく。最後に音読をして淀みなく読めるように。読む人に飽きさせないように。
15年以上前から耳にタコができるほど聞いてきた。人にもそう伝えてきた。webメディアに載せる文章は、あまりに一文が長くて「。」にたどりつくまで時間がかかると、さらにさほどうまくない文章で冗長的になっていると、スクロールかタップであっけなくページから離脱されてしまう恐れがあるからだ。
仕事でweb文章の添削をするときは、だらだらと長い一文に「2文にして整理しましょう」なんてコメントを入れて、よしよしひとつ指摘できたわねと仕事をしたように気になっている。
でも本当は、一文が長くたって個人的にはちっともかまわないし、ぐいぐい引き込まれて読ませる文章になっていれば、おお挑戦的、一体きみはどこまで私を引っ張ってくれるのかと楽しくなってきたりもする。私にとって読書とはそういうもので、読みながら考えなけれならない状況があってこその有意義な時間。そして一文が長い文章は単なる習慣のせいだけどもやはり縦書きの方が読みやすく、さらに紙書籍だともっとうれしい。
逆にwebでさらりと読める文章が紙に縦書きで印刷されると、大抵はどうにも物足りなくなる。webでは効果的だった改行や一行空けが、文章そのものの厚みや重厚感のようなものを取り去ってしまう。かつて流行ったブログ本は典型的なそれで、画面で楽しく読みふけった文章が書籍になると途端に魅力をなくし「編集者は何をしている…」と困惑したことがある。しかし逆の現象もあり、web発表が先なのに印刷されても縦書きになっても軽薄に見えずに読ませてくれる文章もある。それとこれの境界線はなんだろう。
2月の岡山文学フェスティバルのZINEスタジアムで、机に何を並べようかと思いを巡らせている。せっかくなら1枚ペラではなく印刷にかけて冊子にしたいけれど、上記のことを思うとnoteで書いたものではない方が良い気がしてきた。自分の過去の文章を読み返してみると、読者に軽やかに読ませようとするいやらしい自分が見える。大好きな向田邦子さんなどを読み返して、一文の長い文章を取り出した。長くてもひといきに句点までたどりつかせる粋な一文が書きたくて、何やらここのところの私は毎日口の中でもぐもぐと言葉をとなえてばかりいる。
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