見出し画像

徒然雲 想い出巡り ー有楽町の巻ー 

人の波の上野を脱出して向かったのは、有楽町。

かつてのワタシのテリトリーでございました。

大昔。

大学4年生の後半から4年ちょっと通っていた街です。

まずは腹ペコなので遅いランチへ。

JR有楽町駅から銀座一丁目柳通へ。


銀座インズ
首都高の下をずーっとお店があり
よくウロウロした





あーなくなってる!ビルごと・・・
角にカフェがあった。
あまり入ったことなかったが








本日の東京メシは天龍の餃子ランチ(笑)

色っぽいでしょ。

ここは職場の同僚達と夕食によく行った中華料理店。

当時は古いビルの1階と2階にあり、狭い階段を上がっていったものだった。
”銀座のお店”という感じではなく、入りやすいお店だった。

ある時、近くの新しいビルの上階へ移転。
儲かっているらしい(笑)

ジャンボ餃子が有名。

皮も自家製か、肉厚で具はジューシーで食べ応えたっぷり!

一皿8個、一つがバナナカステラぐらいの大きさ。

餃子を必ずオーダーし、他のメニューとともにみんなでシェアして食べていた。
ただ、他のメニューは意外と普通なのです。


今回、さすがに全部は食べられず
半分はお持ち帰り




当時は、食事の後また仕事に戻ります。

規定の時間を超える残業には、残業食代が出るという会社だった。

皆さん本当に遅くまで働いていて、ワタシが8時9時に退社しても
いつも「お先に失礼します」と言っていた記憶しかない。



久々の天龍の餃子に満足。






どれどれ、ちょっと想い出散歩してみましょうかね。


かなり長い想い出話になります・・・

お暇で、雲の昔話にご興味ある方はお付き合いください。






また有楽町駅へ戻る。



ガード下のドトール
当時からあり、ほぼ毎朝寄っていた



線路の奥に見える建物。

東京国際フォーラム この建築設計事務所が職場でした。

旧都庁舎跡地を国際コンペで建築案を募り、そこで選ばれたデザインの実施建築でした。

そのコンペを勝ち取ったNYに本社を構える、ラファエル・ヴィニオリ建築事務所が監理事務所として設立した日本オフィスに、4年ちょっとお世話になった。



この辺りに仮設の飯場やJVなどの事務所が
建てられていた


学生時代に建築を学んでいたことは、ちょいちょい記していますが、
そんな学生時代、周りはみんな設計事務所でバイトしていた。

ワタシも先輩の紹介などで個人の設計事務所でバイトしながら、
飲食系のバイトなどを掛け持ちして、せっせと旅費を稼いでいた大学生活。

4年生の春頃、友人に「雲が合いそうな事務所があるけど、行ってみない?」
と打診を受けた。

それが、このラファエル・ヴィニオリ建築士事務所だった。

まだ、有楽町でなく浜松町の雑居ビルの一室に小さなオフィスを構え
数名のスタッフが働いてた。

その古い雑居ビルの狭いエレベーターを降り、事務所のドアを入って驚く!

なんともカッコいいオフィス、少なくとも当時はそう思った。

とてもあの古いビルからは想像もつかない中の様子に、外国っぽい〜
と勝手に感動。






その夏に、休学してNYに留学していた友人のところに訪れた時に
ラファエル・ヴィニオリのNYオフィスも見学に行った。

それはかっこいい素敵な空間で、これぞ海外のデザインオフィス!
いいな〜と憧れたのを覚えている。

この2回目のアメリカ一人旅の頃、ゼミ合宿とやらを唯一ワタシ一人不参加で
大ヒンシュクをかっていた・・・






日本オフィスには、NYから二人のスタッフが常駐し、
NYで採用された日本人の二人が中核(一人が所長)となって運営された。






当時は大学4年の春から夏が就活真っ只中、夏休み前に続々と内定が決まっていく時期だった。

しかしワタシは全く就活をしていなかったのです。
色々思うことがあり、就職活動は興味もする気もなかった。

この頃からズレていました・・・笑

それを心配した友人が、当時人気だったインテリア会社の乃村工藝社だったか
丹青社の応募をワタシの分もして一次選考試験に行ったこともありましたわ。
ここで、本当に実力や才能があれば、通っちゃうシナリオですが・・・
よく、お姉さんが勝手に履歴書送ってアイドルになっちゃった的な。

そこはワタシなので、何にも引っかかることなく・・・・

その後は、夏休みの旅の計画とアルバイトに精を出していたのでした。


ただ、意外と呑気だったのは、R.V.事務所の人に(後の直属の上司)に
「卒業後ここで働く?」と言われていたのがちょっと頭にあったのは確か。


何度見ても
模型のよう



その年の秋に有楽町に移転し、いよいよ本格的に工事がスタート。
各JVなどと同じ建物の一階が我々の監理事務所になった。

このオフィスもゼネコンチームとは全然違った雰囲気とオフィスのレイアウトが
とても好きだった。

それはなんていうのか、個人を尊重した距離感やスペースや什器の並び。


そして有楽町通いが始まった。

学生の間は、主に模型造りや図面整理、青焼きも山ほどやった。



結局、卒業後もそのまま働いた。

ただ、すぐには社員にはならず、一つ長期の旅を計画していたので卒業後しばらくはアルバイトの立場でいた。

ほんと浮浪雲でした、当時から。

その後に正社員にしてもらい、竣工までこの現場で建物が出来上がっていく姿を
みてきた。




ガラス棟
大屋根の構造



有楽町の現場事務所に移ってから、続々と新しいスタッフが加入していった。

みなさんキャリア豊富で即戦力として入ってこられています。
有名な建築家事務所にいた方、自身の設計事務所を持っている方も二人いた。

この東京国際フォーラムのプロジェクトに集められた特別チーム、
とても個性的で面白かったです。

また、常駐の二人のアメリカ人(一人はカナダ人)の他にも、
NYスタッフもよく出入りがあったり、
もちろん建築家のヴィニオリ氏も定期的に訪れていた。

ラファエル・ヴィニオリ氏、ラテン系だけあり感情的、情熱的な面もあるが
普段は物静かで、ピアノを弾くことが好きでキーボードが自身の仕事場にあり
たまに弾いていたのが印象的だった。

彼には優秀な右腕と左腕がいた。

どんなに優秀な建築的才能があっても、マネージングやオペレーションに秀でた
人材を持っているかが会社として大きくなるかならないかと、ここで強く思ったのでした。


そんなチームにワタシが加わることができたのは、
別に優秀だったわけでもなんでもなく、
なんでもやるアシスタント的人材が必要だったからでした。


ほんといろんなことやりました。

社員になってからは図面の修正などか主でしたが、その他雑用含めいろいろ。

ここはauto CADで図面を作成し、それを共有ファイルで操作してたのです。
なので一人一台PCがあった。

ガラス棟、ホール棟(A〜D棟)の各担当からの修正箇所をせっせと直した。

なのでワタシはいつも全体の図面を見ることでき、その同じ図面を4年間見続けた。

そしてここは監理事務所なので、クライアント(東京都)に提出する月間報告書の作成もワタシの仕事の一つだった。

また、終盤は消防計画書のような法規的なものも作成したり、得意でないことも多々。

そう建築で苦手といえば構造学だったが、世の中には構造を専門とする方々がいて、この現場にはそれはそれは優秀な構造事務所が監理事務所と同じチームにいた。

渡辺邦夫氏が率いるその名も構造設計集団
ここもかなりユニークな人たちで仲良くしてもらっていた。

そう、構造力学が苦手でもプロに任せばいいのです!笑


この建築はご覧の通り、かなり特殊な構造です。
ガラスの壁面、天井。
あの鯨の骨のようなものはこれらを支える重要な構造物。


今でもワタシはよくわかっておりません・・・




大柱と天井



また、ここはホールの方が一般的に有名ですよね。

5000人収容のホールAから小さいホールDまで。


音響はヤマハ音響チームが担当。

いい音、聴けます。


照明は面出薫氏のセンスが光る。


そんな最高のプロたちの仕事を、具に横で見ながら仕事ができたことは
最高の経験だった。




模型通りの姿に
とても不思議な感覚





仕事は大変だったが、事務所の雰囲気は自由で上下関係もあまりなく
チームという感じで居心地は良かったような記憶。


特にワタシは最後まで下っ端だったが、古株だったのでなんともいえない
立ち位置が気は楽だった。


またアメリカのカルチャーも満載で色々行事もあった。

サンクスギビングではターキーを焼き、手分けして付け合わせを用意して
パーティしたり、クリスマスパーティーや、ホームパーティなど
ちょっとアメリカンな感じも楽しかった。





この階段
スキ



外壁も実はこだわりがいっぱい



T氏とS女史の
キャノピーちゃん




4年はあっという間に過ぎ、1996年竣工と同時に日本オフィスは解散。

実際はその前から徐々に事務所縮小で人は去っていった。

また別の事務所へ就職するひと、独立するひと、それぞれの道へ別れていった。


ワタシは建築とはここでお別れしました。






あれから30年近くの月日が経ち、たまに通りかかると
懐かしいな〜と一人感慨深く見上げる場所。


昨年だったか、ラファエル・ヴィニオリ氏の逝去をネットニュースで知った。

この記事を書きながら、調べた構造の渡辺氏も亡くなられていた。

27年とはそういう時間でした。

そんなに昔のことのようには思えないが、40代だった方は70歳を超える、
限りのある時間です。

それでもその名前が世に残っているというのは素晴らしいことです。


ただ、そこに名は残らないが黙々と作業する工事現場の人たちの姿が
ワタシにはとても印象的で、

造るひと・・・いいな〜と思ったのです。


特に更地から見ているので、そこからこの巨大な建築物を
小さな人の手で積み上げられ建ち上がっていく過程を見て、
デザインも大切だが、実際に造る人はこれまたすごいと実感したものだった。




たまに現場に行って
写真を撮った
もちろんフィルム時代




マイペース個性派集団




この事務所に出逢わなければ、卒業後から別の道(建築以外)を進んでたわけで、
きっと2度と携わることができないと思われるこのビッグプロジェクトに
惹かれ寄り道。

ほぼ着工から竣工まで関われたことは、後に建築から離れましたが、
とても良い経験になり、己の実力や適性を知る良いきっかけにもなったと思ってます。


その後の大迷走(笑)のことはまた機会がありましたら、記したいと思います。



有楽町駅前の東京交通会館
一足先に退職される方が最後に
この回転展望レストランでご馳走になったことがあります。
一周を1時間かけて回転。
結構速かった記憶。




久しぶりに有楽町界隈を少し歩き、変わったもの変わらないもの入り混じっての
街の様子見て、やはり東京は不思議な街だと感じながら、
今回の想い出ぶらぶらを切り上げ東京駅に向かった。





新幹線から
品川あたりだったか・・



そういえば新幹線を東京駅で乗り降りするのは初めてかも。

いつも新横浜利用であり、新横浜ー東京間の景色を新幹線から見たことなかった。


都会の景色は、ワタシにはなんだかいろんなドラマ(人間模様)を妄想させる。

あんなところに働いてる人がいる・・・
あの人はどんな仕事をしているのだろう・・・
あの窓に見えるオフィスはどんな会社なんだろう・・・



整然としたカオスな街、東京。



東京の空は
やや小さめ




田中一村展、東京国立博物館、有楽町ぶらぶらと過ごした一日。

たまにはこんな日帰り旅もいいかも。




ということで、
長い想い出話しにお付き合いいただき、ありがとうございました!









いただいたサポートは古道活動に使わせていただき、歩いた記録をお伝えしたいと思っております。よろしければよろしくお願いいたします。