見出し画像

田中一村の弐

田中一村は写真も撮っていたと書きました。一村が自分の姉を撮影した写真がこれです。

画像1

↑「田中一村 千葉市美術館収蔵全作品」カタログより

写真を撮る際には被写体との距離が重要です。被写体までの実際の距離ではなく精神的な距離のことです。

写真を見ればわかるように、被写体であるお姉さんが、撮影する弟の一村に心を許して微笑んでいますでしょ? 同時に植物やトリなどが主要な被写体を引き立てています。写真ってのはこれなんですよ。精神的距離が人物写真のすべてなんですよ。精神的距離が構図やシャッターチャンスを伴うのです。アングルを決めようとしても、精神的距離が遠ければ、思うようにはいかないんです。シャッターチャンスも然りです。プロと称する方々が被写体を美しく撮影できるのは精神的距離を縮めているからです。しかし、それは撮影の仕事という瞬間的な距離でしかありません。

一村は、生まれつき芸術的な才能と、豊かな好奇心に恵まれていたのです。絵を描く際に形の正確さや緻密さを追求していくと、写真のように絵を描きたいと思ったりします。ただし、写真ではないか? なんてスーパーリアルな絵は技術的には素晴らしくても芸術としては面白くも何ともありません。トレースして描くというのも違います。描く対象を正確に描写していく課程で、写真とは違う何かが必要なんですね。写真を元に肖像画を仕事にしようとした一村にはそれが何であるかを理解していたようですが、最後までそれを続けることはありませんでした。

さて、一方の写真ですが、余計なおしゃべりをひとついたします。

一村のように肉親や恋人や妻に夫に我が子…というように被写体までの精神的距離が近ければ近いほど、素晴らしい写真が撮れると思います。撮れないとすれば他に要因があるかもしれません。

カメラがデジタルになって、高機能カメラが搭載されたスマートフォンも登場すると、殆どがオートで済んじゃう時代になりました。さらにアプリケーションによって任意で被写界深度を変えたり、様々な写真補正に加工ができるようになりました。昔のように銀塩カメラと暗室でのフィルム現像に印画紙への焼き付け作業などが必要であった時代は遠い過去のことです。その頃には様々な技術が必要だったのですがね…。たくさんあった街のDPE屋もなくなってしまいました。

でもね…僕は銀塩派なのです。露出を決めて撮影して、フィルム現像して、印画紙に焼き付ける…って手間がかかる方が好きです。デジタル音源よりもレコードが好きですしね。

荒木経惟さんも言っていましたが、家族写真よりも良い写真なんてこの世にはないのです。写真ってのは精神的距離の表現なのです。

相変わらず支離滅裂な内容でしたね。申し訳ない…。要は「田中一村は凄い」「写真は精神的距離」「僕はアナログ派」ってことです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?