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美味しい記憶

*僕は文章の公募に応募したことが、ほとんどないんです…ほとんどね。それでも2度だけ応募したことがあるんです。1度目は20歳の頃に雑誌「奇想天外」に応募した「時の隙間に押し潰された夢」というタイトルの小説でした。当時から文章の書き方を知らずに、できたモノは、写真や映像を見ながらイメージした詩のようなものでした。もちろん賞の候補に選ばれるはずがありません。全然駄目でした(これをちょいと膨らませて同じタイトルの漫画を描きました)。

2度目は最近です。40年ぶりです。醤油メーカー(だったかな?)食のエッセイのコンテストでした。これは少し考えて書いたのですが、駄目でした。それが下記の「おいしい記憶」という文章です。出版社時代にも「お前は世の中で一番文章が下手に違いない」と言われるほどでしたから、諦めています。世の中に自分の絵や文章を何らかの手段で残せる方々が羨ましいです。尊敬します。

「おいしい記憶」

おいしい記憶といえば、子どもの頃に始めて食べた食べ物に関するものが多い。僕の父親は建設会社の営業職で、オリンピックのようにほぼ4年ごとに東北の街を異動した。幼児時代には福島市、小学校の1年から4年までは青森市、5年から中学3年までは秋田市に住んだ。その土地それぞれにおいしい記憶がある。

福島市ではバナナに砂糖がけのパン、青森市ではハタハタの卵であるブリコと中華料理屋で食べたピータン、秋田市では今はない洋食屋でのフランスパンにエスカルゴ…と年齢が進むごとに嗜好が変わっていくのだが、一番記憶に強く残っているのは福島市のバナナと砂糖がけのパンだ。

小学校に入る前のことだ。僕は母に連れられて映画「海底軍艦」を観に行った。海底軍艦は押川春浪原作の特撮映画で、母がなぜこの映画を選んだのかはわからないが、母は映画が大好きで、テレビの「お昼の映画放送」があると、かじりつくように観ていた。一緒に観ていた僕も自然に映画好きになった。

映画を観終わると、母と一緒にデパートの食品売り場に入って、僕の好きな砂糖がけパンを買ってくれるはずだった。砂糖がけのパンというのは中央に穴が空いていて、その周りを土手のように丸く囲った分厚いパンの上に砂糖を結晶化させてクリーム状にしたアイシングをかけたもので、今でも同じような商品が販売されている。記憶が確かであればパンにはぶどうやパイナップルのドライフルーツが混ぜ込まれていた気がする。

「ねぇねぇ、早くパン買って帰ろうよ」僕は母の手を引っ張って階下に降りるエスカレーターに向かった。しかし、早く帰りたい気分が災いして、カラダの小さな幼児の僕は母の手を離してしまった。すると、エスカレーターのステップにつまずいてか、停止ボタンを押してしまったのか、原因は不明だが、エスカレーターは緊急停止して、僕は数段下に転げ落ちてしまった。「きゃぁ!」母親と周りの女性たちの叫び声が聞こえた。僕は泣いた。

騒ぎはそれだけでは終わらなかった。この騒ぎに乗じてか、慌ててうろたえていた母はスリに財布をすられてしまったのだ。楽しみにしていた砂糖がけパンを買ってもらえなくなった僕はさらに泣いた。

泣きながら自宅に帰る途中、母の顔なじみの八百屋のおじさんに出くわした。リアカーに野菜を積んで販売する移動式の八百屋だった。坊主頭に鉢巻きをした人懐こい顔のおじさんは「どうしたの?」と母に聞いた。

「スリに財布をすられてパンを買えなくなったから泣いてるのよ」と母が答えると、おじさんは「そうか、大変だったね」と言いながら、リアカーからバナナを取り出して新聞紙にくるんで泣きじゃくる僕に手渡した。「ほら、バナナやるから、もう泣くな」僕は泣きやんだ。「ワルイね、お金は明日払うからアパートに来てね」と母が頭を下げた。するとおじさんは「はいよ、じゃ、また明日」と微笑んで去って行った。

バナナを食べたそうにしている僕に母は 「家に帰ってから食べるんだよ」と睨んだが、僕は「やだ、今食べる」と言ってバナナの皮を剥こうとすると、「しょうがないね、かしてみな」母はバナナの皮を剥いて僕に与えた。ようやく僕は笑った。

飽食の時代の今では考えられないが、あの時の甘酸っぱいバナナの味が忘れられないのだ。


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