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災害の多様性「戦争災害 1」

「傲慢な政治家による戦争」

僕は、政治家が嫌いです。彼らは政治家に選ばれなければただの「一般市民」ですが、人の上に立ってふんぞり返るのが好きなんて一般市民にまともな性質の者はいないと思っているからです。政治家になるまではそこら辺のおっさん、おばはんであったり、目立つことが好きな芸能人であったりした者に国の運命を委ねるだなんてとんでもないことだと思うのです。

2013年から翌年まで某党の手伝いをしていたので、彼らがどのような人間であるか、またその家族や取り巻きまでもがどのような人間であるのかを、ほんの僅かですが知ることができたので、彼らの人間としての本質が理解できたのです。

世界中の紛争や戦争は、すべて政治家の狂気によって起きた人災です。もちろん民族、宗教、経済などの要因はありますが、そんなことは世界平和にとってどうでもいいことです。世界平和は、常に狂いのない平静が保たれた人心がすべてです。自己保身に惑わされない、他人に対する思いやりのある優しさがすべてです。

さて、今日は大変用戦争末期、米軍による広島原爆投下によって一般市民が大虐殺された日です。表現は悪いですが、まったくその通りで、一般市民が、いつもと同じ一日を始めようとしている朝の一瞬に、一発の原子爆弾によって惨たらしい最期を迎えた日なのです。

現代の東京の朝の通勤ラッシュ時に原爆(今はもっと威力のある爆弾ばかりですが…)が落とされたらどうなりますか? 都内に縦横無尽に張り巡らされた鉄道網に、異常に交通量の多い道路。周辺の地方都市から流れ込んでくる人びと…。想定外の大きな被害が発生するでしょう。

原爆を平気で落とせたのも、上空を飛ぶパイロットたちには、爆弾によって人が亡くなったり、苦しむ姿が見えないからです。広島同様に長崎原爆投下や大阪や東京への大空襲を行なうことに対しても、少しも罪の意識がなかったのだと思います。

ヘレン・ミレン主演の、こういうドローン映画があります。

現代では無人ドローンに核爆弾を積んで、自国(たとえば米英)から遠く離れた中東のポイント地点に爆弾を落とすことが可能ですから、爆撃された相手が死んだり苦しんだりする姿を見なくてすみます。恐ろしい時代になりました。

「広島出身のふたりの作家」

広島出身のふたりの作家さんが、原爆投下時の状況を作品に書いておりますので、その作品を紹介してみたいと思います。

大田洋子と原民喜の作品

原爆作家と呼ばれる大田洋子、原民喜の作品「屍の街」(大田洋子)と「夏の花」(原民喜)を以下に部分引用します。ふたりの作家は原爆投下時に広島におり、まさに悪夢のような経験をしました。中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」とは違った原爆投下時の状況が描かれております。

「屍の街 大田洋子」

私は八月六日の朝よく眠っていた。前夜の五日の夜は山口県の宇部市がほとんど一晩中、波状爆撃をうけて、ラジオの情報をきいていると、眼のまえに火の山が見えそうな気がした。
山口県は、光、下松、宇部と、つづけざまに焼けたのだから、広島も今夜にも炎の海になるかも知れなかった。あとでアナウンサーがまちがいだと取消していたけれども、五日の夜中には宇部とはべつに、広島をとばして福山市が焼夷弾の攻撃をうけていると放送した。
広島にも空襲警報が出ていたし、隣組からはいつでも避難できるように用意をしておくように伝えて来ていた。だから五日の夜はまるで眠ることができなかった。
夜あけに空襲警報がとけ、七時すぎには警戒警報も解かれた。それから私はあらためて眠ったのだった。寝坊はいつものことだし、病院から出たばかりで、昼ちかくまでねていることも多かったから、家の者たちもあの光線が青々と光るまで、私を放っていた。
私は岐帳のなかでぐっすりねむっていた。 八時十分だったとも云われ、八時三十分だったともいうけれど、そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。するとすぐ、大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響いた。雷鳴がとどろきわたるかと思うような、云いようのない音響につれて、山上から巨大な岩でも崩れかかってきたように、家の屋根が烈しい勢いで落ちかかって来た。 気がついたとき、私は微塵に砕けた壁士の煙の中にぼんやり佇んでいた。 ひどくぼんやりして、ぱかのように立っていた。苦痛もなく恐もなく、なんとなく平気な、漠とした泡のような思いであった。 朝はやくあんなに輝いていた陽の光は消えて、梅雨時の夕ぐれか何かのようにあたりはうす暗かった。
牡丹雪がふるようだったときいていた呉の焼夷弾のことが頭に浮び、窓硝子も壁も次の間との隣のも屋根も、なにもかも崩れ飛んで、骨ばかりになった暗い二階で、私はきょろきょろと焼夷弾を眼で探した。
四十も五十もの焼夷弾が頭の傍にふり落ちたと思ったからである。それにしては焔も煙もあがっていない。それに私は生きている。なぜ生きているのだろう。ふしぎであり、どこかに死んだ私が倒れていないかと
ぼんやりした気持ちであたりを見たりした。

大田洋子 屍の街より

昭和20年(1945)、疎開で広島市に帰郷中、被爆する。占領軍による報道規制の中『屍の街』『人間襤褸』を書き、原爆作家としての評価を確立。しかし原爆の後遺症により体調を崩し、創作に行き詰まり、昭和30年代から作風を転換して『八十歳』『八十四歳』など老母を主人公に私小説的な心境小説を発表。『新婦人しんぶん』に小説『なぜその女は流転するか』を連載中の昭和38年(1963)福島県猪苗代町の中ノ沢温泉で入浴中に心臓麻痺で急死。享年57歳でした。

Wikipedia 大田洋子より部分転載

太田さんが亡くなった猪苗代町は僕の父の故郷です。30年前まで僕の本籍も猪苗代町にありました。ちなみに妹は猪苗代本籍のままです。

「夏の花 原民喜」

私は厠にいたため一命を拾った。 八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。 前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかったので、夜明前には服を全部脱いで、久し振りに寝間着に着替えて眠った。 それで、起き出した時もパンツ一つであった。 妹はこの姿をみると、朝寝したことをぶつぶつ難じていたが、私は黙って便所へ這入った。
それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思わずうわあと喚き、頭に手をやって立上った。 嵐のようなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があった。その時まで、私はうわあという自分の声を、ざあーというもの音の中にはっきり耳にきき、眼が見えないので悶えていた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはっきりして来た。
それはひどく厭な夢のなかの出来事に似ていた。最初、私の頭に一撃が加えられ眼が見えなくなった時、私は自分が斃れてはいないことを知った。それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。そして、うわあと叫んでいる自分の声が何だか別人の声のように耳にきこえた。しかし、あたりの様子が朧ながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立っているような気持であった。たしか、こういう光景は映画などで見たことがある。濛々と煙る砂塵のむこうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。 壁の脱落した処や、思いがけない方向から明りが射して来る。畳の飛散った板の上をそろそろ歩いて行くと、向うから凄さまじい勢で妹が駆けつけて来た。
「やられなかった、やられなかったの、大丈夫」と妹は叫び、「眼から血が出ている、早く洗いなさい」と台所の流しに水道が出ていることを教えてくれた。
私は自分が全裸体でいることを気付いたので、「とにかく着るものはないか」 と妹を願ると、妹は壊れ残った押入からうまくパンツを取出してくれた。そこへ誰か奇妙な身振りで闖入して来たものがあった。
顔を血だらけにし、 シャツ一枚の男は工場の人であったが、私の姿を見ると、「あなたは無事でよかったですな」と云い捨て、「電話、電話、電話をかけなきゃ」と呟きながら忙しそうに何処かへ立去った。
到るところに隙間が出来、 建具も畳も散乱した家は、柱と閾ばかりがはっきりと現れ、しばし奇異な沈黙をつづけていた。 これがこの家の最後の姿らしかった。後で知ったところに依ると、この地域では大概の家がぺしゃんこに倒壊したらしいのに、この家は二階も墜ちず床もしっかりしていた。余程しっかりした普だったのだろう。四十年前、神経質な父が建てさせたものであった。

原民喜 夏の花

◆原民喜のその後

昭和21年(1946)4月、長光太の勧めに呼応し上京。慶應義塾商業学校・工業学校の夜間部の嘱託英語講師をしながら、「三田文学」の編集に携わる。昭和22年(1947)6月、「夏の花」を同誌に発表。昭和25年(1950)1月、武蔵野市吉祥寺に転居。4月、広島で行われた日本ペンクラブ大会に参加、登壇者の一人として「原爆体験以後」と題した講演を行う。同月、父の遺産の株券を売却。6月、朝鮮戦争勃発。12月、長光太宛の書簡で詩「家なき子のクリスマス」と詩「碑銘」を送る。昭和26年(1951)3月13日、久我山の鈴木重雄の家を訪ね酒を酌み交わしたのち、午後11時31分に国鉄中央線の吉祥寺~西荻窪間の線路に身を横たえて鉄道自殺。原は大量の酒を飲んでいたらしく、視官は原の轢死体からアルコールの匂いがしたと証言している。しかし、事前に遺品などの整理は周到に行われており、衝動自殺ではないことが窺われる。下宿の机には親族や佐々木甚一、遠藤周作、佐藤春夫、梶山季之など仲間ににあてた17通の遺書があった。葬儀は埴谷雄高の提案で無宗教で行われた。遺稿に「心願の国」「永遠のみどり」がある。

Wikipedia 原民喜より部分転載

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