「死に逝く者…母の場合」2014年11月~2015年1月の日記
2014年
11月13日に東林間東芝病院の医師に母の肺に癌があるようで、しかも末期癌であり、年齢からして余命僅かであろうことが伝えられた。その後、大和市立病院を紹介されて診察を受けるが、医師が気に入らず、国立相模原病院で診察を受ける。この翌日に咳が酷く、救急車で相模原病院に入院。
「2014年11月13日 東林間 東芝病院にて…」
「お母さんのレントゲン写真を見て、水が溜まっていたので、もしかしたらと思って、再度血液検査とCTを、行ったんですが...」とN医師が深刻な表情で言う。
「こんな風に肺の中にゴツゴツとした部分がありますね、これは、肺がんの可能性が高く、しかも最悪な状態だと思われます。恐らく、余命数ヶ月の状態であると思います。残された命をご家族と共に自宅で過ごされるのが一番です。いずれにしてもここでは治療ができませんから、その治療で優秀な大和市立病院に紹介状を書きますから、それを持って医師に診てもらってください」突然すぎる医師の言葉に僕と妻は驚いた。《だって、今日は定期検診に来ただけで、そんな病気であることを知りに来たんじゃないんだよ》母はまだまだ長生きするだろうと思っていて、これから10年くらいは母の介護をするんだろうなぁと思っていたのに酷いね。この間、義父が死んで、変な話だが一息ついていた矢先になんだよ?って思うじゃんさ。
「国立相模原病院の医師の話」
ご本人が、今後、どう過ごしたいか?という事なんです。
外来で、何度か肺の水を抜きに来られるか、これは身体に管を付けっぱなしにして入院するよりも体力が衰えなくて済みますし、ご家族と一緒にいられるという事が良いところです。入院は今もお伝えしたように身体に管を付けっぱなしにして、あまり身動きをしないようにしますから、体力が衰えるばかりか精神的な負担も大きいと思います。どっちがいいんでしょうね。と僕が聞くと..どちらも正解じゃない、私はどちらがいいのかはわかりません。山登りとおなじです。正解不正解はない、ご本人の好みなんです。
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母、2014年12月28日に退院。年末と正月を自宅で過ごす。
2015年1月3日、僕と妻、神奈川に向かう。
2015年1月4日の日記
昨日のことだ。
実家に着くと、玄関のチャイムを鳴らしても母が出てこない。ドアには鍵がかかっており、妹からは母が留守番していると聞いていたから、誰も出てこないことを不審に思う。自分で持っている鍵を使ってドアを開ける。すると母が玄関にフラフラと現われた。そして「足が動かないの…」と僕と妻に訴える。慌てて妻が母を支えて居間まで歩く。
母の脚をさすってみると、パンパンに腫れていて、硬めのソファーのような妙な感触である。涙と鼻水を吹きながら「可哀想に」と脚を軽く揉んだりさすったりしながら妻ももらい泣きをしている。そこに妹が帰ってきて、朝から脚が痛くて動けないと言っていたが、鍵を開けようと玄関まで歩いて痛いのだろうと言う。下手に歩いて倒れて頭を打ったりしたら大変だと不安になる。これからは母を、ひとりにはできないと悩んじゃうのであった。
「2015年1月5日の日記①」
朝、五時を少しまわった頃、まどろむ僕の意識に突然、妹の叫び声が聞こえた。それが数度聞こえた後、しっかりと覚醒すると、妹は、本当に、今にも自分が死なんとするかのような叫び声を発していたのだった。急いで飛び起きて声のする方に走ると、母が倒れていて、傍らで妹が、「ママ!しっかりして!」と叫んでいる。倒れた母は「ううううう…」と唸ってへたり込んでいる。意識が混濁して何を問うても理解できないようだ。
妹に聞けば、起きて母を便所に連れて行こうと母の身体を支えながら、便所の前まで歩かせると、突然、母がヘナヘナと倒れこんで動けなくなったと言う。
「お兄ちゃん、ママを病院に連れて行って」と東京まで出勤するための身支度を調えた妹が僕に懇願する。
「わかった」そう言うと、自分でも信じられないくらいの速さで身支度を整えるのと同時に妹に救急車を呼んでもらう。その間も母は、ハアハアと苦しむばかり。とりあえずは便座に座らせて様子を見る。救急車が来る。妹を残してぼくが救急車に同乗して、相模原病院に運ぶ。幾つかの検査同意書への署名と入院になるだろう説明を受け、待機中。
「2015年1月5日の日記の②」
入院した母の部屋は見晴らしがよく、丹沢の山並みが良く見える。しかし、丹沢の後方に位置する富士山が全く見えない。病院がもう少し高層であれば、霊峰の先だけでも見ることができただろう。
母は昨日のことを全く覚えていない。いや、それより前、自分が暮れに一度退院して自宅に戻った記憶もないのだ。だから、去年からずうっと入院していると思い込んでいて、また部屋が変わったくらいにしか思っていないのだ。
看護師さんによると、夕べ遅く、動けないはずの母がベッドの上に立っていて、落下転倒の恐れがあることから、拘束帯を使用したらしい。自宅か病院かがわからなくなったのだ。もちろん救急車で病院に運ばれたことも記憶にないのだ。<p> </p>それでも朝には記憶が戻ったようで、僕と妹、かみさんの名前もきちんと言える。溜まっていた便は、硬い蓋の部分を看護師さんがかき出してくれたら、堰を切ったように放出された。それでも残りはたれ流し状態で、新たに紙製リハビリパンツを買ってきた。
「2015年1月7日の日記」
小田急相模原駅から病院まで歩く。入院病棟に着くと、母の周りに看護師たちが数人集まって、母と話をしている。見れば母は涙をボロボロこぼしながら泣いている。
看護師たちは先日外した排尿のためカテーテルを、動けなくなった母のために、また着ける旨を説明しているのだった。しかし、母にはそれが理解できずに「さっき頭を洗ってくれたから帰れると思ったのに帰れないって言うんだもん」と言いながらぐすぐすと泣いている。看護師のひとりに聞けば、洗髪をしたのを帰宅のための準備だと勘違いしたらしいのだ。<僕は母が泣き顏をあまり見たことがない。僕が子供の頃、父と大げんかしたときに泣いた母の記憶しかない。
「2015年1月13日の日記①」
この日は病院で母の見まもり。
午前2時30分、僕がうたた寝をしていると、看護師が見回りに来る。オムツの漏れや床ずれの確認などを行う。仕事といえど、不眠の仕事は辛そうだが、元気にこなす姿を見るとちょっぴり感動しちゃう。
看護師が戻ろうとすると、母が僕に何かを訴えるが入れ歯がないから何を言っているのかわからない。看護師も一緒に解読しようとするが、そのうち母はもどかしくなったのか「もういい」とスネてしまう。母がいまいましそうに自分の足下の枕を見ているのに気づく。足下の枕をどけてくれと言っているのだ。看護師は、「わかってあげられなくてゴメンね」と言って帰ると、母がまた泣き出す。自分の言うことをわかってもらえないのが悲しいのだ。
また「俺の母ちゃんなんだから泣いちゃダメだよ」と言いながら手をさすって落ち着かそうとする。「母ちゃん、泣いたら病気は治らないし、退院出来なくなるよ、泣いちゃダメだよ」と言うと、頷いて落ち着く。「早く寝なさい」と言うので「あんたが寝かせないんじゃないか」と言うと、笑った。ホッとする。しばらくすると、母はまた軽いイビキをかきながら眠ってしまった。
「2015年1月13日の日記②」
この日、病院に泊まって、ひとりで母の看病をする。
①22時過ぎに眠くなり、寝てしまう。23時過ぎに「枕を上げてくれ」と母の呻き声で起こされる。右手で首をおさえて枕を上げるとやや落ち着く。
0時過ぎに今度は喉の辺りを抑えて苦しがる。危ないと思って看護師を呼んで座薬を入れてもらう。その間、室外に出て廊下に立っていると、病室からひとりの看護師が出て来て、僕を見て驚く。事情を話すと看護師は納得したのかナースセンターに戻っていく。
母の方はどうなったか室内に入る。看護師が床ずれ予防のためにまくら状のものを左腰辺りに差し込むのを嫌がるが座薬がきいたのかおとなしく眠る。
この前に何度か点滴の水泡注意ブザーが鳴って、看護師が直しに来る。
0時52分、床ずれ防止の枕を取ってくれと言う。その後、悲しいのか泣く母。手を取ってさすっていると、「早く寝ろ」と言って簡易ベッドを指差す。ベッドに戻って見ていると、しばらく泣いて落ち着くが、相変わらず苦しそう。
泣く母に、あんたは俺の母ちゃんなんだから息子の前で泣いたらダメだよと、よくわからないことを言うと、母は苦しみながら頷く。
看護師が見回りに来て、母に話しかける。母は、「ベッドの頭を上げてくれ」と頼むと、看護師が上げてやる。
その後も苦しむので、手を取ってさすっていると落ち着く。この繰り返しである。
②2時30分、僕がうたた寝をしていると、看護師が見回りに来る。オムツの漏れや床ずれの確認などを行う。仕事といえど、不眠の仕事は辛そうだが、元気にこなす姿を見るとちょっぴり感動しちゃう。
看護師が戻ろうとすると、母が僕に何かを訴えるが入れ歯がないから何を言っているのかわからない。看護師も一緒に解読しようとするが、そのうち母はもどかしくなったのか「もういい」とスネてしまう。
母がいまいましそうに自分の足下の枕を見ているのに気づく。足下の枕をどけてくれと言っているのだ。看護師は、「わかってあげられなくてゴメンね」と言って帰ると、母がまた泣き出す。自分の言うことをわかってもらえないのが悲しいのだ。
また「俺の母ちゃんなんだから泣いちゃダメだよ」と言いながら手をさすって落ち着かそうとする。「母ちゃん、泣いたら病気は治らないし、退院出来なくなるよ、泣いちゃダメだよ」と言うと、頷いて落ち着く。「早く寝なさい」と言うので「あんたが寝かせないんじゃないか」と言うと、笑った。ホッとする。しばらくすると、母はまた軽いイビキをかきながら眠ってしまった。
2. ③3時20分、脈拍の機械が鳴りだす。しばらく鳴っているので看護師が来るかと思ったら来ない。そのうち鳴り止んでしまう。
音で母が起きてしまい、起きると苦しい現実に引き戻されるため、自分の髪の毛を掴んでイライラしながらまた泣く。それから僕に「脱げないの?」と聞く。「何を脱ぐの、暑いの?」と聞くと「違う」と答える。面倒だから「まだ脱げないよ」と言うと頷くが、いい加減に返事をしているんだと言うように不満な表情をしている。
母の脚をさすろうとすると、浮腫んだ脚に巻かれたテープのようなものが解けかけている。あ、これを脱ぎたいと言っていたのだと気づき「母ちゃん、今日は先生が来るから脱いでいいのか聞いてみよう。だからもう少し我慢してね」と言うと、母は今度は本当にわかってくれたんだと安心したように目をつぶった。しばらくするとまた寝息をたてた。
暑いので窓を開けて丹沢の上の夜空を見る。部屋が明るいので窓に光が反射してよく見えないが、おおきな星がひとつだけ見えた。
輝く星のために漆黒の夜空がある。
5時55分、二人の看護師の見回り。ドアを開ける音で目覚める。実は一時間前にも看護師のひとりが来ている。
彼女たちは一時間ごとに巡回しているのだ。そのたびに母は起きて何かを訴えるのだが、なかなか母の思うようにはいかないのだ。
また床ずれ防止のための枕を嫌がって僕に外させる。あとで看護師に怒られるかもしれない。
とうとう母も僕も熟睡はできなかった。
もうすぐ夜が明ける。
「2015年1月14日の日記①」
「おとうさんに会いたいの」と母が言う。
「おとうさんって誰よ?」と聞くと「つとむ」と言う。つとむというのは僕の父のことで、もちろん母の亭主のことだ。
父が昨夜、母の目の前の天井に現れたというのだ。「そりゃ凄げぇ~、安物のお涙ちょうだいドラマみたいじゃん、安くてもいいから俺も親父に会いたいなぁ」と言いながら父が現れたという天井を見たら目から水が溢れた。洪水注意報発令だ。
「2015年1月14日の日記②」
母が凄く苦しんでいる。声をかけても応えない。生命の身勝手さに、なんとなく腹が立って、呻き苦しむだけの母に、「苦しむなら、その分生きなきゃ大損だぜ。死ぬんなら、損しても悔いがない、なんてことないときに死ねよ」と聞こえるように言う。あまりに苦しむから、かみさんが看護師を呼ぼうとすると、ちょうど看護師が見回りに来た。苦しむ母の耳元で「渡部さん、痛むなら痛み止めの座薬を入れましょうか?」と言うと、「いくら?」と聞き返した。さっきまで意識がなかったくせに思いがけない大バカなことを言うから、皆で爆笑する。母も笑っている。看護師が出て行ったあとに、僕が冗談で「座薬は100万円だってさ」と母に言うと「お前が払え」と言い返してきたので、元気ないつもの調子に戻ったようで嬉しくなって僕とかみさんで大笑いした。ビール婆さんもつられても笑っていた。
「2015年1月14日の日記③」
「しょうこに手をさすってもらいたい」と母が言う。「なんで、実の息子である俺じゃなくてしょうこなのさ?」「男の手じゃ気持ち悪いんだよ」と、かみさんが言う。なるほどね。「しょうこが、ずうっと手をさすってくれていたから気持ちがいいの」母が言う。なるほどね。
「2015年1月14日の日記④」
母は、毎日、夕方から「妹はいつ帰ってくるのか?」「お前たちは早く帰りなさい」と言うばかり、やっぱ、一緒に住んでいる人間が一番なんだね。妹と交代で、看病しているが、夜は妹にいてもらいたいらしい。
朝晩に人は亡くなりやすいそうで、母は自分の最期はいつも側にいる人に看取られたいのだね。きっと。
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