夜の郵便配達「一周忌」2
3.
「え、何でだよ?」
「ミーの寿命なのよ」
僕は驚かなかった。ミーは16年生きた。寿命なのだ。寝たきりのミーを見ているのも辛かった。それでも死んだ妻の愛猫だから、死んでほしくはなかった。妻が死に、ミーも死んだら、この世にひとりぼっちになってしまう。僕にも妻にも親しい親戚もいないし、友人や知人もいない。
「寂しくなるわね…」リビングのソファに腰掛けた妻が胸に抱いたミーを撫でながら言った。
「うん、でも、覚悟していたんだ」僕はアルミのパーコレータに、挽いたコーヒー豆の粉を入れてため息をついた。
「ミーを病院に連れて行ってくれてありがとうね」
「いや、もっと早く連れて行けば良かったよ。お前が死んだばかりで気落ちしていてさ、ずうっとここで横になっていたよ」
「ごねんね。私だってもっと生きていたかったよ。せめて子どもを作れればね…あなたも寂しい思いをせずに済んだかも…」
「仕方がないよ。できなかったんだから…」キャンプ用のガスバーナーの上にパーコレータを置いて火を点けた。
「ああ、それ、懐かしいわね。1年ぶりに見たわ」
「うふふ、だろ?お前が死んでからはインスタントコーヒーしか飲んでいないんだ。これで煎れると泣いちゃうから…」涙が出た。
「あら、私はここにいるじゃない。大丈夫よ、これからもずうっとあなたの、そばにいるから、寂しく思わないで」
「でも、姿が見えないからね。やっぱり寂しいよ。この寂しさは死んじまったお前にはわからないよ」
「うん…あ、できたみたい」妻がパーコレータを指さした。
パーコレータの先から湯気が噴き出していた。プラスチック製の取っ手を掴んで妻のマグカップにコーヒーを注ぎ込む。
「毎日、これを見て泣いてたんだぜ」
「マグカップ見て泣いちゃうんだ」
「うん。これだけじゃない。お前の思い出が染みついたモノや場所、全部だよ。何見ても泣いちゃうんだよ」マグカップを妻に渡した。
「そうなんだ、本当にごめんね。あ…」マグカップから溢れ出た熱いコーヒーが妻の手を濡らした。
「大変だ、熱いだろう?ちょっと待ってて…」
「大丈夫よ、死んでるんだから、熱くはないわ。ごめん、ティッシュ取って」
「うん、ほら」ティッシュの箱から2~3枚引き抜いて妻に渡した。
「俺も死んだら、そうなるのかな?」
「ううん、あなたには死んでから会いたいと思う人はいないでしょ?」
「うん」確かに僕には身寄りがいない。僕が大学を出て就職すると、それに安心したのか、続けざまに両親は病気で死んでしまった。こんな性格だからプライベートでつきあうような友人もできなかった。
妻の両親も僕と結婚する前に死んでいた。妻もどういうわけか僕だけにしか心を開かなかったから親しい友人はいなかった。
「あなたは、私のように、こうやって出てこられないのよ」妻が笑った。
「なんだ、そうなの? ま、確かにそうだよな」
「うん。身寄りがない人たちはあっちで友人を作って楽しんでいるわよ」妻は楽しそうだった。
「ふうん…お前、あっちで浮気すんなよ」冗談を言った。
「バカね…」また妻が笑った。
「あっちでは死んだ両親もいるし、何故か恋愛感情なんて起きないのよ。だから一切争いごとはないのよ」
「俺の両親もいるのか?」
「当たり前じゃない。ご両親は、あなたと結婚する前に亡くなっていたけど、すぐに私だって気づいてくれてね、毎日会いに来てくれるのよ」
「そうか」嬉しかった。死後の世界も悪くないんだな…そう思った。
「だめよ。あなたはまだ死ねないのよ」
「なんで?」
「だって、あなたが死ぬのは82歳だもの」
「え、まだ30年もあるじゃないか?じゃ、その前に自殺しちゃおうか?」能天気なことを言った。
「それはだめよ。自殺しようとしても絶対に死なないわ。あっちでそういう人たちの話を聞いたのよ」と言って、妻がコーヒーを啜った。
「ああ、美味しいわね。この味、懐かしいわ」妻がまた笑った。
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