自分の生きづらさのメカニズムが分かった気がする
繊細さんとかHSPとかいうあれ。
人の些細な言葉に一喜一憂し、自分の気持ちをうまくアウトプットできず、失礼なことをされても「咄嗟に怒る」ということができない。常にびくびくしている。無駄に気を遣い疲弊する。家族関係や恋愛関係がうまくいかない。
ずっとそんな自身を持て余していたのだが、ふとその生きづらさの正体が分かった。
私は〈内〉と〈外〉の峻別がうまくできていなかったのだ。
例えば職場の先輩が、私のことを「あの子トロいよね」と話しているのが耳に入ってしまったとする。私は傷つく。先輩の話題はすぐ「茶の間で見た芸能人のゴシップニュース」などに切り替わるが、私の胸にはずっと「私はトロい、ダメな人間だ……そうだよな、私は愚鈍で、嫌われている……」と鉛のような感情が残り続ける。
なぜか。
それは、私が〈内側=心〉で直に先輩の言葉を受け止めているからだ。本来、そんな悪口は先輩の世界の中で先輩の価値観によって生み出された吹けば飛ぶような軽い言葉で、気にしても仕方ない。空中に無数に漂う菌の一片のようなものだ。しかし私は、〈内側=心〉の奥にそれを招き入れているから、免疫の効かない病の人がちょっとした菌で死にかけるように、「トロい」の一言でとても落ち込む。
では、些細な言葉を心の奥に招き入れるのをやめるにはどうすれば良いのか?
イメージすることが大切だ。
私は街の中の広い道を歩いている。両脇にはたくさんの店が並んでいる。
ドラッグストア。雑貨屋。それぞれ、たくさんの商品が積まれている。軽い気持ちで放たれた言葉や態度はそれらの小さなパッケージと同じだ。手に取ってもいいし、取らなくてもいい。流れる外の景色の一部に過ぎない。
私は〈外〉に対して〈内〉で対峙しようとしすぎていた。アウトプットがうまくできなかったのも同様の理由だ。
常に、心の奥底から気持ちを取り出そうとするから、時間や労力がかかる。コミュニケーションのたびに自分の一番大切な宝物を取り出すようにしていたから、否定されると深く傷つく。
また、うまく怒れず、溜まりに溜まった末の爆発しか起こせなかったのも、「怒る」ということを、いちいち心の奥を火かき棒でつつき、大元の種火ごと掻き出すような行為だと無意識に認識していたからだ。
コミュニケーションのたびに暖炉の奥の種火を引きずりだすことはできない。
だから、掻き出す必要がないほど怒りの火が大きくなって暖炉の外まで燃え上がるのを待つしかない。
心の奥で直に感じ、心の奥から語るようなコミュニケーションは、とっておきのときだけで良い。
心の奥に、大元の喜怒哀楽の火があるとして、普段はそれらからろうそくを使って炎を分かち、自分の前に喜怒哀楽の四本のろうそくを立てておくイメージをすると良いだろう。
株分けした感情のミニチュアを自分の外側に置いて、言葉も胸の奥を介さずにそこからインスタントに取り出して良いのだ、と思う。そうすると、嫌なことをされたとき、身構えずに嫌だと言えるようになる。心の内側を守れる。
ちなみに、これまで私は体調不良でいらいらしているときだけ強気になって謎の無敵感を抱いていたのだが、それは無意識のうちに「怒りのろうそく」を自分の外側に立てていたからだと気がついた。
それから、自分の内側にきちんと目を向ける。自分の大切な心の部屋を清潔に保ち、楽しく部屋作りをして、たとえ家族でもやすやすと土足で上がらせない。
そういうイメージングを積み重ねることで、生きづらさを緩和できる気がする。
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