漫画『火の鳥』と映画『君たちはどう生きるのか』
この夏の三連休に久しぶりに手塚治虫氏の『火の鳥』を読み返しました。改めてその洞察の凄さに感動すると同時に、最近見た映画『君たちはどう生きるのか』とも共通するものを感じました。映画を見ていない人に悪いので、ネタバレにならない程度に、映画のことにも触れます。。
マルチバースと存在しない時間
『火の鳥』は、過去と未来が行ったり来たりしながら16巻が進むのですが、その振幅が結局マルチバースを彷彿とさせてきます。繰り返し、火の鳥が「この世界には時間が存在しない」と言うのだけど、この16巻の進み方そのものがマルチバースであり、時間が存在しないことを示しているように思います。映画「君たちは・・・」の世界観もマルチバースだし、時間は同時進行というか存在していなくて、まさに今しか存在しない感じです。過去を悔やんだり、未来を憂いたりしたって、それは実は同時に起きていることで、「今を見てるか?今を生きてるか?それしかないのよ」と問いかけられた気分です。
あえて苦しみを選ぶ
『火の鳥』の中には、無難な道ではなくあえて苦しみを受ける道を選ぶ人物が繰り返し登場します。映画『君たち・・』でも、安定した世界を選びません。もっと無難で波風立たなくて無難な生き方があるだろうに、どうして大変なことばっかり選んでしまうんだろうと、いつも自分と対話している私にとって、この2つの作品から、「それが生きるってことなのよ」と背中を押してもらったような気がしました。
包摂という世界
『火の鳥』の後半では、仏教や宗教の政治的利用への批判と過去から続くアミニズム信仰の保全を訴えつつ、それも結果として二項対立を生み出してしまうことに気付かされ、様々な価値観を包摂することの大切さへと進んでいきます。映画『君たち・・』も、主人公の変化を通じて、様々な関係性を受け入れていく勇気の尊さが描かれています。気づかないうちに、自分を正当化するために境界線を作ってないかをふと考えてしまいました。
誰かのために生きる覚悟
火の鳥の血を飲めば永遠の命が得られると言われても、あえてそれを飲まない登場人物が何人もいます。映画『君たち・・』でも、主人公のお母さんが選ぶ人生も、火の鳥の血を飲まない選択と同じかもしれない。永遠の命があれば、何度でもやり直しができて、いつか幸せを掴めるような気がするけど、それはとても孤独だと、火の鳥は語ります。そして、二つの作品を通じて、実は、誰かのためなんて思わなくても、結果、幸せだと感じる時は、誰かのためになっている時なのかもしれない・・そんな気持ちが湧き上がってきました。
あ・・なんだか永遠に書けそうな気がしてきたので、今日はこの辺にしておこうと思います。本や映画って、振り返りをすればするほど、スルメのように味わいが出てくるものですね。こうしてnoteを書いていると、どんどん新たな気づきと味わいが出てきます。読むことや見ることも大事ですが、もっと振り返ることを大切にしようと思います。。
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