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木田元『反哲学入門』第三章「哲学とキリスト教の深い関係」前編

はじめに 二章から三章へ

 二章ではソクラテス~アリストテレスにかけて西洋の超自然的原理がどのように成立したかを整理しました。三章では、プラトンの「イデア」、アリストテレスの「純粋形相」がキリスト教と結びついていく過程を追い、その後デカルトまで跳んで彼の活動が西洋の思想発展にどのような影響を与えたのか整理します。
 今回は内容が多いので二部に分けて記事にします。

哲学の二つの源流

 二章の「形而上学」という訳語の由来で触れましたが、キリスト教がローマ帝国の国教に採用されて以来、プラトン、アリストテレス(スコラ学)などのギリシャ哲学はキリスト教と急速に結びついていきます。それぞれの思想は、各時代で主導権を奪い合い、それが西洋文化形成を規定していくことになりました。

プラトン哲学の改造

 まず、1世紀ごろにエジプトのアレクサンドリアで、ユダヤ人思想家のフィロンがプラトン哲学を下地に『聖書』の「創世記」を解釈しました。さらに3世紀ごろ、アレクサンドリアのエジプト人プロティノスが、「オリエントやエジプトの神秘主義思想の強い影響下に、神秘主義的色彩の濃い新プラトン主義に改造」しました。
 この過程がプラトン哲学に具体的にどのような影響を与えたかは別で勉強しなければいけませんが、今はそういうことがあったという程度の意識で先に進みます。

アウグスティヌスによるキリスト教教義体系の組織

 アウグスティヌスは354年カルタゴ近郊の街で生まれます。母が敬虔なキリスト教徒でした。彼は修辞学を学んだのちしばらく放蕩生活を送りますが、19歳でキケロの対話篇『ホルテンシウス』を読んで学問に目覚めます。まず彼を惹きつけたのは当時ローマ世界に広まっていたマニ教で、カルタゴで教師をしながら10年近くを聴聞者(平信徒)として過ごしました。
 382年にローマへ渡り、翌年ミラノに教師として招聘されます。この間にキリスト教司祭の説教を聞いたり、プロティノスの論集『エンネアデス』の一部やパウロの手紙を読んでいます。こういった過程を経て386年に回心を経験し、洗礼を受けました。
 アウグスティヌスはその後、ローマを経て帰郷し、391年北アフリカの要港ヒッポ・レギウスの司祭となります。以後、『告白』『神の国』などを著作しつつその地で没しました。
 313年にキリスト教を公認する「ミラノ勅令」が発布され、380年にキリスト教を国教化されたことを見ると、アウグスティヌスはまさにキリスト教の歴史の分かれ目に生きた人物と言えます。
 アウグスティヌスは『神の国』で壮大なキリスト教教義体系を整備し、後々この体系がローマ・カトリック教会の正当な教義として採用され、13世紀まで正統教義として機能します。この教義の下地になっているのがプラトン哲学です。

プラトンには、イデアの世界とその模像であるこの現実の世界、いわゆる個物の世界という二つの世界を考える独特な「二世界説」がありました。新プラトン主義経由でこのプラトン哲学を学んだアウグスティヌスは、プラトンのこの二世界説を「神の国」と「地の国」の厳然たる区別というかたちで承け継ぎ、あの制作的存在論によって世界創造論を基礎づけ、イデアに代えてキリスト教的な人格神を超自然的原理として立たせます。イデアは世界創造に先立って神の理性に内在していた観念と考えられるようになり、ここからidea(イデア)(英語ならidea(アイデア)を観念と見る考え方が生まれてきました。

 プラトン哲学にキリスト教が対応しそうな場所を入れ替えていったという感じです。まるで宗教が哲学を乗っ取っていく様を見ているようです。
 このようにアウグスティヌスは、二世界説を発展させて「神の国/地の国」「ローマ教会/世俗国家(ローマ帝国)」「信仰/知識」「精神/肉体」等を区別しました。この考えが529年のオランジュ宗教会議で正統教義として承認を受けます。
 筆者は、この決定は「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」という聖書の言葉に立拠しつつ、ローマ帝国との共存を図りながらも、帝国の崩壊からはまぬがれようとするローマ・カトリック教会の政治的判断があったのではないか、と指摘します。
 こうしてプラトン哲学、超自然的原理はキリスト教と強力に結びついて西洋で発展していくのです。

アリストテレス哲学の復権

 529年、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって「異教的教育の禁止令」が発布されて哲学研究が禁止され、ギリシャ哲学研究者の多くはアラビアへ逃れます。やがてイスラム勢力の支配地となるとギリシャ哲学もイスラム文化に組み込まれます。
 アリストテレス哲学はイスラム教教義の基礎づけに用いられたようで、著名な研究者としてアヴィセンナ(イブン・シナ)やアヴェロエス(イブン・ルシュド)がいます。
 特にアヴェロエスの出身であるコルドバはイスラム圏でのアリストテレス研究の一大中心地で、11世紀末に十字軍遠征が始まると、アリストテレス哲学がコルドバからイタリア周辺へ輸入されます。アラビア語訳、ギリシャ語原文が輸入され、それがラテン語訳されて、アリストテレス哲学の研究が再開されました。これがやがてキリスト教教義の再編へとつながります。

トマス・アクィナスによる教義再編

 アリストテレス哲学の研究は12世紀に教会や修道院附属の学校(schola(スコラ))で始まったため、これらを称して「スコラ哲学」と呼びます。スコラ哲学はアリストテレス哲学によるキリスト教教義再編を目指すものですが、その新しい教義体系を組織したのが、トマス・アクィナスです。
 1225年、トマス・アクィナスはナポリ王国内の貴族の末子として生まれ、5歳で付近の修道院へ送られます。その後、修道院が皇帝軍に占領されたのでナポリ大学へ移り、ドミニコ会の修道院へ入ります。当時ドミニコ会は教会改革運動の一翼を担っていました。
 トマス・アクィナスはアリストテレス学者アルベルトゥス・マグヌスに支持するためパリに赴き、のちにパリ大学の教授になります。その後はイタリアを遍歴したりまたパリ大学に戻ったりとしていますが、最終的にはイタリアに落ち着きます。1250年パリで『神学大全』の執筆が開始されますが未完に終わります。最後は1274年に病死します。第二リヨン公会議を目前に控えた死でした。
 トマス・アクィナスが整備した教義体系はどのようなものだったのでしょうか。

神の国と地の国、恩寵の秩序と自然の秩序、教会と国家とが、アウグスティヌスにあってのように絶対の非連続の関係にあるものとしてではなく、もっと連続的なものとして捉えられ、ローマ・カトリック教会が国家なり世俗の政治なりに介入し、それを指導したとしても当然だということになります。

 ローマ・カトリック教会では当時西洋世界で勃興する数々の封建制国家との関係に苦慮していましたが、聖俗の連続性を唱えた「トマス主義的教義体系は、実に有利な解決」をもたらしました。しかし、世俗政治に介入していった教会や聖職者たちは瞬く間に腐敗堕落していったのです。
 この状況が、やがて16世紀の宗教改革へとつながります。

キリスト教教義交代劇の変遷

 ここで、西洋世界の世界事情と照らし合わせながら、教義交代の変遷を整理します。
 4世紀後半から6世紀にかけてゲルマン民族の大移動が起こります。これにより西ローマ帝国は崩壊、古代ギリシャ・ローマ文化が姿を消してしばらく暗黒時代が続きます。
 この間、唯一西洋世界を網羅していた組織がローマ・カトリック教会の境界網でした。そのため、教会は土地をめぐる抗争などにも介入せざるを得なくなり、教会と世俗の距離が縮まります。
 やがて800年にフランク王国カール大帝がローマ教皇の手によって戴冠され、神聖ローマ帝国皇帝としてフランス、ドイツ、イタリアにあたる地域を含む大フランク王国が誕生します。この流れを背景に、教会の勢力はさらに現実的な様相を呈します。こうして必要になったのが、アリストテレス―トマス主義による教義体系でした。
 しかし、14世紀ごろから再び、プラトン―アウグスティヌス主義をもとにした、教会と世俗の分離を図る動きが起こります。15世紀にはフィレンツェのプラトン・アカデミーによって組織的に推進され、やがて16世紀のルターやカルヴァンの宗教改革運動へと発展します。
 そして、17世紀に近代哲学の起点となるデカルトが現れます。

デカルトの言う「理性」とはなにか

 第一章の「哲学についての誤解」あたりで、デカルトの言う「理性」と通常私たちが考える理性は異なる、という話がありました。筆者はそもそも、デカルトが自覚した「理性」「近代的自我」とは「神性を克服した一個人としての意識」ではないと指摘します。どういうことなのでしょうか。
 筆者はデカルト『方法序説』を引いて次のように言います。

デカルトは、この本の本文の冒頭、つまり第一部の冒頭でこう言います。「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」。この「良識(ポン・サンス)」は数行後に、「正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識(ポン・サンス)とか理性(レゾン)とか呼ばれているものだ」と解説され、さらに「自然の光(リュミエール・ナチュレル)」と言いかえられています。そして、この「自然の光(ルーメン・ナトウラーレ)」は『哲学原理』(Ⅰ30)で「神からわれわれに与えられた認識能力」と定義されています。

 つまり、デカルトは「理性」とは人間の自然的な能力ではなく、神から与えられた神の能力の一部である、と言います。

だからこそ、そこには個人差はなく「公平に分け与えられていて」、これを正しく使いさえすれば普遍的な認識ができるのであり、のみならず、(……)世界の奥の奥の存在構造を捉えることもできるはずです。

 このように、デカルトの想定した「理性」は、イデア、純粋形相、神などの超自然的原理の一端であり、それを遡ることによってイデア、純粋形相、神へと到達できると考えたものでした。

ガリレオの功績 「自然」は「質」から「量」へ

 では、デカルトはなぜこのような「理性」を設定したのでしょうか。それは、ガリレオが確立した数学的自然科学の方法に関係があります。
 14世紀はルネサンスの時代ですが、そこで隆盛した科学や思想の自然観は「自然を生きたものと見る有機体論的なもの」でした。それはスコラ哲学の「すべての存在者に「実体形相」という一種の生命的原理を認め」、「質は自然の実質的な構成分であり、自然は量的にではなく質的なもの」と考えられました。これを質的自然観と呼びますが、正直理解できていません。またわかったふりをして先に進みます。
 この潮流からはずれる場所にいたのがガリレオです。
 コペルニクス、ケプラーに続き地動説を唱えるガリレオですが、その根底には自然を量的・機械論的に見る考えがありました。この考えですが、本文には質的自然観と対比して出されているのですが、質的自然観がよくわからないので結局ここでもピンときません。
 ガリレオはレオナルド・ダ・ヴィンチの「経験の重要性」を認め「その経験的認識の結果に数学的表現を与える」という姿勢を受け継ぎます。ガリレオの根本思想は、「「自然という書物は数学的記号で書かれている」のだから、それを読み解くことが自然研究の目的」というところにあったのです。

彼は、一方では感覚的経験を重視しながらも、他方では思考によってそこに数学的に表現可能な量的関係を求めることの重要性を強調します。

 また、ガリレオは実験の重要性を「感覚的経験の所与のうちから量的に規定可能な単純な要素を切り取ってくる」ことを可能にすることだと考えていました。

ガリレオは、自然界を織りなすこうした単純な要素を分析的に取り出してくることを「分析的方法」と呼びます。次にこうして得られた要素を数学的計算によって相互に結合し、その結果をふたたび実験によって確かめる必要がありますが、この手続きを彼は「総合的方法」と呼んでいます。

 自然の量的関係を捉え、数学的に表現するという方法によって、ガリレオは近代の数学的自然科学の方法論的基礎を確立しました。

分離する観念 自然と数学を接続するために

 しかし、ガリレオの数学的自然科学の方法論には課題が残りました。それは、自然という感覚として捉えられるものに、数学という感覚では捉えられないものが何故掛け合わせられるのか、というものでした。
 当時の人にとって、自然は「感覚的経験によってわれわれに与えられる、われわれの外部にあるもの」であり、つまり経験的観念と考えられているものです。
 対して、数学的諸観念は「感覚的経験に与えられ」るものではありません。例えば「2や3といった数の観念に対応する対象」や、真の正三角形といったものは現実には存在せず、よって感覚的経験に与えられることはないのです。
 しかし、全ての人の精神のうちには確かに数学的諸観念は存在し、それによって常に数学的認識を行うことができます。つまり、この観念は生まれながらにして神が全ての精神に等しく植えつけた「生得的観念」だと、当時は考えられました。
 そうすると、「われわれの外部にあって感覚的経験によって与えられる自然の研究に、そうした感覚的経験とまったく無関係にわれわれの精神にそなわっている数学的諸観念が適用されうるということは、けっしてあたりまえのことでは」ありませんでした。
 この問題解決のために、数学的自然科学の存在論的基礎づけが必要となったのです。この方法を「自然研究一般に適用できる普遍的方法」だと証明しなければいけません。
 この証明に取り組んだのがデカルトだったのです。
                           (後編へ続く)

感想 知的現代人の精神性として

 今回はギリシャ哲学とキリスト教の結びつき、デカルト登場の前日譚まで整理しました。トマス・アクィナスなんて世界史の勉強ではさらっと流しましたし、宗教改革をキリスト教教義体系の交代と見るのは新鮮でした。歴史とは角度が違えばがらっと変わりますね。
 記事にはさもわかっているかのように「ガリレオの数学的自然科学の方法論には課題が残りました」なんて書きましたが、私には当時の人がガリレオの手法に何故疑念を抱くのかのほうが謎でした。それくらい現代では実験やその再現が当然の手続きになっています。
 歴史を学ぶと目の前の「当然」が途端に分解されて、「これはこういう考えや経緯があったのだ」ということを知れます。そして、「当然」の上でふんぞり返っている自分は餌を与えられる鯉のように口を開閉しているようなものなのだなという滑稽さも、知れます。
 方法、習慣、伝統、あらゆる現象は厚みを持っているのでしょう。そこを調べずにする賛同や非難といった批判行為は、後々でまるで滑稽だったと笑わなければなりません。
 各々事情もあるでしょう。ですからそういう批判行為の是非はともかくとして、しかしまあ、それに前後して現象の厚みの部分を自分なりに調べるくらいは、知的現代人の精神性として必須だと考えたいところです。
 次回はデカルトの半生をまとめ、デカルトがいかにして数学的自然科学の存在論的基礎を作ったのかを整理します。

 読んでいただきありがとうございました。

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