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掌編・狐の女房

 村一番の猟師である彦兵衛が今日、山から帰ってきてこんな話をした。彦兵衛は三十も終わりに近づいたが屈強で恐れを知らぬ大胆な山の男だ。その上語りも中々にうまかった。以下は彦兵衛の語りである。

 獲物を探しているうちに山奥へと入ってしまった。すると少し向こうに遥かに大きな岩があって、その上で一人の女が長い黒髪を梳いているのが確かに見えた。その顔がいやに白い。これは妖しいと思ったが、女一人に怖気づいては恥だ。俺はすぐに鉄砲に弾を込めて女を撃った。
 女は倒れた。俺はすぐさま駆けて、岩によじ登った。そこには確かに女が倒れていた。縞物を着た背の高い女だったが、その髪がまた信じられないほど長く、俺の身の丈も越えるんじゃないかというほどだった。俺は証拠に女の髪を少しだけ切り取って輪っかに結んで懐に入れた。
 そして今日はこれまでと思い、山を下りた。
 ところが、もうすぐ山を出るといったところで途端に眠たくなった。どれほど気張ろうとも自然とまぶたが落ちてしまう。どうしようもなく眠い。仕方がないから木の根元に寄りかかって一眠りすることにした。
 すると、夢か現か、男が一人現れて俺に近づいてくる。これも妖しいと思ったが、体が動かない。そのうち男が屈んで、俺の胸元から女の髪を抜き取ってしまった。男がどこかに姿を消すと目が覚めた。確かめると本当に髪がない。
 もしやあの男は山男で、女はその妻だったのやもしれぬ。考えてみれば無謀なことをしたものだが、何事もなく山を出たのだからもう心配はあるまい。みなも気をつけるといい。(彦兵衛の自慢話)

そう言うのである。縞物の女か、と私は考えながらうちに帰り、妻にそれを話した。彦兵衛ほどうまくは話せなかったが大筋は分かってくれたようだった。
「彦兵衛さんは大丈夫だったのですか?」
「何ともなさそうだったよ」
「そうですか。不思議なことに遭うとうなされてしまうと言いますから、どうか大事にしてほしいですね」
 そう彦兵衛をひとしきり心配して、妻はもうこの話に触れようとはしなかった。二人の息子は興味を示したが、妻にあやされて聞くに聞けぬようだった。私もそれ以上続けようとも思わなかった。
 これには訳がある。

 今日より三日ほど前、私もその女に遭っている。その女も髪が長く、縞物を着ていた。
 私は山の笹原に入って笹を刈っていた。今がちょうど刈り時なのだ。ちょうどよい大きさの束になったので担いで帰ろうとしたとき、すう、と不思議な風が笹原を撫でた。辺りを見回すと笹原の向こうの林から女がこちらにやってくるのだ。彦兵衛が言っていた女だ。私は恐ろしくて恐ろしくてたまらず、その場に腰を抜かしてしまった。
 女は私のところまで来ると屈み気味になって私の背負う笹を指して「少し分けていただけませんか」と言った。私は恐ろしさに身を縛られていたが、やっとの思いで声を出して言った。
「分けるとは、笹か?」
「そうです」
「どれほど」
「二掴みほどあれば足りるでしょう」
「いいだろう、二掴み持っていけ」
 私は震える手で笹の束を下ろして女のほうにやった。女はその中から二掴みの笹を抜き取るとまた林の奥に消えてしまった。(私の遭った怪事)

 私は這々の体でうちに帰り、すぐに妻にそれを話した。すると今度は妻が真っ青になって取り乱しだした。大丈夫ですか大丈夫ですか、お体は、お気は、何ともありませんか。ああ、二掴みなど言ってはならなかった、言ってはならなかったのに。そんなことばかり言うので私は寧ろすっかり落ち着いて、大丈夫だから気を確かにしなさい、と逆に妻をなだめてしまった。
 そんなことで、妻は縞物の髪の長い女の話を嫌うのだ。

 彦兵衛の事から幾日か経った晩のこと。私は起きて厠に立った。厠の小窓からは見事な満月が夜空に身を置いている様が見て取れた。
 厠から出て母屋へと向かう。空気は肌寒い。少しばかり身を震わせると、すう、と不思議な暖かな風が吹いた。風上を見ると竹垣の向こうに縞物の髪の長い女が、妻と瓜二つの顔で立っていた。私が立ち止まって女に向き直ると、女は深々と礼をした。
 戸惑いこそあったが、今度は以前ほど恐ろしくなかった。
「お久しぶりでございます。お元気でしょうか」
「元気だ」
 私はわずかに躊躇って問い返した。
「さちは元気か?」
「はい、おかげさまで」
「いま何処にいる」
「宮背戸の主様にお仕えしております」
「よくしてもらっているか?」
「ええ、とても」
 さちは私の妻だ。毎晩私の隣で眠っているのもさちで、今目の前にいて彦兵衛や私を驚かせたのもさちだ。目の前のさちは数年前に私が追い出したさちだった。

 二年前のある晩、私が厠から戻るとさちが二人いた。片方は化け物に違いないのでわずかに怪しかった方を追い出したが、そちらが本物のさちだったのだ。私はしばらくしてそのことに気がついた。
 しかし、そのときにはもう本物のさちは行方知れず、さらに妻が上の子を身籠っていた。とても言い出せるような状況ではなく、私はそのままに何にも気がついていないふりをして過ごしてきた。(かつて私の遭った過ち)

 彦兵衛の話を聞いたとき、もしや近いうちに来るかもしれない、と思っていた。さちがどこかに出かけるときは丹念に髪の手入れをするのだ。妻もしっかりとその真似をしている。
「美しくなったな。彦兵衛に撃たれたと聞いたが大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です」
 淡々と答える様を見て、さちはすっかり山の者になってしまったのだと思った。そして、今の妻もすっかり里の者になろうとしている。
 私はさちのほうに一歩踏み出した。するとさちが一歩引いて、横に首を振った。
「なりません。わたしは主様のものです。これ以上は近づくことも、ましてや触れることも許されません」
「あのときは触れるほど近かったのに」
「あれは仕方なかったのです」
 さちはわざとらしく腹のあたりをさすった。
 そうか、と私は袖の内で握る拳の力を強くした。
「彦兵衛はどうなる?」
「主様のお怒りに触れるでしょう」
 私はやるせなく押し黙った。さちも申し訳なさそうに口を開かなかった。空に雲が流れた。

 かすかに時間が流れていた。母屋のほうから私を呼ぶ妻の声が聞こえた。
「あなたさま、あなたさま……」
 不安で消え入りそうな声だった。(私の心の裡)

「行かねば」
 さちは小さく頷いた。
「さち、本当にすまぬことをしたが……」
「もう過ぎたことにございます」
 さちはきっぱりと言い放った。そして、ふと思いついたように私に問いかけた。
「あの人のことはなんと呼んでいるのですか?」
「あの人……」
「ええ、今あなた様を呼んでいる」
「おまえ、としか……」
 すると、ふっと、見えるはずもないのにさちの口元が緩んだ気がした。
「ならば是非とも、さち、とお呼びさしあげてくださいまし」
 さちは微笑むとまた深々と礼をし、忽然と姿を消した。
 私はさちの立っていた場所まで駆け近づいた。当然、さちの姿は何処にもなかったが、地面には木の皮の包みが落ちている。

 拾い上げると中には二着の子供着が包まれている。
 きっと笹の葉を編み込んだのだろうと思った。(さちのおくり物)

「今行くぞ、さち」
 私はそう声をかけて母屋に戻った。


 本作品は昔話をモチーフにした作品を書くという方針のもと、柳田国男『遠野物語』から二篇、同『日本の昔話』より一篇を下地にして制作したものです。うち「狐女房」についてはほかで記事を書きました。よろしければご覧ください。
 また、画像はみんなのフォトギャラリーより、ありんこ|瀬戸内在住様『涼を求める人々』をお借りしました。この場でお礼申し上げます。
                            (あとがき)
 読んでいただきありがとうございました。