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私は「〈アタリマエ〉教研究家」です

私は、〈アタリマエ〉教に苦しむ人を救いたい、と考えている人間です。
私は、子どもの頃から、〈アタリマエ〉教に苦しんできたため、〈アタリマエ〉教についてずっと思索し続けてきました(「〈アタリマエ〉教研究家」と名乗っているのは、そのためです)。
私は、この『note』という場をお借りして、これまでの思索の成果を発表していきます。

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日本社会は、「ヨノナカの『~(す)べき』『~(し)なければならない』を、絶対のものとして信じて疑わない」という価値観が根強い社会です。
「〈アタリマエ〉教」という言葉は、人々が「ヨノナカの『~(す)べき』『~(し)なければならない』」=〈アタリマエ〉を、「絶対のものとして信じている」(=宗教・信仰)状態を指すものとして、私が考え出した言葉です。
簡単に言えば、日本社会はセケンテイに縛られている社会だ、ということです。
あえて「〈アタリマエ〉教」というヘンテコな言葉を使う理由は、人々が無意識のうちに「セケンテイを気にする」という行動基準に従っている様子に対して、私自身が強い違和感を抱いていることを強調したいからです。

「ヨノナカの『~(す)べき』『~(し)なければならない』を、絶対のものとして信じて疑わない」という、〈アタリマエ〉教
これは、日本社会で生まれ育ち、〈アタリマエ〉から逸脱したことのない人にとっては、当然の考え方でしょうし、わざわざ意識化することさえないことでしょう。
しかし、子どもの頃から〈アタリマエ〉から外れることが多かった私にとっては、「〈アタリマエ〉に従え!」という無言の同調圧力は、恐怖でしかありませんでした。
自分の存在理由が、〈アタリマエ〉によってことごとく否定されてきたからです。

たとえば、小学校時代の私は、「ディズニーランドに行ったことがあるのがアタリマエ」という児童間の〈アタリマエ〉に苦しみました。
私の家庭は、両親とも「生きづらさ」を抱え、自分自身が生きることに手一杯でしたので、とても私を家族旅行に連れて行くことができる状況ではありませんでした。
ですが、周囲の同級生たちは、「この前ディズニーランドに行ってきたぜ!」「行ったことのないヤツなんて、いるの?」などと話していました。
そんな会話に、自分から入っていくことなど、できません。
下手に会話に加われば、「お前、ディズニーランドに行ったことないの?マジで?だっせーの!」と言われるのは明らかですから。
自分の責任ではないのに、〈アタリマエ〉から逸脱していることをバカにされる。
私は強い自己否定に苦しみました。

〈アタリマエ〉に従うことによって、「お前は生きていてもよい」と認められる。
〈アタリマエ〉から逸脱してしまうと、〈アタリマエ〉に従う人たちから攻撃される。
このような〈アタリマエ〉教社会で生きづらさを感じている人に、私は言いたいのです。

〈アタリマエ〉というモノサシ、使うのをやめてみてはどうですか?

ありのままのあなたを認めてくれる人が現れますように!

そして、あなたがありのままのあなたを認め、受け入れることができますように!

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