【鬼滅の刃×仏教①】鬼の持つ、満たされない思いとは…。
コロナの第3波が来ていますが、無事に冬休みが明け、子どもたちが元気に登校しています。
何気ない日常が感謝であると、改めて感じます。
そして、共通テストまであと1週間を切りました、、、!
今年は受験生にとって本当に大変な1年だったと思います。
一斉休校に始まり、共通テストの直前もコロナの状況から、どんな形で実施するかに戸惑わされた方も多いのではないでしょうか。
無事に受験が終わり、自分の中でのベストスコアを出せるように心から応援しています。
さて、今回の記事は【鬼滅の刃×仏教】です。
仏教は、日本人にとってなじみが深く、
生徒も、キリスト教やイスラム教よりは身近に感じて、興味を示してくれています。
どんな関わりがあるのか。
鬼滅の刃を深掘りし、仏教の教えを紐解いていきたいと思います(^^)
下弦の伍 累の最後。
那田蜘蛛山編で現れた鬼、累。
彼は最後、人間の頃の記憶を思い出して消えていきます。
そのストーリーが感動的で、魅了される読者が多い名場面です。
以下、漫画からそのコマを転載します。
(転載元:漫画『鬼滅の刃』5巻 第43話 地獄へ)
累は執拗に家族という絆を求め、ほかの鬼に半ば家族としての関係を強制していました。
その根底には、人間時代に満たされなかった親からの愛情が原因であったことが分かります。
といっても、累の両親は累を愛情を持って接していました。
その愛情に気づくことが出来なかったことが、累を鬼として目覚めさせてしまったのでした。
この場面、私もすごく感動しました。
累への見方が180度変わったからです。
前:無慈悲で残酷な鬼だな、嫌なやつだな…。
後:なんて可哀そうな鬼なんだ…泣。
こんな感じです(笑)。
行動だけを見るのではなくて、
その人の背後の事情を知ることは大切だなと気づかされた場面でもありました。
累の持っていた「苦しみ」
実は累が持っていた「満たされない思い」というのは、仏教でいう「渇愛」という言葉に当たります。
渇愛とは、「あらゆる欲望の根底にある満たされない思いのこと」です。
愛が渇く、と書きますが、
のどが渇いた経験、1度はあるのではないでしょうか。
本当に水が欲しくてたまらないですよね、、。
イメージ、下の砂漠の中のオアシスのような感じです。
そんな状態のように、自分の欲望が満たされないことを指します。
今回の累、であれば、
「本当は親から愛されたかった。。大事にしてもらいたかった。。
だけど親を殺して縁を切ってしまった。どうしようもない。」という思いが当てはまると思います。
最後、首を切られて炭治郎と禰豆子に手を伸ばそうと歩いていた場面。
まさに欲しいものがあるのに手が届かないもどかしさを表していたと感じました。
このシーンは、見ていてたまらなく寂しいな…と感じましたね、、。
(ちなみに、渇愛から生まれる、この「求めても得られない苦しみ」というのは、仏教の開祖ブッダが言う「四苦八苦」のうちの求不得苦という苦しみにあたります。)
仏教は基本的に、「なぜ苦しさが生まれるのか」を分析して説いたものです。
客観的に「苦しみ」をとらえ、感情ではなく理性で説明するところが面白いところだと思っています(^_^)
どう克服するか…。~次回予告~
生きていると、どうしても自分の思い通りにいかないときがありますよね?
なんでこうなるんだ、、と。
私は、、、
試験に不合格になったり、人事に対してだったり、、、
部活でなかなか休めなくてきつかったり、、、
いろいろあります(^_^;)
大抵の人はそこで何かしらの方法で発散します。※私もです(苦笑)
でも根本的には何も変わりません。。。
そこを冷静に見つめ、分析し、解決するのが仏教です。
次回、累がどんなふうに「満たされない思い」を超えていったか。
仏教の視点で見つめてみたいと思います(^_^)/。
教育のこと、授業をしている倫理や政治経済のこと、熊本の良いところ…。 記事の幅が多岐に渡りますが、それはシンプルに「多くの人の人生を豊かにしたい!」という想いから!。参考となる記事になるようコツコツ書いていきます(^^)/