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諸国漫遊記 #03 秋田県

夏の秋田


私が初めて秋田県を訪れたのは、1987(昭和62)年の8月だった。
会社の野球部が秋田で開催される北海道・東北六県対抗戦に参加する遠征であった。
その年の4月に新卒で就職し、この間、平日は他の社員よりも1時間就業時間を繰り上げて練習し、土日祝日もすべて野球の練習または試合にあてられ、OBや先輩からは、この大会を制して悲願の全国大会へと発破をかけられ、会社の上司や同僚からは「野球やってればいいんだから楽だよな。」と陰口を叩かれながら、この大会が終われば、今シーズンが終わるんだと早く楽になりたいと過ごした日々の集大成が秋田という場所であった。
空港からバスで秋田市内に向かう車窓の青い空に水田の稲穂が揺れる風景はまだ夏の景色であった。

秋田の夜


到着した夜は大会本部で主将会議があり組み合わせ抽選、各種運営関係の伝達が行われ、その後、参加者全員が一堂に会するレセプションが行われた。
我々の初戦の相手は、秋田県と決まった。
当時、1980年代に入り、高校野球の甲子園に進出する秋田県代表は、秋田経法大附属高校(現 ノースアジア大学明桜高等学校)が出場回数が多く、のちにソフトバンクホークスで活躍した摂津投手を輩出したりと全国に名を馳せていた。
レセプションで各県代表メンバーのプロフィール資料が配布されたが、対戦相手の秋田県チームのメンバーの大半が、この秋田経法大附属出身者であった。
我々のメンバーにも甲子園経験者、大学での神宮経験者や全国大会経験者はいるものの、目の当たりにした彼らは真っ黒に日焼けし、金色のネックレスを首にかけたり、パンチパーマであったりとあたかもプロ野球選手がセカンドバックを小脇に銀座にでかけているような風情の方ばかりであった。

昔のプロ野球選手のイメージ

そんな相手に圧倒され、また折からの秋田県は8月下旬にもかかわらず高い気温の毎日が続いていたようで我々は湿度と暑さに参りながら、レセプション会場を後にした。
随行していたOBが「秋田に来たんだから、名物をこいつらに食わせよう。」と言い出し、二次会と称して、少し立派な割烹料理店に我々を引き連れて入店した。
座敷に座り、諸先輩の長い演説を拝聴し、襖が開いて中居さんが用意してくれたのは、真夏のしょっつる鍋であった。冷房が効いているはずの部屋でぐつぐつと煮えた鍋を「さあ食え、どんどん食え」と言われても、汗が滝のように流れ、目はかすみ、先輩たちは静かに箸を起き始め、我々新人数名が最後まで鍋を堪能することとなった。

しょっつる鍋

鍋と一緒に供されたジュンサイの涼やかな佇まいと爽やかな喉越しが一瞬の涼を与えてくれたことを今でも忘れない。

秋田の音


文字通り地獄の夜を超え、いよいよ翌日の試合当日を迎えた。
試合会場は、秋田市八橋運動公園硬式野球場で我々の大会の翌週にはプロ野球の試合が開催されるようでポスターがたくさん貼られていたのを記憶している。
新人の私は、ベンチスタートであり、今のようにサングラスを着用することは許されない中、真夏のような日差しに照らされ、白く輝くグラウンドをベンチから見ていた。
試合は接戦ながら、秋田優勢の中で進み、3対1の劣勢で終盤に突入していた。
この点差なら新人の起用はなかろうと鷹をくくり、ベンチ裏に抜け出して煙草でも吸おうかと通路に向かっていた時に、その音が聞こえた。
「バキッ!」
何事かとグランドに目をやると我がチームの攻撃中、2番バッターが長打を放ち、2塁から3塁へと進み、3塁に滑り込んだ時にその音がしたのであった。
3塁ベースに近づき過ぎてからスライディングをしたため、足がベースと体に挟まれる形で大腿骨が折れた音であった。
その後、グラウンドに救急車が入り、負傷した選手は病院へ搬送された。
ぼんやりとそんな光景を眺めていたら「何している!アップしろ!すぐに出ろ」とコーチにどやされ、代走として試合に参加、その後、守備についてと私の対抗戦デビューが思わぬ形で果たされた。
試合は劣勢のまま終了し、その大会の優勝は秋田県であった。
私の小中高大社会人20年以上の野球経験の中で最大の怪我を見たのはこの時であの音は今でも耳に残っている。


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