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ジョン・W・ダワー著 猿谷要監修 斎藤元一訳 『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』 平凡社ライブラリー

何年か前に書店に置いてある岩波の新刊案内で本書の著者の作品『敗北を抱きしめて』を目にして、ずっと気になっていた。何事も巡り合わせというものがあって、これまで読む機会がなかった。先日、何かの弾みで、本書と『敗北を抱きしめて』を買った。まずは短い方から読了した。

本書は読み物としては冗長な印象が拭えないが、前半は惹きつけられるようにして読み通すことができた。本書の第一章は「人種戦争のパターン」という題で、その第一節は「第二次世界大戦が意味するもの」である。その中にこうある。

戦争に参加した何千万という人々にとっては、大戦は人種戦争であった。剥き出しの偏見をさらけ出し、それぞれの人種的プライド、傲り、怒りによってさらに激しさを増した戦いであった。結局それは、世界中に人種に関する認識上の革命をもたらし、それが現在まで引き継がれている。第二次世界大戦は様々のレベルと別々の場所で起こった多数の戦争を含むため、それを一言で言い表すことは不可能である。したがって人種戦争という言い方も、多岐にわたる局面の一つを表すものにしかすぎない。それでも、それはいままでほとんど組織的検討が加えられることのなかった重要な一面である。

33-34頁

戦争は外交の一形態だ。国家という単位での自他の認識の下、他者に対する交渉の一形態、しかもほぼ最終手段としての武力行使だ。当然、武力行使が一方的なものに終わるはずはないわけで、目的となるのは相手の殲滅ということになる。ここでの「相手」が何者なのか、ということが一つの問題だ。たいていは個々の交渉相手国にとどまることはなく、さまざまにさまざまなことと関連している。

本書では太平洋戦争における米国の対日戦の「人種戦争」という側面に着目している。内容に違和感はないのだが、「人種差別」という副題を付けて改めてこんなふうに書かれると少したじろいでしまう。自分もちょうど昭和天皇の崩御の前後、日本経済がバブルに躍り良くも悪くも世界中の注目を集めていた時期に、イギリスの大学院に在籍していたり、その後は外資系企業を転々として、いわゆる「人種」というものについての彼我の意識とその変遷を実感しているつもりである。そうした実感を踏まえて、「ま、そうだろうな」とは思うのであるが、人種という側面だけを取り出して論じられてしまうと「そうかなぁ」とも思うのである。

太平洋戦争と1960年代後半以降の日米貿易摩擦との関連を論じているところも興味深くはあるのだが、人種というのは関係性を構成する複合的要素の一部でしかないことがもっと強調されて然るべきだと思う。人が社会的動物であって、自他の別の中を生き、その時々の価値判断というものがある限り、偏見や対立と無縁でいるわけにはいかない。だからといって、自他の境界や価値の尺度を過度に単純化すると現実からは遠のいてしまう。戦争ゲームと戦争とは別物だし、人生ゲームと人生も然りだ。

ゲームなら途中で和解ということはないし、決着をつけるからこそゲームでもある。しかし、ルールを変えると同じ道具で別の遊び方もできるし、優勢劣勢を逆転させることもできる。戦争にも人生にもゲーム的な側面は当然ある。しかし、ゲームは現実とは違う、と自分は思うのだが、世相のほうはそうでもないような印象も受ける。物事をわかりやすさだけに頼って単純化することで抜け落ちる諸々の中に看過すべきではないことがたくさん含まれているのではないか。

本書第3章「戦争憎悪と戦争犯罪」の第1節は「日本人がナチスより凶暴とされたのはなぜか」である。

 第二次世界大戦終了直後、ピューリツァー賞を二度受賞したアメリカの歴史家アラン・ネビンスが、「われわれは戦争をどう感じたか」という題のエッセーを発表した。その中で彼は、「われわれの歴史上、おそらく日本人ほど嫌悪された敵はいなかったろう」と述べている。ネビンスはその理由として、日本軍の残虐行為に関する報道および太平洋におけることのほか激しい戦いとともに、かの悪名高い真珠湾攻撃を挙げている。「かつて最も野蛮と考えられたインディアンとの戦い以来忘れられていた感情が、日本軍の凶暴性によって呼びさまされた」と続けている。この二つの戦いを類例として取り上げたことは、もしかするとネビンスが意図した以上に多くのことを、今日のわれわれに語りかけているかも知れない。

79頁

 ヨーロッパにおける戦いとアジア・太平洋における戦いの区別はあまりに単純化されたもので、次の事実をぼやかしている。すなわちドイツ軍は、東部戦線、西部戦線、対ユダヤ人と、複数の別々の戦いに従事していたということ。そして、その最大にして最も組織的な暴挙の対象は、欧米人からも見下され、あるいは無視されがちであった民族であったという事実である。代表的な例としては東欧人、スラブ人、ユダヤ人であり、彼らはみな、アジア人とともに、アメリカの1920年代にさかのぼる厳しい移民制限が、その対象とした人々であった。(略)ユダヤ人大量虐殺の研究者たちは一方、ナチのユダヤ人全滅計画は明らかに1942年11月までに文書となっていたにもかかわらず、これが英米の指導者たちによって一般的に過小評価され、また、ドイツが崩壊し、特派員が実際に死の収容所に足を運び入れるまで、英語圏のマスコミにはまったく取り上げられなかったことを明らかにしている。日本人の残虐行為については大きく報道していた新聞、雑誌が、ユダヤ人大量虐殺についてはほとんど触れなかったのである。米軍向けにフランク・キャプラがつくった「なぜ戦うのか」シリーズでは、大量虐殺に言及することさえなかった。

82-83頁

「なぜ戦うのか」シリーズというのは、米国陸軍の要請によりフランク・キャプラが制作した兵隊向けのプロパガンダ映画のことである。ちなみに、このシリーズの第一作『戦争への序曲』はフランクリン・ローズベルト大統領の指示で一般公開され、1942年の最優秀ドキュメンタリー作品としてアカデミー賞を受賞している。

この章では以下の節が続く。
真珠湾攻撃の衝撃(84-86頁)
無差別爆撃への非難(86-90頁)
連合軍による無差別爆撃(90-92頁)
日本軍がまき散らした死と憎悪(92-95頁)
自国民にまで及んだ殺戮(95-100頁)
強制労働への動員(100-104頁)
捕虜の虐待(104-111頁)
そして「日本人絶滅政策」(111-117頁)に続く。

自分は戦争というものを経験していないので現場の実感を想像することができないのだが、些細なことで激しい憎悪の感情をあからさまに表明する昨今のネット世論を見聞きすることから類推するに、敵国丸ごと絶滅するべしとの政策が現れることに不思議はない。1990年代の旧ユーゴスラビアでの内戦でも特定の民族の殲滅を目的とした「ethnic cleansing(民族浄化)」と呼ばれる虐殺行為が報道されている。

さて、その「日本人絶滅政策」だが、日本の主要都市にあまねく無差別爆撃を実施した上で、原爆を2発使用、その効果が認識された上でさらに複数の原爆使用が準備されていたとみられることからも、そうした政策の存在は明白だ。本書では本節は以下のような書き出しになっている。

 その頃までには、日本側の多大な人的損失をものともしない強硬姿勢により、連合国の中には、日本は絶滅に値するばかりでなく絶滅させなければならないのだという見方も強まっていた。米軍兵士の中にも、ガダルカナルでの戦闘以降、日本人は一人残らず殺すべきだという考え方が台頭しはじめた。このガダルカナルでの戦闘は1942年8月の小ぜり合いに始まり、翌年2月まで延々と続いた。その間に2万4000人の日本人が命を失ったと見られている。アメリカ政府がドゥーリットルの飛行士の運命について公式発表した1ヶ月後の43年5月、欧米の人々はさらにアリューシャン列島アッツ島における、いわゆるバンザイ突撃の事実を知る。ここにおいては、日本兵はほぼ全員が降伏よりも死を選んだのである。そして戦争末期になると同様の報道が次々となされ、あのセンセーショナルな神風特別攻撃隊で頂点に達する。

111-112頁

戦争というものは結局のところは殺戮合戦なのだから、長期化すれば敵に対する憎悪が激しさを増すのは自然なことだろう。本書ではさらに以下のように続く。

終戦の年になると、アメリカの戦闘員の4人に1人が、主要目的は日本を降伏させることではなく、できるだけ多くの日本人を殺すことにあると述べるようになる。これはまったく果てしない殺戮の構図であった。すなわち、劣勢の日本軍は兵士の投降を禁じ、優勢の連合軍は捕虜をとろうとはせず、日本人皆殺しの考えに取り憑かれていたのである。(略)
 戦場の男たちが敵の絶滅という考えに取り憑かれるのは理解できる。しかし日本人という敵に関しては、それが戦場からはるか離れた多くの男女にまで及び、単に敵の軍隊のみならず日本の民族、文化全体をも巻き込んでいったのである。こうした純然たる大量殺戮の姿勢がどこまで浸透していたか、はっきり断言することは難しい。というのは、いずれの側においても、殺人が最も手っとり早い方法と考える者が常に多数いたからである。アメリカの世論調査によれば、国民の10〜13パーセントは一貫して日本人の「絶滅」あるいは「根絶」を支持しており、同様の割合で日本敗戦後の厳しい懲罰を支持している。よく引用される44年12月の調査では、「戦争が終わったら、日本に対してどういう処置をとるべきだと思うか」という問いに対し、13パーセントの回答者が、「日本人の全員殺害」を希望し、33パーセントが国家としての日本の崩壊を支持している。目的は単なる勝利ではなく殺すことにあると述べた兵士たち同様、戦争が終わり日本が平和的国家再建を目指しはじめたあとでさえ、驚くべき数のアメリカ人が、日本が原爆投下後あまりにもあっけなく降伏してしまったことを残念がっている。45年12月「フォーチュン」誌が行った世論調査によれば、回答者の22.7パーセントが「日本が降伏する前に、もっと原爆を」使う機会があればよかったと考えていた。

113-114頁

私がイギリスの或る大学院に修士課程の学生として在籍していたのは1988年9月から1990年7月にかけてである。この時期、日本はいわゆるバブル経済に躍り、我世の春を謳歌しているかのような様相であった。当然、欧米からは不公正な貿易慣習や商慣習を指摘する声があがっており、あたかも何か不正があって国際競争を勝ち抜いているかのような印象を持たれていた。普段の付き合いではそれほどでもなかったが、クラスでの討論では日本の「特殊性」とか「不公正」が話題になることも少なくなく、そうした場合に「あの時あと数発原爆を落としておくべきだった」というような発言も実際にあった。しかし、日本と同じように急速な復興を遂げて国際競争力を増していた西ドイツについては、そうした悪意のある取り上げられ方をすることは無かったように思う。そして、日本にだけ悪意のようなものを向けられることを、なぜか私は不思議だとは感じなかった。今、こうして当時のことを書いていて、なぜ不思議だと感じなかったのか、不思議に思うのである。

本書では、敗戦国である日本と西ドイツとの連合国側の見方の違いについて、以下のように書いている。

敵として一方は「ナチス」、他方は「ジャップ」とすることは、重大な意味をもっていた。というのは「良きドイツ人」を認識する余地は残されていたが、「良き日本人」の余地はほとんどなかったからである。

155頁

 このレベルの反日感情の著しい特徴は、非人間的またはヒトより下等という表現を取り入れていたことだった。そのさい日本人は、動物、爬虫類、虫けら(猿、ゴリラ、犬、ネズミ、ヘビ、ゴキブリ、害虫 — やや間接的に「牛の群れ」等)と見なされた。こうした隠喩はたいへん変化に富んでいたため、ときには出まかせで独創的なようにも見えた。だが日常会話の慣用句として型にはめられ、最終的にはきわめて重大な役割を果たしたのである。最も単純なレベルでは、日本人から人間性を奪い「われわれ」と「彼ら」との間のミゾを拡大し、とても乗り越えられるものではないと思わせた。パイルが味も素っ気もなく述べたように、ヨーロッパでの敵は「まだしも人間だった」。けれども日本人はそうではなかった。彼らに対しては普通「人間」であれば使われる用語さえ使われなかったという意味では、たいていの場合、人間扱いされなかったのである。

160-161頁

つまり、だから一部の州に在住していた日系アメリカ人は戦時中、強制収容所に移住させられたのである。ドイツ系やイタリア系の人々はそのような目には遭わなかったにもかかわらず。本書では特定の対象を人間以外のものと見做す心情について興味深い事例を挙げている。

 知恵、技術、美徳、人間性などにおいて、これらの人々は大人と子供、男性と女性の対比のように(英米人に)劣っている。すなわち両者の間には、凶暴と忍耐、暴力と温和、ほとんど猿と人間のように大きな相違がある、と私は言いたい。

 これらの野蛮人は、まんざら気違いでもないが、当たらずとも遠からずといったところである…。彼らは、気違いはおろか野生の獣や動物同様、自制する能力がないか、もはや自制することができない…。(彼らの愚かさ加減は)他の国々の子供や気違いをはるかに上回る。

 この文章は、実は16世紀初めにスペイン人が、新世界のすべてのインディオに対する蹂躙を正当化するために書いたものである。そして最初の引用のカッコに入れた「英米人」は、原文では「スペイン人」となっている。われわれは歴史上のもの現代のものを問わず、似たような手品をすることができる—「日本人」を、他の人種や国民とだけでなく、非キリスト教徒、女性、下層階級、犯罪的な分子といったものと差し替えることができる。これは単なる手品師のトリックではない。むしろ何世紀にもわたり、男性優先の西洋のエリート連中がになってきた、他の人々を認識し扱うための基本的なカテゴリーを示している。

267-268頁

要するに、自他の別の基準をどのように設けるかの問題だ。自他の間の差異を超え難いものとすることで、その他者に対して無慈悲でいられるようになる。旨いの不味いの言いながら牛や豚や羊や鶏の肉を食い、生きがいいの悪いの言いながらマグロに舌鼓を打っている和かな食卓に生き物を殺戮した罪悪感を覚える人はあまりいないだろう。

自他の違いの基準を生物的特徴に求めてしまうと、都合の悪いこともある。太平洋戦争においては中国が連合国の側だった。にもかかわらず、当時の米国移民法は「アジア」を一括して認識しており、中国人が特別扱いを受けることはなかった。たまたま中国国内が一枚岩と言える状況にはなく、国共紛争に加え日本の傀儡政権もあって、そうした複雑性を理由に中国系移民排斥政策を継続できた。しかし、このことは人種をネタに地政学上の勢力図を描くことへの限界をも示した。結果的に、太平洋戦争後、アジアの欧米旧植民地は相次いで独立し、人種差別的な施策を表立って実施することが困難な方向に世情が変化していく。欧米内部においても有色人種の置かれた立場は変化した。

本書の原題は"War without Mercy"だが、誰にとって「無慈悲(without mercy)」だったのか、という点についてはいかようにも読み解くことのできる深さがある。本書が考察の対象としているのは太平洋戦争だが、執筆されたのは1986年で、その間に先述の植民地独立、東西冷戦と第三世界の地政学上の位置付けの変化、さらにそうした変化を背景にした旧枢軸国の急速な戦後復興と西側陣営への組み入れ、その他諸々の変化が連鎖的かつ相互作用的に進行した。その1986年の時点では、米ソという超大国の関係を軸にした地政学上の図式を描くことができ、結果として人種という視点の重要性は薄くなったかもしれない。事実、そこからさらに現在に至る約35年の間に、米国では白人ではない大統領が誕生し、英国ではイスラム教徒で非白人のロンドン市長が誕生した。しかし、こうしたことが人種問題がなくなったことを意味するわけではないだろう。例の感染症が蔓延する中で、欧米でアジア系住民が非アジア系住民から差別的態度を取られた事案は多数発生している。おそらく、差別と区別が識別されることはこの先もないのだろう。

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