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『草木塔 山頭火句集』復刻版 創風社出版

『あなたへ』で山頭火の句が取り上げられていて、気になったので目を通すことにした。山頭火の名前を知ったのは小学生高学年の頃だった。「あのねのね」が流行っていて、清水國明が山頭火が好きだと語っていたからだ。しかし、当時は山頭火を手にすることはなく、約50年を経て今日に至る。

『あなたへ』に登場するのは以下の句だ。

行き暮れてなんとここらの水のうまさは (本書126頁)

分け入つても分け入つても青い山 (同35頁)

うしろすがたのしぐれてゆくか (47頁)

朝凪の島を二つおく (48頁)

ひとり山越えてまた山

このみちやいくたりゆきしわれはけふゆく

ところで、山頭火は酒が好きらしい。

 私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。今日は酒が好きな程度に於て水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかもしれない。
 「鉢の子」には酒のやうな句(その醇不醇は別として)が多かった。「其中一人」と「行乞途上」には酒のやうな句、水のやうな句がチャンポンになってゐる。これからは水のやうな句が多いやうにと念じてゐる。淡如水—それが私の境涯でなければならないから。

本書70-71頁 「行乞途上」の末尾の文 

自分は積極的に酒を飲むほうではないので、酒のことはよくわからない。週に一度、実家に母を訪ねてハイボールを一杯ずつ作って飲み交わし、月に一度、ツレと近所の料理屋で食事をしながら一人一合見当で日本酒を冷で飲む、というのがここ数年の平均的な酒量だ。ウィスキーも日本酒も、混ぜ物の無いのを特に選んで飲んでいる。そうしないと、すぐに身体のほうが不調に陥ってしまう。ほぼ下戸なので量はいけないが、美味しい酒は本当に美味しいと思う。ウィスキーにも日本酒にも気に入った銘柄はあるのだが、そういうことはこういうところに書かないほうがいいような気がする。万葉集以来、短歌や俳句には酒を詠んだものがいくらもあるが、詠みたい気持ちはなんとなくわかる。昔の人が口にした酒は、現在流通しているものと同じではないだろうが、自分でドブロクを作った経験からすると、それほど大きくは違わないと思う。

日本で最初に酒を醸造したのは奈良にある正暦寺であった、という話を聞いたことがある。寺のウエッブサイトにも「日本清酒発祥の地」というページがある。それで一昨年の今時分に出かけてみた。見出し写真はその時のものだ。今は山の中の小さな寺だが、10世紀の創建時は堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭を擁する大規模な寺院だったという。最盛期には塔頭の数が100を超えたらしい。12世紀のいわゆる「南都焼討」で全山全焼したが、その後、法相宗の学問所として再興された。しかし、江戸時代以降は衰退して今日に至る。一般に寺院では飲酒は御法度だが、神仏習合の時代はそんなことはなく、寺領で収穫される米で酒を作ったのはこの寺だけではなかっただろう。現在の状況や常識が過去に於いても同じであったと思い込むことを「遡及的錯覚」と言うらしい。坊さんだって酒くらい飲むだろう。ちなみに、この寺ではお守りなどと一緒に清酒を販売している。飲んでみたが、特にどうというほどのことはなかった。

社会人になって10年ほど経った頃だっただろうか。仕事で数ヶ月ほど勤め先の社長の鞄持ちをしていたことがある。その仕事が無事に終わって、社長が私を含めて数名の鞄持ちを自分の行きつけの小料理屋に慰労に連れて行ってくれた。銀座の路地裏にあるカウンターだけの小さな店で、店主夫婦だけで切り盛りしているようだった。酒を出す店なのに、店の中が静かで適度に親密で、なんだかほっとできるいい店だと思った。自分も社長くらいの年齢になれば、こういう店に足を運ぶようになるのかなぁとも思った。今、自分がその時の社長の年齢になった。しかし、そんな店との縁は全くない。ほぼ下戸であることは抜きにしても、諸々巡り合わせが違うということもあるだろうし、人としての器がそもそも違うということもあるのだろう。その銀座の店でご馳走になった料理や酒のことは何も覚えていないが、土産に小さな経木の箱に入ったちりめん山椒をいただいたことは何故かはっきり覚えている。それ以来、私はちりめん山椒が大好きだ。

昔、イギリスの大学に留学していた時、夏休みにやることがないので、アウグスブルク(Augsburg)でホームステイをしながらドイツ語の学校に通った。下宿先は80歳近い婦人の一人暮らしの家だった。彼女の妹がボービンゲン(Bobingen)にやはり一人暮らしで、時々行き来していた。その年のクリスマス休暇は二人に招かれてアウグスブルクとボービンゲンで過ごした。そのボービンゲン婦人の亡くなった夫君は彼の地でビールの醸造とソーセージの製造をする会社を営んでいた。会社は娘婿が継いでいた。

それでボービンゲン妹はビールにうるさい。アウグスブルク姉は下戸だった。ボービンゲン滞在中は、自分のところの工場直送ビールをいただくのはもとより、アウグスブルク、ミュンヘンとその周辺のビアハウスに毎日のように連れていかれた。私がすぐに赤くなるのが面白いらしかった。その土地土地の醸造会社があって、味がそれぞれだったが、アウグスブルクで飲んだビールが一番美味いと思った。後年、今のツレと所帯を持って2年目の2015年、連れ立ってアウグスブルクを訪れた。あれから四半世紀、見知った人は誰もいなくなってしまったが、ラトハウス(旧市庁舎)裏のビアハウスのビールは記憶の味と同じ美味さだった。

2015年6月1日撮影 Altstadtgasthaus Bauerntanz
Bauerntanzgäßchen 1, 86150 Augsburg

そういえば、noteでよく拝見する人がしばしばビールを飲んだと書いている。先日も「ビールは私に於ける、許されるもののすべてを包む。」と書いていた。少し気になったので、その人のnoteで「ビール」を検索したら「約100件」と表示された。ビール好きに乾杯。

結局、山頭火とかその俳句のことはほとんど話題に上ることなく、自分のわずかばかりの酒にまつわる話で終わろうとしている。正直なところ、山頭火が特に良いとも思わなかった。妻子を捨て、小市民的な生活を捨て、句を詠みながら放浪に生きたという。どれほど豪奢な暮らしをしても、どれほど粗末な暮らしでも、生きることそのものが放浪のようなものなのだから、何も敢えてそんな「放浪」をすることもないだろう、と思うのである。それが本人にとって自然であるなら仕方がないが、句を読む限り、けっこう無理をしているようなところも感じられる。そういうところに自意識過剰が見え隠れして、何だかねぇ、と思うのである。ま、しかし、自意識過剰くらいでないと俳人だの歌人だの作家だのゲージュツ家だのにはなれない。そういうものになったからどうこう、ということでもないだろうが。

本書の跋で大山澄太はこう書いている。

 その頃よく近郷を托鉢した。山口・三田尻あたりまで。無心に歩く彼の托鉢成績はよかった。米の二升位は二時間以内で袋にたまる。しかしもの憂い日には米はなくても行乞しない。水さへあれば三日位は生きてゆける。庵から二十歩にして棗の樹下に小さい井泉が涌いてゐる。夏は少し足りないのだが、一滴の水をも無駄にしないで活用する彼には十分である。時には各地の俳友から郵便でお賽銭が投ぜられる。その最後の一銭が手にある間彼は決して托鉢しない。持てるものは貰ふ資格がないといふ純一な考へ方なのである。今日は今日一日にて足れり、明日のことを一切思はないのである。結庵から昭和八年秋までの句を「草木塔」と題し出雲和紙で經本仕立と云ふ形で出版した。

本書197頁 大山澄太「跋」

自意識過剰ではあるけれど、本当に「持てるものは貰う資格がない」と腹の底から考えていたのだろうか。そうであるならば、やはり只者ではない。低俗で無意識過剰な自分のようなものからすれば、尊くて、ただただ見上げるしかない人物だ。こんな立派な人の話を聞いてしまったら、自分が情けなくて、飲めない酒でも飲んでいないとやってられない。なんてね。

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