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『あなたへ』 監督:降旗康男、主演:高倉健、公開:2012年8月25日

動画のサイトを開くと、おそらく自分が以前に視聴したものと関連のあるものが選ばれて画面に並ぶのだろう。なぜそういうことになったのかわからないのだが、最近、大日本除虫菊株式会社の古いCMが並ぶ日がつづいた。大滝秀治と岸辺一徳が出演しているCMが面白過ぎて、それで大滝のことをネットであれこれ観たり読んだりした。この作品が大滝の遺作なのだそうだ。高倉健の最後の作品もこれだという。これは観ないわけにはいかない。そう思ってDVDを買ってしまった。

何を今更、なのだが、映画は一篇の詩なのだと思った。西洋の詩はやたらと長くて、日本語訳で読むと散文のようだが、自分の中での「詩」のイメージは短詩だ。俳句や短歌は限られた音数で世界観を表現する。音数が限られているので、いろいろ約束事を設けて一言の奥行きを創り、歌枕や枕詞あるいは本歌取も駆使して定型の風景まで用意する。その上で一言の持つ音や意味を研ぎ澄ます。そうすることで限られた言葉が無限とも言える空間的広がりを展開する、こともある。

他人に何かを伝えようとするとき、何を伝えたいのか、ということもさることながら、何が伝えられるかということをよくよく考えないといけない。伝えることと伝わることとは同じではない。何よりも、伝えるためには伝わる相手が存在する必要がある。そういう相手ではない場合、言葉を尽くしたところで単に伝わらないのはまだ恵まれている方で、誤解と曲解が重層的に反応して手の施しようのない災厄に見舞われることもある。「沈黙は金」というのはそういう世間の在りようを背景にした言葉だ、と思う。

映画は映像表現と言語表現の複合なので、俳句や短歌とは違うところが多々あるのは当然だ。映像がある分、伝達可能な情報量は格段に大きくなるが、誤解や雑音の余地も大きくなる。やり取りする情報量の増加が必ずしも相互理解の確度を高めるわけではない。俳句や短歌のように、映画の作り手も特定の相手を意識しているのかもしれないが、制作関係者一同が同じ誰かを意識しているはずはあるまい。そういうところが映画と詩の根本的な違いではあるのだろう。関係各自の意識がどうあれ、映画は商売だ。

映画は商売なのだから興行成績が重要であるには違いないが、それは作る側の楽屋話であって、観る側が気にするところではないだろうし、そういうことに囚われているようでは映画を観ていても楽しくないだろう。また、そういうことに囚われるようでは生きていても楽しくないだろう。とはいいながら、雑音に揺さぶられながら日々暮らすのが小人の哀しいところでもある。生きることの哀しさは、容易に揺さぶられる人としての芯の弱さと関係している。

誰もが生活を抱えているのだから、商売は大事にしないわけにはいかない。しかし、生活が商売一色というのは、やはり哀しい。哀しくない映画が観たい。哀しくない詩を読みたい。黄昏ると、そんな想いが強くなる。生活することへの関心は薄れていく。きれいなものをみたいし、きれいなものに触れたい。せめて最後くらいは。

それでも映画は、台詞とそれが乗る文脈と、それを語る俳優とそれを聞く俳優と、その他諸々の関わり合いの組み合わせが奇跡的なまでに劇的な場面を生むことがある。映画を観る愉しみというのは、結局のところ、その奇跡に出会うことにあるのではないか。何でもない一言が思いもよらない化学反応を引き起こすところが一篇の詩と似ている気がするのである。

このDVDには映画のプログラムのような小冊子が付いている。そこに高倉健のコラム集『デコボコの道』(日本経済新聞社)の抜粋が載っている。その中にこんな一節がある。

 「あなたへ」も、死が二人を分かつ切ない夫婦の物語です。
 それを軸として、それぞれに切ない事情を抱えた人々が登場します。年老いた漁師を演じた大滝秀治さんは、自分が酔いどれたシーンを、くり返し練習していらっしゃいました。そして、監督に脚本の解釈について質問をされました。その真摯な姿勢には胸を打たれ、尊敬の念を抱きました。前にも書いたように私の中で、今回の映画の撮影中、最大の感動であった大滝さんの台詞…。
 「久しぶりに、きれいな海ば見た」
 これを目の前で聴いたのは、次の日でした。
 降旗監督が、わざわざ遠い長崎の海でロケを敢行した意味を、私はこの台詞によって初めて深々と理解したのです。

『あなたへ』DVD付属の小冊子 10頁

「きれいな海」とは何なのか。私は愚鈍なので、映画館で観たらたぶん気がつかなかったと思う。DVDで2回観て、1回目は通しで、2回目は引っ掛かったところを止めて少し戻して見直して、という具合にして、そういうことか、と思ったところがいくらもあった。俳優の仕草、それに対する相手役の俳優の眼の動き、息と間、そんなこんなを舐めるように観た。こういうのは鑑賞の態度としては野暮だと思う。野暮だとは思うのだが、楽しい。昔、映像翻訳の勉強をしていた時に、訳文を作るのにこういう野暮を覚えてしまって、覚えてしまうとやめられない。だが、「久しぶりに、きれいな海ば見た」のシーンは映画館で無心に観てみたかった。

「ちょい役」などと言って台詞が一言だけとか、エキストラではないけれど、ただ映るだけといった役があるが、映っている時間や台詞の多寡には何の意味もない。ある場面があって、それを完成させないことには作品全体が成立しないのだから、役に大小上下はない。もちろん大滝秀治の役どころは台詞が少なくても重要だ。要は、台詞の量とか映っている時間とか、数値化できることが語ることはクソみたいなものだ、ということなのだ。世間では数字を振り回してエラそうにしている輩が跋扈しているが、残り少ない人生をそういうのになるべく関わらずに過ごしたい。

本作では一枚の手書きのメモが大きな意味を持つところがある。ノートの切れ端に住所と名前と電話番号を記しただけのものだ。そこに記されている情報よりも手書きの文字が重要な意味を持つシーンだ。そろそろ来年の手帳が店頭に並び始めている。もうすぐ定年だし、あとは死ぬだけだし、もう手帳はいらないかなと思いつつも、つい毎年購入している手帳を注文して、それが先日届いたところだ。本作のメモのシーンを観て、やっぱり買っておいてよかったと思った。そして、このところ空欄が続いているが、毎日何でもいいから書いておこうと思った。

もうひとつ書いておきたいのは山頭火のことだ。本作には六つの詩(山頭火の作品は自由律の俳句ということなので「六句」と言うべきか)が使われている。本作で山頭火を語るのは車上荒らしで全国を周り、警察から指名手配を受けている自称「元中学校の国語教師」。経歴が本当であろうが嘘であろうが、たとえ一瞬でも、心が通い合ったと感じることができたら、それでいいのではないか。たぶん、本作の主人公もそう思った。「元国語教師」は車上荒らしの仕事の一環として主人公の自作キャンピングカーを狙ったのかもしれないが、主人公と言葉を交わすなかで、無機的な仕事の対象としてではなく、一人の人間として主人公を見るようになった、かもしれない。

以下、作中に登場する山頭火の句を物語の時系列で並べる。備忘録として。

行き暮れてなんとここらの水のうまさは

「国語教師」は亡くなった妻を偲びながらキャンピングカーで全国を旅している、と語っている。彼はサービスエリアの水場で主人公と出会う。その後に、ガソリンスタンドで再び出会う。獲物として主人公の車をつけてきたのかもしれないし、本当に偶然かもしれない。ガソリンスタンドでの会話の流れで一緒に近くのオートキャンプ場に向かうことになる。そのキャンプ場で主人公は「国語教師」にコーヒーを淹れる。そのコーヒーを飲んで「国語教師」はこの句を口にする。

分け入つても分け入つても青い山

そのオートキャンプ場での会話で「国語教師」は旅と放浪の違いについて語りながらこの句を引く。

うしろすがたのしぐれてゆくか

オートキャンプ場で、「国語教師」は『草木塔』をレジ袋に入れて主人公の車のサイドミラーに引っ掛けて先に出発する。主人公はサービスエリアで休憩しながらその本を開き、いくつかの句を音読する。そのひとつ。

朝凪の島を二つおく

休憩中の音読の句。ふたつ目。

ひとり山越えてまた山

下関、関門橋を見下ろす高台で「国語教師」は偶然なのか狙ってか、主人公とまた出会う。そこでの会話の中で引いた句。この直後、地元の警察が手配中の「国語教師」のキャンピングカーを発見し、彼を警察署に連行する。

このみちやいくたりゆきしわれはけふゆく

この映画のエンドロールの最初に書かれている。場面は、主人公が無事に妻の散骨を終え、富山に戻る途中。関門橋下の門司側の広場。

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