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梯久美子 『狂うひと』 新潮文庫 その2

『死の棘』は夫(島尾)の不倫を知り心を病んでしまった妻(ミホ)を題材にした私小説で、1960年から1976年にかけて文芸誌に短篇小説として発表されたものが1977年に長編小説としてまとめられて発表された。1961年に芸術選奨、1977年に読売文学賞、1978年に日本文学大賞を受賞。1990年には映画化され、1990年のカンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞、日本アカデミー賞主演男優賞(岸部一徳)・主演女優賞(松坂慶子)、日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を受賞した。長編小説版は現在でも新潮文庫で刊行されている。

『死の棘』を読んだのは2009年のことだ。小説どころか本を読むということ自体が生活の中で習慣になっていない。それなのにこの作品を手にしたのは、仲間内で話題になったからだ。そことは別のブログに書いた。

「Bの会」というのは大学を出て最初の勤め先である某証券会社の同期で、血液型がBの奴の集まりだ。こんな会を結成しなくても、証券会社というところはBだらけでBを強調する意味は無い。尤も「会」といっても中核になるのは4人で、私以外の3人が西船橋にあった独身寮の住人、私を含む3人が債券本部の所属、というつながりだ。会の幹事役を自発的にやっている三ツ石君が、私のこのnoteの何かの記事に「サポート」をしてくれた。中途半端な金額だったのでそれほど嬉しくもなかった。

みついしくん、そういうことをするときには、ドーンとやらないとダメなんだぜ。オレの笑顔が見たいだろ。マスクで見えないけど。ドーンとこないと笑えないなぁ。

おそらく、島尾の家庭には笑顔がなかっただろう。『死の棘』はほぼ全編実話なのだそうだ。島尾は子供の頃から最期に近い日まで几帳面に日記をつけていた。彼の小説はその日記に基づくものが多いらしい。つまり、自身の生活を活字にして商品にしていたとも言える。あるいは、売れる商品にするべく生活を営んでいたのかもしれない。他人の不幸は面白い。不幸な生活は良質な商材になる。小説家や詩人といった人々のなかに「無頼派」とか「破天荒」などと呼ばれるような生活を送った人がいたりするが、生活自体が創作という人もあるのだろう。

時代背景も無視できない。島尾とミホが出会ったのは1944年12月、奄美群島のなかにある加計呂麻島である。島尾は1944年11月に第十八震洋隊の隊長として島にやってきた。このときミホは押角国民学校の教師だった。震洋は爆弾を抱えたモーターボートで、敵艦船に体当たりする特攻兵器だ。震洋の搭乗員であるということは死が任務であるようなものだ。見出し写真は八丈島にあった第十六震洋隊基地跡を見下ろす崖の上にある碑だ。特攻のために開発された兵器は震洋に限らずお粗末で、そういうものが出撃しなければならない状況が現出するということは日本が滅亡するということを意味する。今、自分がここでこうして生活しているということは、そうした兵器が実戦には殆ど使われなかったということでもある。しかし、当時の当事者はどのような心境で出撃命令を待っていただろうか。そのあたりのことは経験が無いので何も言えないが、兵隊であることも、空襲があることも、諸々不自由であることも、「そういうもの」だと思ってしまえば案外淡々と受け入れてしまうのが人間というものなのかもしれない。身の危険が目前に迫っていても「自分だけは大丈夫」と感じるのは不都合な現実を無視することで自己保存を図る防衛本能であるような気がする。

死ぬつもりで生きていたのに、突然その「死」が遠ざかってしまった。そこでどうするかというのもその人の了見を示すものだろう。敗戦と荒廃と混乱の中を人々は生きた。闇物資を拒絶して餓死した裁判官がいた。闇物資で財を成した人もいた。外地からの引き揚げも凄惨を極めたらしい。森繁久彌は満洲からの引き揚げのことを繰り返し書いている(『全著作 森繁久彌コレクション1 自伝』藤原書店 2019年11月10日 初版第1刷発行)。もちろん、それは彼の眼を通した話であって、書かれていること全てが事実というわけではないかもしれない。しかし、平和な時代で60年近く特段の不自由もなく過ごした自分にとってすら、彼の話に説得力を覚える。良い悪いの話ではない。人は結局のところ生き物なのである。生き物は生きるためにどうするかということを最優先に考えるからこそ、生き物なのである。

小説家がどう生きるか、というのは難問だ。心ある人の注目を集め、しかも語り継がれる作品を創造できるのは天才だけだと思う。ものを書いて生計を立てるだけなら天才でなくともできるかもしれない。それでも、島尾敏雄もミホもフツーの人が驚愕するくらいのことをして、「小説家」とか「作家」と呼ばれるようになった。この先、語り継がれるかどうかはわからないが、少なくとも現時点では本書のような世間の耳目を集めるドキュメンタリー作品を生み出す存在ではある。

フツーの人が驚愕するくらいのこと、については次回に譲る。


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