エドワード・キエラ 著 板倉勝正 訳 『粘土に書かれた歴史 メソポタミア文明の話』 岩波新書
古本で手にしたのだが、ポスト・イットの付箋を貼って、貼り直そうと剥がしたら紙の表面まで一緒に剥がれてしまうことが判明した。古本にポスト・イットを貼ってはいけない。古本といっても、奥付によると「昭和43年12月20日 第14刷発行」とあるので、それほど古本ではないし、そういう値段がついていた。本書の原書はEdward Chiera: They wrote on clay. Edited by G.G. Cameron, 1951 (Sixth Impression)である。
それにしても、この本の紙は脆い。高度成長真っ只中の新書の用紙はこういう数十年で崩壊するようなものだったのだろうか。この当時、学生運動真っ盛りでもあり、昭和44年1月には東大安田講堂事件があり、同年同大の入試は中止、そんな時代だった。その安田講堂で機動隊の放水を浴びていた一人が山本先生だ。昭和44年4月に私は小学校一年生になった。昭和44年の日本レコード大賞は佐良直美「いいじゃないの幸せならば」だった。
さすがにこの時代に書かれたものは、ちょっと危なっかしくて、内容についてどうこう言うことができない。この50数年の間に新たな知見が蓄積されて本書の内容を今云々する意味がなくなってしまったからだ。言葉についてあれこれ考える時に、かつて「名著」と言われていた本書も一応読んでおこうかなと思って手にしただけだ。
面白いと思ったのは、遺跡が広がる地域で、地元の人々が粘土板を見つけた時の件だ。
遺跡の出土品が売り物になることがわかっているけれども、値段の背景が理解できない、という場合に売上を最大化する方法として数を増やすというのは理にかなっている。史料を収集する側からすれば、限られた調査時間の中で売り手である地元住民の暮らしにまで思いを至らせる余裕はなく、言い値で確保するのもやむを得ないという現実がある。結果として、元は一枚の粘土版が、いくつもの破片となって世界中の博物館や研究施設に分散する。出土した状態で研究の用に供されることで意味がある場合もあるだろうし、破片で十分な場合もあるだろう。そうなってしまっていることは今更どうすることもできないが、世の中には遺跡の出土品に限らずとも似たようなことはたくさんあるだろう。
例えば、この本にしても、「名著」と言われたときもあったが、今は古本屋で数十円で売られている。もちろん価格は価値と同義ではないが、同じものや同じことを、自分が見ているのと同じように他の人が見ているはずはない。しかし、同じに見ているはずと盲信することが誰にでもある。そこに人の暮らしの悲喜交々が生まれる気がする。
きっと粘土版に文字を刻んだ人も刻ませた人も、一生懸命に何かを伝えようとしてそうしたはずだ。それが後世になって、刻んだこととは全く関係ない誰かの小遣い稼ぎのネタにもなれば、歴史的大発見にもなる。この距離感の妙を目の当たりにすると、生きているのは楽しいことだと思う。
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