見出し画像

山本義隆 『近代日本一五〇年 科学技術総力戦体制の破綻』 岩波新書

過去において地球上に現れた生物種の99%が絶滅しているという。その数字がどのようにして弾き出されたのか知らないが、なんとなくそんなものだろうなという気はする。そして、我が人類もその大きな流れに乗っている気がする。

暗黙の前提として、世界は自分を中心に回っているものとして、人は物事を考える。「自分」が考えるのだから自分が中心になることに何の不思議もないのだが、思考の主体を他者に置き換えて想像することのできる能力を知性と呼ぶのだと思っている。そういう意味で、世間は置き換え不能な「自分」だらけのようで、なんだかおもしろい。

近頃「サステナブル」ということが喧しく言われるが、一体どういうつもりなのかと思う。地球環境の循環的変動を鮮やかに撹乱したのは人間だ。本人にそのつもりがなくとも、人口の爆発的増加は二酸化炭素濃度の急上昇をもたらし、そんなこんなで、こんな取り返しのつかないことになっちゃったんだなぁ、と先日書いた。

よく「自然本来の」とか「自然に任せて」というようなことを聞くが、その「自然」こそが人間の拵えた空想である。誰しも自分が信ずる「自然」がそれぞれにあって、無垢で普遍の「自然」があるわけではない。

実際の自然は、様々な要素が作用しあい、多種の要因が複雑に絡み合ってできている。その中の特定の要素と特定の要因のみを本質的なもの、本来のものとして選定し、その他の要素や要因を副次的な夾雑物であり非本質的な撹乱要因であると見なすのは、もちろん人間の判断である。結局のところ近代科学は、人間が本質的と判断した部分だけを取り出して、もともとの自然にはなかった理想的状態なるものを人為的に作り出し、そこに「自然の本来の法則」を探るのである。一八世紀の哲学者のカントは、ガリレオによる落体の法則のこの実験をとらえて「近代科学はガリレオによって始まった」と言っている。その意味は、近代科学の研究が、あるがままの自然に鼻づらを引き回されるようにして自然に教えられるのではなく、人間が裁判官となって自然に尋問し、自然にたいして人間が主体的に設定した設問にむりやり答えさせるというようにして行われるということを意味している。そして物理学理論の持っている合理性・計算可能性・予測可能性は、このかぎりにおいて保証されている。

38-39頁

「合理的」という時、どのような「理」に「合」っているのかといえば、人間の都合に合わせた理屈や理論を指すのであって、いつでもどこでも誰にでも当てはまる理屈では、たぶん、ない。正解、あるいは落とし所が予め想定された上で、人は理屈をこねくり回す。その正解や落とし所を決めるのが広義の政治でもある。その所為かどうか知らないが、何事かを創り出したつもりになっていても、予定調和的であったり、意識するとしないとに関わらず自ら仕組んだ謀のようなものだったりすることもある。その「合理」を突き詰めて「自然」の「原理」に手を加えようとすると、「自然」からの反作用を受けることもある。性急に事を進めると、その反作用が想像を絶するようなことにもなる。そのあたりのことも以前に書いた。

何となく思うことなのだが、近世から近代への転換というのは、人が自分の目の届く範囲の世界で生きることから、様々な道具類を駆使して見たことのないものを見たつもりになって生きるようになること、への変化とも言えるのではなかろうか。VRというと流行の技術のように聞こえるが、その下地は我々の中にすでにあるもので、人の暮らしには端から「見てきたような嘘」を言い合うことで成り立っているところがあるのだろう。そういう下地の上に、いわゆる産業革命を経て人の暮らしが科学技術に支配されるようになると、意識するとしないとにかかわらず、人は世の中全体の変化を感知して新たな支配者の意向を忖度するようになる。社会の権力の側も科学技術を駆使して権力の正当性を語ろうとするようになる。

例えば、世間は「進んだ」道具、「最先端」の道具を用いることが、社会構造の中で上位に進むことに通じると妄信している節がある。自分の暮らしに道具を合わせるのではなく、道具の機能や機構に自分の方を合わせようとする。殊に近年は電子機器の発達が顕著で、ほぼ一人少なくとも一台は電子情報端末を保有することが社会運営の大前提になりつつある。もちろん、それによって暮らしが「便利」になることはたくさんあるだろう。しかし、個人が情報端末で生活諸事を行うことを前提に社会資本を構成してしまうと、その端末が機能不全に陥った時に個人が社会から切断されてしまうことになる。しかも、そういう厄介事の潜在的危険性が「個人責任」の名の下に片付けられようとしている風潮を感じることがあるのだが、気のせいだろうか。

こうしたことは、科学技術の発展の結果として生じたものではなく、そもそも人間の方を社会集団の秩序に合わせるように「教育」というものが行われていることと関係しているらしい。

藩への忠義心にとらわれている民衆の帰属意識の対象を、藩から国家に変えさせる必要があったのである。義務教育としての小学校教育はまた、起立・礼・着席に始まり、一定時間座って授業に集中させ、期末に学習成果を試験するという教育をすべての子供たちに課すことによって、規律正しい集団行動が求められる近代的工場労働者や近代的軍隊に必要な資質を植えつけようとするものであった。そして学校教育が社会のすべての階層に開かれ、同時に試験制度が学校教育と結びつくことによって、上級学校への進学が選抜試験によって定められるようになり、こうして学制改革は、「士農工商」の身分制による秩序にかわる、「四民平等」を建前とする学歴による秩序の形成を促すことになった。

48頁

初代文部大臣で帝国大学令の公布者・森有礼は、一八八九年に「帝国大学に於いて教務を挙る。学術の為と国家の為とに関することあらば、国家のことを最先にし、最重んぜざるべからず」と表明している(木村、一八九九)。帝国大学の中心的理念は国家第一主義にあった。ちなみに帝国大学誕生とおなじ年に、教科書検定が制度化されている。文部省は初等教育から高等教育までを、国家目的に沿うように再編したのである。

56頁

本書の方は、科学技術を軸に明治以降の150年ほどの歴史を語っており、最後は原子力の話で締められているのだが、興味を覚えたのは人の心象の座標軸の形成の方だ。「人は社会的な動物だ」という時の「社会的」であることの意味は、人の自意識が社会という構造体の中で規定されるということなのだろう。その構造体は社会構成員の間で合意されたものでなければ構造として成立しない。現に合意が容易に達成されずに内戦だ内乱だと不穏な状況下に置かれている地域、組織、家庭は山のようにあるだろう。

本書の締めは前掲書と同様、原子力を巡る危うい状況についての記述なのだが、二酸化炭素排出量同様、原子力開発も今更止まるわけもないだろう。あるべき論からすれば、社会構造を構築する上で、必要な知見や思考思想を醸成することが教育であり、それが教条主義に陥っていては社会の安定など達成されるはずがない。しかし、人は目先のことにしか反応できないようにできているので、表層の部分最適を過度に追求し、結果として取り返しのつかない状況に陥るという現実を繰り返すのだろう。たぶん、人に限らず生き物とはそういうふうなものなのだろう。だから、過去において地球上に現れた生物種の99%が絶滅した、という結果になる。

「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうるのであり、そのことの反省をぬきに、ふたたび「科学振興」を言っても、いずれ足元をすくわれるであろう。それを私たちは、やがて戦後の原子力開発に見ることになる。

214-215頁

読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。